一話・3
3.
翌、23時。
”社長”との約束どおりの時刻、約束どおりの場所に、東雲十三はやってきていた。
昨日の顔合わせのあと、十三のショートメールに、”社長”から待ち合わせ場所のURLが送られてきた。『↑ここ』という実に簡潔な文つきで。
示された場所は、東京都心の、更にど真ん中にある、都内でも有数の高級商業エリアだった。富裕層向けのショッピングモールに、外資系企業のオフィスビル、インバウンド客対応のホテルを内包した、複合施設型ビルが、今日の研修場所であるという。
ビル前には、深夜だというのに高級車が何台も止まっている。高そうなスーツやドレスを纏った通行人に気後れしつつ、十三はホテルのエントランスへ入った。
”グレイブヤード”の社長・黒澤棺は、すでに待ち合わせ場所にいた。
エントランスにある、芸術的なポーズを取る金ピカの像を、ひとりぼんやりと見上げている。今日は、きっちりとスーツを着込み、髪を後ろに流していた。十三の着ている物とはレベルが違う、海外製のハイブランドスーツだ。
「時間どおりだな」
十三を見つけた”社長”は、顔色を変えずに声をかけてくる。こんな高級感のある場所でも、臆することのない堂々たる佇まいだった。
「社長、おつかれさまです。今日は……その、おひとりですか?」
十三は”社長”に尋ねた。”社長”という立場で、しかも反社会の人間だというのだから、てっきり取り巻きかボディーガードの数人でも引き連れているのかと思っていたのだが、現在の黒澤棺の周囲には誰もいなかった。”社長”は答える。
「今はいない。下……今日の研修場所で待っているデカいのが一人、いる。あとで紹介する。……その前に、シノ、後ろ向いて」
「はい……」
なにをするのかと思えば。
訝しがりながら後ろを向いた十三の首に、”社長”は手を伸ばした。十三がすでに着けていたネクタイをしゅるりと外して、別のネクタイを首にかけようとしている。
「ネクタイ……、替えるんですか? どうして?」
十三は頭を傾けて、”社長”がかけた新しいネクタイを見つめた。どこにでもある黒いネクタイだが、裏面に不思議な模様の赤い刺繍があることに、十三は目ざとく気づいていた。手を動かしながら”社長”が答える。
「これ、ウチの会社……”ヤード”の制服みたいなもん。一応、仕事中はみんな着けてもらってる。失くすなよ」
「制服。ありがとうございます」
自分で巻けるんだけどなぁ、と思ったが、口には出さない。上司とはいえ、ほぼ初対面の人間にネクタイを着けてもらうのは、なんだか照れくさかった。
少し背のびして十三の首にネクタイを締めた”社長”は、出来あがりをみて、よし、と満足げに頷いた。
「これでいい。じゃ、ついてこい」
そう言う”社長”の小さな背中に十三はついていく。
エントランスの先、エレベーターホールに着くと、”社長”は下層行きのボタンを押した。
やってきたエレベーターのカゴに、十三は社長と共に乗り込んだ。
地下一階へは、すぐにたどり着く。
ドアが開いた途端ーー十三たちを出迎えたのは、光の明滅と、腹の底に響くような重低音のビートだった。
「うわ、すげェ音……!」
十三は思わず顔をしかめた。
天井で回る、けばけばしい輝きを放つミラーボール。その下で、様々な人種の人々が、奔放にダンスに興じていた。激しいリズムと音は身体に直接振動を染み込ませているかのようで、人々がまるで統一性がないダンスに夢中になる光景も相まって、まるで大昔のアニメで見た、悪魔降臨の儀式のようだった。
どうやらここは、クラブーーというより、正しくはディスコホールというもののようだった。
「しゃ、社長! ここなんですか!? 研修先って!」
十三は音楽にかき消されないように、”社長”に大声で尋ねる。
”社長”は首を振って答えた。
「違う。ここはただの通り道」
「も、申し訳ないです聞こえないです!」
「こっち!」
”社長”はハスキーボイスを張り上げてそれだけを答えると、人をかき分けてどんどん奥へと進んでいく。
「え! どっちですか!?」
十三は慌ててその背に続いた。
大音量のビート、狭くて天井の低い部屋に密集する人。蠱惑的なミラーボールに照らされながら、ゆらめくように踊る男女。
十三の頭はくらくらと混乱していた。迷わないよう、十三は先導する”社長”の小さな背中に必死でついていく。
やたらと背中が開いたドレスを着たアフロヘアの女たちが、”社長”と十三を興味深そうに見つめていた。十三は構わず叫ぶ。
「スミマセーン、通りまーす! ……通勤電車よりひでぇなコレ……! あれ!? 社長!?」
「こっち〜」
”社長”は小柄な身の丈にそぐわず、ずんずん人並みをかき分いていった。
ダンスフロア突き当りの分厚いカーテンをくぐり抜けた先、階段を抜けると、十三たちは下のフロアにたどり着いていた。
そこは、上階のクラブの喧騒が、嘘のように静まり返っていた。
幾何学模様のレッドカーペットが敷かれた、先が見通せないほど長い廊下。廊下に面してオーク調のドアがいくつかあるだけで、窓も、調度品も、花や観葉植物も、一切ない。フロア全体が、静寂に包まれている。まるでレトロゲームのローグライクダンジョンに迷い込んだかのようだった。
「ここは……?」
「ここが目的地、バイト・ア・ダスト。大昔に廃業した劇場を改装した場所。今はその、二階部分になるな」
十三の問いに”社長”は端的に答えた。
