第六話 あざとい男
古典文学Ⅳの棚付近で、「すみません」と声をかけられたステラは「はい」と振り向いてすぐに、ぴゃっと小さく飛び上がった。
「ヒューゴ君!?」
「来ちゃった」
「き、『来ちゃった』って……」
なんだそれ、もう可愛いが過ぎる。
ステラが警邏だったのならばこの男は逮捕だ──罪状、『可愛い』。
首を傾げて「ごめんね」と言う彼はきっと、こうすればステラが怒らないのを分かっている。
昔から彼はとってもとっても狡くてあざといのだ。
再会を果たした翌日、ステラは物凄く豪奢な部屋で目を覚ました。そこは彼の実家のキングストン城の客室だった。
ずっと好きだった彼の前で吐いてしまい、もう死にたいと思っていたら朝になっていたのだ。
そして。
頭は痛いし、昨夜の記憶のせいで今後お酒は絶対飲まないと決意した朝を迎えたステラはヒューゴの恋人兼婚約者になっていた。
なんでだ。
超スピード展開過ぎる。
物語の騎士と牛飼いの女の子だってもう少し段階を踏むだろう。
それに彼は帝国で一・二を争うセレブである。
王子様と灰被りが成り立つのは、しょせんは作り物の世界だからであって、彼の両親がステラを許してくれるはずがない。
そう思い、婚約はもう少し待つように言ったが頭の良い彼に言いくるめられて気付いた時にはゼロの数がえげつないことで有名なブランドの指輪がステラの左手の薬指に嵌っていた。
『お、おおぉう……?』
震えた。
嘘ではない、指輪が嵌った指を見てステラはぶるぶる震えた。
しかも、休日で一家勢ぞろい。
彼の妹家族までいる前でステラは彼の『大事な人』として紹介された──祖父母、父母、三人の妹と、長女の夫とその息子、おまけに顔の怖い黒服と姿勢の良い使用人がいる場で、だ。
逃げるつもりはないけれど、逃げ場がないとつい思ったステラはきっとおかしくない。
絶対、『こんな娘なぞ認めんぞ!』的なことを言われると思っていたステラだったのだが、ところがどっこい。
大歓迎だった。いや、大、大、大、大(以下省略)大歓迎だった。
なんでだ(二回目)。
どう見てもお宅のスペシャルプリンスと自分では釣り合わないのに……とステラが目をうろうろさせていたのが、つい一週間前の話である。
「ヒューゴ君、ちょっとこっち来て」
彼と自身をちらちらと見ているヘレンとオリンピアの視線から逃れる為に、ステラは彼を一番人気のない古典文学書の棚に移動するよう彼の背を押して促した。
「もうっ、びっくりしたよ。どうしたの?」
「じゃあ大成功だね」
「私を驚かせたくて来たの?」
「それもあるけど、働いてるとこ見たくて。……ごめんね、怒ってる?」
「……怒ってないけど」
もごもごと赤面しているステラを見て「可愛いなあ」としみじみと呟くところがまた憎い。なんて狡い人だろう。
ステラが彼に怒ることなどきっと生涯ないに違いない。
それにステラが可愛いなんて、ヒューゴは絶対目が悪い。
「あ、懐かしいなこれ」
ステラが頬の熱を逃がそうと手で煽いでいると、彼が棚から一冊の本を取り出して目を細めた。
「アール・B・ローレンの古語読解書だね」
彼が言った瞬間──『アール・B・ローレンの古語読解書だね』
制服姿でくしゃっと笑う彼が頭を過った。
◇
タイミングよく昼休憩だったステラは図書館の近くの公園のベンチで彼と座って昼食を食べていた。
……戻ったらヘレンとオリンピアの質問責めが待っているが、今は考えないようにする。
「私ね」
「うん?」
「ヒューゴ君に初めて話しかけられた時、『麦穂の妖精みたい』って思ったの」
「あはは、妖精? まあ確かにあの頃は女の子によく間違えられてたな」
「でも今は、金の鬣の獅子って感じなの。男の子って凄いね」
古典文学に出てくる『金の鬣の獅子』は、勇敢で気高く、何よりも美しい唯一無二の王様だ。
「……それは光栄だ、うさぎちゃん」
「『うさぎちゃん』? って、私のこと?」
「うん。目が赤くて色が白いから」
「なにそれ」
ステラが嬉しそうに笑うと、彼も笑みを深めた。
「ねえステラ、あの詩読んでよ」
「『あの詩』?」
「星の女神が恋人を誘惑する詩」
──ミーメ・イ・レラミレ・カレドオレ・アイ・リーレイン・ステラ。
私はあなたに触れてもらう為に、生まれてきたの──
「……む、無理」
好きな詩集の一篇なので、そらで言えるがやはりステラにはハードルが高い。
十四歳の頃から十三年経っても全く成長してないと思うが、言えないものは仕方がない。
それに、それにだ。
「ヒューゴ君……」
