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四十二話 夜と一匹と一人


「雲がうっすらと月にかかって……良い夜ですね。これなら月光もほどよく取り込める」


 昼間たっぷりと眠って元気な様子の閣下に話しかけながら、サリアは自室のテラスへと出た。

 月は高く上り、王宮の大半は既に眠りに就いている時刻だ。


 しんと静かな夜気を吸い込み、サリアはテラスに置かれた椅子に腰掛けると、側のテーブルへ日中洞窟で採取してきた胞子を入れたシャーレを置いた。

 輪郭の滲んだ三日月が降らせる柔らかな光が、テーブルごとシャーレを照らす。


「こうやって月明かりに晒しておくと、胞子が月の光を溜め込んで光りだすんです。これは周囲の魔素の走性を利用し——」


 と、説明しかけたサリアだったが、閣下がもう一脚の椅子の背をよじ登り遊び始めたのを見てやめた。

 こんな静かな夜に蘊蓄を垂れる必要はないし、本当に話したいことはそれではないのだ。



 サリアはしばし、椅子の背もたれの意匠を潜り抜けて遊ぶ閣下をみつめ、淡く光り始めた胞子を照らす月へと視線を向けた。


 夜が好きだ。

 世界を濃藍(こあい)の天蓋で覆って全てを眠らせてくれる夜の間だけ、ようやく解放された気持ちになれるから。


 夜の闇に溶けてしまえば、仮面やローブで顔を隠す必要なんてない。

 呪いに怯える必要などない。

 存在自体を暗青色のカーテンで隠してくれる。

 その中でだけは僅かな間とはいえ、呪われたこの身を許された気になれた。


 だから夜が好きだった。

 夜だけが唯一の味方だったから。


「閣下の他には、ですよ。もちろん」


 サリアは小さく星の瞬く空から閣下へと視線を移し微笑んだ。

 何が? といった風に振り返り一時動きを止めたトカゲは、椅子に飽いたのかテーブルに移るとシャーレに近づき、胞子の放つ淡い光をじっと眺めだした。


 無口なトカゲと静かな夜。

 それだけが自身を受容してくれるものだった。


 けれど、とサリアはまた月の浮かぶ空を見上げる。

 

 濃藍の中で辛うじて形を保っているように見える三日月は、昼間の洞窟でドレイクの瞳に浮かんでいた灯りに似ていた。


 まだ、本当のところはわからない。次は呪ってしまうかもしれない。

 それでも、身をもって証明してくれた彼に、漠然と大丈夫だと思う。

 あの人はこの呪いにはかからないのだ、と。


 そう思える人がたった一人でもいること。

 呪われた自分を、全てを知って受け入れてくれる人がいること。

 それがどれほど心強いことだろう。


 サリアは空を見上げたままそっと胸を押さえた。胸の内に(こご)っていた苦しくてたまらなかった物が、すっかり溶けてしまったみたいに今は心が軽い。

 真っ暗闇に明かりが灯ったように、深い安堵を覚えて胸の奥が温かい。


 夜と一匹。

 そこへ一人加わっただけなのに。


 大丈夫だと笑いかけてくれる人がいる、それだけでこんなにも救われた気持ちになるなんて。


 ぼんやりとした柔らかな月影が降る中、サリアは穏やかに見守ってくれる夜に深い安堵の溜め息を漏らした。

 自身を受け入れてくれる存在に、温かなものを感じながら。

 


 ♢

 


 それはどこか魔獣退治に通ずるような、己の中にある正義感からの行動だった。

 押し潰されて消えて無くなりそうに見えたか弱く儚い彼女を、救ってやれたらとそう思ったのだ。


「……救ってやりたいとは。救ってもらうのはこちらだというのに、おこがましいな」



「何か仰いました?」



 窓の外には月が高く昇り、昼間は聞こえなかった虫の声がよく聞こえるようになった居室内。

 就寝前のお茶を啜っていたドレイクは、まだ部屋にいたヒューバートに予期せず聞き返されて、つい思考を声に出してしまっていたことに気づいた。

 今も会議や公務の資料をまとめてくれているように、ヒューバートは常に側にいるのでたまに存在が意識の外に行ってしまう。


「いや、なんでも」


「そうですか?」


 灯りを落とした部屋に射し込む月明かりの下、一瞬怪訝な表情を見せたヒューバートは資料をまとめ終えると立ち上がり、ドレイクの向かう窓際のティーテーブルへとやって来た。


「魔獣の件は問題なかったそうで、本日は何事もなく戻られて良かったです」


「ああ。サリアの探していた材料の方も滞りなく手に入った」


「これで解呪が進めば良いのですが」


「どうだろうな」


「パッとかけて一瞬サッとやってくださればいいだけなんですけど、予想外に……」


 ヒューバートは不満げにぶつぶつ呟きながら、側のワゴンからポットを手に取りドレイクのカップにおかわりを注いだ。

 今夜の月にかかった雲のような、うっすらとした湯気が上がる。


「こちらは協力してもらっている立場だ。そう急かすな。サリアは着実に解呪法をみつけてくれている」


「まぁ……そうですけど……。それにしても、彼女随分と変わった髪色をしていましたね。ブロンドが、半分を過ぎた辺りから毛先に向かって段々と淡く桃色に染まっていって」


「ああ、目を引く綺麗な色合いだな」


「春先の花のようでしたね。あの髪を見て、私は何故、彼女がローブに仮面姿を頑なに崩さなかったのかよくわかりましたよ。あの華やかな風体では、呪いの研究者を名乗ったところで威厳も何もありませんものね」


