ふたりの約束1
窓から入る夜風がリュカ様の前髪を揺らしている。まどろむ僕は愛しい彼の横顔をみつめてため息をついた。
書き物を進めるリュカ様は午後も十一時過ぎなのに調べ物をしている、らしい。彼がそう言っていた。なにを調べているかはたぶん、僕が聞いてもわからないと思う。興味もないというのは彼の専属失格だろうか。
最近のリュカ様はなんというか多忙である。
夜中近くになるまで勉強をして疲れ切ったところでベッドに入って僕を抱いたまま気絶するように寝落ち。目の下のくまは日に日にひどくなる一方で見ていておいたわしや。
そんなわけで僕には心配と一種のフラストレーションが溜まっていた。
はらりとブランケットが落ちた。足音にも気づかず集中する彼の後ろを陣取る。リュカ様の邪魔をしてしまうことに気後れしながら、羽ペンをとる手に手をかぶせた。冷たい手だ。思わず包むように手を丸めてしまった。
そうして一層ためらいがちに名前をお呼びする。
「リュカ様……」
「どうかしたか?」
リュカ様は不思議そうな声を出すが、こちらには目もくれない。黙々とページをめくっているその無骨な指にさえ嫉妬する。
夢中で読む本を腹いせに取り上げてみた。
背中に隠した本にリュカ様は「なにをするんだ」と声を上げた。顔をしかめるも、ちっとも怖くなんかない。僕はむうっと口をへの地にして不満たらたらな声をもらしてみせた。
「早く寝ましょうよ! せっかく一緒に寝るんですから、ね?」
「はあ? 欲求不満かよ……」
「そーですよ! 悪いですか!? リュカ様ってば最近読書ばっかり。つまんない!」
「お前は逆に勉強しろ」
「やです」
思わず即答してしまった。
リュカ様は聞き分けのないこどもに言い聞かせるのを諦めたみたいで――そんなに早く引かれるとこちらもやるせないのだが――机のカップに手を付ける。常なら中身はホットミルクだが、ここのところのお供はカフェオレとなっていた。
「あー、もー! またそんなもの飲んで! 寝る気ないんですか!」
「まだ十二時前だし。あと一踏ん張りしたいからな、さっさとよこせ」
ん、とあごで要求されてしまった。すげなく断られ、僕は渋々本を取り出す。読んでいたページの栞を引き抜いてやったのはせめてもの意趣返しである。へへへ。
「こいつっ……」
青筋を立てたリュカ様がおっかしくて僕は陽気に笑う。すると予想外なことを言われた。
「そんなことしてると予定を取りやめる羽目になるぞ」
「なにかありましたっけ? あー、僕が知らないやつですね!? ずるいずるい〜〜」
駄々っ子のような僕に、なにいっているのだかという声と仕草。
頭を振ったリュカ様の服に、しがみついてでも僕も行きたいとねだる。
「全部お前のためだが?」
僕はその答えに目が点になる。
「へ?」
(そんなの聞いてませんが――!?)
「ということがあったんです」
昨夜の僕の大声が聞いたせいか、今朝のリュカ様はねぎたなく、起きてからもひどい頭痛のせいで大層不機嫌であった。体がふらついていたので、珍しく僕がお着替えを手伝うことになった。幼い頃以来のことなので少しドキドキしてしまった。
これ幸いと背中側に回って首筋の匂いを嗅いでいたら変態と罵られてしまったことは記憶から抹消しよう。うん。リュカ様、なんかニヤニヤしていたし。きっとあくどいことを考えているに違いない!! 現に危うく靴下をはく前の足で蹴られるところだったし。
というヒヤヒヤしたエピソードを添えながらエマ様にリュカ様のことを尋ねているとエマ様は頬をピクピクさせた末に、お腹を抱えてうずくまってしまった。
ん? 反応がないな。
「あの子、か、ぐっ……わい、そ……ぐふ」
エマ様がぐふぐふ言っておられる? もしや。
「まさかお腹を下――がうっ!」
「だめよ? いくらルナちゃんでも女性のお花摘み事情は禁句。ね?」
素敵な女性像を徹底している貴婦人の手のひらで頬をぺちぺちされる僕。笑顔のまま怒るという腹芸には感服してしまう。女性ってつよい。
「あい……」
屋敷の廊下の角で話し込んでいた僕らの前をメイドさんたちが慌てない程度の急ぎ足で通る。天気雨のせいで洗濯物を取りにまとまった人数で向かうらしい。庭師のおじいちゃんと料理長は意気投合しながら屋敷裏手の木の実について話していた。仕えるお方に挨拶をしながら通った従者たちにほがらかに返すエマ様はいぜん僕と向き合っている。
情けない涙と震える声が落ち着いたところで、具合は本当に平気かと再度尋ねる。エマ様はお腹をさすっておっしゃった。
「体調は問題ないわ。ただちょおっと締め付けがきつかっただけなの」
(なるほど)
指でほんの少しよと示し、ストレッチをするように腰を伸ばしたエマ様。さきほどまでしめあげていたコルセットに苦しんでいた婦人とは思えない復活ぶりである。ところでそんなに笑うほど面白い話なんかしていただろうか、僕?
