第一話 八年ぶりの帝都
八年ぶりに帰ってきた帝都で、ステラが一番最初に向かったのは十三歳から十八歳まで過ごした母校だった。
超難関名門校と名高い帝国立オルトン学園、優秀な人材を育成する帝国一の学び舎。
ステラはそこの総合語学部に所属していた。
総合語学部の授業は、生徒が自分が興味を持った言語を学べるコマがあり、他の学部よりほんの少しだけ自由が利いた。
ステラは人気のある外国語ではなく、古典文学と古語に強く興味を惹かれた。
昔の言葉の魅力を、ステラはいまだに上手く語れない。ただただ、好きだと思った。
難解な文字に加え複雑な文法に回りくどい言い回し。それなのにどこか繊細に思わせるそれは、ステラを夢中にさせた。
「卒業生なのですが、見学はできますか?」
ステラが門番の男に卒業年と氏名を名乗ると、学生課に行くように指示された。
礼を言ってから愛想の無い門番に背を向ける。
休日の為か、生徒の数が極端に少ない。
ステラを遠巻きに見ている女生徒の視線を感じてこっそり見返せば、着崩していない制服と真面目そうな容姿に親近感を覚えた。
リボンの色を確認すると「三年生」と小さく声が零れ出たが、これはまったくの無意識だった。
学生課で来賓用のスリッパと首から下げる証明カードを受け取り、台帳に氏名を記入してからステラがやってきたのは学園の第三蔵書室だった。
ひんやりした空気と本の匂いに、瞬間、懐かしさで堪らなくなって泣きだしたくなった。
生徒は一人も見当たらず、司書が離れたところに一人ぽつんと読書をしながら微睡んでいるのを見て、ステラは目的の場所に足を動かした。
一人がけの肘置き付きの赤い椅子。
あの頃、ステラがお気に入りだった椅子はまだそこに在た。
ほう、と安堵に似た溜め息を一つ落としてからステラはゆっくり椅子に腰掛け、目を閉じる。
『アール・B・ローレンの古語読解書だね』
まるで昨日のように思い出せる声は、やたらに美化され……とても甘やかに脳内で再生された。
人は声から忘れるとは言うが、ステラにとってそれは当てはまらないようだ。
だって、今でも鮮明に覚えている。
ふわりと甘くて、ところどころ苦い、青春の記憶の海にステラは浸かる為、背もたれに体を預けた。
◇◇◇
『その本、読んでるの俺だけだと思ってた』
とても嬉しそうな声だった。
と思うが、もしかしたらステラの願望がそう思わせていたのかも知れない。
第三蔵書室の天井窓から溢れる光が、小さく舞っている埃を煌めかせる。
そして、その中に学園で知らぬ者がいないとされるヒューゴ・キングストンがステラに淡く微笑んでいた。
──麦穂の妖精。
煌めく金の髪と花萌黄の瞳の持ち主である彼を前に、ステラの心臓は早鐘を打った。
学園の女生徒達は恋愛小説を読む時、王子様を頭の中できっと彼に置き換えて想像するだろう。
整った甘い顔立ちの彼は、今が貴族制度があった時代だったのならば、きっとステラがこうして話をすることを許されない立場にいる人だ。
『ねえ。それ、あとどれくらいで読み終わる?』
手に持っている本を目で指され、ステラは慌てて椅子から立ち上がり、『どうぞ』と読んでいた本を彼に差し出した。
声が掠れてしまい、顔がかっと熱くなる。
『え?』
『あっあの、私はもう二周しているので……』
本当は二周どころか二十周しているのだが、咄嗟に嘘を吐いた。
二十周もしただなんて、ちょっと恥ずかしい。
だって、そんなのオタクみたいではないか(オタクである)。
というより、目の前にいるのが学園で一軍のてっぺんに君臨する男子だったので、頭の中がショート寸前だ。
一体なんで、どうして、こんなところに彼がいるのか理解できない。
『ああ、違うんだ。貸して欲しいって意味じゃなくて』
え、とステラが伏せていた目線を上げると『話がしたくて』と言われ、息が止まりそうになった。
◇
『これは、どういう内容の詩?』
