顔剥ぎ
■0.
「冗談だと言ってくれ……」
奴が何のためにそれをするのかは分からなかった。何故といって、奴はなにも言わないのだ。つまらないとでも言いたげに、淡々とそのおぞましい行為をやっていた。
とにかく奴は手当たり次第人間を捕まえては、せっせとその顔の皮を剥ぎ取っていたのだ。相手が絶叫し暴れるのも構わずに、淡々と皮を剥いでいたのだ。
はじめ、私は目を疑った。やはりどうあがいても尋常な光景に見えるはずがなかった。深夜とはいえ街明りに照らされた公園であればなおさらのことである。
非常にさっぱりと言い表したけれども、実際はそんな生易しい光景ではなかった。あえて一言で表すならば酸鼻の極みとでも言おうか。
むろん顔を剥がれて無傷でいられるはずがないので、もはや筋肉の標本さながらに剥かれたそれからは始終ぼたぼたと真っ赤なものが溢れだし、服にまでべっとりと染み付いている。
何が一番恐ろしいかといって、顔を剥がれているのが一人ではないということだ。彼らは公園の芝生の上でのた打ち回りながら、あるいは奴の足で押さえ付けられながら、顔面を押さえて悶えていた。
絶句したまま立ち竦んでいると、何故だか奴は剥いだ皮をまた元通りにくっつけようとその顔面に押し付け始めた。
当然のことながらうまく行くはずがない。
不思議なことに、皮を顔に貼り戻した途端に、地面で転げまわっていた彼らの絶叫がぱったり止んだ。彼らが助けを求めるようにふらふらと歩き出したところを見ると、どうやら息絶えたからではないらしい。
そのかわり顔面には奇っ怪に皺がよってしまっていて、人のそれではなくなっていた。
それはもう、顔面を思いっきりぐしゃりとやられたような歪みっぷりなのだ。遠目にも判るほどに、皮膚が丸ごと、ずれて歪んでいるのだ。
――奴に見つかれば、私の顔も剥がれてしまうのだろうか。
考えるだけでぞっとした。もし見つかればあの見たくもない容貌の仲間入りをさせられてしまうだろうということは想像に難くなかった。吐き気を誘うほど激しい動悸を感じて、思わず口元を覆う。
このままではいけない、と硬直した身体に鞭打って、息を殺してその場から離れようとした、その時だった。
奴が、ぐるんと首をこちらに回した。
もちろん、道路を挟んだ向こうにいる奴の顔など遠すぎて判らない。しかし不可視な何かが首筋にねっとりと絡みつく感覚に思わず怖気立ち――そしてそれが奴の視線だということくらい、すぐに判った。
奴と目が合った瞬間、凍りついていた私の身体が自由を取り戻した。
――逃げなければ。
そう、取り敢えず安全な場所に身を隠す必要があった。頭の中でその考えが纏まったのより一瞬早く、私は体をひねって、奴からなるだけ離れようと全速力で走っていた。
■1.
