第86話 一枚の絵
その日はやや蒸し暑く、じっとり汗ばむ陽気となった。ディアナはクリエから王都に戻り、黒い森で討伐した魔獣のいくつかをギルドの買取りに出した。
「魔鉄の購入に使った分位は取り戻したいな…」
インベントリの中のまだ解体に出して無い魔獣を見る。
クリスタルラビット10、シルバーサーペント2、ゴールデンシープ5、レインボーシープ3。
「まだまだ、足りないや…夜はまた黒い森通いかな?」
ふふっと笑いながら帰宅すると、応接間に来客があるようだった。
「ディアナ、宰相様がお待ちだ」
侯爵に呼ばれて、そのままの格好で応接間に入った。
「お久しぶりです、宰相閣下」
「やめて下さい、そんな呼び方」
宰相は苦笑いした。そして、持参した大きな荷物の紐を解いた。
それは、色合いこそ違うものの『クリムトの接吻』を模写した、1枚の絵画だった。
「ほう、これは宰相様がお描きになったので?」
侯爵が宰相に尋ねた。
既に目に涙が溢れつつあったディアナは俯いた。
「昔の記憶を頼りに描いたのですが、なんとも『愛おしい』想いにあふれてるでしょう?」
「ですな。でも最近、こういう構図をどこかで見たような気が…?」
「ストラトス城ですよ。この二人は、この様に愛し合っているのにもかかわらず、崖の上に立っている。精神的なものなのか、はたまた立場的なものなのか、ギリギリのラインにあるんですな。もしかしたら、二人で死を選ぶのかも知れません」
ついに、ディアナの心の中のダムが決壊した。ポロポロと涙をこぼしながら話始めた。
「私が一方的にお慕いしているだけです。陛下は、私の想いなど知りません…」
「ディアナ、お前…陛下の事を?」
その時だった。ミレーネ王妃主催のお茶会に出席していたミーシャが帰宅し、バタバタと激しい音を立て部屋に入ってきた。
「あなた!王妃様が酷い事を仰言るの。『ディアナを陛下の側妃として差し出せ』って!私、もう頭に来て…」
ミーシャは侯爵の腕を掴んで揺すったが、その背後に宰相の姿を認めると、次に泣きじゃくるディアナを見た。
「ディアナ、どうしたの?」
「ああー!!」
もうディアナの叫びは言葉にすらなって無く、床に四つん這いになった状態で叫び続けるだけだった。
夫妻は、こんなに取り乱した娘を初めて見た。転生者であることと規格外なステータスのせいで、周りを驚かせる事は多々あれど、我儘を言ったことすらない聞き分けのいい子だった。
いや、本当にそうだったか?自分達が知らなかっただけなのでは?侯爵は思った。だって、この娘は私達家族と過ごす時間より、はるか多くの時間を国王陛下と過ごしてきたのだから。
ミーシャがディアナを支えながら、部屋を出て行った。
「クレイトス殿、まさか陛下は…」
「陛下はディアナ嬢の事を『自分の半身だ』と…」
宰相の目にも涙が浮かんでいた。
「そしてどちらも『第一王子の婚約者』である事を防波堤にしていらっしゃるのです」
「絵は差し上げます」と、宰相はグラディウス邸を後にした。
「あなた…」
「ミーシャ、よく聞いてくれ。陛下とディアナは愛し合っている」
「え…?でも、ディアナはゼノン殿下の…」
「今迄ギリギリの所で思い止まっていたようだ。もしかしたら、お互いの気持ちに気付いていながら歯止めをかけていたのかも知れん。それがここにきて『側妃に差し出せ』とは、どういう事だ?いったい、二人の間に何があったのか?」
侯爵はガクガクと震えだした。
その夜遅くプロイスからレオナルドを呼び、事の詳細を説明した上で、ディアナを黒い森近くの辺境伯の所へ引っ越しさせる事を決めた。




