1章6話・3
そう決意を新たにして、十三は、すがる思いで廊下を歩き、新たに見つけた扉を開けた。
そこは、見覚えのある場所だった。特徴的なサーモンピンク色の壁紙。
奇しくも”社長”と最後に言葉を交わした、あのトイレだった。
十三は洗面台に近づき、手洗いのセンサーに手をかざした。蛇口から水が出る。そんな当たり前のことが、いまの十三を心から安堵させた。
流しの水をせき止めて、溜まった水で顔を洗い、ハンカチを水に浸す。それで顔や首、身体を拭き取った。水を飲むと、落ち込んでいた気持ちが少しだけ上向くのがわかった。
十三は洗面台に身体を寄りかからせ、心の底から声を漏らした。
「……助かったぁ……」
ここに来て、はじめてかすかな余裕を感じた。
少し休憩を取ろうと、十三は少しの間、洗面台の横の壁にもたれかかった。
壁に身体を密着させていると、わずかな音や振動が伝わってくる。コッコッと鳴るそれは、革靴の足音のようで、
──十三ははっとして耳を澄ませた。
──足音だ。
くる。
誰かが、トイレに近づいてくる。
十三はとっさに唯一の個室へ移動し、鍵をかけた。
個室のなかで、息を殺して耳を澄ます。
──間違いない、コツコツと革靴の音が聞こえる。ヒトの足音、音の大きさからして、おそらく男だ。そして、探している”社長”の足音ではない。
十三がその場で様子をうかがっていると、キィと扉が開く音が聞こえ、続いて足音の主がトイレのなかに入ってきたのがわかった。
十三は床に這いつくばるように個室で身をかがませ、扉の隙間から個室の外を覗き見る。
やはり、ヒトだ。男。仕立ての良いスーツを着た若い男が、周囲をやたら警戒しながら歩いている──生きている人間だ。
十三はさらに目玉を上へ動かして、男の様子をうかがった。
男は、大きく肩を上下させて、荒く息を吐いている。ずいぶん汗をかいているようだったが、手や首の、露出した部分には、目立った傷はない。どこかに引っ掛けでもしたのか、スーツがあちこち破れていた。
男は、辛そうだが、生きてはいる。それに、”件”の血を浴びている様子はなかった。
十三は自身のなかで問う。
──どうする? この人に、声をかけるべきか?
普通の状況ならば、迷わずそうしていただろう。だが、どうにもこの男の様子がおかしいように思えた。なにか周囲の様子をやたらと気にしている。
十三が迷い、動けずにいると、
「なァ……そこ、個室。誰か……いるのか?」
男の方が、先に声をあげた。
十三はどきりとして咄嗟に扉から離れた、が、男は十三がいる個室に詰め寄ってくると、ドアノブをガチャガチャと激しく動かした。
「──いるんだろ? なぁ、アンタ生きてる人間なんだよな? ここ開けろよ!」
細い隙間から見える憔悴しきった顔に、十三は見覚えがあった。
ツーブロックのエラ張り顔。
先日、十三ともめた、あの派遣先の課長だった。
「──アンタ……ここにいたのか……」
「あ? ……まさか……、おい、あんたオレを知ってるのか?」
扉の先の課長の声に、かすかな喜びが混じる。あちらからは十三のことが見えていないようだった。課長は急かすようにドアを激しく叩いてくる。
「なんだよ、知り合いかよ……! 助かった……! おい、出てこいよ。いっしょに出口、探そうぜ。頼むよ。助かってここ出られたら、お礼する。約束するよ! 仕事でも女でもヤクでも、なんでも融通利かせてやるからさ。な?」
「待って……ちょっと待ってくれ!」
十三は慌てて制止する。
「かちょ……アンタ……今までどうしてたんですか?! 他に……生きてる人はいるんですか?」
「は? そんなのどうだっていいだろうが! 早くしろよ!」
課長は質問には答えず、ただ語気を強めている。言いながら、しきりに後ろを振り返るのが、十三には妙に気になった。
──なにか、様子が怪しい。
どうする、と十三が自問自答しているとき、その音は聞こえてきた。
バンッ ずり……ずっ……バンッ……ずっ、ずっ……
──何かが来る。こちらに近づいている。
粘着質なものが床を叩く、ベチッという大きな音。その直後に、重量のある袋をひきずる、ずずっという音が聞こえる。
あの音に聞き覚えがある──その心当たりに即座にたどり着き、十三の全身の皮膚が、泡立った。
あいつだ。
村田マサオが”件”と化した姿、あの異形のダルマが、動いている音だ。
「きた! きたッ! あいつが来る! 早くしろ! 出てこい! ここを開けろ! 開けろよっ! 助けろ! あいつが来るんだよ!」
ドアの向こうで、課長が冷静さを失っていくのがわかった。ドアノブをガチャガチャと回し、ドアを激しく叩いている。ほとんど半狂乱になっていた。
「開けろ! おいテメエ開けろよ! ざけんなテメェ、早く開けろ!」
十三は、固まっていた。トイレの壁に身を寄せ、息を殺すのが精一杯だった。
本能が告げている。ダメだ。開けてはいけない。いま開ければ、確実に巻き込まれる。
どん! ずるずるずるずる。どん、ずるずるずる。
両の手を付き、重い身体を這わせている音が聞こえる。あの音が、こちらへ近づいてきている。
異形の行進はまもなく、このトイレまで迫ろうとしていた。
耐えきれず、十三はドア向こうの課長に向かって叫んだ。
「だっ……ダメだ……! ダメだ、ここは開けられない! 早く行ってくれ! 別の場所に避難してくれ!」
「はあ!? テメエふざけてんのか!? 早く開けろよ! そこ代われ! おい!」
「頼む、こっちへ来るな! 別のところに行ってくれ! オレを巻き添えにしないでくれ!」
吐き捨てた課長は、舌打ちひとつ、ドアを蹴った。
「──クソ野郎が! 地獄に落ちろ!」
ドア向こうの課長はそう吐き捨てると、素早く身を翻して駆け出していった。
「──はっ……は………」
課長が去ったあと、十三は、ようやく深く息をついた。
血の気の引いた手は、ぶるぶると震えていた。
「はっ……は……」
──見捨てた。見殺しにした。
その事実が、十三の胸に重くのしかかっていた。
──違う、逃がしただけだ。脳内のどこかがそう訴える。
あいつは、十三を押しのけてここに閉じこもるつもりだったのだ。十三は最良の手を打った。オレは悪くない。そう自分に言い聞かせる。
だが、胸の早鐘は収まろうとはしなかった。
「……なに……やってんだ……オレ……」
十三は頭を扉に押しつけて、呻いた。
追い詰められるあまり、ヒトとしての良心すら消し飛んでしまったのか。
罪悪感が、十三の胸をギリギリと締め上げていた。
「……っ……」
十三は、トイレの個室でうずくまった。
吐き気もないのに、消化器官のどこかが逆流しようとしているのがわかる。立て続けに起こった悲惨な出来事に、精神が限界を迎えようとしているのかもしれなかった。
「……ダメだ……頑張らなきゃ……生きなきゃ……。奨学金、返さないと……。母さんの借金も、返さなきゃ……。……そうだ、エロ本……家にあるヤバいエロ本、処分するまで死ねない……」
震えながらも呟き、なんとか自分を鼓舞した十三が顔をあげた、
瞬間、”何か”によって、足首を掴まれた。
「────ッ!!!」
十三は驚愕して息を呑む。
焦げて、血にまみれた腕が、個室のなかに差し伸ばされ、十三の左足首を掴んでいた。




