五十三話 秘密の乙女クラブ④
カーンッ、と空のグラスをテーブルに叩きつけるように置くと、妙齢の女はフラフラとこちらに向かって歩いてきた。
足取りが怪しく、どうやら酒に酔っているらしい。
〈大変! あれは正義感の塊ルドベキアの乙女!〉
何事かと二人が女を見やると、後ろでアイリーンが身振りと小声で慌てた様子を示した。
〈ご本人も作中のルドベキア同様、普段は弱きを助け悪に立ち向かう素敵なご婦人なのだけど、お酒にお弱いのにお酒好きで絡み酒というちょっぴり厄介なお方ですの。お願いですわ、あと少しで上手くいきますのよ。邪魔なさらないで!〉
アイリーンは床に泣き伏す真似をしながら祈っていたが、願い虚しくルドベキアの乙女は左右に大きく揺れながらサリアの前にやって来た。鋭い目つきだ。
「随分と悪どい真似をするじゃぁありませんのぉ。人の婚約者を奪い取ったあげく公衆の面前で婚約破棄を宣言させるだぁなんてぇ。選ばれたのは私だとアピールなさりたいのぉぅ? それで祝福されるとでも思ってましてぇぃ? えぇ⁈ おめでてぇですのねぇ」
「い、いえ、これは演技で……」
近くに来るとよくわかる、顔が真っ赤で目の焦点が定まっていない。これは話が通じそうもない。
「あなたも! 婚約者がいるとご存知で粉をおかけになるようなご令嬢を真に愛してるですってぇ? ライバルに屈辱を味わわせる為に大勢の前で婚約破棄を宣言させるような女性をぉ? それを愛してるぅぅう⁈ その宝石みたいな青黒い眼は本当に石なんじゃありませんのぉぉお?」
嫌味ったらしく巻き舌で捲し立て、下から睨み上げてくる女性にドレイクもたじろいでいる。
よく考えれば彼は王太子なのだ。正面切って罵倒されるなど、こんな不敬があっていいはずがない。
「あ、あの、聞いてください、これは——」
「大体にしてぇ、その仮面はなんですの?」
これ以上王太子に不敬があってはまずいとサリアが止めに入ると、女の矛先が再びサリアに向いた。
「あなたには原作愛ってぇものがないのかしらぁ? この騒動にしたって熱しやすいオニキスはまだしも、ペチュニアは顔に火傷を負った自分では相応しくないと、プレナイトからも自ら身を引いたように謙虚で奥ゆかしい乙女なのよぉっ⁈ 他人の物を奪い取るようなぁ女性じゃないのよ! そんなこともわからない、その程度の理解度の人がペチュニアを名乗ってこんな汚い真似をして、そのキャラクター性を汚すだなんて——」
許せない! と、正義の心に火のついたルドベキアの乙女はサリアの仮面を剥ぎ取ろうと掴みかかってきた。
サリアは咄嗟に身を引いて仮面に伸ばされた手を避ける。
しかし避けきれず、空を掻いたルドベキアの指先が仮面を捉え弾いた。
「——あっ!」
と思った時には遅く、カンッと音を立てて仮面が磨かれた床に落ちた。
先ほどからのド下手な寸劇と派手な騒ぎで集めてしまっていた注目が一斉にサリアの方へ向き、好奇の視線が晒した素顔に突き刺さる。
愉快そうな、あるいは嘲笑するような無数の視線。
それがいつ忌まわしい物を軽蔑し憎悪するものに変わるか。いつ苦悶に顔を歪め呪いだと叫ぶ者が現れるか。
周りを取り囲む大勢から糾弾されたあの舞踏会の恐怖と自身への不審が蘇る。
火柱の上がる音と苦しむ怨嗟の声が聞こえた気がして、怖気が背筋を一気に這い上った。
「ダメッ……見ないで——!」
その時、突然真っ黒なカーテンが目の前に引かれ、注がれる視線から守るようにそのままサリアを包み込んだ。
何が起こったのか。
何も見えないくらいに真っ暗だ。
状況が飲み込めず呆然としていると、これもまた突然、頭上から声がした。
「失礼、ルドベキアの乙女よ。私の最愛の乙女に手荒な真似はよしていただきたい。麗しき乙女の秘密を暴いて許されるのはこの怪盗オニキスだけだ」
朗々として滑らかな、よく通る低い声。
先程までの失笑もののセリフ回しとはまるで違う。
真上から降ってきたのは普段通りに落ち着いて堂々とした、聞き慣れたドレイクの声だった。