地獄へ道連れーー。その不吉な名前のせいか、十三はなんだかこのフロアに来てから、ただならぬものを感じていた。
ーーいや、静かというよりも。
廊下全体を漂う、まとわりつくような嫌な湿気。地下で天井が低いせいか、換気が悪いせいなのか。それとも他に別のーー。
「こっちだ、シノ」
「……はい」
不穏な気配を感じる十三をよそに、”社長”が一つのドアの前で立ち止まっていた。
両開きのドアには、『VIP ROOM』とプレートが提げられていた。
社長がスマホを入口ドアの電子ロックにかざした。ピッと音を立てて扉が解錠される。
室内は、VIPの名に恥じない、豪華な内装のラウンジだった。ふかふかの赤い絨毯や、高そうな調度品にピンと伸びた観葉植物、小型のワインセラー。壁には電話が備えつけられていて、何かあれば管理を呼ぶことができるようだ。いかにもゲストを招くにふさわしい設えの数々。
室内奥つきあたりは、一面外界に面したガラス貼りになっていた。ガラスの奥は薄暗く、十三が今いる入口から外の景色は見えない。
そのガラスに向き合うようにして革ばりの長ソファーがあり、そこに男がひとり、座っていた。
十三たちが入室した気配に気づき、男が立ち上がる。”社長”は男に声をかけた。
「”とら”、待たせた」
「はい……」
その男の姿を見た途端、十三の身体に電撃が走った。
ーーついに、”本物”が現れた。
男は、身の丈180は雄に超える、大男だった。黒スーツと開襟シャツに身を包んだ、今日びハリウッドでも見かけない、筋骨隆々の厚みのある身体。まるでインドのアクションスターだ。
黒髪を後ろに撫でつけた、”いかにもその筋”の風貌。全身が黒社会の人間ですと自己紹介しているような男の年齢は、おそらく三十代前半といったところだろうか。彫りが深くてやや面長、眉間に刻まれたシワから、強面な印象を与えるが、涙袋と大きな黒目のせいで、剣呑なだけでないどこか愛嬌を感じさせる。まるで昭和の二枚目役者が、裏社会の人間を演じているようだと十三は思った。
任侠映画から飛び出してきたような出で立ちの偉丈夫が、十三を珍獣でも見るかのように、胡乱げに見下ろしている。
「あっ、あっ、あのっ」
ーーでかいでかいでかい! 怖い怖い怖い!
十三の全身に警戒と緊張が走っていた。初対面の人と話すのは営業で慣れっこなはずなのに、目の前の男を前に、今の十三は、冷や汗をかくばかりで何も言葉が出てこなかった。
十三の混乱を察してか、”社長”が口を開いた。
「シノ、こっちは”とら”。おれの部下で、オマエからすれば先輩ってことになるかな」
「せ、せ、せんぱいっ!?」
”アニキ”とか、若頭の間違いではないのか。
極めて通俗的な呼称で”社長”に紹介された”とら”は、すっと無言で十三に手を出してきた。恐ろしく厚い手のひら。この手でビンタ一発でもされたら、十三の身体はきりもみ回転しながら吹き飛んでしまうだろう。
「ヒッ」
反射的に十三の肩が縮こまれる。見かねた”社長”が口を挟んだ。
「いちいち怯えるな。とらはこんなナリだが、別にオマエを食ったりしねぇよ」
「人肉……食べたこと、ないですねェ……。まだ……」
”とら”が口を挟む。肉食獣の唸り声のような重低音。
「まままま、まだ!? これからも、ご予定はない、ですよね……?」
「……」
無言。
「フフ……」
と思いきや、”とら”は肩を震わせて笑っている。「おもしれェおニイちゃんだな……」その笑う様すら怖い。超こわい。十三は震えあがっていた。
「まァ、飲みものでも頼めや……」
そう言って”とら”が差し出してきたのは、ドリンクのメニュー表だった。ウイスキーやワイン、ブランデーなどの銘柄が書かれている。すべて酒だった。
「あの、これ、酒なんですけど……」
「……」
”とら”は無言ですっとメニュー表を引っ込めた。自身でもメニューを見た”とら”は、眉をひそめる。
「ん……そうだな、酒しかねェ……。よく、気付いたな……」
「ど、どうも……」恐縮する十三。”とら”は”社長”にメニュー表をトントンと指で示した。
「社長、見てください、コレ……。酒しかないですよ……」
「知ってる。わかってる。クラブなんだから当たり前だろう、とら。喫茶店じゃねェんだぞ」
「それにしたって、仕事中に酒は、ダメでしょう……。常識的に……なァ?」
ヤクザに常識を問われた十三はコクコクと頷いて同意を示す。”とら”は眉間にシワを寄せて、親の仇のようにメニュー表を睨んでいる。
「やっぱりお茶だよなァ……こういうときは……。社長、なんかお茶系ないんですかねェ……」
「いちいちうるせェやつだな……。そこの冷蔵庫にミネラルウォーターがあるから、それで我慢しろ」
「もう、しょうがねェなァ……ガサツなんだから……」
”とら”はのっそりと動いて、大きな身体を屈ませて隅に置かれた小さな冷蔵庫を開けた。なかから海外製のミネラルウォーターのボトルを取り出した”とら”は、十三に差しだしてくる。
「ほらァ……やっぱり全然冷えてねェし……。シノ、水飲め……」
「いえっ! むしろ気を使わせてすみませんでしたっ!」
十三は最大限の感謝と敬意を伝えるべく”とら”にへこへこと頭を下げた。そうこうしている間に、ソファーに座っていた”社長”が隣の空きスペースを叩いた。
「シノ、オマエはここ。座れ」
「はいっ」
十三は言われたとおり、”社長”の隣に腰を下ろす。”とら”は十三たちと対角線上にある一人掛けのソファーに、悠然と座った。
