尊みの極みタイフーン
「お礼を……、言わなきゃ……」
「……そうね」
「どうしようアクサナ……」
「……私に聞かないで」
「そんなあー! 見捨てないで! アクサナぁ!」
取り乱した私と、いつもそんな私のおもり役であるはずなのに職務放棄して同じくらい混乱しているアクサナ。
場を混沌が支配していた。
「二人とも元気でいいねえ」
ディディエ・トロー選手は、そんな私たちを見てのほほんとしている。
そんな彼に話しかけられたクラインさんは、彼にしては珍しく少し不機嫌な声を出した。
「私としては、一生懸命応援されている姿をもっと見ていたかったんですが」
「あれ? そういうこと? 僕ってばまた恨み買った系?」
「……ヴォルフさんもあなたくらい察しが良ければよかったんですが」
「なになに? 面白い話?」
二人は親し気に話しているけど、私はもうそれどころじゃない。
私の思い上がりでもなんでもなく、ヴォルフ様が私の傷を見て、万能薬を持ってきてくれたのだとしよう。
聖人君子じゃん。
ヴォルフ様は、夜道の人助けだけじゃなく、怪我人も放っておけないのかもしれない。
私の推しが優しすぎる。
だというのに、それを、私は自分の名前を呼ばれたのだと舞い上がったわけだ。
「恥ずかしいいぃいっ」
羞恥に燃え尽き、灰になってしまいそうだ。
こんなとき落ち着けてくれる頼みのアクサナを見ても、彼女は何やら思い切りが付かない様子で一歩引いてしまっている。
先ほどディディエ・トロー選手と話していたと思ったら、それ以降ずっとこんな感じだ。
ついさっきなど、「リアコはもっとポジティブでいいのかもしれない」なんて、哲学のようなことを言っていた。
何やら内緒話で盛り上がるディディエ・トロー選手とクラインさん、取り乱す私、それを見守っているようで混乱しているのが丸わかりなアクサナ。
闘技場ロビーの一角で異様な空気を放つ集団に、集まってきていた人たちも徐々にその場を離れ始めていた。
「アクサナぁ、私、このままじゃリアコをこじらせちゃう……」
「あのね、ドリー、よく聞いて」
半ベソの私がアクサナに縋りつき、アクサナが何か言いづらそうに口を開いた時だった。
「ドリー、俺を見ろ!」
まるで三度、ヴォルフ様が現れたかのような、はっきりとした幻聴が聞こえた。
私は己が堕ちたことを察して怯え、大声を出した。
「ひっ、ひぃえええ~! こじらせ妄想がっ、幻覚が、始まっちゃったあ!」
声のほうを見やれば、やはりヴォルフ様の姿をした幻覚が見える。
「ドリー?」
なんだかぎょっとして、再び私の名前を呼ぶヴォルフ様、最高に格好いい。
でもでも。
「ヴォルフ様は! ファンに! こんなことしないもん~~!」
もう、私は泣いていた。
こじらせてしまった。
リアコをこじらせてしまったのだ。
私の妄想のヴォルフ様は、ロビーに続く通路からバーンと現れると、私を大きな声で呼んだ。
名前を呼び捨てだ。
好き。
そんなヴォルフ様を見れば、その姿は幻覚とは思えないほどリアルだ。
先ほどこの場から去っていった姿とは打って変わって、溌溂としたその姿に、推しの生を感じる。
ヴォルフ様、好き。
そして私の妄想のヴォルフ様は、手に花柄の鉢を持っていた。
分かんない!
もう、自分の中のヴォルフ様像が分かんないよ!
“ヴォルフ様は、ただのファンのために花なんか用意しない!”
