第八話 人は慣れ始めた時、最も油断する
「お前で九匹目だ」
ゴブリンの眼窩に突き刺さった木刀を引き抜くと同時に、残った最後のゴブリンの側頭部へ回し蹴りを放つ。
湿った破砕音を響かせ、錐揉み回転しながら宙を舞い、吹き飛んでいくゴブリンを見送ったところで構えを解き、脱力した。
ゴブリンは三匹一組で動いているらしく、出会うゴブリンは皆、三匹で行動していた。
そして、先程倒したゴブリンでレベル上げを始めてからちょうど九匹だったのだが、倒したところであの声――システムメッセージが聞こえた。
《レベル上昇。【戦士:レベル2】》
やっとレベルアップか。
昨日倒したゴブリンを含めて、全部で十一匹を殺したところでレベルアップ。
いや、最後はほぼ同時に殺したから、十匹でレベルアップという可能性もあるか。
それで、レベルアップで何か変わったのだろうか?
試しに木刀を振ってみるが、何か変わったような様子は無い。
「ま、その内分かるか」
一先ずは保留として、レベル上げを続ける事にした。
まだ探索を始めてから一時間も経っていないのだから。
◇
木刀に付着したゴブリンの血を落ちていた布で拭う。
「……三十六は殺したな」
経った今しがた殺したので三十六匹目のゴブリンだった。
レベルも上がり、現在は【戦士:レベル4】になっていた。
未だレベルアップの実感はない。レベルアップしたところで何かが変わったという様子も無い。
だが、レベルというものが存在し、それが上昇するのならば、そこにはきっと何か意味がある筈だ。
地道にレベル上げをしていくしかないだろう。
そういえば、そろそろ昼飯時の筈だ。
腕時計を確認してみれば、12時を少し過ぎたところだった。
「マンションまで戻るのは……めんどくさいな」
周囲の建物の上から顔を出してる高層マンションの最上階を見て、昼飯の為にあそこまで戻るのは面倒だと判断した。
どうせ昼を終えたら、またレベル上げをする予定なのだ。
「そこら辺の家から失敬するかな」
壁が倒壊して中が丸見えになっている家を見つめながらそう呟いた。
◇
「家族持ちの家、最高だな」
目の前に広がる食べ物の数々を見て、そう呟いた。
パンと果物が数種類。
野菜もそれなりの数。
ハムやソーセージが沢山。
お菓子が山程。
偶々入った家にこんなに食料があるとは。
流石に舞い上がってしまった。
中でも嬉しかったのが大量のミネラルウォーターだ。
ダンボール詰めのミネラルウォーターが複数あった。
「一度に運ぶのは……無理だな。ここを補給拠点とするか」
これらの物資を高層マンションまで持っていって42階まで運んで行くとなったら、かなりの重労働だ。恐らく、【闘気】を使っても大変だろう。
だが、ここを補給拠点として、レベル上げの度にここに寄るようにすれば、物資の確保は容易になる。
つまりは、小分けして運ぶという事だ。
一先ず、食料はモンスターに荒らされないように棚に仕舞っておく事にした。
中でも貴重なミネラルウォーターは床下に仕舞う。
床下には調理器具などが仕舞われていたが、全て取り出して床下の上にカーペットを敷き、そこに床下がある事を隠した。
これでとりあえずは良いだろう。
さて、さっさと昼食にしよう。
惣菜パンと紅茶のペットボトルを片手にリビングに向かい、ソファに腰を下ろす。
木刀は万が一に備え、直ぐ近くに置いておく。
パンを囓り、紅茶で流し込む。
そうやって昼食を摂りながら、ソファで寛いでいると、ふと、目の前にあるテレビ台に置かれた写真立てが目に入った。
写真には、厳格そうな父親と優しそうな母親、それに俺と余り変わらない歳の青年、そして小学生くらいの男の子、あれは双子の姉妹だろうか?