”社長”はノートPCをバッグから取り出し、立ち上げている。起動するまでの間に、”社長”は「さて」と改まった。
「ーーいいか、シノ。もうすぐ、ここバイト・ア・ダストで、オークションが開催される。そこで、オレたちの”商品”も出品される予定だ。オマエは今から、オークションを見て一連の流れを覚えろ。それが、今日の研修内容」
「オークション……って、商品の価格を競って落とすっていうアレですか?」
「ソレだ。オレたちは、商品を出品する側。オレたちの商品は毎回オークションの目玉だから、競りにかけられるのは今日も一番最後だろう。今からしばらくは、他の業者の品が流れる。客の購買力を煽るための、まァいわば前座だ。……下、見てみろ」
”社長”に言われ、十三は身を乗り出して窓ガラスの向こうに目を凝らした。
窓の向こう、十三が見下ろす先に、放射状の劇場があった。
VIPルームは、先程社長がいったとおり、この劇場の二階席部分に位置するのだろう。対して一階部分、十三の眼下には、最新鋭のシアターにも引けを取らない、立派な設備が備えた劇場が広がっていた。
小規模だが威厳のあるダークウッドの額縁型ステージ。重厚なオペラカーテンの幕は現在は降りていて、ステージは沈黙を保っている。
段々と高低差がつけられた客席には、高級クラブのような大理石のテーブルと、それを囲うような半円形のソファーが備えられていた。
そこは現在、様々な装いの客で埋まっている。
いずれも、裕福そうな身なりの人間ばかりだった。和服を着ている上品な老夫婦、水商売らしき派手な身なりの女をはべらせている壮年ビジネスマンと、その部下と思しき男たち、シーシャを吸いながら歓談するブランドスーツの若い男たち。葉巻に見える”何か”を吸っている若者もちらほら。日本人だけでなく、中華系や欧米のリッチな外国人の客も多かった。いずれのテーブルにも、高級ブランデーや年代物のワインのボトルが置かれている。
「あれが、客……? オークションのお客さん、ですか」
「そうーーここ、バイト・ア・ダストは完全会員制のオークションだ。今いるのは、ベンチャー企業の社長、官僚やエリートサラリーマン、政治家の二世、成り金の動画配信者やマニア、芸術家……要は金持て余してる暇人が顔を揃えてる」
「それで、商品っていうのは……」
”社長”は答える前に、起動したPCを操作すると、十三に表計算ファイルを見せてくれた。
そこには、商品番号、名前、金額や備考欄など、商品情報が一覧表になって載っていた。
「これが、目録。オレたちの売る商品の一覧」
十三は画面をスクロールしていった。
そこに羅列された商品名はーーいずれも不可解なものばかりだった。
「『東南アジアの赤ん坊のミイラ』『座敷牢の少女の毛髪』「叫ぶ写真』……? 社長、コレは……」
「これがおれ達の商品ーー」
”社長”が言いかけたタイミングで、窓の外が明るく照らされた。
同時に、スピーカー越しの男の声が、劇場に響く。
「ーー皆さま、おまたせいたしました! 今宵も”バイト・ア・ダスト”にお集まり頂きまして、誠にありがとうございます! 今宵、揃えておりますのは、世界各地から集めた選りすぐりの”件”ばかり! 皆さま、奮って競り落としてください!」
その声を合図に、舞台の幕があがる。
スポットライトで照らされたステージ上に、一人の男が立っていた。ガスマスクをつけた、スーツ姿の珍妙な出で立ちの男だ。
男は芝居がかった所作で両手を広げると、客たちが盛大な拍手で出迎える。どうやら、男はオークションの進行役であるらしかった。
「さて、それでは早速、オークションを開催いたします! 最初にご紹介いたしますのは、目録番号634! 謎の焼身自殺が絶えないという、噂の日本人形でございます!」
言って、進行役の男が舞台袖に目をやる。舞台袖からスーツを着た二人組の男が現れた。双子のように骨格、身長が同じの、やはりガスマスクをつけた二人組だった。
男たちは、二人がかりで台車を運んだ。料理の運搬にでも使うようなカーゴの上には、赤の覆い布がかけられた、正方形の箱が乗せられていた。二人の係員によって慎重に運ばれたそれは、ステージ中央にきたところで、布をとりはらって露にされた。
運ばれてきたのは、ガラスケースに入った日本人形だった。
それは、十三の目には、古めかしい日本人形にしか見えなかった。髪は不揃いに伸び、目玉は白濁して掠れ、肌は黄ばんでいたり汚れている。とても美術品としての価値があるようには思えない。
ガスマスクの司会者が高らかに言う。
「こちらの商品は、持ち主を転々としている”いわくつき”の品でございます! 最後の持ち主は焼身自殺を遂げ、この度オークションに出品することに相成りました!」
「ーーあれが、商品……?」
十三は困惑したまま呟く。”社長”が言った。
「そう。あれが、おれたちが扱う商品ーー“件”だ」
「くだん……」
「世間でいう、呪いの品。いわゆる”曰くつき”、ってヤツだ」
”社長”が、十三の手元のPCに手を伸ばし、目録のリンクを開いた。
そこには目録番号634ーー現在ステージで出品されている人形の、おどろおどろしい経歴が書かれていた。
曰くーーそれは、どこにでもある日本人形だった、という。