「そういえば!」
僕の脱線しかけた思考は声を合図にもとに戻る。
エマ様はきれいなソプラノで叫ぶと、どこからか扇子を取り出した。いいことを教えてあげましょうと僕の耳元に口を寄せる。口元を扇子で隠しながらうふふ、と。旦那様のフレデリック様との遠出にごきげんなエマ様は昨夜、いや今も続いているリュカ様の勤労についてのネタバラシを始めた。
「リュカ様は……夜中まで使って学園の課題を片付けようと? それも、出かけるため……に? え、え、僕とですか!? なにそれウソぉっ嬉しいッ!!」
思わぬ吉報に頬に手を添える。足元から登ってくる喜びに恥も外聞もなくじたばたと足を動かしてしまう。現金な僕は素直に喜ぶ。そんな姿をみてエマ様は頬をゆるめている。よしよしと頭をなでられるのは気恥ずかしいがやはり嬉しい。こういうのを甘やかされている、っていうのかな。彼ならきっと――……。
「だれのせいでこっちは疲労困憊だと思ってやがる……」
「あ! リュカ様だ!!」
タイミング良く、なんだかしおれたリュカ様が登場する。リュカ様はくたびれたジャケットをまとって、普段より精彩を欠いた動きでよろめくと左肩から壁にもたれかかった。
「母上も余計なことを」
背後になる東側から昇る日の光がまぶしいようだ。目を細めて舌打ちをしている。リュカ様はまだ頭痛が治っていないらしい。現金な僕はすぐさま医務室へ薬をとりに向かおうとすると、主人にえりを掴まれて止められた。
「お前はこっち」
「え? これって……」
封筒からはみ出ていたのは予約券であった。そこに書かれているのは有名なレストラン、しかも貴族はおろか、この国の王族御用達のレストランである。名店中の名店なため、雑誌で読んでも行けない、会話に出ても行けない、人が多すぎて行けない、そんなお店の予約を手に入れるとは。
「やりましたね、リュカ様! あ〜〜僕も連れて行ってほしいくらいです……ぐすん。お土産楽しみにしてるので、あ、いえ、感想だけでもいいから……くださいね! 絶対――」
「なにを言ってるんだお前は」
僕は、呆れるリュカ様をみながら、どっかでしたやりとりだなーと思った。
「次の日曜日だ。外で昼をとる。それまでは街ですきに過ごせ」
早口で告げられたまさかの内容に浮かれてしまう。あの名店の味をこの舌で!? っていうか、聞き逃がせないことが一つあるのですけれど。
「え……ひとり?」
「なわけないだろ。……俺も……ついていく」
あのぶっきらぼうな彼が、プライドの塊みたいな人が、顔をそむけて僕を誘っている。その姿にじわじわと胸が暖かくなる。胸の前で組んだ手がソワソワと動いてしまった。にやけそうになる口元を必死でとりつくろっていると、後ろから両肩を掴まれた。エマ様だ。
「あらお出かけの話ね。それなら当日はとびっきりおしゃれにしましょうね」
「僕、従者ですよ……?」
「休日だろ」
「休日よね。というわけで流行りの町中コーデ、決定!!」
ごきげんなエマ様に目をむく僕。そうだった。この国の人はおしゃれにめっぽう弱いというか強いというか、なのだ。なんというか好戦的な民族のようにファッショというものに血が騒ぐらしい。派手に着飾ることをよしとする文化のせいで他国よりも目立った服装で大陸議会の問題をふきとばすぐらいだ。話題に飛びつくのはもちろん国民もしかり。そんな場で噂になったドレスやアイテムといった品々のでどころ調査にはみんな必死。なにがなんでも探し出してやるといった熱い気概が行き過ぎたせいか、みんなで一様にマネをするところは他国の人から『ランウェイのヒマワリ畑』なんてオーバーな表現をされている。これもまあ愛すべき国民性である。ただし去年の夏に流行ったサングラスブームは街がギラついて異様な雰囲気を醸し出していたため、すぐに飽きが来たが。
さてそんな服飾狂いの血はエマ様にも流れているようで、息子同然の僕をどう着飾ろうかとうなっている。これから執事の職務そっちのけで衣装合わせをするらしい。いいのかな?
エマ様がイメージ図を頭の中で作っている間、リュカ様は僕をエマ様に預けて廊下を進んでいってしまった。平気だろうかと見送りつつ、エマ様に連れられ反対の通路を進むのだった。