とん、と長い指で差されたのはステラが一等好きな難解古典の詩集のうちの一篇だった。
『め、女神が恋人を、ゆ、誘惑、する、詩』
誘惑という単語に異様にどきまぎしてしまってステラの舌が縺れる。
『ちょっと訳してくれない?』
『む、無理……』
いや、正しく訳して読めるのだが……やっぱり読めない。
どうか、どっちなんだというツッコミは入れないでほしい。
異性に免疫のない十四歳のステラに、愛の詩の朗読なんて無理だ。ただでさえ、普段から男子とほとんど話すことなんてないのに。
ステラが顔を真っ赤にして言うと、学園の王子様……もといヒューゴ・キングストン氏は、彼に似つかわしくないニヤリと音がしそうな笑みを浮かべて『残念』と、ちっとも残念そうでない様子で呟いた。
意地が悪い人だ。きっと彼はステラが訳さなくてもすらすら読めていたに違いない。
……でも、憎めない。
ステラが拗ねてぷいっと顔を背けると、機嫌を取るように顔を覗き込んでくるので、いつもすぐに許してしまう。
彼と仲良くなり半年ほど経った第三蔵書室の一角で、二人は週に何回か会うようになっていた。
ちなみにステラはほぼ毎日放課後はこの場所に来て、お気に入りの赤い椅子に座っている。
第三蔵書室は、マイナーな古語の本や翻訳前の原本があり、ステラにとっては宝箱の中のような場所だが、他の生徒にはてんで人気がない。
彼はあの日、ステラに『古語を教えてほしい』と言って、ステラが首を縦に振って以来、こうしてふらりとステラの元へとやってくる。
が。
ステラはまともに彼に古語講習などした日はない。
これはステラが原因ではない。彼のせいだ。
いつもふざけて、ステラを揶揄って、そしてお喋りをする。
それにだ。
そもそも、素晴らしいお頭をお持ちの彼は古語をステラから教わらなくてもまったく問題はない。
『ヒューゴ君ってさ』
『うん』
『第一印象と違うって言われるでしょ』
『……さあ、どうかな』
『もう』
同い年なのに、年上のように感じていた彼は案外話せばそんなことはなく年相応の男の子だった。
『がっかりした?』
『してないよ。でも、ちょっと意地悪だと思う』
そう言ったステラに、彼は声を出して笑った。
◇◇◇
あの頃のステラは早く大人になりたくて、でもなれない……なんて青臭い思想を持っていた。
早く卒業して、就職して、親の庇護下から抜け出して、生まれ育った家を捨てたいとただそれだけを願っていた。
家を出る為に寮がある学び舎を選んだステラは将来、五年間の学費を返すという約束をしてオルトン学園に入った。
ステラが家を出たかった理由はいたってシンプルだ、家族と暮らしたくないからである。
もっと詳しく言えば、継母と暮らすことが嫌だったからだ。
特段珍しい話でもない。
若さと勢いで結婚した両親が別れ、母が恋人と家を出ていき、ある日父が腹が膨らんだ若い女を家に連れてきて、「お前の新しい母さんだ」と紹介してきたというだけの話だ。
物語同様、もちろん。継母はステラにとんでもなく意地悪で、父はステラの目を真っ直ぐ見なくなり、弟が生まれ、前妻の娘であるステラは家に居場所がなくなった。
だが、産みの母の元にも行く気はなかった。
当然だ。あれは、母という生き物ではない。
そして、父が連れてきた女もステラにとって母ではなかった。
少女時代、ただじっと息を潜めるようにして大人になるのを待っていたことを思い出し、ステラの胸がじくじく痛む。
傷はいつだって容赦なく開く。
癒えたと思っていても、思いがけないところで傷跡を無遠慮にほじくられて血が吹き出す。
大人になれたはずだと思う一方、まだなれていないのかも知れないとも思う。
大人になったというよりも、そのふりをしているという感覚の方が近い、とも。
世にいる大人と呼ばれる人達も、もしかしたらそうなのだろうか。
きらきらした宝箱の中、ステラは記憶の中の彼を想った。
あの頃に戻れるはずもないのに、それを望んでしまう自分を惨めだとは思いたくなかった。