戦後まもなく、最初の持ち主といわれるとある独居老婆の家で、強盗事件が起こった。家は荒らされ、あらゆる金品が盗まれ、抵抗した老婆は手斧で惨殺された。しかし、夭折した娘の忘れ形見といわれる人形だけは、老婆は切り刻まれるさなかにも抱きかかえ守り、悪漢に持ち出されなかったという。
家は放火され、老婆の亡骸ともども家財は燃え尽きたが、焼け焦げた老婆の胸に抱えられた人形だけはなぜか燃えず残ったという。
以来、人形は様々な人の手に渡ったが、引き取った家では必ず”火”によるぼや、住民による失火、犯人不明の放火などが相次いだ。
噂によると、人形には持ち主だった老婆の魂が宿っているというーー。
「それでは、早速10万円からスタートいたします!」
進行役が告げると、舞台右手側に備えつけられた電子掲示板に値段が表示された。10万円からのスタート、そこから客たちによって値段がつり上がっていく仕組みだろう。
「さァ10万! さっそく手が挙がりました! おっと15! そちらのお客様から15万が出ました! さらに20! こちらのマダムは35だ!」
参加した客たちによって、電光掲示板の数字はどんどんと吊り上がっていく。
十三は、目の前の光景をとても信じられずに唖然としていた。
「あんなーー、高値で売れるんですか……」
あんなものが、と言いかけたのを、十三はなんとか誤魔化して”社長”に尋ねた。”社長”は退屈そうに電子タバコを吸いながら答える。
「売れる。つい最近までは、”件”は単なるマニアのコレクション商品程度だったんだが、いまは事情が変わってな」
「事情って?」
”社長”はふーっと長く紫煙を吐き出すと、こう続けた。
「ーーシノ、オマエ、99年の7月に東北で起こった水害、知ってるだろ?」
「えっ、あ、はい……。東北地方で起こった、大水害、ですよね」
日本人であれば、誰もが知っていることだ。
99年に東北地方全域を襲った、未曾有の大規模災害。十日間降り続いだ豪雨は、河川の大氾濫を招き、多くの町村や道路を飲み込んだ。土砂災害が起こり、山は崩れ、集落のいくつかは土石流によって流され、土のなかへ沈んだ。多数の行方不明者・死者を出したこの災害は、教科書にも記載され、日本だけでなく世界中の人々が知っている大災害となった。
20年以上経った今でも、災害の爪痕は色濃く残っているという。山沿いでは土砂崩れの危険性が極めて高く、付近の住民たちは移住を余儀なくされた。長雨は地盤にも影響を及ぼし、海沿いの街では、いまだに大雨のたびに冠水する地域もあるという。複数の堤防の決壊や上下水道、電気設備関連への深刻なダメージなど、インフラ関連にも甚大なる被害をもたらし、住むことさえ困難になった住民たちは故郷を離れた。人が離れ、廃墟のようになった街も、決して少なくない。ーー十三の故郷もその一つだ。
社長は淡々と、話を続けた。
「あの災害な、”件”の仕業らしいって言ったら、信じるか?」
「いや……そんな、いくらなんでも、冗談でしょう……?」
十三はひきつった笑みを浮かべたが、応じる”社長”の顔は真剣そのものだった。
「あながち与太でもない。10日間も降り続いた豪雨。異常気象って言葉だけじゃ説明がつかねぇと、専門家たちは昔も今も首を傾げてる。それに日本以外にも、こういう常識じゃ解明できない自然災害や事故が、いくつも起きてる。聞いたこと、あるだろ? アメリカで2001年に起こった、中西部の街の住人大量失踪と、それに”偶然”巻き込まれた大統領一家の失踪事件。2009年のロンドンの地盤沈下。2000年以降、東アジアで相次いで発見された、脳や内臓がない状態で産まれてきた赤ん坊たち。どれも、科学じゃ証明できない原因不明の災害や事件ばかりだ」
「……そういう事件が、ぜんぶ”件”……呪いの力によって引き起こされたってことですか? そんな、ワケが……」
「さァな。おれにも実際のところはわからねェさ。肝心なのは、そう信じてるやつが、世界中にいるってことだ。”件”が災害を起こす可能性があるかもしれないーーそんな風に考えるやつがな」
言って、”社長”はタブレットの目録をスクロールして眺めた。スケールの大きな話なのに、その横顔に大きな変化はなく、淡々としている。
「ーーちょっとしたドリームだよ。もし、自分の手を一切汚すことなく、呪いの力によって人や土地を害することができるとしたら? 法で裁かれることもなく、口うるさい隣国に咎められることもなく、手の届かないところにいる要人一家を手軽に暗殺することができたとしたら? ……”一家に一台”あってもいい、そんな気持ちになるんじゃねえか?」
そこで言葉を切って、”社長”は十三の顔を見上げてきた。口調こそ冗談めかしているが、相変わらず無表情で、感情はまったく読めない。例の、ガラス細工のような瞳に見つめられると、十三はやはり、何も言えなくなる。
社長は訥々と続けた。
「……オレたちはな、そうしたお客サマのニーズに応えるべく、”件”を日本中、世界中から買い集めて売ってるってワケだ。”件”を持ってる連中、だいたい田舎の年寄りなんだが、そいつらはこんな需要なんて知るワケがねぇ。むしろ薄気味悪いいわくつきの品を早く手放したがってる。オレたちが欲しいというと、みんな喜んで譲ってくれるよ。だから商品の仕入れはタダ同然、売るときは最低でも万単位の値段がつく。こんなボロい商売はねぇ」
社長の言葉を裏付けるように、目録番号634、火を招くといういわくつきの日本人形は、最終的に40万で競り落とされていた。