そう、心のどこかで解釈違いを叫んだ結果だろうか。
妄想だというのに、ヴォルフ様の持つ鉢の花は咲いておらず、蕾のままだ。
まるでその代わりとでも言うように、鉢にはたくさんの花の模様がついている。
これが、私の妄想の限界。
こじらせてなお。
限界。
「アクサナぁ、ヴォルフ様はっ、ヴォルフ様はぁ! ただのファンに、こんなことしないのぉ~~!」
「ドリー、落ち着きなさい」
「バーンって、ドーンって、格好いいのお!」
「私が悪かったわ。お願いだから現実を見なさい」
「見たいよう……、現実、見たいぃ……」
「よしよし。ヴォルフ・マーベリックさん、悪いんですが少々お待ちくださいね。今、現実を見れるように落ち着けますので」
「……落ち着くのか?」
おかしい。
今アクサナは私の妄想と会話をした気がする。
私の妄想、思ったよりもちゃんとしてる。
やるじゃん私。
なんかもう、妄想でもこじらせでも良く思えてきた。
私は急に冷静になった。
いや、冷静になった気がしているだけだ。
頭はしっかりおかしい。
私は嫌に凪いだ頭で、もう一度ヴォルフ様の幻覚を見つめる。
いつの間にか近くまで歩み寄って来てくれている。
うん、格好いい。
よし、せっかく幻覚を見ているんだ。
ちょっと私を喜ばせることを言わせてみよう。
「ドリー? 落ち着いたか?」
「ひゃあ!」
また名前を呼ばれた。
分かってるぅ!
さすが私の幻覚。
その調子だ。
「以前、怪我を治してくれたな。礼を言う。ドリーのおかげで優勝できた」
「……ッ!」
最高すぎる。
もう、言葉にならなくて、唇を嚙みしめて上を向いた。
「これを」
それから、私の幻覚のヴォルフ様は持っていた鉢を私の目の前に差し出す。
「礼のつもりで花を育てていたんだが、まだ咲いていない。これでは駄目か?」
はあ?
え、無理、すごい。
自分の妄想舐めてた。
こんな発想できるの私?
最高では?
最高では?
大事なことなので二回言いました。
えっ、すっご。
私はガバっとアクサナへ顔を向ける。
「アクサナ。アクサナ」
「前を向きなさい」
「私、“萌え”を理解した」
「そう」
突然天啓を受けた私に、アクサナはひどく疲れた様子で返した。
私、こじらせの妄想力を舐めていた。
私自身が萌えを理解していないのに、こんなにすごい幻覚を見せられるんだ。
理想郷がここにある。
もう、ちょっと、感動すらしていた。
「ドリーは、どこか悪いのか?」
なおも妄想力豊かな私の幻覚ヴォルフ様は、アクサナへ声をかける。
「ちょっと。頭が」
「そうか、頭が」
しかし、その話の内容はあまり私に嬉しくない。
どうした妄想!
やる気を出せ!
もっとできる子だったはずだろう!
それに、私の妄想なのだから、私を見て欲しい。
「あの、ヴォルフ様」
「ん?」
思い切って声をかけてみたら、ヴォルフ様の瞳が再び私を向いた。
アクサナに向けていたのとは全然違う。
私を見た途端、その瞳は一段柔らかい色を纏ったのだ。
表情まで少し柔らかくなった気がする。
好き。
こういうの、私、大好き。
私の妄想の底の知れなさがやばい。
才能がある。
私、こじらせの才能がある。
すでに理性を失った私としばらく見つめ合った幻覚のヴォルフ様は、再びその手に持つ蕾の鉢を見せてきてくれた。
「この鉢は、まあ許してくれ。受け取ってくれるか?」
「はい! もちろん!」
少し気恥ずかしそうに花柄の鉢を見たヴォルフ様。
粗野な見た目に、照れた顔。
先ほど“萌え”を理解したばかりだったはずの私は、一足飛びに“ギャップ萌え”までをマスターしてしまった。
ギュインギュインと、おかしな音を立てているのは私の心臓だ。
今死んでもいい。
それほどに幸せだった。
ヒヤリ
嫌に冷たいものが手に触れた。
そこには、花柄の、可愛らしい鉢。
今、私が、幻覚のヴォルフ様から受け取っている鉢だ。
ズシッ
感じるはずのない重さも、それに加わる。
何か察したらしいアクサナが、慌てて横から腕を差し入れてきて、私の手の上から植木鉢ごと支えるように力を込めた。
「ある」
「どうした、ドリー?」
鉢を差し出すヴォルフ様。
受け取る私。
支えるアクサナ。
ここに“ある”植木鉢。
私が何かに気づくまで、ほんの数瞬のことだった。