視界の端で、コンビニが後ろに流れていく。人が大勢いる場所は安全だろうかという考えが一瞬脳裏を掠め、同時に奴の無差別な凶行も思い出される。もしその全員が顔を剥がれていたら、なんて考えたくもなかった。
一時も休まずに走り続けていると、やがて一棟のマンションが見えてきた。周りの建物より頭一つ分ほど抜きんでた、灰色のほっそりしたフォルムのマンション。その一室が私の住まいだった。
自動ドアが開く速度さえ遅く感じられ、私は隙間に身体を捻じ込んで中に転がり込んだ。正面にあるエレベータには目もくれずに階段を駆け上がる。待っている時間が惜しいというより、自宅以外の個室に閉じこもりたくなかったのだ。映画の見過ぎと笑われるだろうが、この時ばかりは洒落にならなかった。
五階まで一気に駆け上がり、そのまま自宅の扉の前にたどり着いた。一呼吸置く間もなく、息も切れ切れになりつつも、もぎ取らんばかりに把手を引っ掴んだ。
扉を開くと、中は真っ暗だった。外の方がまだ明るいくらいだ。玄関に一歩踏み入り、扉を閉めると一寸先も見えないほどの闇に包まれた。
ほとんど機械的に寝室まで行って扉を開け、中に身体を滑り込ませて扉を閉める。どっと疲れが押し寄せてきて、扉にもたれかかってしまった。そのまま力なく腰を落とす。慣れ親しんだ空間の居心地の良い空気に包まれて脱力し、深く息を吐いた。
――刹那、ジーンズのポケットの中から電子音が響いた。張りつめた静寂が勢いよく破られ、心臓が跳ねあがる。
左胸に爪を食い込ませて浅く呼吸を繰り返す。一拍おいてようやく携帯の着信音だと気が付くと、安堵と共に沸々と怒りが湧いてきた。
「くそっ、殺す気か……!」
頭に血が上ったせいか名前もろくに見ず、乱暴に通話ボタンを押してスピーカーに耳を当てる。
『――××!』
「えっ、あ、はい!」
取るか取らないかの内に勢いよく名を呼ばれて、私は思わず飛び上がった。それは普段から親しく付き合っている人物の声だった。
「な、なんですか急に?」
奇妙な事に、返事をすると彼女が驚いたような気配を見せた。
「あの、何か?」
聞き返すと彼女は黙りこんだ。妙に居心地の悪い空気が漂う。しばらくして、その空気を振り払おうとでもするように、彼女は口を開いた。
『えっと、もう大丈夫なの?』
「は……何がですか?」
『……。いや、取り敢えず今からそっちに行くよ。……うん、そっちの方が早い』
「あ、ちょっと、待って!」
訳が分からなかったが、そんなことより彼女に伝えねばならないことがあったのを思い出した。一度では信じてくれないかも知れないが、あの顔剥ぎがいたことを知らせなければなるまい。
「えっと、顔を剥ぎ歩いている男がいたんです。見たんです、私。剥がれてても皆死んでいなくてでも皆痛がっていて、」
彼女は電話の向こうで沈黙した。続けて話す私の声が震える。
「気をつけてください。捕まらないで、絶対に。もうあんなのを見るのは嫌だ……」
彼女はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
『顔剥ぎが現れたの?』
私はそうですと言いながらも不思議に思った。
――何故彼女は「顔剥ぎ」という単語を知っているんだろうか?
『そう、分かった。そっから動かないでね?』
「え、ええ……」
そう言うと、電話が切れた。私はしばし画面を見つめた後、マナーモードに切り替えて携帯を閉じた。
■2.
携帯電話を上着のポケットに押し込み、鞄を引っ掴むと、彼女は急いで外に出た。
「…………」
またか、と思った。
――顔を剥ぎ歩いている男がいたんです。
彼の言葉が思い出される。
朝に話を聞いてから、「顔剥ぎ」が彼の中で具現化するのは遅かれ早かれ避けられないだろうとは踏んでいた。だが予想外だ。
こんなにも早く、現実と幻覚の区別がつかなくなるとは思わなかった。
車に乗り込んでから、鞄を助手席に放った。そのまま発進させる。
もう夜もすっかり更けてしまっている。街明りをぼんやり眺め、晩酌でもしたかったんだけどなあ、と少し残念に思った。だが仕方ない。自分の患者を他人に任せるわけにはいかないし、真夜中に叩き起こされるのも覚悟しなければ――。
ちょっとした愚痴を頭の中で展開しながら交差点を右折する。そこで、ふとした疑問が彼女の脳裏を掠めた。
「……もし、幻覚であるはずの存在に顔を剥がれたとしたら、どうなるんだろう?」
もしそうなれば、彼は幻覚に顔を剥がれてしまうことになる。無論幻覚に実体などないから、顔を剥がれるとすれば――。
その事実に気づくや否や、アクセルをめいっぱい踏みつけた。彼女の顔からは血の気が引いていた。
タコメーターが跳ね上がるのを横目にハンドルを切った。
■3.
