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わたしのこと、好きにしていいよ

作者: 藤崎珠里

「わたしのこと、好きにしていいよ」


 そんな言葉を聞いたら、この世の健全な男子高校生の何割がアレなことを考えるだろう。アレとはつまり……その、高校生はまだ見れないようなやつ。


 それはさておき、とりあえず。

 俺は言われたとおり、好きにすることにした。


「じゃあ今から俺んち来てよ。うちの親、仕事で夜いないんだよね」


 にっこり笑ってみせれば、彼女――クラスメイトの碧山(あおやま)ようは、感情のわからない笑顔のまま了承を返してきた。



     * * *



 お世辞にも小綺麗とさえ言えないおじさんに、知り合いの女の子が無理やり引っ張られていたら誰だって助けると思う。その行先にホテルがあったらなおさら。

 ……いや、今のはおじさんに対して悪意があったな。イケメンなお兄さんでも一緒の話だった。


 助ける、とは言っても、やったことといえば警察を呼ぶフリをして二人の前に飛び出しただけ。

 運良く少しは、本当に少しは、砂粒ひと粒くらいは良識のあるおじさんだったらしく、たったそれだけで碧山さんの手を離して逃げていったのだった。


 そうして俺は、沈黙が痛い、というのを生まれて初めてひしひしと感じている。

 いや……きっまず。なんだこれ。

 助けなきゃよかった、とはまったく思わないが、なんで俺睨まれてんだ? とは思う。ほんとになんで?

 本音を言えば、さっさと家に帰りたい。でももう日が暮れているし、アレなホテルは近いし、こんな場所に女の子を一人置き去りにするというのも問題だ。


「あー……大丈夫?」


 なんにも気の利いた言葉が出てこなかった俺に、碧山さんの視線がさらに険しくなる。


「……なんで邪魔したの」

「えっ、お邪魔した!? ごめん、嫌がってそうに見えて……さっきの人探して連れてくる!?」


 マジか!! あれで合意だったんだ!?

 予想外すぎて変な提案をしてしまった。もしこれで本当に連れてきてと言われたって、影も形も見えなくなったあのおっさんを探し出すのは不可能に近い。そもそも顔忘れた。興味ないことをソッコーで忘れられるのが特技です。


 碧山さんはため息をついて、言葉を探すように数回口を開け閉めする。


「…………いや、今回は助かった。さすがにアレは嫌だったから」

「お、おう」


 これはあんま突っ込んじゃダメなやつ。

 俺と碧山さんって、別に仲いいわけでもないしな。むしろ仲が虚無。同じクラスの赤の他人って感じ。……そういや今日までまともに話したこともなかったわ。

 と、そこまで考えたら気になることが出てくる。


「話めっちゃ変えるんだけど、碧山さんって俺のことわかる? 同じクラスの佐藤なんだけど」

「さすがにクラスメイトくらい把握してる。芝木(しばき)くんでしょ」

「おわあ、ちゃんと知ってた。なんか感動」


 会話が終わる。……う、うーん、この空気で会話がぶちっと終わっちゃうと、コミュ障の俺はもうどうしたらいいのかわからなくなる。

 心底困って立ち尽くしていると、碧山さんは品定めをするように俺のことをじろじろと見てきた。


「……まあ、今日はいっか」

「うん? 何が?」

「いや、なんでも」


 こういうのは大抵なんでもなくないんだよなー、やだなぁ、なんかやな予感するなぁ。俺の嫌な予感は九割九分外れるので今回も外れててほしいな。

 しかし残念ながら、今回は一分のほうが当たってしまったらしい。


 ねえ、芝木くん、と怖いくらいに愛想のいい顔で、碧山さんは俺を呼んだ。



「助けてくれたお礼にさ、――わたしのこと、好きにしていいよ」




 そして、冒頭に戻る。



 ついてきて、と言って歩き出せば、碧山さんは大人しくついてきた。

 俺の家はそういうホテルから徒歩三分のところにあるマンションなのだった。そうじゃなきゃ、ホテルに連れ込まれそうになるところに偶然出会す、なんてなかっただろう。


「あっ、大事なこと確認するの忘れてた。動物アレルギーあったりする?」

「……平気だけど」

「よかったー」


 会話はまた終わる。

 さっきの愛想のいい顔はなんだったんだろうか。今こんなに愛想が悪かったら意味ないと思うんだけど……。何考えてるのかわかんないな、碧山さん。

 碧山さんはクラスでもそんな感じだった。よくわからないひと、という意味で。

 誰かと仲がいいわけでもなく、かといって浮いているわけでもなく。いい意味で、空気のように教室に存在している。

 一匹狼、と呼ぶほどではないのに、そんな言葉が似合う人だ。


 ――ああいうこと、よくやってるの?


 そう訊いてしまいたくなるのを、ぐっと堪える。それはきっと、俺なんかが訊いていいものじゃない。

 なのに碧山さんは、逆に訊いてきた。


「気にならないの、さっきのこと」

「……気になるけど、碧山さんは話したい?」

「別に、どっちでも」

「じゃあきっと、話さないほうがいいよ」

「……まあ、聞かないほうがヤりやすいだろうしね」


 何を。と口に出すのは藪蛇だろうから呑み込む。ちょうどマンション前に着いたし。

 エントランスに入っていく俺に、かすかに驚いた気配がする。


「ここなの?」

「ホテル近すぎてビビるでしょ。ホテル入ってく人たちが窓から見えちゃうから、結構気まずいんだよね」


 そんな会話をしながら、三階にある部屋へ向かう。

 鍵を開けてドアを開け――途端に見えた白いふわふわな生き物に、顔がでれっと崩れた。

「キャンキャン!」と鳴きながら、玄関の柵の向こうで動き回っているそれ。フローリングをかつかつかつかつと小刻みに鳴らす足音すら可愛い。ふりっふりしてるしっぽは言わずもがな。


「ただいまかぶちゃん!! いい子にしてた~?」


 でろんでろんに甘い声を出したら、斜め後ろにいた碧山さんがドアを開けたままぎょっとした。引かれたっていい、この子を可愛がらないほうが問題なので。

 真っ白ふわふわまんまるな、まだ一歳にもなっていないポメラニアン。

 地球上で最も可愛い存在であるその子は、元気いっぱいに鳴きながら全身で喜びを表していた。はあああ可愛い~~!