極々近距離から聞こえたその声に驚いて、サリアは慌てて暗闇を振り仰ぐ。
頭上の僅かなカーテンの切れ目。
その向こう側には立襟と帽子の隙間から紺青色の瞳を覗かせる人物の顔が窺えた。
そこでようやく、サリアは自分がどうなっているのかを悟った。
黒いカーテンと思った目の前のものはドレイクの身につけていたビロードのマントだ。
そして自分は今その中にすっぽりと収まるように包まれているのだ。
ちょうど片腕で、背後から抱きすくめられているかのような形で。
状況を把握すると一気に身体が熱くなる。
しかし慌てて離れようにも包まれていては下手に動けず、更には背中にうっすら感じる体温に気づいてしまって思考が停止し身体も硬直する。
マントの外では尚も正義の追及が続いているが、今のサリアにはもはや遠い世界のことのように感じられた。
「最愛ぃぃ? わざと人を傷つけるような真似をする性悪な女性がぁ?」
「彼女は自身がどのように困難な状況にあっても、人の為にあろうとする心根の優しい女性だ」
「そうは思えませんけどぉ。よほど心酔してますのね、愛すべき婚約者のいる身で。あなたも大概罪深い方ですのねぇ」
「……その自覚はある」
「ありましたらこのような仕打ちなさらないと思いますけどぉ? 婚約者への愛情は欠片もありませんのね」
「なかったと答えれば嘘になるが、あったと返答するには窮する部分があるのは確かだ」
ドレイクはそう返すと、床に座り込んだまま行く末を見守っていたアイリーンの方へと振り返った。
「あ⁈」
その不意の動きについていけず、サリアはよろめく。
するとドレイクが支えるためにマントごとサリアを抱き寄せた。
うっすらだった熱を背中にしっかり感じるほど密着度があがって、サリアの顔は真っ赤に染まる。
背中越しに伝わってしまいそうなくらい心音がうるさく、外の音など聞こえやしない。
「すまない、アイリーン。君の理想にはなれず、そしてまた君を理想には出来ず」
「……理想?」
「進む道は違うが、この先も君の幸せを願う気持ちは変わらない。君の望むとおりの運命の巡り合わせがあることを祈っているよ」
「クラクス様……?」
「さよなら乙女、幸せに」
ドレイクはアイリーンにそう告げると、またルドベキアの方へ体を向けようとした。
「サリア。注意を引くから、その隙に仮面を拾うんだ」
その最中、小声で囁かれてサリアはようやく我に返った。
思いがけない密着に動転して忘れていたが、今、自分は大勢の人の中にあって仮面を付けていない危険な状態なのだ。
慌てて床に屈もうとすると、ドレイクが大きく派手な動作でマントを翻した。
目の前の帳が開き、シャンデリアのキラキラした光と華やかなドレスが咲き乱れる外の世界が現れる。
眩さに一瞬眩むが、ルドベキアとの間に落ちていた仮面をみつけ急いで拾った。
「それでは失礼させていただこう。麗しき乙女の秘密は今宵もこの怪盗オニキスが頂いた」
オニキスのお決まりのセリフなのだろう。
周囲で小さな歓声と拍手が起こった。
群衆の注目はドレイクに向いていて、誰もサリアを気にしておらず苦しむ者もなさそうだ。
サリアは仮面を押さえてホッと息を吐く。
「サリア、大丈夫か? このまま行こう」
「は、はい!」
ルドベキアの乙女の義憤はまだ治らないようで何事か叫んでいたが、拍手の波に乗ってドレイクと二人サリアは出口に向かう。
出入り口の扉が開くとようやく緊張の糸が切れた。
想定外の出来事に仮面の下の顔はまだ熱く、鼓動も正常とはいえない速さで鳴ったままだ。
頭がボーッとして一体何をしにきたのかも忘れ気味で、これで良かったものか判断しかねた。
かろうじてアイリーンの依頼だったと思い出して振り返ると、元の楽しげな空間に戻った会場の中で少女はキョトンと驚いたような顔をしてこちらを見返し、何事かを呟いていた。
「クラクス様ったら……アドリブなんてお出来になりましたのね」
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