”社長”はPCにデータを投入している。今後の参考にでもするのだろうか。データを”とら”に見せて、何やら二人で話しあっている。
「40万か。“鑑定つき”にしちゃ、安かったな」
「今はまだ、財布の紐、固くしてるかもしれないですねェ……。後でうちの商品が出るの、発表してますから」
「買い控えか。だといいけど。……なァ、とら、オマエは今日のうちの”商品”、どれぐらい値段がハネると思う?」
「この客の入りを見てると、期待できるんじゃないですか……? ”ミケ”が仕込んだ、事前リークってやつの成果ですかね……」
「かもな。今回は、オカルト系配信者に情報流したんだったっけ」
「らしいですね……。配信者が小金ほしさに、関係者にウチの商品の情報を流すだろうって”ミケ”の読みが、あたったようで。ずいぶん遠回りだとは思いましたが……」
「それでいい。派手に動きすぎると”ブレイド”に目をつけられる。ただでさえオマエの周りがあの変態に嗅ぎ回られてる。慎重ぐらいでちょうどいい」
「あの時は……。……本当に……面目ないです……」
ーー一体、なんの話だろう。
”社長”たちの話に聞き耳を立てていた十三だったが、まるでついていけなかった。
そうしている間にも、ステージでは、次なる商品がオークションにかけられようとしていた。次は、聴くと精神に異常をきたすという曰くつきのオルゴールだった。
3万の元値からスタートし、客たちが手をあげ、より高い値段を提示していく。電子画面上に表示される値段は、どんどん吊り上がっていった。
ーーこんなに欲しがるやつ、多いのかよ……。
十三は客席を観察しながら、唖然としていた。
会場は、狂乱状態といってよかった。上等な身なりをした連中たちが、血眼になって周囲の様子を見ながらより高い値段を提示していく。自信満々に出した買値が、別の客によって即上書きされると、舌打ちして苛立ちを露にしたり、テーブルを叩いて怒鳴る者もいた。競争を勝ち抜いて”件”を競り落とした男性客は、立ち上がり、仰々しく胸に手をあてて周囲の喝采を浴びている。まるでオスカー受賞者のような振る舞いだ。
困惑する十三をよそに、オークションでは続々と商品が出品され、競り落とされていく。
失踪者が残したという最期の肉声の収録されたテープ。山奥で発見された、血の染みがついた名刺。某県の心霊スポットで発見されたという、特定個人に気をつけろというメッセージの書かれた案内板……。
オークションが始まって一時間ほど経過した頃、”とら”が”社長”に告げた。
「社長、次、ウチの商品出ます……。目録番号651」
「わかった」社長は”とら”に短く答えたあとで、十三へ声をかけた。
「シノ、見とけ。これからウチの商品が出る」
「はい」
十三も居づまいを正した。いよいよ本番が始まるようだ。”ヤード”の商品、オークションの目玉だという商品が。
出品のランクが上がることを裏づけるように、先程まで盛り上がっていた会場もまた、しんと静まり返っていた。かすかなざわめきと、それを封じるような重い沈黙。今までとは客たちの雰囲気が変わったのを、十三も感じ取っていた。
「それでは皆様、おまたせいたしました。これより、本日メインイベント、主催者・グレイブヤードの”件”を出品いたします! 皆様、盛大な拍手でお出迎えください!」
会場中に響く、割れんばかりの拍手。
それに招かれるような形で、舞台袖から、ひとりの男がのっそりと現れた。
その男の存在は、あまりにも突然で、あまりにも浮いていた。
年齢は、40歳から50歳程度。やたら猫背で、目はうつろ。剃り残しの目立つひげと、寝癖がついたままのボサボサの髪。このオークション会場にはひどく場違いな、うらびれた身なりの男は、囚人の作業服のような柿色のつなぎを着ていた。
ステージのライトが、彼の歩みに合わせてゆっくりと動いている。それは、この場違いな男が、これからの展開に大きく関わっていくことを暗に示していた。
「あの人は……」
「あいつは、主催が闇バイトで雇った自殺志願者だ。これから”お試し”になってもらう」
「自殺……?」
「ーーいいか、シノ」
”社長”は、絹糸のような前髪の奥から、十三を見つめて言った。
「ヤードの商品はな、今までのオークションで流れたような、真偽不明な半端モノじゃねェ。人を呪い殺せる、街ひとつ呪いに沈めることができる、ホンモノの”呪いの品”だ」
「……はい」
「だからこそ、客は確かな真贋を求める。価値がないものに値はつかねェ。だからおれたち出品側はお試しを立てて示してやるのさ。”お客様”に安心して買っていただくために。……確実に高い値がつくように、な」
十三は静かに顎を引いて頷いた。頭で必死に”社長”の言葉を噛み砕こうとしていたが、理解はまったく追いつかない。
だが、猛烈に、ーー嫌な予感がしていた。
十三の喉は、カラカラに乾いていた。”とら”からもらったペットボトルの水を初めて一口、含んだ。物足りない。猛烈にタバコが吸いたい、と十三は思った。
「それでは皆様、大変長らくおまたせいたしました! 目録番号651でございます!」
進行役が、客たちの割れるような拍手のなか、いざなうように舞台袖へ手を差し伸ばす。
袖から現れた二人の運び役の男が、台車に乗せて運んできたのは、60センチサイズの、正方形の箱だった。