 イメージは大事だと頷くヒューバートを横目に、ドレイクは苦笑しながらカップに口をつけた。


 そんな理由だったら良かっただろうに。

 実際には自身の呪いを恐れ、苦渋の選択をした結果あの装いなのだから。


 もしも呪いさえなければ、彼女はあのような不気味な格好も呪いの研究もせず、ただ良家の子女として暮らしたか、あるいは夢を追って治療術師になっていただろう。

 

 しかし現実には呪いによってその道は閉ざされてしまったのだ、とドレイクはサリアの痛ましく怯える姿を思い出す。


 嬉々として見えたほど追い込まれ呪いに向き合ってきた彼女が、仮面の下でどれほど苦しんできたか。

 それを知ってから、己の中の正義感に似た何かが、あの肩の震えを止めてやりたいと思うようになった。


 だから今日、仮面を外せと半ば強引に迫ったのだ。

 

 やむを得ず彼女の素顔を見たが何の異変もなかったあの時に、もしもこの身に彼女の呪いが効かないのなら、望まぬ姿から、呪いに怯えることから、ほんの一時でも解放してやれるのではと思ったから。


 それが押し付けがましく、また彼女が望んでもいないことかもしれず、結果によっては傷付けることになると十分わかっていた。


 けれど思っていたとおりこの身は呪われることがなかった。


 そして、とドレイクはカップの湖面で煌めいている月明かりをみつめた。

 それは暗い洞窟で、向かい合った瞳が涙を湛えてキラキラと艶めいていたのを思い出させた。


 あの時、彼女は仮面を外し微笑んでくれたのだ。

 呪ってしまうかもしれない恐怖を振り切り、こちらを信じて。


 溢れてしまいそうなほど涙を溜めたサリアの瞳に、確かに深い安堵の色が浮かんでいたのを思い出し、ドレイクは無意識に微笑んだ。

 あの時、見せてくれた彼女の微笑みに、不思議とこちらも安堵したような気持ちになっていた。


 それは独善的だった要求が受け入れられたことの喜びからだったろうか。それとも彼女を一時でも救えたという達成感からだったろうか。


 ふと考えて、いや、とドレイクは呟いた。


「彼女に信じてもらえたことが嬉しかったのかもしれない」



「彼女? とは、サリア嬢ですか?」



 また腹心の存在を忘れて呟いてしまったドレイクは、そう尋ねられて危うくお茶を溢しかけた。今度はしっかり聞こえてしまったようだ。


「何か嬉しいことでも?」


「いや……別に」


 婚約者でもない女性のことを考えていたと知られるのは何となくばつが悪い。

 グッとお茶を飲み干し誤魔化すと、ヒューバートは、ふぅんと興味深そうにした。


「もしや進行性の……? だとしたらサリア嬢もなかなか……でももっと即効性の呪いで手早く——」


「そちらこそ、なんだ?」


「いえいえ、こちらの話です」


 ニコッと笑ってヒューバートは再びお茶を注いだ。


「しかし、これ以上解呪に時間がかかるようでしたら、サリア嬢には今後あの不気味なお姿を控えていただきたいですね」


「何か問題があるのか?」


 そう尋ねられたヒューバートは、大袈裟な身振りをしてみせる。


「ないとでもお思いで? 真っ黒ローブに仮面だなんて不気味すぎて目立つんです。あの姿で毎日図書館に篭っていましたし、先日は庭で雷落としてましたでしょう? そのせいで彼女が今メイド達になんと噂されているかご存知ありませんか? これ以上注目されて万が一素性がバレることになっては困ります」


 イメージは大事ですけどね、とヒューバートは溜め息を吐いた。


 気にしてはいなかったが確かに目立つかと思い、ドレイクはサリアについてまた思案する。


 好んであの格好なわけではないのだ。

 呪いの研究にしても、人を避ける生き方にしても。

 出来るなら全てのことから解き放ってやりたい。力になりたい。


 何かもっと出来ることはないかと思い、ドレイクは再び満たされたカップの中身にトカゲが映っているのを見て我に返った。


 最近、何故だかサリアのことをよく考えている気がする。

 それは彼女が解呪に尽力してくれているからか、それとも彼女を不憫に思う気持ちからだろうか。

 いずれにしても誰かのことをこんな風に、ふとした時に考えることは今までにあっただろうか。



 自身に戸惑いながらも、ドレイクは手元で揺蕩う月明かりをみつめながら、またいつのまにかサリアについて考えを巡らせた。



「……そうだ、ヒューバート」



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