「今日はお姉さんもいるから、いっぱい遊んでもらえるよ!」

「は?」

「あっははは、足滑っちゃってるじゃん、はしゃぎすぎ! 可愛いねぇ」

「……」

「あ、碧山さん、ドア閉めて。鍵はかけたくなかったらそのままでいいから!」

「え、っと、」

「かぶちゃん、もうちょっとで開けてあげるね! 碧山さん、かぶちゃん待ってるから……あっ、もしかして犬嫌いだったりした?」

「いや……好きだけど……」

「ならよかった!」


 戸惑ったように、碧山さんはドアを閉めてくれる。よし、これで脱走の心配もなし!


「お待たせかぶちゃん!」


 柵を開けるとすぐに、キャンキャンキャンキャン、ハァハァ、と忙しなく鳴きながら俺の足元にまとわりつく。これをやられると延々にただいま!!! と言いたくなってしまうからちょっとだけ困る。

 手を洗わないと撫でまわせないので、俺は「こっち」と碧山さんを案内しながら洗面所に向かった。

 手洗いうがいをしっかりとして、ついでにかぶちゃんに舐められてもいいように顔も洗う。


「碧山さんも手洗ってくれる?」

「……」


 困惑しきりの碧山さんは、無言で従ってくれた。出したばかりのタオルを渡せば、ちょっとためらった後手を拭いてくれる。

 それを見届け、リビングに移動してから、いざ! と可愛いかぶちゃんに向き直る。しゃがみこめばすぐに俺の膝に足をのせ、顔中をぺろぺろぺろぺろ舐めてくるものだから、ふふふふっと笑いが漏れてしまう。


「よーしよし、そんな嬉しいか~! おまえ可愛いなぁ。なんでそんな可愛いの? かぶちゃんだからだよねぇ、可愛いねぇ、いい子だねぇ。……あっ、待って待ってかぶちゃん、うれしょんしたな!? めっ!! いや嬉しいのはよかったね、知らない人がいてテンション上がるのもわかるけど、ちゃんとおしっこはおトイレでしなさい!!!」


 叱られてもただ構ってくれていると思うのか、「キャン! アウアウ!」とキラッキラなお目目ではしゃいでいるままだった。仕方がないのでむぎゅーっと抱っこして腕の中に閉じ込める。フローリングの上でよかった!


「ごめん碧山さん、あっちのテーブルの上にウェットティッシュあるから取ってきてくれない!?」

「……ウン」


 ぎこちなくうなずいた碧山さん。間もなく持ってきてくれたウェットティッシュで床を拭いて、ついでにもう一枚出しておしっこがついてそうな毛をわしゃっと拭いてやる。

 それでも千切れんばかりにしっぽが振られているのだから、どうしたって顔面が崩壊する。何をしてても可愛いってすごい。


「……あの、芝木くん?」

「うん?」

「ないとは思うんだけど、もしかして」


 碧山さんにしては珍しく(と言えるほど俺は彼女のことを知らないけど)口ごもりながら、どことなく困ったように首を傾げる。



「……なんもヤらない、つもりだったりする?」



「……碧山さん、パス」

「え、わっ、きゃ!?」

「そうそう、そこ支えたげて」


 ぐいっとかぶちゃんを押しつければ、流されたように受け取ってくれる碧山さん。

 おっかなびっくり抱っこに成功した彼女は、途方に暮れた目でかぶちゃんと俺を交互に見た。かぶちゃんがはしゃいでバランスが崩れそうになったり、思い切り舐められそうになったりするたびに「わ……わっ」と小さく悲鳴を上げている。


「ちょ、ちょっと芝木くん? なんなの、わたしに何させたいの」

「好きにしてって言われたから好きにさせてもらうところ。具体的には、かぶちゃんの可愛さを共有しながら元気になってもらおうと思って」

「は?」


 心底理解できない、という顔をされた。


 ……まあ確かに、「好きにしていいよ」とか言われたら、普通思いつくのはほにゃららをやるとかやらないとかそっち方面のことだ。

 ただのクラスメイトに対して実行する人はほぼいないだろうけども。いるとしたら相当クズだと思う。


 それでも言われてすぐにあんなふうに家に誘ったのは、俺がクズ側の奴だと誤解してもらうため。あそこでストレートに断ったら、じゃあいい、と他の人を当たりそうな気がしたから。

 心配なんて、余計なお世話だろう。知らないおっさんと何かをすることで与えられるものもあるんだろうし。

 そうはわかっていてもやっぱり、家に連れ込まないという選択肢は俺にはなかったのだった。


「元気ないときはアニマルセラピーが一番だろ。ってわけで、かぶちゃんといっぱい遊んで!」

「かぶちゃん……」


 微妙な表情で、碧山さんは腕の中のかぶちゃんを見下ろす。こんなきらっきらくりっくりお目目で見られてそんな顔できるとかどうなってるんだ!?


