推しのファンサが手厚すぎる!②
『蛮骨の狼』
彼をそう呼び始めたのは観客だったのか、新聞記者だったのか、対戦相手だったのか。
顔立ち自体は整っていて美形そのものな彼だが、その表情や纏う雰囲気は荒々しく、特に彼の眼光はいつだって鋭く人を寄せ付けない迫力がある。
人との馴れ合いを嫌う彼は、魔法も使わず、剣だけを携えてその身一つで戦う。
そしてただただ強かった。
そんな彼を推し、ファンとして応援するうちに、私は彼が人に対して冷たいだけの人ではないことも知っている。
それでも、私はこのファンサ・デーに参加するにあたって、過度な期待など微塵も持ってはいなかった。
推しを推す道を示した友人アクサナは言った。
推しとは。
そこにいてくれるだけで大正解。
自然体の彼が正義でファンサは後から付いてくる。
そもそもファンサ・デーに参加してくれることそのものがファンサである。
私は、その言葉を胸に握手会へとやって来た。
列に並び、私の順番が回ってくるまで、現場初体験の私は、彼とファンの人とのやり取りの様子をうかがっていた。
アクサナの言っていたとおり、確かにファンは一人ずつ、一言か二言はヴォルフ様に声をかけているように見えた。
それに対しヴォルフ様は、興味なさげだったり、面倒くさそうにしたり。
一人の持ち時間は十秒くらいだろうか。
たった十秒と思われるかもしれないが、私にとっては十分すぎるほどだったし、推しと握手をし言葉を聞いてもらえるという好待遇ぶりに神に感謝したほどだ。
だというのに、今の私のこの状況はなんだ。
『“ドリー”。俺もそう呼ぶが、構わないな?』
再び、ついさっきヴォルフ様に投げられた言葉が頭の中にこだまする。
ヴォルフ様は私の名を呼んでもいいかと聞かれた。
私はそれに「はい」と言った。
実際には大層取り乱し、「はい」なのか「ひゃい」なのか「あ、え、あ」なのか分かったものではなかったが、肯定の意思は伝わったはずだ。
そして、この、間。
今は握手会の最中のはず。
一人の持ち時間はせいぜい十秒。
なぜかたっぷりと、会話の間を感じる余裕まであるなんてそんなこと、あっていいはずがないのに。
すでに脳内シミュレーションどおり挨拶をし、軽く名乗ったり、応援していることや、普段から元気をもらっていることなんかを伝えさせてもらっていた。
“なんだか他の人よりたくさん話しているような?”
そう気づいたのも、もう随分前のことだ。
彼が問うたことに私はなんとか返事をしたものの、ここからどうしていいか分からない。
彼と固く結ばれた手に視線を落とすも、離されるような気配は微塵もない。
明らかに時間超過をしている今、彼の隣に立つ職員、握手の時間の管理をしているはずのクラインさんを見るけれど、彼はにこやかに笑むだけで、私と彼との握手を止める素振りすらなかった。
この沈黙の時間はなんだ。
握手会では、握手終了の何か決まった合図をファンが出さなければいけなかったりするんだろうか。
私は今、混乱のさなかにいた。
緊張と混乱で、握手をしている手には尋常ではない手汗をかいている自覚がある。
すでに自分の体感はあてにならないが、彼と握手をし始めてからもう数分は経過しているんじゃないかと思う。
だからといって、私から手を離すなんて、そんな勿体ないことできるはずもなかった。
「なあ、ドリー」
なんと、彼はもう一度私の名前を呼んでくださった。
キュンDeath。
彼の声が聞こえるだけで私の心臓はおかしな音を立てる。
彼のその声が私の名を発音し、私に投げられているというその事実に、私の理性は揺れ、ますます精神も情緒も崩壊していく。
どうしてくれよう。
彼は、私を下の名前の呼び捨てで呼んだ。
「おい」でも「お前」でもない。
私は間違いなくこの後、彼が私の名を呼ぶ妄想に数時間は励むことになるだろう。
デート、新婚さん、学生パロの三パターンは固い。
そして、彼は女性の名前を呼ぶ前に許可を取る。
これは公式見解。
だって、今さっき、本人がそうしたから。
そうだ、本人!
突然戻ってきた理性に私は顔を上げる。
何か返事をしなければと思うものの、もはや何を言われたのか、何を言ったらいいのか何も分からない。
「ありがとうございます!」
脈絡も何もなく感謝の言葉を吐いた私だが、お礼を言っただけ偉いだろう。
私はもはや極度の緊張と混乱で、正直自分でも自分が何をして何を言っているのか分かっていなかった。
直後、放たれる弾丸。
「俺にしとけよ」
スパァン!
パァン……
パァン…………
目に見えない矢かなにかが、私の心臓を撃ち抜き、わんわんと、余韻が木霊すような、そんな錯覚がした。
「え? は? あ、え、えっ、あ、ファンサ、ファンサですね!? 心臓が、心臓が破裂するかと、思いました! あは、あはははは! あり、ありがとうございます!!」
私の推しが!
こんなにサービス精神旺盛だなんて!
知らなかった!!
助けてほしい!
サービスに!
溺れる!
私の目を見て何事かのたまうこの人は、ファン相手になんてことを言っているんだと叱ってやりたいくらいだ。
すっかり動転した私は壊れたように言葉をまくし立て、気づけば握手していた両手を彼から離してしまっていた。
私はもうパニック状態といって差し支えなく、顔が熱すぎてのぼせて倒れてしまいそうだ。
私は今のどさくさで手が離れたことだけを理解すると、「時間ですよね!? 後ろにも! こんなに人が並んでる!」と、職員のクラインさんに言っているのか独り言かも分からない言葉を早口で言う。
それから推しに向かってガバリと勢い良く頭を下げると、「幸せな時間でした!」と捨て台詞のようなものを残して、スタコラとその場から逃げ出したのだった。
「またな。ドリー」
最後に、ヴォルフ様とは思えないほどの優し気な温度を持った声がかけられた気がしたが、果たしてそれが現実だったのか妄想だったのかすら、混乱の極致にいる私には分からなかった。
私の背中越し、ため息と、それから短く吐かれた言葉。
「帰る」
「残り全員捌く約束ですよ」
「……」
「……」
「……」
「俺にしとけってあなた、そもそも、この列に並んでるのに」
「ア゛ァ? なんか言ったかクライン」
「いえ、なにも」
逃げるようにその場を離れる私には、そんな彼らの会話が聞こえているはずもなかった。