第五話 あの人
女子トイレに行くと、シェーディングパウダーで胸元に陰影を付けて谷間を作る真剣な顔の女性と、ギラギラした顔で化粧直しをするオリンピアを見つけた。
ステラは、これが未知との遭遇……と思いながら、彼女等と目を合わせないように個室に入って、音を出さないように長い長い長ーい溜め息を吐いた。
なんで胸元に影を作るのだ……可愛いを作るにも限度があるし、なによりそんなの脱げばバレてしまうし、最悪な場合訴えられる。
オリンピアにしたって、なんでそんなに白粉をはたくのか分からない。そんなことしなくても可愛いのに。
けれど。
これこそがステラに対して、酔っ払い(仮名)さんが「バ(バア)」と言いかける思考なのかも知れない。
ステラは自分のことを『バ』で始まって『ア』で終わる存在だなんて思わないが、若い子達からしたらそう見えるのだろう。
ステラはどんより項垂れた。
しんどい。
もう帰ってしまおうか。
いや、でも……と何回か心の中の自分と話し合いをし、結局ステラは思い切って帰ることにした。
丁度いいことにオリンピアも近くにいるし、化粧に夢中な年下の友人に「帰るね」って軽く挨拶をすればいいのだ。
よし、そうしよう。
ステラは、決意を固めて個室から出た。
帰れなかった。
ステラはあの後、オリンピアに捕獲されて唇に何やらべたべたするものを塗られたり、睫毛を上げられたり……なんか色々された。
途中からオリンピアの隣で谷間を描いていた女性もステラの『可愛いを作る』に参加してきて、ステラには谷間が描かれた。
え、なんで?????
そんなこんなで頭に疑問符を百個くらい付けているステラは、会場の壁際に再度舞い戻っていた。
オリンピアときたらまたステラを置いて何処かに行ってしまったし、どうしたものかと思っていると、花を摘みに行く前に話したグループの一人から声がかかり、ステラは完全に帰るタイミングを失ってしまった。
「おっそいなあ、あの人。まだ来ないのか」
「もう時間も時間だし、来ないかもよ」
会話をしている二人に耳を傾けていると、「どうぞ」とスタッフの人にカクテルを手渡された。
お酒というよりジュースみたいな色だと思っている中、会話がBGM代わりに耳に入ってくる。
どうやら先ほど聞いた『あの人』の話をしているようだ。
「でも今日は『絶対来てください』って、俺ちゃんと言ったんだけどなあ」
「『絶対来る』って本人が言ったわけじゃないなら難しいんじゃないの?」
「あの人、最近ようやく仕事が落ち着いたって言ったから来ると思ったんだけどなあ」
「ヒューゴさんに限らず、『行けたら行く』は断りの常套句でしょ」
「まあ、そうなんだけど」
──ヒューゴ。
その名前を聞いた刹那、ステラの肩がびくりと反応した。
珍しい名前ではない。
広い帝都だ、同じ名前の人なんて何人もいる。
でも。
だけど。
もしかしたら。
今日ここに来る『あの人』がヒューゴという名前で、その人はもしかしてステラの知っている人なのかも知れない。
心臓が痛いくらい鳴って苦しい。
どうか、ラストネームを言ってほしい。
心臓をばくばくさせて聞き耳を立てていると、異様に喉が渇いてしまい手の中のカクテルを一気に飲んでしまった。
けれど全然酔いは回ってない。
むしろ頭が冴えてきている気がする。
「あ、あの……」
「何?」
「『あの人』って、もしかして、キ、キ、キングストンさんですか? ヒューゴ・キングストン……」
お酒って凄い。
しかし、ステラがこれでもかと勇気を搔き集めて言った質問の返事は、とても軽いものだった。
「あれ、言ってなかったっけー? うん、そうだよー」
◇
「無理無理無理……」
ステラはまたまた女子トイレの個室で項垂れていた。
来るか分からないのに悩んだって仕方がないのに、ステラは悩んでいる。
会いたいけど、会いたくない。
初恋を拗らせた女とはかくも面倒な生き物である。
その例が、ステラだ。
「帰る。もう今度こそ、帰る……絶対帰る。本当に帰る……っ!」
オリンピアはどこにいるか分からないし、一緒に帰るわけではないのだ。
このことをもっと早く気が付けば良かった。
ステラなんて地味だし、こそこそせずに普通に出口から帰ったって誰も気付きやしない。
ステラはトイレの個室を出て、宴もたけなわな会場を横目に斜め下を見ながら出口を目指した。
途中で声をかけられたりもしたが、オリンピアの真似をして「また今度ね」と笑って上手くかわすことができた。
そうだ、ステラだってやればできるのだ。大人だもの。
「お帰りですか?」
「はい」
「どうぞ」
スタッフにドアを開けられたステラは一歩足を踏み出した途端、ドンッと固い壁にぶつかった。
「あうっ!」