「フルネームはカブトムシ・クワガタ」

「は?」

「俺のかぁわいい甥っ子命名」


 今年四歳になる最高に可愛い甥っ子の、最高にカッコいい命名だ。たぶん大きくなったら、なんでそのまま採用した!? と俺たち家族の理解不能さに恐れ慄くと思う。

 唖然としていた碧山さんは、しばらくして我に返ったように眉根を寄せる。その間もかぶちゃんは嬉しそ~にしっぽを振りまくっていた。


「……っていうか、元気ないときって何? わたしの元気ないとかわかるの? 芝木くんに?」


 言外に、お前なんかに? と言われているのだろう。俺は碧山さんがどんな子かも、どんな事情があるかも何も知らないから。


「まあホントは元気あるとしてもさ、好きにしていいよって言ったんだし付き合ってよ。俺は碧山さんに何かするより、かぶちゃんがはしゃいでるところ見るほうがいい」

「芝木くんって童貞?」

「女の子がこの状況でその単語言っちゃダメでしょって思うくらいには、そうだよ」


 苦虫を噛み潰したような顔、というのをリアルで初めて見た。

 つい笑ってしまうと、かぶちゃんが「たのしいことあったの!? なになに!」って感じに碧山さんの腕の中から飛び出し(飛び出したがっているのを察した碧山さんは、ちゃんとかぶちゃんが降りやすいようにしゃがんでくれた)、ぽーん! とボールみたいに俺にぶつかってくる。可愛い。

 かぶちゃんを床に転がしてわっしゃわしゃに毛をかき混ぜてやる。ふわふわの毛に変なクセをつけて、「どう? 可愛くない?」と碧山さんに視線を向ければ、彼女はいまだ渋い顔で同意してくれた。


「そうだ、碧山さん、あそこに落ちてるぬいぐるみ拾ってあげて。持った途端かぶちゃん突っ込んでくると思うから気をつけてね」

「……ん」


 カーペットの上にぽつんと落ちているぬいぐるみは、かぶちゃんお気に入りのねずみのやつだ。黒くて丸い耳の。

 碧山さんがそれを持ち上げた途端、遊んでくれると理解したかぶちゃんが一目散に飛んでいく。


「投げてもいいけど、引っ張り合いも好きだからよければ付き合ってあげて」

「…………うん」


 碧山さんはそっとかぶちゃんにぬいぐるみを差し出す。その慎重さとは対照的に、かぶちゃんは元気よく大胆にぬいぐるみをくわえて引っ張った――せいで、あっさりと碧山さんの手からすっぽ抜けてしまう。

 きょとんとするかぶちゃんと、「あ……」とちょっと焦る碧山さん。


「がんばれがんばれー、弱いって思われたらナメられちゃうからね」

「え、こんなことで!?」

「ちびっこい犬にとってはそれが世界の真理みたいなものだから」


 テキトーなことを言いながら、ごそごそキッチンの収納を漁る。よし、お菓子いろいろある。ついでにかぶちゃんにおやつあげよ。

 今度こそ引っ張り合いに成功しているふたりを微笑ましく見守りつつ、リビングのテーブルにスナック菓子をばーっと広がる。


「碧山さん、菓子パやろ」

「は?」


 今日だけで何回碧山さんの「は?」を聞いただろう。


「俺だったら、の話だけど、犬と遊んでお菓子いっぱい食べたら、もうなんだってよくなるから。好きなの食べていいよ。あ、飲み物何がいい? 麦茶? 紅茶? あとはコーヒー、オレンジジュース、水、牛乳、緑茶……くらいだけど」

「……水」

「はぁい。コップどうする? 他人の家のコップ使いづらかったら、紙コップもあるよ」

「手間じゃないほうで」


 どっちも大した手間じゃないので、ちょっと考えてから紙コップにミネラルウォーターを注ぐ。菓子パだったら紙コップのほうが雰囲気出る気がするし。

 自分用には紙コップに冷たい緑茶を入れて、またテーブルに戻る。「ウウウゥ……」「あ、ちょっ、そんな引っ張んないで」といい勝負をしているふたりを尻目に、一人お菓子の袋を開けまくる。もちろんパーティー開けだ。


「あーっ、負けた!!」

「あっははは、碧山さんよっわ」

「こんなちっちゃい子相手に本気でやったら歯折っちゃったりしそうで怖いじゃん!」

「の割に本気で悔しがってない?」

「……ない!」


 意外と負けず嫌いらしい。ちびポメとのおもちゃの引っ張り合いですらこの悔しがりよう。

 碧山さんのことは全然知らないけど、さっきよりもよっぽど『らしい』気がした。


 かぶちゃんはたくさん遊んでもらって満足したのか、ぬいぐるみをすぐそばに置いたままカーペットの上でぺたんとくつろぎ始めた。よーしよし、と撫でてあげると気持ちよさそうに目を閉じる。可愛い~~。

 眠そうにし始めたかぶちゃんを見て、碧山さんの表情がわずかに和らぐ。おそるおそるかぶちゃんを一撫でしてから、席に着いた。


「……いただきます」


 律儀に手を合わせて、碧山さんは水を一口飲む。お菓子には手を出そうとしないので、いくつかの袋を碧山さんに近づけると、観念したように手を伸ばした。


「……こんなこと、しにきたんじゃないのに」


 チョコのお菓子をつまみながら、ぽつり。


「でも落ち着かない?」

「落ち着いちゃうのが嫌」

「嫌なんだ」

「うん、嫌」


 それっきり、俺たちは無言でお菓子を食べた。馬鹿だろってくらいの量開けたのに、食べやめ時がなくて結局全部食べた。まあ、開けたものは食べなきゃだしな。

「お腹いっぱい……」「俺はお腹的には大丈夫だけど、お菓子こんだけ食べんのはきついな……」と二人して呻く。


 静かな空間で、かぶちゃんがすぅすぅと健やかな寝息を立てている。

 水を飲んで一息つく碧山さんの表情は、今日一番穏やかに見えた。


「……碧山さん」


 名前を呼ぶと、猫っぽい目がこちらを向いた。


「またなんかあったらさ、いつでも来なよ。かぶちゃんも喜ぶし」

「……芝木くんって、わたしのこと好きなの?」

「あははっ、そうなるよね。違うよ、ごめん」


 そう思われるかもなぁとはちょっとだけ予想していたが、まさに予想していたどおりのことを言われてつい笑ってしまった。好きでもなきゃ、というか下心でもなきゃ、仲良くもないクラスメイトにこんなこと言わないもんな。

