第二話 約束
最終学年の秋口、帝都にある大手出版社に就職することが決まった。
ステラの高い翻訳力と書く文字の美しさが評価され内定したと、厳しくて有名な学年主任教諭を通じて連絡をもらった時は、柄にもなく飛び跳ねて喜んだ。
誰かにずっと必要だと思われたかったステラは、その言葉がとても嬉しかった。
いの一番に報告したかったのは、もちろん彼だ。
名家出身の彼は帝都銀行に就職が決まっていて、数年間、社会で経験を積んでから家業を継ぐと聞いていたので、ステラが就職が決まったと話をしても問題ないだろうという気持ちと共に、ステラを祝って喜んでほしいという気持ちがあった。
案の定。いや、彼の反応は予想以上だった。
『ステラ、おめでとう』
彼は相好を崩して、ステラを褒め称えた。
そして──
『あのさ、卒業後も今みたいに……』
珍しく言いにくそうに言葉を発する彼に、首を傾げると『会いたいんだ』と耳を赤くして言われた。
『もし、ステラが嫌じゃなかったら』
ステラは、取り繕うこともできずに、満面の笑みで何度も頷いた。
『……私も、会いたい』
たくさんの知識に富んでいて才がある彼のものの見方は面白く、彼と話すとあっという間に時間が過ぎた。
王子様なんて言われてるのはいわゆる外面というもので、彼は明るくてゲラゲラと声を上げて笑う普通の男の子だった。
そんな姿を、『親しい奴にしか見せないんだけど』と言われたステラは有頂天だったと言ってもいい。
いつも人に囲まれる彼は笑顔で楽し気だったから、第三蔵書室が一番落ち着くと聞いた時、心臓が物凄い稼働力を見せた。
恋だった。
初恋だ。
卒業式の日に、思い切って告おう。
内定がほぼ決まったオルトン学園の生徒達の間では、空前の告白ブームが起こっており、ステラも漏れなくその熱に浮かされた。
でも、ステラの熱は早々に冷めた。
彼はとてつもなく人気があり、色んな女の子達が告白し──そして玉砕していたからだ。
学年で三番目に美人とされているジャネット・スウェインや、マドンナのバーバラ・ミラー。一つ年下の解語之花と呼ばれるローラ・ルーズベルト、可愛いと評判のキャロル・ベーコン……。
その堂々たるメンバーを全員断ったらしい。
他にも女学校の生徒や、年上の女性からも、という噂があった。
なんでも彼は胸の大きいお嬢様タイプの女の子が好きだそうで、クラスの女子に他愛もない噂話としてそれを聞いた時、ステラの希望はぺっしゃんこに潰れた。
友達のままでいい。
友達だったら、ずっと一緒にいられるから。
◇◇◇
思い返せば、あの頃がステラの人生の中で一番キラキラしていた。
卒業しても、また会える。
たった一つの小さな約束は、ステラをこの上なく幸せにした。
しかし、それが叶うことはなかった。
あの約束をしてしばらく経ったある日、ステラは担任教諭に呼ばれた。
『落ち着いて聞いてくださいね』
いつもはのほほんとして気の優しい男性教諭が続ける言葉に、ステラは何を思ったのだろう。
十八歳になったばかりの自分があの時何を思ったかを、二十六歳のステラは思い出すことができない。
家族が事故に遭って──大怪我をしてるそうだ──早く行ってあげなさい──気をしっかり持って──
教諭をはじめとした、寮母やルームメイトの心配そうな声は、まるで水の中で聞くようだった。
ステラは言われるがまま指定された病院に向かい、そこで顔にガーゼを貼っている泣き腫らした顔の継母と、死にかけの父と義弟に対面した。
なんでも、家族水入らずで旅行に行った帰りに事故に遭ったそうだ。
泣き叫び、父と義弟に縋りつく継母を残し、警邏隊とたまたま居合わせて救助を手伝ったという軍人の青年に話を聞く為に部屋を出ようとした時、継母はステラに『あんたのせいだ』と叫んだ。
意味が分からなかった──後に、義弟がステラにお土産を買いたいと言って帰宅の時間を変更した為に遭遇した事故だったと知る。
