「はい、こちら地獄」
「はい、こちら地獄」
電話に出たのは、ドスの効いた声の男性だった。
声だけで確信はないが、相当な大柄で筋肉質の体型を想像する。
普通電話口には、もう少し印象の良い人を出すものではないのか。
人手の足りない会社なのかもしれないが、出だしから私の印象は悪かった。
後ろでやたらと人の騒ぐ声が聞こえる。悲鳴のようにも聞こえる酷い騒ぎっぷりだ。
初めて電話で話したが、どんな勤務態度を奨励している会社なんだ。
「地穀商事さんですか。書類が一枚足りないようなんですが」
私は大型封筒から出した書類を片手で捲りながら言った。
「そちらに、例えば社内のどこかに落ちてませんか」
「どこかにって……」
ドスの効いた声の男性は、暫く黙り込んだ。
背後を振り返っているのか、声が電話口から遠退く。
「何か知らんけど、落ちてたらとっくに燃やされちまってるんじゃないかなあ」
そう平然と男性は言う。
「は?」
私はポカンとした。
初めて取引する会社なので、あまり感情的に対応はしたくない。少々苛ついたのをスーツの胸を抑え鎮めた。
「焼却……してしまったということですか? 書類を?」
「まあ、あちこちボンボン燃えてるからねえ」
男性は淡々と言う。
私は相手の言うことを一生懸命理解しようと脳内の引き出しを探った。まさか物理的に燃えてる訳ではあるまい。
炎上ということか、と思い当たった。
何か良くない評判の会社なんだろうか。
「えっと……ちなみに参考までになんですが……。炎上の原因は」
「うん? 大昔からずっと燃えとるよ?」
男性は言った。
「大昔?」
私は机の上の資料を探った。
「あの、大昔というと、具体的に。こちらで戴いた資料では、会社を立ち上げたのは、三年前と表記してありますが」
「三年前? 三千年の間違いじゃねえの?」
男性は豪快すぎる大きな声で笑う。
「というと、これはタイプミスですか?」
「タイ人なんか来てねえよ。タイ人はタイの地獄の管轄だ」
私は一旦考え込んだ。
横文字に弱い方なんだろうか。
それにしても今の台詞から察するに、既に海外展開し、現地人を雇っているような会社なのか。
小さな会社と侮っていた。
穀物を扱っていると聞いていたが、そうすると輸入米なんかもあるんだろうか。
法律的な面ももう一度調べ直さないと。
「お話はよく分かりました。紛失してしまった書類ですが、再び作成して戴ければ、私、取りに行きますが」
「ん? あんた死期でも迫っているのかい?」
「何の式でしょう?」
「馬鹿言うな。戻れなくなるぞ」
「場所的にややこしい立地なんですか? ナビがあるので大丈夫だと思いますが」
「ああ、ちょっと待って」
男性は何かを伺っているように電話口で沈黙した。
「ちょっと今、火力が弱まったみたいだ。薪を焚べて来るから、いいかい?」
「薪?」
私は聞き返した。
まさかと思うが、物理的に燃やしているのだろうか。社内で。
そうか。
穀物を扱っている会社だと言っていた。
ただ穀物を売買するだけではなく、社内工場で煎餅やポン菓子を作っているということか。
それならその旨を資料に書いて置けばいいものを。
仕事の上では謙遜なんてしても仕方がないのだと、それとなく教えてあげた方がいいかもしれない。
電話口から聞こえてくる悲鳴のような声が一斉に大きくなる。
よく聞けば、これは悲鳴でははなく歓声なのかもしれない。
商品が出来上がるたび沸き上がる、素直な喚声を咎めない会社ということなのか。
今どき風なのだろうか。
「待たせたね。ご免ご免」
男性は再び電話口に出た。私は、いえ、と返事をする。
「燃料は、薪のみですか?」
「うん? 薪しかねえからなあ」
そう男性は言った。
とすると社屋は余程の山奥なのか。こちらが道に迷うのを心配するのももっともだ。
「やはり薪の方が風味が良いとか、そういうのあるんでしょうか」
「ていうか、グツグツよく煮えるね」
男性はどうでも良いことのように言った。
煮るということは、煎餅汁とかかな。
あれを商品化するアイデアは無かった。市場ではまだ見たことないが、試作中ということか。
家族経営の小さな会社と聞いていたのに。
海外展開、現地人採用、新商品を次々開発と、中々侮れない会社ではないか。
電話口の男性は、何かを見て「ああ」と呟いたようだった。
「まった新しい罪人が来た」
少々うんざりしたような口調になる。
「今日は多いな。何百人いるんだ」
新しい社員だと。
何百人。
私は驚愕した。
何百人も一気に採用したのか。急成長中ということか。
「そんなに一度に採用したら、大変じゃないですか?」
教育が、と続けようとして私は軽く噎せた。
「まあ、淡々と斬り捨てるだけさあ」
そう男性は言う。
「成程」
私はそうと答えた。
覚えの悪い社員は淡々と切り捨て、有能な社員だけを残しているのか。強気だな。
「あと、潰したりなあ」
「潰す……」
私はごくりと唾を飲んだ。
商売仇を、ということか。
これは……聞いて良かったのだろうか。
「ちょっと立て込んで来たから。一旦切るね、いいかい?」
男性はそう言って電話を切る。
切る間際、獣の咆哮に似た音が電話の向こうから聞こえていた。
ボイラーか何かか。相当大きな音だ。
よほど大掛かりな設備を使っているのか。
私はぎこちない仕草で受話器を置いた。
凄い会社だ。
私は、先日売り込みに来た際、若干下に見ていたのを自覚した。
反省すべきだ。
「地穀商事さんの書類揃った?」
上司が出先から戻って来た。
上着を片手に、いそいそと席に着く。
「いえ、まだ一枚足りなくて。いやそれより、この会社凄いです。ちょっと驚きました」
私は意気込んで言った。
「人の良さそうな息子さんが売り込みに来てた所だよね? 農家の両親を助けたくて会社立ち上げたとかいう」
「それが、驚きましたよ」
私はこの会社のレベルの凄さを説明しようとした。
ともかく興奮していたのだ。
口を開きかけたとき、別の机の電話が鳴った。
「あ、出ます」
上司にそう言って受話器を取る。
「はい」
「あ、あの、地穀商事の者だけども、いえ、ですが」
「え?」
人の良さそうな青年の声だった。
思い出した。先日、地穀商事の売り込みに来ていた農家の息子さんだ。
「あの、書類、うちの玄関に一枚落ちてて。失礼しました。今から届けに行きます」
「……は」
私の目は点になった。多分人から見たらそんな表情なのだろう。
電話の向こうから聞こえてくる音声は、先程まで話していた地穀商事のものとはまるで違っていた。
百舌鳥の鳴き声が響き、明るく誰かを呼ぶお年寄りの声がする。
作業時にかけているのであろうラジオからは、地元アナウンサーの雑談が小さく聞こえていた。
遠くに微かに聞こえている振動は、おそらくトラクターのものだろう。
非常にのどかで静かな雰囲気のようだ。
私はあまりの違いに呆然とした。訳が分からない。
「地穀商事さんから?」
上司が尋ねる。
「……はい」
私はそう返事をした。
会社の窓から見える空は綺麗な薄青で、細かい鰯雲が漂っている。
どういうことだ。
先程まで話していたのは、どこだったんだ。
私は空を見上げた。
終