 告白してもないのにフラれたみたいになったからか、せっかく穏やかになっていた碧山さんの表情がむっとしてしまった。


「芝木くんほんとに童貞?」

「え、今の流れでその質問? 違うように見えるなら嬉しい……のか? 喜んでいいとこ? 褒められてる?」

「褒めてはない」

「じゃあ別に嬉しくないか」

「……なんで、」


 きゅっと、碧山さんは唇を噛む。


「――じゃあなんで、そんなこと言ってくれるの。今日だってすでにおかしいじゃん」


 なんで、と訊かれると、ちょっと難しい。

 言いやすい範囲で本当のことを説明するとなると……気恥ずかしいけど、碧山さんへの正直な気持ちを言うべきか。

 紙コップの中の緑茶をなんとなくくるくる回しながら、俺は口を開く。


「俺が勝手に、碧山さんに憧れてただけだよ。なんにも知らないけど、カッコいいなって思ってたから、困ってるなら力になりたかった」


『いい意味で、空気のように教室に存在している』人。『一匹狼、と呼ぶほどではないのに、そんな言葉が似合う人』。

 そうなりたい、と思うような憧れではなかったけど、そうありたくてそうあるのなら、そのままでいてほしい、と願うような憧れだった。


「これって答えになる?」


 うつむいた碧山さんの表情は窺えない。だけどこくりとうなずいたから、納得はしてくれたんだろう。

 しばらくして顔を上げた碧山さんは、眠るかぶちゃんを優しく撫でた。


「……また、来るね」

「うん、また来て」



     * * *



 いつでも来なよ、とは言ったものの。


 ……まさか毎日入り浸るようになるとは思わなかった。

 最初の頃はさすがに、一ヶ月に一、二回とかその程度だったのだ。だけどちょっとずつ頻度が増えていって、一年が経った今では毎日放課後俺の家でごろごろしてる。俺が帰宅部でよかったな!?

 その間に進級して高三になったので、受験勉強なんかも俺の家でしている。最近じゃ母親がいるときでも普通に来るし、もはや家族の一員みたいになっていた。



「碧山! かぶちゃん独り占めすんの禁止!」

「ごめん、かぶちゃんわたしのこと大好きだから離れたくないって」

「かぶちゃんは俺のほうが好きなの!!」

「えー、かぶちゃん。そうなの? 『ぼく葉ちゃんのほうが好きだよ!』。だよねー、そうだよねー」


 最近じゃこんなやりとりも珍しくないくらいに気安くなった。かぶちゃん独り占めはほんとに許せない。

 しかしかぶちゃんの声真似(アテレコ?)がめちゃくちゃに可愛いので、それ以上強くは言えないのだった。かぶちゃんに第二の声帯がついた……すごい……。


 今日も負けた俺は、仕方ないので碧山に抱きかかえられているかぶちゃんを激写しまくった。


「可愛く撮ってよ?」

「かぶちゃんが可愛くないときなんてないでしょ」

「わたしのことも」


 かぶちゃんを顔の近くまで持ち上げた碧山が、にっこり笑う。


「それもないだろ」

「……それも?」

「それも」

「それって何」

「さあ」


 ぶっきらぼうに答えてパシャパシャ撮る。かぶちゃんを独り占めしてなければ素直に答えてやってもよかったんだけど。

 むっと唇を尖らせて、碧山はかぶちゃんを下ろした。俺のことをよくおわかりで。


「……芝木」

「はいはい、碧山もいつだって可愛いよ」

「ん」


 見た目だけなら可愛いというより綺麗なのに、そうやって満足げに微笑む碧山はやっぱり可愛いのだ。

 下ろされたかぶちゃんを、今度は俺が抱っこする。あぅん、と嬉しそうに鳴くのが本当に可愛い。一年経っても可愛い。未来永劫可愛い。


「可愛いわたしのこと、好きにしていいよ」

「はいはいはい、じゃあ今日の夕飯食べたら皿洗いは碧山がしてね」

「ほんとに芝木ってヘタレだよね」

「ヘタレっていうか……」


 付き合ってない女の子に手を出さない良識を持ち合わせているだけだ。

 どういう意図で碧山がこんなことを言うのかはわからないけど、きっと碧山は、俺が何もしないことに安心している。と、思う。……これが見当違いだったら恥ずかしいけど。

 だから俺は、万が一何かをしたくなったとしても、絶対に何もしないと決めている。好きな女の子には優しくしたいし、大切にしたい。


 ――そう、好きな女の子。

 いつだって可愛いと感じる目の前の女の子に、俺は恋をしているのだった。……逆か。恋をしているから、いつだって可愛いと感じる。


「わたしにしたいこと、ほんとにないの?」

「……うーん、ないかな」


 ふわふわのかぶちゃんをなでなでしながら、首を傾げる。

 本当の意味での同意があれば、したくなるかもしれないことは結構ある。でも、付き合ってないし。俺のこと好きかもわかんないし。

 その状況でしたいことは、特に何もなかった。

 碧山はへの字口で膝を抱える。三角座りとか、体育座りとか呼ばれる座り方。


「スカートちゃんと押さえなさい」

「やだ」

「痴女か?」

「……」


 痴女呼ばわりはさすがに嫌だったのか、碧山は大人しく膝を伸ばした。

 そして爪先を遊ばせるように動かして、それを真顔で見つめる。


「……芝木はさ、綺麗だよね」

「いきなり何?」

「綺麗で、憧れるってこと」

「じゃあ俺たち、お互いに憧れてるんだ」


 ぴたり。

 爪先が、止まる。

 信じられないとでも言いたげに見開かれた目が、俺のほうへ向けられた。


「……まだ憧れてるの?」

「そりゃあそうだろ」

「一年もこんなところ見せてるのに?」

「あ、『こんなところ』って自覚はあったんだ」

「わたしは、芝木が憧れるような人じゃないのに」

「もともと俺が勝手に憧れてるだけだし。それに、もうああいうのはしてないんでしょ。してたとこでそれが幻滅したりする理由にはなんないけど」


 これだけ毎日入り浸っていたら、そんなことする暇もないだろう。……いや、どうなんだ? あるのか? 土日はうち来ないし、あるのかもしれない。

 かぶちゃんを碧山に向けて離す。そうすると素直なかぶちゃんは、しっぽを振りながらとたとた碧山に近づいて、ぺたんとその隣で伏せた。碧山は反射のようにその頭を優しく撫でる。