「何?」
「意味分かってるんでしょ? あの時も……」
「さあ? どうだったかな? 分からないや」
「……やっぱりちょっと意地悪だよね、ヒューゴ君って」
ステラが口を尖らせると、彼はおかしくて堪らないといった様子で笑った。
◆◆◆
人気がない第三蔵書室、ヒューゴはふうと息を吐いてネクタイを緩めた。
ヒューゴは昔から人に見られるのは慣れているし、好意も期待も羨望も、嫉妬の視線すらも慣れている。
家を継ぐことに不満もないし、むしろ恵まれている環境に感謝している。
幸いヒューゴは要領が良く、頭も悪くない。努力すればしただけ結果が出るので勉強は面白いとすら思う。
だから、重圧だとか重荷だとか苦痛だとかはほとんど感じたことがない。
ただ、たまに。
そう、極まれに、何も考えずにぼんやりしたくなった。
そんな時、見つけたのが学園の西棟にある第三蔵書室だ。
古典やら古語、資料集が押し込められているこの蔵書室は生徒が立ち寄ることがないので、一人になりたいヒューゴには絶好の隠れ家だった。
しかも読んでみれば古典や古語というのも興味深いもので、経済学部でなかったら総合語学部に入りたかったなどと思ったりもした。
そんな平和なある日、ヒューゴの隠れ家の共有者が現れた。
最初は、自分の追っかけかも知れない……と怪しんでいたヒューゴだったが、彼女は小さな読書スペースにある赤い椅子に座って読書を楽しんでいるだけで、あろうことかヒューゴに全く気が付かなかった。
天井窓から差し込まれる光によってできた睫毛の影を頬に落とし、彼女は本の世界に夢中だった。
──赤いリボンの同学年のあの子は、何の本を読んでいるのだろう。
『アール・B・ローレンの古語読解書だね』
こっちを見てほしいと思ってから一年後。
ヒューゴが話しかけると、真ん丸に見開いた赤い目の少女と目が合った。
やっと、見てくれたこの瞬間をヒューゴは大人になってからも忘れたことはなかった。
ヒューゴはこの日、星を見つけた。
◆
「──あの頃、ヒューゴ君が『胸の大きいお嬢様タイプの女の子が好き』って噂を聞いてね、告白するのやめたの」
今だから言うんだけど、と頭に付けて話し出したステラの言葉にヒューゴは、「まじか」と呟いた。
胸の大きいお嬢様タイプの女の子が好き──あれは、当時自分に猛アピールをしてきた女の子達に自分を諦めてもらう為に意図的に流した嘘だった。
ステラはそんな噂話になんて興味がないだろうと、彼女への言い訳を怠ってしまったことが悔やまれる。
「私……む、胸大きくないし、お嬢様じゃないけど、それでもいいの?」
うるうるしたうさぎちゃんに上目遣いで聞かれたヒューゴは、即、頷いた。
「うん」
「……本当に?」
「本当。だって、あの話は意図的に流した嘘だもん。俺の好きな女の子のタイプは今も昔もステラだけ」
「……ヒューゴ君」
「それにステラの胸なら俺が大きくしてあげるし……って、痛っ。痛いよ、ステラ」
「ばかっ! ばかばかっ!! 台無し!」
ぺちっぺちっと、真っ赤な顔のステラに肩を叩かれたがヒューゴはご機嫌だった。
古語のことをきらきらした目で話すステラ。
一緒にいるとほっとするステラ。
ヒューゴが揶揄うとすぐに顔を赤くするステラ。
頑張り屋で努力家のステラ。
可愛い可愛いヒューゴのうさぎちゃん。
──今まで苦労してきた分、目一杯大事にして可愛がろう。
そして世界一、幸せにしよう。
卒業してからも会える。
これからはいつでも会える。
そう思っていただけに、ステラと会えなくなったヒューゴは落ち込んだ。
環境が変わり、忙しくなって仕事に没頭しても彼女のことを忘れることができなかった。
しかし、だからと言ってステラを探しだして想いを告げるなんて、彼女の境遇を考えると到底できなかった。恵まれていて苦労知らずの自分が『大変だったね』なんて、言えるはずがない。
だから、ヒューゴは時間がステラを忘れさせてくれると期待して気持ちに無理やり蓋をした。
けれど、やっぱり完全に忘れることはできなかった。
どうか幸せでいてほしいと、笑顔でいてほしいと、ただそれだけを願っていた。
でも、もしも。
次が、もしもあるのならば、なりふり構わずに告おうとも心に決めていた。
ヒューゴは全然痛くもない頬を「痛い痛い」と大袈裟に押さえて、心配して顔を近付けてきたステラの唇を素早く奪った。
ステラは顔を真っ赤にして「もう!」と叫んだけど、きっと怒ってない。
彼女は自分に昔から甘いのだ。
ヒューゴは星を手に入れた。
【完】