彼の住んでいるマンションの一室まで駆け上がり、真っ先に把手を掴んだ。本来ならチャイムの一つでも鳴らすべきだったろうが、彼女の念頭には緊急事態だと言うことしか頭になかった。鍵は開いていて、簡単に中に入ることができた。
廊下を渡って左手側の扉を開けるとそこは真っ暗な寝室になっていた。奥で微かに 動く人影が見えて、彼だと確信した。無意識に壁を探って電気をつける。
「うわ、びっくりした! 何で勝手に入って来てるんですか!」
「……ッ」
そして彼女は、間に合わなかったと悟った。
■4.
急に扉が開けられたかと思うと、人影を確認する間もなく勝手に電気をつけられ、慌てて腕で顔を庇う。眩しさに一瞬目の前が見えなくなった。
「うわ、びっくりした!何で勝手に入って来てるんですか!」
半ば憤りながら腕を避けて人物を見据える。
「……ッ」
すると目の前にいる人影は――彼女は私を見て、次の瞬間には戦慄の表情を貼りつけて後退りしたのだ。
何かがおかしいということくらい、混乱した頭でも察することくらいはできた。はっとして手を自分の顔に持っていくと、なにやら顔の表面がぬるりと動くのだ。指の動きに合わせて皮膚がぬめりぬめりと這うのだ。
途端にどうにもうまく呼吸が出来なくなって、私は喉元を押さえた。何故彼女が後退ったかは、とうに見当がついていた。だって最初に見たではないか、公園での非現実な光景を。
視界の右端に妙なものが移り込んだ気がして、恐る恐る右を向く。
そこには、窓があった。嵌め込まれた窓は、まるで鏡のように辺りのものを反射している。部屋の壁に扉、彼女の背中、そして私の顔も――。
「……!」
私はその時初めて、自分の顔を直視した。暗い窓の向こうに浮かび上がっている私と目が合ったのだ。歪んだ真っ赤な皮膚に半分埋まった白い球体の上で、小刻みに揺れる黒い円がこちらを凝視している。
正視に耐えない状態になった自身の顔から眼を離せずに呆然と立ち竦んでいると、彼女が床に頽れ、拳で床を叩いた。
「わたしがもっと、もっと早く気がついていれば!」
「…………」
身体ごと彼女の方へ視線を持っていく。床に頽れて肩を震わせる彼女を見ながらぼんやりと思った。
確か彼女はいつも言っていた。君の見る非現実な現象は幻覚なんだ、存在しないんだよ、と。だから頑張って治そう、それは諦めずに戦えば絶対治るから、とも。
彼女は信じていたのだ、顔剥ぎが私の生み出した幻覚であると。でも彼女の言い分はおかしい。どうして私は幻覚であるはずの顔剥ぎに顔を剥がれたのだ。
きっと彼女は言うだろう、私がその幻覚を真に受け、その結果――、
「君が自分で自分の顔を剥ぐこともなかったのに!」
ああ。
ああ、そういうことか。
瞬間、耳をつんざくような絶叫が私の口腔を震わせた。鼓膜を貫かんばかりに鋭く、とても人の声とは思えぬ音だった。
二、三歩後退り、窓に背をつけた刹那、部屋の中を破裂音が迸った――と同時に、引き込まれるような感覚が背中を襲う。つい先ほどまで足の裏にあった固い地面の感覚が消え去り、反射的に伸ばした手も虚しく空を掻いた。
嵌め込まれていた窓ガラスが、割れたのだ。
私の身体はぐんぐんと降下していく。彼女が必死の形相で腕を伸ばしている姿もみるみる遠ざかって行った。きっともうすぐ地面に叩きつけられるのだろう。不思議と、地面と身体が触れ合うであろうタイミングを漠然と把握できた。
もう直ぐ、もう直ぐで私の身体が――。
■5.