「……ああいうのはしてないけど、でも、根本はそうじゃなくて、もっと、違くて。――だってわたし、……言いたく、ないけど。とにかくちがうの」


 言いたくない、とはっきり言ってもらえることが嬉しい。こんなときに考えることじゃないかもしれないが、俺が最初に言った、話したいわけじゃないなら話さないほうがいいよ、という言葉を信じてもらえているみたいで。


 碧山の目が、泣きそうに揺れている。あと少し、何かきっかけさえあれば決壊してしまいそうな色だった。


「わたしみたいなのが芝木のこと好きって言っちゃダメだし、だからせめて好きにしてほしいのに、それもしてくれないし、なのにわたしに憧れてるとかまだ言うし、全然わかんない」


 たどたどしく紡がれた言葉の意味が、数瞬理解できなかった。

 わたしみたいな、なんて言ってほしくな――、で思考が止まった。強制的にブレーキをかけられた。そのせいで思考は置き去りにされ、口だけが勝手に声をこぼしていた。


「……え、好きなの?」

「当たり前だろばか!」


 そ、そうなんだ。当たり前らしい。

 けれど勢い任せの言葉だったのか、碧山ははっと青ざめる。


「ちがっ……好きじゃない。ごめん、今の嘘」

「俺は好きなんだけど」


 間髪入れずに返す。

 ぽけ、と口を開ける碧山。それが小さな子どもみたいで、なんだか悪いことをしたような気持ちになった。

 ……いや、実際『悪いこと』なのかもしれない。好きと言われなきゃ好きと言えないなんて、ヘタレと言われても仕方ないし。


「………………すきなの?」


 俺の真似っこみたいで可愛い、というのは場違いな感想だろうか。


「当たり前じゃん」

「当たり前なの」

「そうだよ」


 なんとなく、ふっと笑ってしまう。本当にこれっぽっちも、俺が碧山のことを好きだなんて思ったことがなかったんだろう。わかりやすかったと思うんだけどな。

 碧山の顔がくしゃりと歪む。


「……別に、そういうのはいらなかった」

「えぇー」

「気持ちなんていらないから、好きにしてほしかっただけなのに」

「そこはセットだから、片方だけは無理だよ」

「……そうやって当たり前に言えるから、芝木は綺麗なんだよ」


 ぽろっと転がる涙が、綺麗だと思った。


「ねえ、芝木」


 碧山に、そう呼びかけられるのが好きだ。



「――わたしのこと、好きにしていいよ」



 ……両思いなら、これを無理やり突っぱねる必要もないんだろう。

 つまり、今までずっとできなかった『あれ』ができる。


「じゃあ、目つぶって」


 言われるがままに目を閉じる碧山。ん、と唇を差し出すような角度だった。

 そこへ、俺は自分の顔を近づけて。




 ――ふーっと思いきり息を吹きかけた。


 碧山が驚いて目を開けたところで、渾身のデコピンを食らわせる。


「いっだ!? 何すんの!?」


 涙目で額を押さえる碧山。キスされると思って油断していたらなおさら痛かっただろう。

 が、謝る気にはなれなかった。そもそも好きにしていいって言ったのは碧山だし!

 碧山の大声で、かぶちゃんがびくんと飛び起きる。起こしてごめん、とは思ったものの、口は止まらなかった。


「結構前からそれ言われるたびにムカついてたんだよ俺は!!」

「な、なんでムカつ」

「好きな子が自分のこと蔑ろにしてたらムカつくだろ!」

「っ知らないしそんなこと!」

「じゃあ今知れてよかったな! もう言っちゃダメだから!」

「はあ!? っていうか大体、蔑ろってわけじゃない! わたしは本気で、」


 勢いが止まる。

 そろりと視線を逸らした碧山の顔は、ほのかに赤い。


 喧嘩をしていると思ったのか、かぶちゃんは不安そうな表情で俺たちの周りを忙しなく歩き回り始めた。


「と、途中からだけど、本気で、芝木になら……好きにされていいって、思ってた、だけだし」

「……」


 っはああああぁぁあ、と深いため息が出た。意識したわけでもないのに自然とめちゃくちゃ深くなった。

 それはそれで、タチが悪い。

 足元に来たかぶちゃんを抱えて、毛の中に顔を突っ込む。これが一番落ち着くのだ。程よい獣くささがいい。かぶちゃんも嫌がらないのでよし。


「かぶちゃん嫌がってるよ」


 さっきまで泣いていたくせに、その声は笑いがにじんでいた。


「どう見ても喜んでるだろ」

「わたしもかぶちゃん吸いたいんだけど」

「まだダメ」

「じゃ、見せられる顔になったらちょうだいね」


 もう一回デコピンしてやろうか、と思った。……やんないけど。


「……というかそもそも、好きにしていいよって言い方がダメ。男が誰だってそういうの好きだと思うなよ。好きな子からじゃないとドン引きだよ」

「じゃあ今は平気なんだ」

「今は今でよくない。どうすればいいかわかんなくなる」

「そういえば童貞だったね……」


 しみじみとそんなことを言われるのも嫌だ。そういえばってなんだよ。

 かぶちゃんがさすがにジタバタし始めたので、名残惜しく思いながらも離す。「おいで」と碧山が手を出せば、喜んでそこへ飛び込んでいくかぶちゃん。今度は碧山に吸われ始めた。

 それをなんとなしに眺めていると、碧山はかぶちゃんに顔を埋めたまま話始める。


「……あのさ。付き合うのはなし、でもいい?」

「……まずは碧山が話せる範囲の話を聞きましょう」


 腕組みをして、俺はじっくりと話を聞く態勢に入った。

 たとえ両思いでも、何か理由があって付き合いたくないのだとしたら今までどおりの関係を続けるだけだ。どんな理由であっても碧山にとっては大事なことであるなら、それを受け入れないつもりはない。