ステラは鼻をぶつけた。
凄く痛い。
絶対、折れた(折れてない)。
「失礼しました。大丈夫ですか?」
頭の上から降って来た声に、ステラは自分がぶつかったのが壁でなく背の高い男性だと気付く。
こちらはぶつかって鼻に大ダメージを受けてよろけているのに、あちらはノーダメージのようだ。
恥ずかしいので、さっさと謝って退散すべし。
「いえ、大丈夫です。申し訳、」
顔を上げて言った「ありませんでした」という言葉は果たして音になっていただろうか。
「あ」
麦穂の──
「……ステラ?」
「あ、あのぅ……」
出入り口で固まって見つめ合っている二人に、申し訳なさそうな遠慮した声がかかり、ステラはハッとして横に逸れると、がしっと腕を掴まれて外へ引っ張られた。
ステラの「え」と言う声と、数人の「えええ!?」という驚きの声が綺麗に重なる。
「ヒューゴさん!」とか「キングストン様」とか彼を呼ぶ声を背に、彼はずんずん歩く──ステラの腕を掴んだまま。
「ね、ねえ、待ってっ」
足の長さの差だろう、彼にとっては早歩きでもステラにとっては駆け足だ。
息が上がる中、彼に「待って」「止まって」と言うのだが全然止まってくれない。
「お願い! 待ってっ!」
もう何度目かの呼びかけで彼がぴたりと止まったのは、待ち合わせに使用されることが多い広場の時計台の下だった。
時間も時間なので時計台の下には二人以外誰もいない。
「ステラ……ステラ、だよね?」
「う、うん」
改めて向かい合うと、掴まれていた腕の力が緩んだ。
「俺のこと分かる?」
「分かるよ、ヒューゴ君。……久しぶり……」
「……久しぶり。ごめん、引っ張って。痛くなかった?」
「うん、大丈夫、だよ、痛く、ない」
呼吸が苦しくて、言葉が途切れ途切れになってしまう。
鼓動の動きが激しいのは引っ張られたことだけが原因ではない。
「ステラ」
青みがかった灰色のスリーピーススーツ姿の彼は、ステラの知っているあの頃の『麦穂の妖精』と違って見えた。
彼は当時から背は高かったけれど、どちらかというと線が細い『美少年』という感じだったし顔だけだったら遠目で『美少女』に見えるような人だった。
だけど、今、この時、彼を女性だと思う人はいないだろう。
正真正銘、彼は大人の男性だ。
「……いつから?」
「え? いつからって?」
「ステラはいつから帝都に?」
「え、えっと、一年前、かな」
「なんで」
「父と継母の最期を看取って、帝都で就職しようと思って、」
「就職って、どこで?」
「帝国立大図書館で、」
古典文学Ⅳの担当を、と続けようとしているところで掴まれた腕を引き寄せられて距離が近くなった。
「指輪はしてないけど……ステラは、結婚してたりする?」
「し、してない」
首を左右に振ると、「だったら婚約者は? それか恋人は?」と矢継に質問され、ステラはまた首を横に振った。
「そんな人、いない」
「じゃあ、好きな男は?」
「え」
「いるの?」
「……」
──目の前にいる。
「いるのか……」
彼の質問の意味が分からないし、なんならこの急展開も分からない。
しかもとても距離が近し、飲み慣れないアルコールのせいか首を振り過ぎたせいか、くらくらというよりぐらぐらしてきたタイミングで背中に手を回された。
「ステラ、好きだ。……お願いだから、その男のことは諦めて」
「……私、」
「俺を選んで。絶対後悔させないから……」
耳元で囁かれた言葉は、とても切実な声だった。
彼がステラなんかにこんなことを言うのは信じられないが、この声を聞いて嘘だと思うことはできなかった。
それくらい真剣で、切羽詰まっていて、断られることを恐れているような声だった。
「私も……ずっと、ヒューゴ君のことが好きだったの……」
ぶわっと目に水滴が一気に溜って零れながらも、必死で伝えると彼のステラを抱き締める力が強くなっていく。
高級そうなスーツの布地に涙が吸い込まれていくのが申し訳なくなって、それを言って離れようとしたが「もう少しだけ」と懇願するように言われてしまい、しばらく彼の腕の中にいることになった。
人に抱き締められるなんて、本当に久しぶりだ。
小さい頃にそうされていた記憶はあるのかさえも曖昧だし、学生時代女子同士のじゃれ合いで抱き着いたり抱き着かれたりがあった程度で、異性にこんな風に腕の中に囲われることは人生で初の経験だった。
しかし、素敵な経験は長く続かなかった。
「う」
「『う』?」
「気持ち悪い……」
「ステラ?」
「は、吐きそう」
「えっ」
ステラは慣れない飲酒をしたことに加え、夢みたいな出来事にどきどきし過ぎた結果、気分が悪くなってしまったのだ。
こんな再会、あんまりだ。
ステラはヒューゴに背中を擦られながら神を恨んだ。