台風の目(ヴォルフside)
「大好きです!」
苦しい。
ドリーの明るい声と、その笑顔を見て、心臓を握りつぶされたんじゃねえかと思うほどに苦しい。
自分の手が、何かを持っていた形のまま空をかいたことに気づいて、下を見やれば万能薬の鉢は落ちていやがった。
可哀想に。
俺の心臓の代わりに壊れたようなものだ。
ドリーへ贈るために花を世話するうち、植物への愛着も持つようになっていた。
この間の植え替えで空いた鉢に移してやろう。
落ちた鉢を取り上げようと身を屈めたのに、体にほとんど力が入らず、しゃがみ込んで身を丸めてしまった。
己の膝を抱くようにして、そのままついでに欠けた鉢のかけらを集める。
このまま片付けずに行ったら後でクラインにどやされるだろう。
俺は自分でも信じがたいことだったが、今、クラインを部屋へ連れて行って、やるせないこの気持ちをぶちまけたいような思いに駆られていた。
俺が誰かに愚痴ろうっていうんだ、有り得ない。
カチャ、カチャリ。
「……」
破片をつ集めていると、指先を切った。
大した傷でもないのに、その痛みで気を紛らわせようとでもいうように、傷をじっと見てしまう。
すると横から新聞が差し出された。
ここにも世話焼きがいるらしい。
受け取って、思わず苦笑する。
俺の元いた薄暗い世界から、これほどまでに変わるとは。
もう、誰とも関わらず生きていけるなんて、思えなかった。
俺も弱くなったものだと自嘲して、それから、これは本当に“弱さ”なのだろうかと、小さく胸に灯る何かがあった。
立ち上がり、ドリーを見る。
ディディエを気にするようにそちらを見ていたドリーに、注意を引くように言葉をかける。
「傷は」
聞かずとも分かっている。
ドリーの顔を見れば、あの傷はすっかり消え、血の跡もない。
当然だろう、様々な魔法を使いこなすディディエであれば、あれくらいの傷、目を瞑っていても治せるはずだ。
そして、ドリーの返答も、俺の想像どおりだった。
「えっ、あ、ほっぺ! 治りました! 治癒魔法でですね! ちょちょっと!」
「……そうか」
“ちょちょっと”ね。
あいつが涼しい顔で治せるものが、俺には汗だくになっても治せない。
それが俺とあいつの差を指しているようで、苦い味が広がった。
ドリーのはしゃぐような、高揚するような表情を見ていられず視線を逸らした俺は、ディディエに視線を止めた。
八つ当たりだと分かっていても、向ける視線が強くなってしまうことは仕方ない。
風が体をすり抜けるような感覚がして、自分のかいた汗のせいでやたらと冷える。
少しだけ頭が冷えて冷静になった。
これ以上ドリーの邪魔をしていても何も生まないと、俺は踵を返す。
そんな必要もないのに、足は自然と早くなった。
先ほどまで全身に籠ったようだった熱は、今は一歩進むごとに冷えていた。
腕に抱えた万能薬を見る。
結局出番がなかった上に、鉢まで壊してしまった。
鉢の欠けた場所からサラサラと砂が零れていることに気づいた。
歩調をゆっくりとしたものに戻しながら、砂をせき止めるように手を当てる。
「ク」
傷を治すものを相手に手当てだなんてと、おかしくなる。
それも、この俺がだ。
暗い路地にいた頃では考えられない。
それから先ほど、思いがけず見てしまった光景を前に取り乱してしまったことにも、今更おかしくなった。
ドリーがディディエを好いていることなどずっと知っていた。
それから。
「俺を応援してくれたことだって、事実だろうに」
ドリーの励ましがなかったことになるわけじゃない。
俺に向けた視線がなかったことになるわけじゃない。
彼女の全部が俺を向いていなかったからなんだというのだろう。
それこそ、いつからそんなに弱気な人間になったのか。
自室へと着き、先日植え替えをして空いたほうの鉢を手に取る。
一度はしまった植え替えの道具と土の残りを引っ張り出す。
ドリーと同じ名を持つ植物を、新しい鉢へと移してやった。
気持ちは落ち着いているのに、なぜだか想いは強くなった気さえする。
「“戦士を癒す万能薬”、ね」
結局自室の窓辺に置くことになった鉢を見て、思わず苦笑が零れた。
俺は代わりに、窓辺にあったもうひとつ、まだ今年は咲いていない花の鉢を手に取る。
去年よりも一回り大きくなったそれは、まだ蕾のままだ。
「鉢の柄だろうが、こんだけ花が咲いてりゃ上出来だ」
花柄の鉢を持つ自分は、傍目には見ていられないだろうなと思いつつ、そのまま立ち上がった。
まだドリーはいるだろうか。
朝方、蹴破ってしまったせいで壊れたドアをくぐり、廊下へ出る。
今夜はクラインから小言があるかもしれない。
しかしそんなことはすぐに忘れて、俺は再び、足をロビーへと向けた。
「心底驚きゃいい」
三度現れる俺を見て、またドリーが驚けばいい。
そんな俺が花なんか持って、告白してくるんだからなおさらだ。
想像するだけで笑いが零れそうな光景に目じりが下がるのを感じつつ、俺は一歩一歩と来た道を折り返したのだった。