「芝木は、わたしなんかと付き合っちゃダメだと思う」


 相変わらずかぶちゃんに顔を突っ込んだまま、碧山は正座をする。

 体勢だけそれっぽくても、絵面がどう考えてもシリアスじゃない。声も毛に埋もれてふもふもしてるし……。


「それは、なんで?」

「……さっきも言ったけど、芝木は綺麗だから。芝木と付き合うことになったら、罪悪感……では、ない、かな。うまく言えないけど、たぶん、心がぐちゃぐちゃになって死にたくなる」


 碧山とは目が合わないのに、かぶちゃんと目が合ってしまった。嬉しそうに吸われてるな……いいんだそれで……。

 じゃ、ない。かぶちゃんの可愛さに気を取られちゃダメだ。

 余計な思考を振り払って、改めて碧山の話に集中する。


「芝木と一緒にいるときに、そんな気持ちになるのが嫌。一緒にいたくない、って思っちゃいそうなのが嫌だ。

 わたしは芝木と一緒にいたいし、芝木といるときには落ち着きたいし楽しみたい。……芝木といるときの自分のことは、好きでいたい」


「うん」


「わたしは、芝木に言いたくないことがいっぱいあって……そのうち言えるようになることもあるかもしれないけど、少ないと思う。ほとんどは絶対、一生言いたくない。

 芝木にどう思われるかは関係なくて、そういうことがあった、って知られるのが嫌なの。わたしが、嫌なの」


「……うん」


「わたしのことは好きにしていいけど、……いや、えっと、もう言っちゃだめなんだよね。ごめん。とにかく……うぅん…………正式に付き合わないなら何してもいい……のもセットだから結局だめなんだっけ……いや、気持ちさえあればいい? どっち?」