何も言わないで固まったままのステラに、継母はステラが人生で一度も聞いたことがない酷い言葉をいくつも投げた。
ステラはそれをただぼんやりと聞き、頬を張られたところで誰かに庇われ部屋を出た。
人間、理不尽なことを言われた時、言い返せないのだと今なら分かる。
そうでなくても、ステラは十八歳の小娘で、やり返す術を知らなかった。
でも、もし時間が戻ったとしてもステラは言い返したりできなかっただろう。
その後。父はなんとか命を繋いだが、義弟は息を引き取った。
一度だけ、継母の目を盗んで義弟の小さな手を握った日のことを今でもステラは鮮明に覚えている。
柔らかくて甘い匂いがする、愛される為に生まれた尊い存在だった。
それからはもう怒涛の日々だった。
ただ泣いて、悲しむことしか出来ない継母の代わりにステラはあちらこちらへ駆け回った。
そして多忙の中、学園の卒業を諦めかけたステラは、学園側のサポートによりそれを免れた。
学園生活もあと二か月といったところで、内定のある卒業生は自由登校だったことが救いだった。
彼には会えないが、卒業式には絶対に間に合わせる。
そんな気持ちでステラは手続きや父の世話をしながら継母の罵詈雑言に耐えた。
だが卒業式に行くことはできなかった。
将来を悲観し、息子を亡くした喪失感から継母が自殺を図ったのだ。
卒業式の二日前のできごとだった。
結果。
ステラは辛うじて生きている父と、自殺未遂をした身寄りがない継母の為に物価や生活費が高い帝都で働くことを諦めた。
そして家で二人の世話をする為に、翻訳の仕事をしながら若くして親の介護をすることになった。
父の世話は慣れてしまえば作業だった。
何か言いたげな目で見つめられ、ステラは言葉を待ったが……父がステラに何か言うことはなかった。
一言でよかったのに、それすらも父はステラにくれなかった。
継母の世話は耳に綿を詰めながら行った。そうでもしなければ、ステラが壊れる気がしたから。
産みの母は当然、手紙どころかただの一度も会いに来ることはなかった。
たまにステラは自分を慰める為に、少女じみた想像をした。
卒業したら、彼と帝都のどこかで待ち合わせることになって、友人だから食事に行くこともあったりして、二人で読んだ古典文学について解釈をああでもないこうでもないと話をしたりなんかして、それで、それからそれから……。
でもそれも上手くできなかった。
想像している途中で、ヒステリックな声がステラを現実に引き戻した。
過去に、ステラを愛していると言ってくれる奇特な男性も二人ほどいた。
でも、両親のことを知るや否や脱兎のごとく逃げ出した。
気持ちは分かるが酷く傷付いた。
あの二人を捨ててしまえば……何度も思った。でも、できなかった。
それは、ステラが優しいからではない。
ただそれをする勇気が、ステラにはなかった。
ゆっくり目を開くと、天井窓の向こうにある空がうっすら赤みを帯びていた。
どうやら眠っていたらしい。
父と継母の葬儀を終えて、帝都に出る為に準備していたせいでまともに眠っていなかったからだろうか。
椅子から立ち上がると、司書に言いにくそうに「閉館です」と言われ、慌てて謝罪し第三蔵書室を出た。
すっかり感傷に浸ったまま、夕日の帝都を歩く。
街中はステラの記憶とはかなり様変わりしていて、記憶と同じところを見つけては安堵した。
学園で流行っていた文房具屋を見かけた時は、思わず口角が上がった。
彼が持っている群青色のインクのペンが欲しくて、探した記憶がセットで思い出される。
あの青色ほど素敵な色はなかったと、今でも思うがきっとそれは美化されたせいだろうと自分に言い聞かせて文房具屋に入った。
美し過ぎる思い出というのもまた厄介なものだ。
眩しくて堪らない。
だけど思い出さずにはいられない。
ステラは普通の黒インクのペンを購入してから、荷解きが終わっていない新居である安アパートに足を動かす。
八年ぶりに、ステラの中で止まっていた時間が動き出した。