ただし、今までのガラスケースとは異なり、今回の箱はジュラルミン製で、中は見えなくなっている。
開口部は銃のパーツのような重々しいロックが提げられており、今までよりあきらかに厳重になっているのが見て取れた。
「あの箱はな、シノ……、”キャビン”って名だ。今までの商品とは違って、特別な鍵がかかってる。”キャビン”の鍵は、社長にしか開けられねェんだ」
”とら”が十三に教えてくれる。
十三は、その”キャビン”のあるステージと、すぐ隣にいる”社長”とを見比べた。
「えっと……”社長”は今、ここにいらっしゃいますが……鍵を、今からステージまで持っていくんですか?」
「いや、ここからだ」
短く答えた”社長”が、自身のスマホに向けて囁いた。
「マイファザー、マイファザー。声を聴かせて」
すると。
『ハロー。どうしたんだいマイボーイ』
スマホから、若い男の声が返答した。
「それ……、って、AIーーですか……?」
驚いた十三は思わず口を挟んだ。
”社長”のスマホから聞こえてきた声は男性のもの。ただし、違和感を覚える、独特なイントネーションだった。十三も日常生活で、その抑揚を聞いた覚えがあった。解説動画配信でよく聞く声、AIの音声ツールの声だ。
”社長”が十三の疑問に「そ」と短く答え、さらにスマホに告げる。
「ハングドマン。極卒たちに自由を。実行」
数秒、間。のち、AIが答える。
『ーー了解。実行したよ、マイボーイ。よい旅を』
その声と同時に。
遠く離れたステージ上にあるキャビンのロックが、ガチャッと大きく音を立てて外れた。
どうやらAI音声による解錠が成功したようだった。初見の十三には驚くようなことだったが、”社長”と”とら”をはじめ、会場にいる他の誰も動揺する様子はない。
進行役が手慣れた動作でロックの空いた”キャビン”を開き、ジェラルミンケースの中身を露にした、
途端、十三は、口元を覆った。
「うッ……」
なんだこれ、なんだこれ。
ただ箱が開かれただけなのに、空気が一瞬にして変わったのが、十三にはわかった。
猛烈な吐き気がする。頭が痛い、いや、重い。まるで誰かが十三の目の前に立ち、がっしりと頭を押さえつけられているようだった。
「シノ、シノ」
声をかけられた十三は、なんとか後ろを振り返る。すぐ後ろに、”社長”が立っていた。
「しゃ、ちょ……」
「直視するな。”キャビン”から目を逸らせ。見続ければ目が”持っていかれる”。”見るな”の禁忌ってやつだ。そうしないとーーあんな風になる」
十三は”社長”が示す方に視線を向けた。
客席から、どよめきがあがっていた。
”キャビン”の、もっとも間近に立っていた柿色のツナギの男が、鼻血をだらりと垂らしていた。
ツナギの男は、信じられないものを見たかのように目を見開き、ぶるぶる震えた指で己の血に手を伸ばしていた。
「あ、あ、……」
自分の鼻血を確認した男は、情けない声をあげている。後ろによろめきそうになった男の体を、二人のガスマスクの男が逃げないように抑えた。そして再び、ツナギの男が”キャビン”を無理やり見るように顔を押さえて仕向けた。
再び”件”に対峙したツナギの男の顔面は、紙粘土のように血の気が引き、真っ青になっていた。貧相な体が、ガタガタと震えだしている。鼻血を抑えようと手で口元から覆っていたが、手の指の隙間から、血がどんどんと溢れていた。片方だけでなく、もう片方の鼻からも血が。そして、今後は目からも。
”件”を見た。
たったそれだけで、ツナギの男の全身の穴という穴から、血が溢れ出ている。
「あ、あぁ、あああ……」
ついに膝から崩れ落ちたツナギの男が、頭をかきむしった。
尋常の様子ではない。
まともな状況ではない。
男は首を振り、苦悶の悲鳴をあげている。口から吐き出した血のあぶくが飛び散り、ステージを汚した。
それなのに誰も、止めようとはしない。助けようともしない。ステージの進行役も、客も、もちろん”社長”も、誰も。
「ぅああああああああああああああああああああああああああああああああああ……」
誰からも救いの手が伸ばされなかった男の口から、絶叫がほとばしった。細く伸びて、落ちていく苦鳴のなかに、深い絶望が混じっていた。
そしてついに、柿色のツナギの男の身体が、どうと横に倒れた。
目から血を流し、全身の穴という穴から血を流した姿で。時々、ぴく、ぴくりと痙攣していたが、それもすぐに止まった。
おおおおっと歓声が客席からあがった。会場の客たちは、みな喜んでいた。ある者は立ち上がり、ある者は拍手をして、ある者は爛々と目を輝かせた――人が血の涙を流して倒れた様を、目の当たりにして。
「みなさん、ご覧になりましたか! わずか十秒! 十秒でこの有様!」
進行役のガスマスク男が、興奮した口調で言った。まるでTVのショッピング放送のような煽り文句だった。
少し遅れて客席から、盛大な拍手が返ってきた。
「死んだ! あいつ、本当に死んだぞ!」「見たか!? ホンモノだ! ホンモノの”件”だ!」
客たちが狂乱の喜びを口々にする。そこには、いま死んだばかりのツナギの男への弔いや同情の念は、一欠片もなかった。
「さぁーみなさま! こちらの”件”の真贋は、今みなさまの目でご覧になったとおりでございます! わずか10秒で見たものを死に追いやる恐るべき”件”! それではこちらの商品、50万よりスタートいたします!」
ーー60! 75! 100万! 面倒くさい、ウチは200だ!