「―――!」
内蔵が置いていかれるような、吸い込まれるような感覚にはっと目を開けると、私は布団を足に絡ませ枕を抱きながら、ぽつんと寝そべっていた。
「…………」
夢だ、夢を見ていたのだ。だんだんと頭が冴えてきて、意識が現実に戻ってきた。意識が少しずつ身体に浸透していき、感覚が戻ってくる。
実に奇妙な夢だった。そう思いながら寝返りを打った。しかしどんな夢だったかと夢の内容を思い出そうとすると、何故だか足元からぞわりと冷たいものが這い上がってくるのだ。
その感覚を振り払おうとして重い身体を無理矢理起こし、ため息をついた。変な夢を見てしまった。そう、今思えばひどく現実味のない夢だった。人の、私の顔が――。
「……いや、」
私は慌てて首を振ってそれを追い払った。思い出してはいけない気がした。
思わず指で顎をなぞる。特に異常はなかった。
ベッドの上で視線を泳がせる。壁に掛かっている月めくりカレンダーが目に入った。ちらほら書き込まれている中には、今日の日付の欄も含まれている。
―カウンセリング―
「……あー、」
彼女と会う約束をしていたのを思い出して、早速身支度を始めた。
■6.
診療所に入ると、真っ先に診察室に向かった。扉をそっと押し開ける。ここは診療所と言うより、応接室に近い。
彼女は正面にある机に向かい、真剣な面持ちで書類に目を走らせている。挨拶をするのも邪魔をするようで悪いと思ったので、少し距離を置いて待つことにした。まもなく彼女はこちらに気がついたようだ。私を認めると、笑顔でこちらにやってきた。
「おはようございます。今日はどうしたの? 面会は午後七時よ」
「あれ、そうでしたか?」
「君が指定したんでしょ?」
首をかしげて考え込むと、彼女は苦笑した。
「今すぐは難しいけど、時間を繰り上げましょうか?」
「いいえ、こちらの失態ですから」
そう言って踵を返そうとすると、彼女が呼び止めた。
「最近でも悪夢を見る?」
「だいぶ落ち着きました。でも今日は男が手当たり次第人の顔を剥がしてました」
「……。まだ悪夢は見るんですね。目を覚ましていても、悪夢と同じ光景を見ますか?」
「はい。あいかわらず……これも現実になってしまうんでしょうか」
「現実にはならないよ。君がそう望まない限りは」
「そうでしょうか……」
「そう、だから見ても無視するように。それは現実ではないの」
「でも……私にはあれが幻覚とはどうしても思えません」
「君は感づいているはずよ、自分の意思で病院に来るんだから……」
「……」
私は会釈をして、今度こそ踵を返した。
何年か前からか、悪夢を頻繁に見るようになった。それらはどれをとっても非現実的で、今回の「顔剥ぎ」のように私を追いかけ回すという点で共通していた。
そして今度は、悪夢が実際に目の前で展開されるようになった。
彼女は言った。幻視は稀なのだと。
■0.
日はもうすっかり暮れていた。街灯に照らされたアスファルトを眺めながら足を運んでいると、ジーンズのポケットの中で携帯電話が震えているのに気がついた。開いてみると画面の上で彼女の名前が踊っている。
応答すると彼女は心配そうに言った。
『ああ、やっと繋がった!何かあったの?』
そういえば、と思って時計を見た。もう九時近くになってしまっている。
私は押し黙った。彼女もしばらく沈黙していたが、やがて、柔らかい声でこう言った。
『ねえ、今どこにいるの?』
「……すみません。今日の予定はキャンセルしてください」
そう言って電話を切った。
電話を閉じて視線を上げると、車道を挟んだ先に、閑散とした小さな公園がぽつんとあった。しばらく眺めていると、やがて公園から奇妙な女がやってきた。
緋色の服を着たその女は、顔面を掌で覆い、前屈みになってふらふらと車道を横切って、しだいに私の方へ近づいてくる。
女の方は私に気が付かなかったのだろうか、私となんら接触することなく通り過ぎてしまった。
声のひとつでもかけるべきだっただろうかと今更ながらに後悔して視線を背後へやろうとした時に、妙なものが視界に移った気がした。
暗がりの中街灯の明かりを頼りによくよく目を凝らしてみると、女の通った後に点々と赤い斑点ができていたのだ。
私は仰天して振り返ったが、女の姿はもうどこにもない。ただ、嫌にしんと張りつめた深夜の住宅街を従えたアスファルトのくすんだ灰色の道が、街灯の明かりにぼんやり照らされて延々横たわっているだけである。
途方に暮れて視線を戻した途端――ありえないものを見た。
「冗談だと言ってくれ……」




