染沙:蝶と紅月、独り酒4
突如光が遮られた。
驢馬はゆっくりでも、確実に進んでいたようだ。天安門が空を覆う。
ようやく、外に出られた。
私は勢いよく身を起こす。しかしどうにも、勢いが良すぎたのかもしれない。
「っつお!!」荷台から転がり落ちた私はうまく着地できずに顔から地面にぶつかった。ああ痛い。多分鼻が折れた。顔中がひりひりする。手で顔を覆いながら薄く目を開けると、人、人、人、人という人の足が私を中心に輪を描いている。
「おいおい嬢ちゃん、大丈夫か」
「その恰好、女官なのかい」
「かあわいい顔してんじゃないの」
荷車から降ってきた少女に興味津々の、祭りで爛々と生気を得た人たちの顔が私を覗き込んでいた。その数だけでも、私が一度に見たことのある人数より遥かに多く、いっぺんに話しかけられてどうしたらいいのか分からなくなって、金魚みたく口を動かしては言葉を紡げずにいた。
そのとき、ぬっと一人の少年の顔が目前に迫った。私より幾つも年下に見える。
「おい、大丈夫か?」
少年は私の手をとり、立ち上がらせた。
「え、ええ、大丈夫」
「ちょっともう、どいたどいた!怖がらせてどうすんだよ!!」
そういいながら私を囲っていた人たちを掻き分けて大通りを進んでいく。小さな背中で、なんて頼もしいのだろう。
「流石、蝶史じゃねえか」
「お前さんじゃ釣り合わないよ」
「ガキが色気づくんじゃないぞ」
ヒュー、口笛を吹き、蝶史と呼ばれた少年を茶化す声。
これが北京。これが都。そして今は祭り時。私の都デビューは最高じゃないか、とひとりごちる。今までも都に出ようとしたことはあった。しかしその何れも、太監たちに取り押さえられて乳母に厳しく折檻されるという幕切ればかり。半ば心も折れかけていて、今回も科挙試験の日程がわからずに都に下りるつもりはなかったのだが、連雲の一言で心は決まった。
「明後日には科挙試験がありますよね。今日は花火が上がるかもしれません」
科挙試験前には国中の挙人たちおよそ二万人が会試に備えて北京に集まる。藍衣を纏う才子たちが知恵と天子への敬意、政治への情熱を示す難解な論文形式の試験。二万人が受け、進士登第を果たせるのはたった二百人程度という狭き門。そんな方々とお話がしてみたい、というのが正直なところだった。先人に感じる魅力はなにか、どの詩文が好きか、おかしな封建制度について、一体どう考えているのか、政治家になって志すところはなにか。私はともかく熟議したかったのだ。この世界について、誰かと。