この家に住んでいたと思われる六人の家族写真だった。
家の内装を改めて確かめる。
床に特撮ヒーローのフィギュアが転がり、熊のぬいぐるみが無残にも首が裂けて中の綿が飛び出していた。
その瞬間、道中で見た道路に転がる死体がフラッシュバックする。
「…………」
頭を振って掻き消す。
駄目だな。もっとレベル上げしないと。
残っていたパンを口へ放り込み、紅茶を含んで嚥下した。
――ガサッ。
それは小さな音。
本当に小さな、【闘気】で身体能力を向上させていなければ、決して気付かなかった程の物音を強化された聴覚が捉えた。
直ぐに木刀を手にしてソファの裏へ回り込む。
物音がしたのは、玄関からだ。
――何かがいる。
間違いなく、そこに、玄関に何かがいる。
ソファの陰に隠れて息を殺し、音を探る。
駄目だ。足音が聞こえない。
もっと聴覚を強化出来ないのかっ。
そんな思いから、身体を巡る全ての【闘気】を耳へ集中させる。
すると、思いが通じたのか、聴覚が今までの数倍鋭敏になり、玄関から伝わる音を拾った。
――グゥゥフゥ。グゥゥフゥ。
これは、何かの呼吸音?
この感じ、ゴブリンではない。
ジッとその音に集中していると、その音源が動き出した。
本当に小さな足音で俺の居るリビングへ近付いてくる。
そして、音がリビングに入ってきた。
――グゥゥフゥ。グゥゥフゥ。
この音、呼吸音、何処かで聞いた事がある気がする。
あれは何処でだったか……。
確か、祖父の家に住んでいた頃だ。
そうだ……隣に住んでいたお婆ちゃんの飼っていた犬が俺を見つける度に顔擦り付けて匂いを嗅いでいた、あの音に似ているんだ。
という事はこの音は――
「――マズっ!」
危険を感じて、咄嗟に前方へ転がり込んだ。
すると、先程まで隠れていたソファの背凭れから鋭い爪が突き出てきた。
急いで立ち上がり、ソファの向こうにあるその姿を窺えば、そこには灰色の体毛をした体高1m程の大きさの犬――否、狼がそこに居た。
灰狼は突き刺さった前足をソファから抜くと、低い唸り声をあげながらこちらを睨んできた。
その前足には、まるで恐竜の鉤爪の様な鋭い爪が一本だけ生えていた。
いや、何だよあれ。
ソファの背凭れ貫通してたぞ……。
木刀を正眼に構えて灰狼を牽制するが……正直、木刀なんかであの爪を受けたら、木刀をぶった斬られる未来しか見えない。
何にしても場所が悪い。
家の中では物が多くて、まともに木刀を振る事も出来ない。
ジリジリと牽制しながらも、玄関に繋がる扉の方へゆっくりと移動する。
決して灰狼から目を離さない。
やがて、六人掛けのダイニングテーブルを挟んだところで、灰狼が飛び掛かってきた。
咄嗟に目の前にあるダイニングテーブルを灰狼へ向けて蹴り上げる。
「クゥゥンッ!」
ダイニングテーブルの向こうで灰狼の情けない鳴き声が聞こえてきたが、その頃には既に、俺は玄関へ向けて駆けていた。
背後から迫る気配を感じながら走り、玄関を出て直ぐの所にあった塀に隠れた。
――そして、後を追って出てきた灰狼が目の前を通り過ぎようとしたところで、大上段から思い切り木刀を振り下ろした。
グシャリ、と湿った音を響かせて灰狼の頭は潰れ、同時に血肉が周囲に飛び散る。
当然、近くに居た俺はそれを全身に浴びる事になった。
「はぁ……少し気が緩み過ぎてたかな。良い教訓だ……」
死に絶えた灰狼を認めると、深い溜め息を吐き、塀に凭れて空を見上げた。
そこには雲一つない蒼い空が広がっていて、非日常の中なのに日常の中に居る気がした。