客たちが我先にとどんどん値段を跳ね上げていく。とても利益を考えているとは思えないスピードだった。なんとしても他者に競り落とされまいと焦り、焦りがさらに値をあげていく。オークションというより、バーゲンセールのような狂乱だった。
ーーなんだ、これ。
十三は、頭が真っ白になっていた。
目の前で見た光景が、とても受けつけられない。血の気が引いて冷たく固まった体のなか、胃の腑だけがぐるぐると激しく巡っているのがわかった。それが、先程”件”が解放されたことによるものなのか、この場に対する嫌悪感から来るものなのか、十三にはもう考えることができなくなっていた。
「おい、シノ……どこにいく?」
ーー”とら”に声をかけられたが、十三はそれ以上、その場にいることができなかった。失礼します、となんとか小声で返事をして、逃げるようにしてVIPルームを出る。
ふらついて壁にぶつかりながら、それでも十三は、廊下を歩いた。
行きたいところはなかった。少しでもあの狂騒から離れれば、それでよかった。
廊下をさまよい歩き、やっと見つけたトイレに逃げ込む。鮮やかなサーモンピンクの壁紙が不気味な、高級ホテルのような内装のトイレだ。
十三は手近な個室に入った。扉に背を向けて、その場でずるずると崩れ落ちる。多少汚かろうが、もうどうでもいい、と思っていた。
ーー覚悟はしてきた、つもりだった。
反社組織なのだから、人の生き死に関わることもあるかもしれない、それでも自分の今後の人生のために、多少のことは我慢するつもりだった。
ーーだが。
「……オレが図太い、だって……?」
十三の口元には、力のない嘲笑が浮かんでいた。
元・先輩の久保や灰島からの評価が、あまりにも見当違いで、笑いがこみあげてきた。
さっき、本当についさっき、十三たちの目の前で、一人の人間が死んだ。
十三が勤めようとしている会社、ヤードの商品によって。
オークションの客たちは、喜んでいた。ゲラゲラ笑って猿の玩具のように手を叩き、酒を煽って、人の死をショーとして消費して、カネを積み上げた。
十三は、あの光景を、露ほども受け入れられていない。
「図太いなんて、冗談じゃねェ……」
ピカピカなトイレの便器に向かって悪態をつく。胃の吐き気は、収まっていた。かわりに、脳みそが吐瀉しているのがわかった。
何かを吐き出したいのに、吐き出せない。呆然と開かれた瞳から、半開きの口から、何かが溢れて落ちていくのがわかった。涙などという美しいものではない、汚泥のような透明な体液が。
そのとき、後ろのトイレの扉が、ゆっくりと開く音がした。
十三はゆっくりと顔をあげた。
十三の後ろに、”社長”が立っていた。
「……社長……」
「大丈夫か」
あんなことが起こったのにも関わらず、”社長”は顔色ひとつ、抑揚ひとつさえ変えず、十三を見下ろしていた。
「社長……、……あれは……」
「うん。びっくりしたよな」
まるでマジックショーでも見たかのように言って、”社長”は十三にミネラルウォーターのボトルを差し出してきた。
「これ、とらから差し入れ。さっきのより少し冷えてる。少しな」
「……ありがとうございます……」
十三はペットボトル入りのそれを受取り、お守りのように両手でぎゅっと握りしめた。たしかに、ほんの少しだけ、冷たかった。
そうして、心が少しだけ落ち着いたころ、十三は”社長”を見上げて問いかけた。
「……あれが……うちの、”ヤード”の商品なんですか?」
「うん」
「あん……ああいうことを毎回、社長たちはやって……金を儲けてるんですか?」
「そう」
ーー十三は、胸から込み上げてきた数多の言葉を、喉仏のあたりで抑え込んだ。
言いたいことは山程あった。だが自分はあくまでサラリーマンであるという自覚が、十三に質問をとどまらせていた。
そのうちに、”社長”が先に口を開いた。
「しんどいか?」
それは、十三にとって思いがけない質問だった。
「まぁ……ビックリしました……よね」
「だろうなァ」
”社長”は実にのんびりと言って、天井を見上げた。
「おれたちはもう、慣れっこになっちまってる。カネのためなら、簡単に人を消す。脅し、暴力、誘拐、強盗、麻薬販売、地上げ、売春斡旋……人材派遣業だって、実態は奴隷商売、人身売買みてぇなモンだ。そんな商売ばっかりしてるから、自殺志願者を実験体に使うなんざ、なんとも思わない。むしろ、死に場所を与えてやって感謝してほしいーーそう笑うヤツもいる」
十三は、言葉を失っていた。
ゲームや映画のなかでしか知らなかった、反社会的組織と呼ばれている彼らの業を、十三は初めて直視していた。
彼らはきっと、命に関心がないのだ。自分以外の人間がどうなろうが、どうでもいい。自分自身を満たすためにカネが必要で、たくさんのカネを稼ぐために、どうでもいい他者を利用する。
ーー平凡な十三には、あまりにも遠い世界の話だった。
遠くて、あまりにも遠くてーー自分には届かないと、十三は思い知った。
見切りが、ついた。
だから十三は、”社長”に思いきって尋ねてみることにした。
「……社長」
「ん?」
「どうして、オレを……雇おうと、思ったんですか?」
「なんで、かな。直感かな」
「……直感」
「なんとなく、オマエは、大丈夫だと思って」
十三は、言葉に詰まった。
だが、沈黙で終わらせることは出来ず、質問を重ねる。
「……。それは、……どうして?」
「おれの部屋の絵、観たときーーオマエ、喜んでたろ」
「……え?」
「オマエ、ガキみたいに笑ってた。そのとき、思ったんだ。こいつは、地獄を知ってる人間だって」
「ーー…………おれ、が……」
「……シノ、もう帰っていい。今日のことは忘れろ。それで、もうおれたちの世界に関わるな」
その言葉は、”社長”なりのクビの宣告、だったのだろう。
十三は”社長”の言葉に、従うことにした。立ち上がって、トイレの個室を出て、おぼつかない足取りでトイレの入口まで歩く。
その背中に、”社長”から言葉がかかった。
「付き合わせて、悪かった。ごめんな」
ーー十三は、その場で足を止めて振り返った。
”社長”はーー”件”を売る反社会的組織の”社長”・黒澤棺は、十三をまっすぐに見ていた。