「付き合うのも全部まとめてセットだね」

「じゃあだめか」


 さすがにかぶちゃんを下ろした碧山は、難しい顔でうんうん悩む。吸われまくったかぶちゃんは、それでもご満悦だ。本当に碧山のこと好きだなぁ。

 かぶちゃんは碧山の膝の上にのって、うとうとし始めた。……どっちも羨ましい。


「……まあ、とりあえずはそんな感じ。だから付き合いたくない。なんとなくわかった?」


 諦めたのか、そんなふうに雑にまとめた。

 首を傾げて確認を取ってくる碧山に、こくりとうなずく。


「わかった」

「今のでわかるんだ……」

「思ったより碧山って俺のことめちゃくちゃ好きなんだなって」

「そこ?」


 碧山は呆れたように笑う。

 だってなんだか、熱烈な告白をされた気分だ。ここまで好かれているとは思わなかったから、なおさら照れるというか……戸惑う。

 いつのまに? なんで? かぶちゃんのセラピー効果のおかげ? こういうのも吊り橋効果みたいなものなんだろうか。


「……そういうことなら、俺たちはこれからもこれまでどおりってことで」

「うん、ありがと」

「でも、好きだよ」

「……ごめん。そういうのもなくていい、かも」


 困ったようにも、嬉しそうにも、申し訳なさそうにも見えた。つまり、はっきりしない表情。そんな顔をさせるのは本意ではないので、それについても了承する。

 恋人になったとしても、俺はきっとそういう欲は薄いほうだっただろうし、特に問題もなかった。一緒にいて笑えて、かぶちゃんの取り合いができればそれで十分だ。



     * * *



 お互い四年制の大学に進学してストレートで卒業し、社会人になった。その間、俺と碧山の関係は変わらなかった。

 めんどくさいから他人には彼女がいると説明しているが、実際は友達である。もちろん不健全な意味なんてまったくない、純粋な友達。


 社会人になった今でも、碧山は俺の家によく来る。ちなみに俺も碧山も今は一人暮らしをしている。

 だから当然、かぶちゃんはいないわけで……。


「かぶちゃんに会いたい……」

「わたしで我慢して。わたしだって芝木で我慢してる」

「いやそれは別物じゃん、どっちも足りなくなったら死ぬんだよ」

「……ふふ。重いんだけど」


 そんなふうに笑いながら言うセリフじゃない。

 どうせ碧山だって同じクセに、とは言わないでおいた。


 金曜と土曜、碧山は泊まっていくことが多い。食事は交互に作っている。お互い、相手の好きな料理が得意だった。

 今日は土曜で、今夜の食事は俺の担当。


 いただきます、と手を合わせて、碧山は俺の作ったハンバーグを口に運ぶ。彼女はまずメインディッシュから食べる派の人間だ。

 一口食べた碧山は、ちょっと目を丸くした。


「……このソース美味しいね」

「お、そう? いい赤ワインもらったからさ、入れてみたんだよね」

「それ、そのまま飲まなくてよかったの」

「碧山は飲めないだろ」


 碧山はアルコールドリンク全般が苦手だった。一緒に飲めないのなら、ごく少量だとしてもこうやってソースにして一緒に食べたほうがずっといい。

 照れたのか、碧山はぐっと黙り込む。誤魔化すように白米を食べて、またハンバーグに箸を伸ばす。


「なぁ。結婚しない?」

「…………は?」


 唐突な俺の言葉に、ハンバーグがぽろりと皿の上に逆戻りした。


「って言っても、形だけな。籍入れるだけで、他は今となんも変わんない。ダメ?」


 落としたハンバーグと俺をなぜか何度も見比べた後、碧山は静かに箸を置いた。

 それから、じっと何かを考え込む。

 俺はただ待っていたけど、話すタイミングミスったかな、と後悔していた。美味しいものは美味しいまま食べてほしいのに、これじゃあご飯が冷めそう。


 数分考えて、碧山は慎重に口を開いた。


「それって、なんの意味があるの」

「んー。碧山になんかあったときに、俺に一番に連絡が来る?」

「……それで、芝木に何かあったときにはわたしに一番に連絡が来る?」


 そうそう、と軽い調子でうなずくが、内心はかなり緊張していた。心臓が痛いくらいに忙しなく動いているのがわかる。

 結婚して一番変わるとしたら、ありがちかもしれないけどそれだろうと思った。それなら、碧山にとっても魅力的だろう、と。


「……でもそれじゃあ、芝木は他の人と結婚できないじゃん」

「逆に訊くけど、俺が今更碧山以外と結婚できると思う?」

「できるよ。だって芝木だもん」


 思わぬ即答にびっくりしてしまった。

 え? いや確かにまだ社会人一年目で、結婚適齢期はもうちょい後だし、社会人になってから出会った人と結婚する人だって多いんだろうけど。

 でも、今更だ。

 もう五年、たった五年だけど、ずっとこんな関係を続けてきた。それで今更碧山以外と結婚とか……想像がつかなかった。


 っていうか、だって芝木だもん、って何。

 芝木久秀(ひさひで)は碧山葉一筋なんですけど。


 俺がちょっとむっとしているのにも気づいているはずなのに、碧山はほんの少し視線を下げるだけで話を続ける。


「それに万が一でも子どもは欲しくないから、セックスもしたくない」

「今と同じなんだから、そりゃあしないだろ」

「……一生童貞ってことだけど」


 結婚したら一生一緒にいてくれるつもりなのか。

 単純なので、それだけで口元が緩みそうになってしまった。我慢して、ちゃんとシリアスな顔を取り繕う。


「そんなの結婚してもしなくても変わんないよ」

「別に付き合ってないんだから、誰としてもいいんだよ。でも結婚しちゃったら、世間からしたら不倫になるでしょ。……芝木がそういうよくないことするの、やだ」

「だからしないって……。俺が好きな子以外に何かできると思ってるの?」

「思わないけど」


 よかったぁ。ここで思うって言われたら泣くところだった。


「じゃあ問題ないっていうのもわかるだろ」

「…………」


 碧山はへの字口で、何かを訴えるように俺を見つめる。

 俺を説得したいなら、ただ「芝木と結婚するのは嫌だ」と言うだけでいいのだ。碧山がそれをわかっていないはずもないので、つまり嫌ではないはず。……たぶん。自信なくなってきたなぁ。


「……これから先、わたしよりもっと好きになる人に会えるかもしれない。そのときに後悔したって遅いんだよ」

「未来のことはそりゃあ否定できないけど……碧山だって俺以外を好きになるかもしれないし」

「それはない」

「えっ、ずる! なら俺だってそうだし!」


 ここで否定したら嘘っぽいかと思って我慢したのに!

 ムキになった俺に、碧山は微かに笑いをこぼした。


「そうかもね。……どっちも、『かも』、だね」


 ふー、と小さな息を一つ。


「もう何言っても無駄かぁ」

「全力で拒絶されたら俺だって考えるけど……」

「無理だよ。嫌じゃないもん。わたし、芝木に隠してることはあっても嘘ついたことはないし、つきたくないよ」


 ……本当に碧山って俺のこと好きだな。俺だって大概だけど。

 しかしこの流れは、期待してもいいんだろうか。

 そわっとしながら、続く言葉を待つ。

 テーブル上の料理の湯気は、とっくに消えていた。


「……籍入れるだけで他は変わらないって言ってたけど、家は? 一緒に暮らすの? このまま?」

「碧山がいいなら、一緒に暮らしたい」

「ん、わかった。お互いの会社の中間地点くらいで探そっか。家具とかは……今使ってるやつの持ち込みと、大きめのやつ買ったほうがいいのは一旦引っ越してから探しにいけばいいかな」

「……碧山」

「結婚式やりたくないんだけど、大丈夫? でも芝木ってそういうの結構憧れてそうだよね……。ドレス着て写真撮るくらいならやれるけど、それがぎりぎりの妥協点かな。それ以上は、ごめん」

「碧山」

「指輪は……芝木がいいなら、一緒に買いにいきたい。あんまり高くなくて、でも綺麗なヤツ」

「あおやま」


「……なに」


 耳を赤く染めて、俺から目を逸らして。俺の呼びかけなんて途中から耳に入っていなかったか、あるいは意図的にスルーしていた碧山は、きっと俺の想像以上にテンパっている。

 さっきまでは落ち着いて見えたけど、あれはもしかしたらまだ上手く状況を呑みこめていなかっただけなのかもしれない。

 その可愛らしさに小さく笑って、わざとらしく首を傾げてみせる。


「まだ、ちゃんと返事もらってないんですけど?」


 もらったも同然だけど、イエスかノーか、はっきりとした答えを彼女の口から聞きたい。

 碧山はむずむずと唇を動かして、それでも俺と視線を合わせてくれた。


「わたしも、芝木と結婚したい」


 もったいぶることもなく放たれた言葉は、俺を幸せに突き落とすのに十分だった。……突き落とす? 突き上げる? どっちも違うか。

 何はともあれ、よかった……。安堵で体の力が抜けるのがわかる。疲れたような息を吐けば、「もしかして緊張してた?」と嬉しげに聞かれる。


「そりゃするよ。断られても別に、今までとそんな変わんないけど……一応これプロポーズだよ。ダメだったらへこむじゃん」

「……芝木でもへこむんだ」

「うそ、そっから? 俺割と打たれ弱いよ」

「わたしがちょっと素っ気なくしたくらいじゃ全然気にしないのに?」


 いやそれはだって。

 言わないほうがいいんだろうか、と少し悩んで、まあいいか、と結論づける。言ったところで気分を害したりはしないだろう。


「だってそれって、俺のこと好きだからだろ。碧山、興味ない相手には愛想いいし」


 愛想がいい、というのもちょっと違うのかもしれない。対応が丁寧ではあるけど、にこにこ笑ったりはしないし。

 ……そう考えると、割と最初っから素を見せてくれてたんだな。始まりがあんなだったからかもしれないけど。


 俺の答えに、碧山はわずかにばつの悪そうな顔をした。


「芝木が打たれ強いだけかと思ってた」

「好きだからっていうのは否定しないんだ?」

「したって意味ないでしょ。それに、さっき言ったこと忘れた?」

「覚えてるけど、茶化さないとちょっと恥ずくて……」

「芝木も素直だね」

「俺はいつだって素直だろ」

 

