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連雲:沈黙と花火

後宮の住人たちが、後に清王朝の歴史を揺るがすことになるそのただならぬ事態に気づいたのはもう日が暮れた後のことであった。山の稜線に沿うようにおどろおどろしいほど紅い色をした夕日の余波が都の一帯を覆っている。夕飯前、染沙様を花火にでもお誘いしようと思って、私は書類整理を仰せつかってこもりきりになっていた青緑殿から納戸のある二藍殿へ向かった。

爽やかな風が背後から吹き付けた。

後宮で仕え始めてからごくたまに感じる、懐かしい香りが、名も知らぬ花の分子が、私の体に満ちていた。

美しい、美しい夕刻の空だった。

しかしその感情が憚られるほど、恐ろし気な空でもあった。

「染沙様、そろそろ花火が上がりますよ。ご一緒にいかがですか?」

返事がない。

ぴんと張り詰められた空気の流れだけが、都で響いている人々の嬌声だけが、平坦に鳴り響いている。

もしや、と思った。

この納戸の扉を開けて、もし染沙様がいらっしゃらなかったら、私は京太監様に厳しく折檻されるだろうか。

染沙様をそれとなく諫めることが私に与えられた任務だという不文律は私もそれなりに勘付いてはいたが、だからといって他の任務も仰せつかるのに一時もお傍を離れないという所業がどうしてできよう。

「染沙様、入りますよ」

掌に酷く汗をかいていた。

京太監様への弁明を今から考えている自分がいる。いつものことじゃないかと自分に言い含めて、乱れ始めた呼吸を整えて、恐る恐る、納戸の扉を開く。

「染沙様?」

染沙様は、いらっしゃった。

明かりの消えた納戸の中で、他の姫君ならば絶対にしない季節に乗り遅れた冬定番の、雪の下に合わせた着物の白地を部屋中に広げて、それが山ほどの書物を覆っていた。

ご本人は書き物台に突っ伏して、筆を持ったまま何かを書きかけて眠っている。

「なんだ、いらっしゃるじゃないか」

安堵で思わず声が震えた。これで折檻を受けずに済む。

そして、どうにも、染沙様が素直に納戸に籠っているとは思わなかったので奇妙な思いだ。嬉しいような、しかし信じられないような。

私は僅かにある床の隙間に指先を立てて染沙様に近づいた。書き物台に広がった染沙様の長い髪が、こぼれた墨汁で濡れている。

「染沙様、御髪が!!」私は慌てて染沙様の髪を書き物台からのける。重たい髪だった。そして、つんと、鉄の匂いがして__________。


ごろんっ。


頭だけが、染沙様の首から転がり落ちて。

虚ろな双眸が、じいっと、私の方を見ていた。

「うわあああああああっっ!!!!!」

私は思わず飛びのいた。

書物を蹴散らし納戸から転がり出て、通りがかりの誰かと勢いよくぶつかってしまう。

「おい、どうした連雲、女みたいな悲鳴上げて……」

ぶつかった相手は梨生だった。

彼が運んでいた書類があたりに散乱する。

ともかく、納戸の惨状を伝えなければ、と思った。

しかし、なにを言えばいいのか、そもそも何が起きたのかすら判然としないままだ。

染沙様がお亡くなりになられていて、首が切られていて、白い着物に広がった赤黒い血、墨汁かと思って、私は、私は……一体、どうして?

「そ、……おな……首がっ……血がっ……私、私は……」

泣きながらぱくぱくと口を動かし続けた。

梨生は言葉の意味を図りかねたのか一時私の背を擦っていたが、首だの血だの、只事でない単語を繰り返す私に目を大きくして、納戸に駆けていってしまった。

私にはもう体を動かす気力がなかった。

どうしようもなくその場に蹲っていると、私の悲鳴を聞いてなんだなんだとやってきた太監や女官が、納戸の扉を中心に弧を作った。

「連雲」

梨生が納戸から大廊下に向かって歩み来る気配がした。

私のいるところからは野次馬根性の太監女官の背中で見えなかったが、ひっと息を呑んで、野次馬たちが後退る。

数人が私同様に蹲り、たまらず吐く者もいた。

私はそうしてできた隙間から、梨生の姿を臨んだ。

こちらに歩み寄る彼の姿を。

着物を赤黒く濡らし、傍らに染沙様の首を抱える、彼の姿を。

「梨生、お前、なにを……?」

「よく見ろ連雲、これは、染沙様じゃない」

「……え?」

私は口元を袖で抑えて、首になってしまった、染沙様ではないらしい誰かの顔を窺う。

「え、え?どういうことだ。なにが起きて、いや、どうして……」

その顔は、女官の明琳にとても良く似た造りをしていた。

私はわけがわからなくなって吐いた。吐き続けた。

梨生も顔を歪めて立ち尽くしている。

染沙様のものではないでのものではない明琳の首を抱えて。

しかし、それなら、染沙様はどこに消えたのだろうか。

季節外れの雪の下の着物を着た女官が首をなくして死んでいた、その納戸の主である彼女は、一体どこへ?

「その、その首をかしなさい。とにかく、亡骸を運び出そう。女官達は染沙様を捜索しろ。都を隈なく探せ」

野次馬の一人に溶け込んでいた京太監様がいち早く冷静になって指示を出した。集まっていた太監も女官も足早にその場を去っていく。

「まさか、染沙様の仕業だというのですか?」

外面の流暢な北京の言葉で梨生が問うた。

「外出たさに、女官と自分の着物を取り換えた。そこまでの合点はいく。しかしいくら染沙様といっても、非力な少女に過ぎませぬ。首を切り落とすなんて」

京太監様は梨生から首を奪い取り、舌を打つ。

「そうだ。問題はそこだ。いくら染沙様が悪名高いといえども、学問を嗜んで首は切れぬ。狙われていたのは染沙様の方だと考えるのが妥当だろうな。そして身代わりになっていた女官が殺された。言葉通りの身代わりになったのだ」

「そ、それなら、染沙様の身は、今も危険にさらされている……」

突如、パンッと静寂を打ち破る破裂音がした。

皆が肌を粟立てて立ち止まる。

花火が、打ちあがったのだ。

パンッ、パンッパンッ、パンッ、キャアキャア、パンッ、ヒュー。

連続して色とりどりの火花が空に散る。

星のようなさりげなさはなく、主役級の火花が間も開けずに中空を舞い続ける。後宮内の、その惨状を見た者たちはただ茫然と、私も、梨生も、京太監様も、北京の空に弾け飛ぶ光の粒を仰いだ。



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