その小さな顔には、笑みもなく、無関心もない。そして虚無もなかった。
”社長”の眼差しには、誠意があった。社員だった他人の姿を、二度と会わない他人の姿を、しかと焼きつけようとする眼差しがあった。
「……社長」
だから、十三は、誠意をもってあたるべきだと決意した。
人生でもう二度と会わないであろう上司に、せめて一日の恩に報いるべく。
「……もう最後だから、はっきり言わせてください。……オレ、今まで、実家の居酒屋やバイト先で、色んな人間を見てきたんですよ。役員とか社長、校長だとか医者、理事長……大層ごリッパな肩書つきの連中です。……ああいうやつらはね、社長、自分が悪くたって、絶対、謝らないんですよ。どいつもこいつも自分がやらかしてもどんなに倫理を外れてても、ぜったいに、謝らねぇ。注文を言い間違えても、酔ってジョッキや皿を割っても、うちのおふくろのケツを撫で回しても、『だから何 ?オレは悪くない』」って平然とした顔して言いやがるんです。世の中、そんな人間ばっかりだった。ーーだと、思ってた。……だから、今、ちゃんと言わせてほしい」
十三は”社長”の前髪の奥にある目をまっすぐに見つめて、告げた。
「アンタは、悪い人じゃねェ。……オレみたいな、なんの取り柄もない男に謝れる人間が、悪い人間なはずがないんです。……だから、こんな商売、やめたほうがいい。……じゃないと、いつか……取り返しのつかないことになる。……アンタ自身が、地獄に墜ちるハメになりそうで」
長い沈黙のあと、
「――シノ、あのな」
”社長”は、ゆっくりと十三に近づいた。
十三のすぐ間近に、”社長”の顔がある。
少女のように小さく、可憐な顔。透明な湖を映しているように、静謐をたたえた琥珀色の双眸と、十三の瞳が合った。
長いまつ毛に縁取られた大きな瞳で、”社長”は十三をまっすぐに見つめて、こう言った。
「おれたち渡世の人間はな、天国行きなんか願っちゃいないんだ」
一言一言、ゆっくりと、”社長”はーー黒澤棺は言う。
ハスキーな声音を、ぶっきらぼうな口調を、優しく和らげて。
浮かべた笑顔は、ほんの少しだけ、寂しそうだった。
「人を貶めて、金も命も財産全部奪って、不幸にして。そんなおれたちが、人並みの幸せを得ようとは、さらさら思ってねェ。恨まれるのも、ろくな死に方をしないのも、ぜんぶ覚悟の上でやってる。おれも、とらも、うちの会社の連中は全員な。だからーー」
そこまで言い終えると、”社長”は十三の方へと歩き出した。
十三の横を通り過ぎ、トイレ入口のドアノブに手をかけたところで、”社長”は傍らに立つ十三に告げた。
「……心配してくれて、嬉しかった。……カタギの人間から心配されるのは、生まれて初めてだったよ。……元気でな」
そう言い残し、”社長”はドアを引いて出ていってしまった。
十三は、ひとり、トイレに残されていた。
全身が、どく、どくと大きく鼓動を刻んでいる。血液の流れる音なのか、心臓が脈打つ音なのか、それとも脈の音なのか、十三には全くわからない。
十三の身体のうちを、自分への問いがぐるぐると回っていた。
ーーこのままでいいのか? このまま帰っていいのか? オレは本当に、何もせず”ヤード”を離れていいのか? もう二度と、社長に会えなくなってもいいのか?
疑問の嵐に十三が立ち尽くしているとーー見知らぬ男の声が、背後から聞こえてきた。
「狂っているでしょう」
声とともに、ずっと閉まっていたらしい一番奥の個室のドアが、ぎぃと音を立ててゆっくりと開いた。
そこから、背の低い、坊主頭の男が、姿を見せていた。
鷲鼻で、肩が詰まったかのように首が異様に短い男だ。四十代か五十代か、シワや皮膚を見る限りそのぐらいの年代と推測できる。ただ、しわがれた風貌のわりには異様に目が大きく、全身の生命力を瞳に集中させたかのようにギラギラと輝いていた。
その、奇妙な闖入者は、十三を見るなり、目を輝かせて言った。
「失礼。わたくしは村田マサオと申しまして」
そう言って、村田マサオと名乗った男は慇懃な仕草で頭をさげた。
「あのヤクザたちはですね、狂っているんですよ。ーーいいえ、もとより、社会に適応できない娑婆の修羅どもに良識などあるはずもないのです。我がことのみに執着し、他者を踏みつけてでも己の利のみを得ようとする、まさしく現世の乞食ども。ーーあぁ! 醜い! あんな醜い生き物を、創作物の他に見ようとは! ーー……けれど貴方は違う。話を聞かせて頂きました。貴方は、善き人だ。正しき者を正しいといえる、善良な青年だ」
突然現れた男は、朗々と言葉を紡ぐ。時折天井を仰ぎ、大仰に首を降る仕草は、演劇芝居でお目にかかるようなものだった。
だが、あまり場違いな振る舞いは、十三を困惑させるのみだった。
ーー何を言ってるんだ、このおっさんは?
突然現れ、芝居じみたことをのたまう。ここまで異様だと、困るというより、むしろ警戒心すら抱くレベルだ。
だが男は、十三の困惑など知る由もなく、小走りで十三に詰め寄ったかと思うと、目をかっと見開き、こう問いかけてきた。
「貴方もこんな世界、間違ってるとは思いませんか? そうでしょう?」
「……はぁ……」
迫力に押された十三は、仕方なく相槌を打った。
すると、鷲鼻の男は、ゆっくりと弓の形に口を吊り曲げて笑顔をつくり、パチンと手をあわせて満足げに頷いた。
「素晴らしい! ……あぁ良かった! 最後に貴方のような同士に出会えて、本当に良かった! わたくし村田マサオ、万感の思いであります! ーーだから、貴方だけに、こっそりお伝えいたします」
急に小声になった男は、十三の耳元に、顔を近づけてじっとりと囁いた。
「ーーこれより、惨劇が始まります。あなたはここにいてはいけない。ーーどうか、お逃げください」
「……えっ……?」
十三は驚いて男を見返した。
後ろで手を組んだ鷲鼻の男は、ニコォーッと笑って、こう言った。
「それでは、善き青年よ。良い生者の旅を」
そう言って、不気味な男は、軽快な足取りで廊下へと出ていったのだった。
続きは今週末か再来週末の投稿いたします。なるべく早くアップできるよう頑張ります。