 くすくすと二人して笑い合う。

 隠していることはあるけれど。嘘はついていないし、言いたいことなら言っている。


「……話結構戻すんだけど」


 戻すようなこと何かあったっけ、とでも言いたげに目を瞬く碧山。


「他人のアレソレに対してはどうも思わないけど、自分がやるってなったとき、俺はたぶん、好きな子相手じゃなきゃ気持ち悪くて無理なんだよね。たぶんっていうか……想像するだけで吐きそうだから絶対ムリ」


 こうやって曖昧な言葉にするだけでもダメージがデカくて、意識してゆっくりと呼吸をする。


「それで、好きな子相手にだってそこまでやりたいこともないから、本当に気にしないで。俺だって子ども欲しくないし、結婚式もやりたくないし。でも確かに、ウェディングドレス着てる碧山は見たいかな」


 碧山が俺に言いたくないことがあるように、俺にだって言いたくないことはある。たとえば――あの日碧山を助けた、一番の理由とか。

 ……人に言えないごたごたの、いろいろ。

 それらは全部、言わなくたっていいことだ。


 まあたぶん、好きな子なら、碧山相手なら、気持ち悪いと思う何もかもができるんだろう。


「俺たちって結構、お似合いじゃない?」

「……そうかも」

「ね」

「えっと、それで、もうご飯食べていい? 冷めちゃったけど……」


 心の底から残念そうに言う碧山が愛しくて、ぷっと吹き出してしまう。せっかく美味しいと言ってもらえたハンバーグだったのに、冷めてしまったのは確かに残念だ。


「ごめんね。あっためなおそっか」

「……今日はこれでいいよ」

「そ? なら俺もこのまま食べよ」


 ハンバーグを一口、口に入れる。もうほのかな温かさしか残っていないが、それでも我ながら美味しかった。これは碧山もこんな顔をするというものだ。

 そのままいつもどおり、話したいときにだけ話しながら静かに食事を進めた。プロポーズ後だなんて思えないくらいに、いつもどおり。


 ……俺は内心、めちゃくちゃ浮かれてるけども! それがバレるのが恥ずかしいので、いつもどおりのフリをしていた。

 碧山のほうはちゃんといつもどおり――に見えて、耳がまだ赤い。

 照れてる? と訊かれたら肯定しかできないのはかわいそうなので、見ないフリをしてあげることにした。訊き返されたらブーメランになっちゃうし。



 食事を終え、今夜の食事当番でない碧山が食器を洗い、二人でソファーに座る。

 特に何をするわけでもなく、互いにスマホをいじったり、本や漫画を読んだり。風呂は済ませているから思う存分のんびりとできる。


 可愛い犬の動画を見ていたとき、くいっと服の裾を引っ張られた。


「うん? どした?」

「いや、なんか……うーん」


 口ごもってはいるものの、その表情はやけに楽しそうだった。

 うん、と一人納得したようにうなずいた碧山は、俺とは反対側の肘掛けを背もたれのようにして――何かを迎え入れるように、可愛らしく両手を広げた。


「わたしのこと、好きにしていーよ」


 くすぐったくなるような声音と、俺のことが愛しいのだと伝えてくる笑顔。

 大分前に言っちゃダメだと言って以降、一度も聞いていなかった言葉だ。だけどこんな言い方をされたら、怒りも何もなかった。

 さすがにここで何もしないのは逆に駄目だろうな、と思って、碧山のやわらかい髪の毛をくしゃくしゃ撫でる。


「はいはい、碧山はいい子だな」

「ん」

「可愛いし」

「ん」

「優しいし、気が利くし、しっかり者で頼れるし、一緒にいて落ち着くし、好きだなぁ」

「……ふふ」


 目を細める碧山。これくらいじゃ足りないかと思ったが、ご満足いただけたらしい。


「今日は夜更かしして映画でも観よっか。犬出てくるやつ色々」

「絶対泣くやつじゃん」

「先泣いたほうが、明日早起きして朝ご飯作るってことで」

「絶対芝木じゃん」

「はー? 負けないし」

「というかわたし作りたいし、頑張って負けるね」

「俺だって負けるし!」

「もう言ってることめちゃくちゃ」


 あはは、と無邪気に笑う碧山を見て、ふと思いつく。

 そういえば、俺は言ったことがなかったんだった。


「碧山も、俺のこと好きにしていいからね」


 ぴたりと笑いが止まる。は? というもはやお決まりの声すら聞こえてこなかった。

 え、すべった? 俺が言ったらダメなことだった?

 焦りはしないが、ちょっと予想外の反応でびっくりしてしまった。


「…………えっと、じゃあ、目つぶって」


 いつかどこかで覚えのあるやりとり。もしかしてあのときの復讐でデコピン仕返しされたりする?

 身構えながらも目をつぶったら、膝に何かが載る感覚がした。あー、なるほど。


「……硬い」

「そりゃそうだよ。目開けていい?」

「だめ」


 ダメなんだ……。

 しかし、人の頭って意外と重いものなんだな。見てないから本当に頭かわかんないけど。この流れで、かつこの感覚で膝枕じゃないなら、何をされているのかわからなすぎてむしろこわい。


「このまま寝る?」

「いや映画観たいし……ちょっと横になるだけ」


 まあ、そんなに大きいソファでもないから、はみ出して寝づらいだろうしな。肘掛けだって邪魔だ。


「……これは気持ち悪くない?」

「うん、大丈夫。というか碧山ならホントになんでも大丈夫だから」

「我慢はしないでね」

「碧山も」

「わたしは好きにさせてもらってる」

「俺だってそうだよ」




 ――犬映画を観た結果、翌日の朝ご飯担当は俺になった。

 の、だけど。碧山が俺より早起きをして作ってくれたので、結局勝負の意味はなかった。

 まあこれから先は一緒に暮らすんだし、ご飯作る機会なんてありすぎるくらいにはあるからいいんだけど。……でもちょっと悔しい。





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