二十四話 誠実なジレンマ①
「——う……なに……」
元々仮面のせいで視界が狭いうえに魔術書に集中していたサリアは、突然何かに突き飛ばされて固い床に倒されたので何が起こったかわからず呻めき声をあげた。
若干の重みと圧迫感を身体に感じる。
本でも降ってきたのかと身を起こそうとすると、仮面越しにコツンと、鼻と口の辺りに何かが押し当てられた。
なんだ、と目の前の物に焦点を合わせる。
そこには大きな紺青の瞳があった。
「……え……?」
何故目の前にこんな物が。これは誰の物だったか。
混乱からじっと見つめていると、おもむろにその瞳が喋った。
「——すまない……見えなかった」
「——っ⁈」
そのよく通る低い声に、瞬時に状況を理解したサリアが弾かれたように身を反らせると、同時に紺青のギョロ目ことドレイクも慌てたように身を起こしサリアから離れた。
どうやらぶつかってきたと思ったのは本ではなくドレイクで、蹲んでいたサリアに躓き、その上に押し倒すように倒れ込んできていたようだ。
そしてお互いが起き上がろうと動いた拍子に——とそこまで考えて、サリアはドレイクから顔を逸らして仮面の口許を両手で押さえた。
彼の瞳が魔術書一冊分の厚みくらいの距離にあったのだ。
それだけの至近距離で見つめ合う状態で、口許に当たるものといえばなんであるかは明白だ。
「え、じゃぁ、今のコツン……て」
コツンの正体に思い至ってサリアは一気に身体が熱くなった。
仮面越しに当たったのは、恐らくも何もなく覆いかぶさる形になっていたドレイクの口許だ。
間接的とはいえくちづける形となって、サリアが動揺から仮面の口許をしきりに押さえあわあわとしていると、突然シュリンと金属が擦れる音がした。
「サリア」
「はっ⁈ はいっ!」
急に呼ばれたのでドキリとして振り向くと、ドレイクは佩剣を抜いてこちらに差し出していた。
「ド、ドレイク様⁈ 何を——」
「君に触れたのはこの鼻先だ。切り落としなさい。君にはその権利がある」
真剣な顔をして剣を取れと促すドレイクに、サリアは顔の火照りも吹き飛んだ。
「ないです! ありません! 発生しませんそんな権利!」
「いや、ある。婚姻してもいない女性を押し倒した挙句くちづけるなどと不埒なことをしたんだ、許されるはずもない。君がやらないなら私が自らケジメを——」
「ドレイク様、お、落ち着いてください! 事故です! 私もあなたも故意ではありませんでした! 私を見てください、ほら、仮面です! だから今のはキスの内には入りません。床にぶつかったのと同じです」
ここで止めねば本当に自ら切り落としそうな勢いだったので、サリアは必死になって、ねっ、ねっ、と仮面をアピールした。
その甲斐あってかドレイクはしばし苦渋を滲ませた表情をしていたが、理解してくれたようでやがて静かに剣を収めた。
「……すまなかった」
冷たい石の床に膝を突き、その上にグッと握った拳を置いて首を垂れたドレイクに、サリアはひとまず息を吐いた。
一応危機は去ったが、危うく一国の王太子の鼻先を切り落とさせてしまうところだったので、心臓はまだものすごい音で鳴ったままだ。
とはいえ、その半分は疑似キスによるものなのだけれど、とサリアは戻ってきた顔の熱さを自覚する。
仮面だからノーカウントだと言っておきながら物凄く意識している自分がいる。
「ド、ドレイク様、そんな、私のような者に頭を下げられる必要は……こんな薄暗い場所で真っ黒な服を着て蹲み込んでいたら見えなくて当然です。私の方こそ申し訳ありませんでした」
「いや、言い訳にならない。本当にすまないことを……」
「いいんですドレイク様、私は全然気にしていません——と言ったら嘘になりますけど……でも仮面ですから、き、キスじゃないですから。それに仮面で良かったと思います。ドレイク様のご信条をこのような事故で曲げさせてしまうことにならなくて」
「む……」
ドレイクはそれ以降黙り込み、大層反省している様子を見せている。
サリアはその姿にふと思った。
どうしてこれほど潔癖なまでに、婚前に女性に触れることを忌避しているのだろうかと。
幾つか理由を巡らせて、その内にサリアはハッと一つの解に思い至った。
「ドレイク様、大変失礼な質問となるのですが……お伺いしてもよろしいでしょうか」
「……既におかしな質問だな。構わないが」
ドレイクが自責の念を浮かべた表情を少し緩ませたので、サリアはおずおずと訊ねた。
「ドレイク様は、どなたかお心に決められた方がいらっしゃるのではありませんか? その方に、その……誓いを立てていらっしゃるのでは?」
トカゲに変じるという非常事態下において、例え呪いを解くためでも接触は婚姻後に拘る数々の言動と行動。
アイリーンに対しふと漏らした言葉。
それら全てを繋げると、ドレイクには婚姻を許されない間柄で愛を誓った女性がいるのではないかとサリアには思えたのだった。
一度そう思うと、頭の中では物語がどんどん組み立てられていく。
——ドレイクにはヒューバートにさえ秘密にしている愛しあう女性がいる。しかし彼は王太子であり婚約者もいる身。だからドレイクは決して結ばれない関係ながら、せめて婚姻を交わすその日までは、ただ一人彼女にだけ愛を捧げると誓っているのだ。その証として彼女以外に触れることはしないと固く心に決めて——
絶対そうだ、なんと悲しくも高潔な恋物語だろうとサリアは感涙しそうになる。
そしてもしそうなら、この呪いを解くことも出来るかもしれないと歓喜した。
しかし、サリアの期待をよそに、ドレイクは静かに首を振った。
「いや、そのような女性はいない。アイリーンという愛すべき婚約者がいた身でありながら言うべきではないのだろうが、愛を誓う女性などいない」
「え、あれ……?」
ドレイクを主演に壮大な悲恋物語を既に脳内で読み終えていたサリアは、そうはっきり否定されてしまって感動の持って行き場を失い困惑する。
「で、では、何故それほど頑なに……ただ仮面にぶつかった程度でご自身をお許しになれないほど、固く接触を禁じていらっしゃるのです……?」
サリアが恐るおそる窺うと、ドレイクは小部屋の外へと視線を逸らしながらポツリと漏らすように答えた。
「折り合いだ」
「……折り合い?」
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