例の噂
あのヒューゴ・キングストンに恋人ができたらしい──それに関するゴシップ記事を金と権力で捻り潰した事実を知るヒューゴの秘書の男は、最近コーヒーをブラックで飲むようになった雇い主を凝視しながら、とある噂について考えていた。
「……エンヴェア、さっきから煩いんだけど?」
ヒューゴが書類を眺めながら、自分に言うので『煩くなんかしていない』と思った。
実際、エンヴェアは物音一つ立てていなかった。
「視線が煩いって意味だよ。何? 俺に何か言いたいことでもあるの?」
考えていることが顔に出るエンヴェアに、ヒューゴがこうして先回りしてものを言うことは多い。
にこりと微笑む顔は今日も今日とて、嫉妬なんてできやしないほどに整っている。
レベルが違い過ぎるこの男に、エンヴェアはそんな感情の欠片も持ったことがない。
「いえ……はい、いいえ。あのぉ……はい」
「どっち?」
何となく聞きづらい。
だって、ヒューゴと言えば『仕事人間』という単語のルビに振られてもいいくらいの男である。
一時期、短いスパンで交際していた女性も何人かいたが誰とも長続きしないし、いつの間にか「なんかもういいや」と言ってそれすらやめていたのだ。
それ以来、ヒューゴの周囲にそれらしい女性はおらず、彼に袖にされた女性ばかり見てきたエンヴェアは、どうしても『あの噂』が気になる。
あの噂とは、一月半前のものだ。
後輩の男に「パーっと飲みませんか?」と誘われ「行けたら行く」と返したヒューゴの為に、エンヴェアが彼のスケジュールを空けたので、はっきりと覚えている。
ヒューゴは仕事ばかりの人間なので、『これはいけない』と思ったエンヴェアがそういった予定をスケジュールに組み込むのだ──そうでもしないとエンヴェアの休む時間がないので。
「……ヒューゴさん」
結局、エンヴェアは聞くことにした。
「何?」
「……一ヶ月半前、三番通りの『キューピッド』という店であなたが女性を『持ち帰った』という噂は本当ですか?」
「あははっ」
「ほ、本当なんですかぁ!?」
機嫌良さそうに笑い声を上げるヒューゴに、エンヴェアは驚いた。
あの潰した記事は真実ということだろうか?
記事の内容は彼の恋人の詳細だった。
エンヴェアはデマだと思っていたので、記事の内容を確認しなかったのだが……今になって悔やまれる。
あーもー! じっくり読んどきゃあよかった~~~! 自分のばかばかばかばか〜! 大馬鹿野郎っ! ぽやぽや野郎っ!
そんな風にエンヴェアが自分を責めていると、ヒューゴがこほんと一つ空咳をして口を開いた。
「持ち帰ったっていうのは、うん、本当かな……あとエンヴェアに言ってなかったけど、その子と婚約したんだ」
「なっ……」
こ! ん! や! く!
──婚約?
「って!! ちょっと! そういう大事なことは! いの一番に! 秘書の僕に! 教えてくださいよ!」
エンヴェアが叫ぶと、ヒューゴは困ったように笑って書類に視線を落とした。
「エンヴェアに恋人ができたら紹介しようと思ってたんだよ。……まあ、できなかったから今言ってるんだけど」
「は、はあ?」
エンヴェアは思った。
何言ってるんだこの男は、と。
「俺の恋人はとっても可愛いからね。むやみに紹介したくないんだよ。特に、男には」
……なんという独占欲だ。
今、目の前にいるのは本当にエンヴェアの知るヒューゴ・キングストンなのだろうか?
「いやいや! 僕が『王子様』のレディに相手になんかされませんって! しかも! 僕には好きな女性がいますから!」
「それ、エンヴェアが言い寄らないって理由にならないし、そもそも信用できない。早く片想いしてる女の子捕まえて来てから、もう一度その言葉言ってくれる?」
「無茶言いますねえ、もう……」
エンヴェアは絶賛片想い中の喫茶店の店員を思い浮かべ、がっくりと肩を落とす。
パスタを美味しく作る笑顔が可愛いあの娘には長く付き合っている恋人がいる。
だから自分に勝ち目はない……なのに、笑顔が見たくて恋人がいると知っても尚、エンヴェアは喫茶店に通っている。
それを知っているくせにヒューゴは本当に意地が悪い。
「君も、なりふり構わずにアタックしたら、自分だけの星が手に入るかもよ」
「僕が好きな子は、星なんかじゃありません。太陽ですっ!」
「星なんかって……まあいいや。俺に言ってどうするの? そういうことは本人に言わないと意味ないよ」
「くっそぅ! どうせヒューゴさんは『なりふり構わずにアタック』なんてしたことないくせに!」
「ごめんね?」
「絶対、『ごめん』って思ってない顔ですよね!? その顔!」
余裕たっぷりのヒューゴにエンヴェアは文字通り地団太踏んだ。むっきー!
ヒューゴが一度決めたことなので、きっとエンヴェアが彼の婚約者に会うことができるのはずっと先の話だろう。
──秘書なのに、社長の婚約者を紹介されないなんて。
そんな風に、半べそかいているエンヴェアが太陽と崇めるあの娘と両想いになり、ステラと握手を交わすのが今からきっかり半年後であることをこの時のエンヴェアはまだ知らない。
「頑張ってね、エンヴェア」
そう言って、ヒューゴはカップに口を付けて綺麗な顔で微笑んだ。
まったく、食えない男だ。
「はいはい! 頑張りますよ! ったくもう! ……あっ、そういえば、その『持ち帰った』と噂の女性ですが、『胸の大きな従順なお嬢様タイプ』というのも本当ですか?」
「なんで、その噂が今更になって……?」
ぽそりと呟いて右眉を器用に顰めるヒューゴにエンヴェアが「え?」と聞き返した次の瞬間には、いつもの綺麗な笑顔の彼がいた。
「いや、何でもない。その噂は、根も葉もないデマだから潰しておいてくれるかな?」
「もしかして……」
「潰しておいてくれるでしょ?」
にっこり、黒い笑顔のヒューゴにエンヴェアは姿勢を正し、何度も頷いた。
「は、はい! もちろんです!」
だって、ヒューゴの笑顔が怖過ぎる。
「ありがとう。エンヴェアは優秀だから期待してるよ。噂の『う』の字をも粉々にすり潰してくれる、ってね」
「……お任せください」
すり潰す必要性を聞く勇気はエンヴェアにはない。
ああ、こんな時は太陽みたいなあの娘の笑顔に癒されたい……。
そんなことを思いながら、社長秘書エンヴェアは今日も働くのであった。
頑張れ、エンヴェア!
君の未来は、(多分)明るいぞ!