推しとの出会い~私が沼に落ちた訳~②
「やめておけ」
それは、夜の喧騒の中でも不思議と通る声だった。
その声に、私の腕を掴む男が振り向くことなく立ち止まる。
声の主がさらに続けるようなら喧嘩を買おうと、そんな様子だ。
振り返るでもなく立ったままの男が、無意識だろうか、私の腕を掴む手に込める力を強めた。
「イタッ」
思わず声を出してしまった私は、その失敗に後悔する。
前を向いたままだった男の視線が私に向く。
それから、ニタァ、と。
これまで酒に赤らんでばかりで感情の読みにくかった顔に、醜悪な笑みを乗せた。
ぐぐっ。
「イタイ!」
今度は明らかにわざと強められた手に腕が軋み、私は悲鳴のように声を上げてしまう。
それでも満足せず、私の反応を見るように強められていく力に、私は自由な側の手で抵抗しつつ、呻くことしかできない。
それに気を良くしたような巨木のような男は、掴んだ力を緩めないままに私の腕を引っ張ると、私を自分のほうへと引き寄せた。
その動きに、ぎしぎしと、もう腕が折れるのではないかというほどの激痛を感じる。
とうとう涙がこみ上げ始めたその時。
聞こえたのは先程と同じ声だった。
「……やめろ」
ドッと。
何か分厚いものを打つような、鈍い音がした。
音と同時、私を掴んでいた男の体がビクンと揺れた。
固まったように動きを止めた巨木のような男は、やがてその体を大きく揺らし、そして、傾ぐ。
男は私の腕を掴んだまま、地面へ倒れようとしていた。
「え?」
まるでスローモーションのように男が倒れて行くのを、私は状況も飲み込めずに呆然と見ていた。
倒れる男は私の腕をいまだ掴んだままで、そんな男に引っ張られ、私も地面に倒れるのだとその衝撃に備えて強く目をつむった。
しかし、私は地面に倒れこむことはなかった。
地面にぶつかるよりもずっと前、男に引かれて体が傾き始めて目をつむったすぐ後に、私は何かに支えられるようにして止まっていた。
ストンと、軽い感触で当たったそれに気づき、私はつぶっていた目をそっと開く。
私が触れていたのは、黒くて温かい何かだった。
「?」
私はその正体を確かめるべく視線を上げる。
見上げた私の目が捉えたのは、一人の男性の横顔だった。
私は、黒い服を着たその人の横側から、胸元に招き入れられるようにして受け止められていた。
いつの間に私の目前に立っていたのか。
男性の腕は私に回すわけではなく垂らされたままの自然体で、こちらに体を開くように胸を向け、倒れそうだった私を受け入れてくれている。
私のいない側、黒服の男性が伸ばしている腕の先を見れば、崩れるように地面に落ちた男の、丸太のような腕が掴まれていた。
巨木のようだった男は意識がないのか、男性に腕だけを持ち上げられ、全身はだらりと力なく地面に落ちている。
巨木のような男に掴まれていたはずの私の腕はすっかり解放され、かすかに痛みを残しているだけになっていることに、そこで私はやっと気づいたのだった。
展開についていけず、頭は混乱したままだったが、私は理解する。
この黒い服に身を包んだ男性に、助けられたのだということを。
体に力をこめることも忘れ、自立することもせず彼にもたれかかったまま、私は彼の横顔を呆然と見上げていた。
倒れると思って咄嗟に彼の胸についていた手や、目前の彼の体からはふわりと体温が伝わってくる。
彼の横顔を見ればその眼差しは鋭く、地面に落ちた男を見るその顔は冷めている。
一目見て粗野で冷たそうな印象を受ける彼は、それでも、そのときの私にとっては、涙を止めてしまえるだけの人肌の熱を感じられる、ひどく温かな存在だった。
そのとき、私の胸に灯った熱は、彼の体温を分けられたせいなのか。
それとも、高鳴る私の鼓動が生み出したものだったのか。
「飲みすぎだな」
ぽつり、と。
男を見下ろしたまま独り言のように彼が言った言葉を理解するのに、私には少しの時間が必要だった。
男が起き上がってこないのを確認するように、しばらくの間、冷ややかな視線を男に向けていた彼は、一言そう言ってから、私へとその視線を流した。
男に向けていたのと変わらない、冷たいままの視線がこちらに向けられる。
その視線と目が合って、私は思わず身を震わせた。
一拍後、私の反応を彼が待っていることに気づいた私はコクコクと何度も頷いた。
ややあって、緩慢な動きで彼は私から身を離す。
そこでやっと、私はいつまでも彼に身を預けていたことに気が付いた。
慌てて身を離そうと動いて少しだけふらつく。
そんな私を上から下に見た彼は、私に怪我がないかを確認するようだった。
それから、私に問題がないと分かると興味を失ったように踵を返し、彼は夜の街の中に消えていく。
その場に立ち尽くし、惚けたように彼の姿を見送っていた私は、お礼も何も言えていなかったことに、彼が見えなくなってから気づいたのだった。
「かっこいい……!」
遅れて、私を襲ったのは、全身が痺れるほどのトキメキ。
私は衝動のままに帰路を走る。
下宿先のドアを開けると、靴も半分履いたままのような状態で自分のベッドに飛び込んだ。
すでに寝ていたらしい同室のアクサナが「ドリー?」と、心配したような声を出したのも、今の私には構っていられない。
堪らない気持ちのまま、枕を力いっぱい抱きしめた私は、高ぶる気持ちのままに声に出して言っていた。
「なにあれ~! かぁっこいい~!」
それほど、私の窮地を救った彼は、何から何まで私のツボで、私のハートをガッチリ掴んでしまっていた。