おやすみなさい
「おやすみなさい」
僕は、そう口にした。
そういえばいつからこの言葉を隣で口にしていないんだったか。
思い返せば部屋が別れたあとだったかもしれない。
――僕らが線引きされた、部屋の移動から。
ひとりきりの誰もいない部屋に僕の言葉だけが滑り落ちた。そうしたら余計に部屋の中の静けさが胸にのしかかって、もうどうしようもない。返事のない孤独に苛まれる。僕は、たった今吐いた言葉を取り消そうとゆるく頭を振る。
心はおだやか、とは言えないのだ。
なぜなら冬日の木枯らしみたいな、そんな寂しさばかりが吹き込んで仕方なくって、だからか、必要のない「おやすみ」がふいにこぼれだしてしまったのだった。
吐き出した今となっては後悔しかないが。
子供部屋の延長みたいな僕の私室。よれたぬいぐるみやさび付いたおもちゃが、箱いっぱいに詰まって、行き場をなくしている。それは、僕が未だに捨てきれない未練の塊なのかもしれなかった。
「もういいや、寝よ」
考えるのも面倒くさくなって、さっさとベッドに潜り込む。体のそばに毛布をたぐり寄せた。そのまま布団の中にすっぽりくるまれると、ようやく安心した。
「っ――」
夜半、薄暗い闇の中、音がした。
しかし最初はそれが何かはわからなかった。
もう一度、耳を澄ませてみる。
……どうやら二度目は聞こえてこないようだ。
(気のせいだったかな?)
それとももしかして――……と壁の向こうに目をやる。考えてみたけれどやっぱり自分の考えはありえないとまるごと否定するように、薄い掛け布団を頭まですっぽり被る。音のことなんて忘れてしまえ、と言い聞かせて。
再び眠りにつく。
(まさかこんな夜中に僕が彼に呼ばれるなんてありえないじゃないか)
さっきよりも気落ちしたまま、まどろみの中へ潜っていく。
シーツだろうがカーテンだろうが頭まで被るとほっとするから、幼少期はすぐ眠れた。おかげですこぶる寝付きのいいお子様だった。なのに肌寒い春先の今日は、春眠暁を覚えずという風には寝られそうにもない。
(なんだかうまく眠れないや)
冷たい床をぺたぺたと歩いてわずかなマットの上で体を落ち着ける。
せめて眠くなるまではここにと目をつむった。
ところが一度消えた眠気はやってくる気配がなかった。
朝まであと何時間眠れるだろうかと時計を確認しようにも、文字盤を見るための明かりすら手元にはない。諦めて毛布から出した手を引っ込める。
「困ったなあ」
仕方なく疲れ切った体を無理に起こしてもぞりと這い出た。