連雲:沈黙と花火
「あら連雲、ここ、間違っているわ」
鳥が部屋の外の、あらゆるところから囀って、逆に煩い。
染沙様の住まいは後宮の奥の奥の、またずっと奥の、人気のない庭の一角にあった納戸を改良して造られた、たった一部屋である。
床にも机にも漢文・詩文、孫子、孔子などあらゆる学術書が所狭しと、使い古されて汚れたその表紙を並べていて、足の踏み場もないが、かといって世話係の私が片づけようすると、頑なに首を振る。
機嫌を損ねられても困るので、なんとかしたい気はありながらずるずると現状が引き続いている。外で囀り続けている鳥たちも、染沙様が気まぐれで餌付けをしていたら後宮内に住み着き始めたのだと同い年の太監が愚痴っていた。
どうにかしてくれないか連雲、あんた、あの可愛らしい公主様のお付きだろ?
どうにかできるならどうにかしている、という考えはないのかと私はその太監に激しく憤った。
可愛らしい公主様という皮肉は、後宮全体に広まっている。
確かに、小さな顔に配置されたパーツは端麗、全体的には浮世離れした美しさが魅力的な染沙様は、そこここの豪商がこぞって婿になろうとするほどの地位と、美貌の持ち主だ。
なにしろ、この国を統べる天子様の娘なのだから。
皆が揃って可愛らしい公主様と揶揄する所以は、古今東西の学術に精通している、という点にある。
彼女は嫁としては完璧だろうが、才子というのはそれだけで各地方の豪商にとって大きな汚点らしく、積極的に婚約を申し込む者はほぼいない。
家を上げて教育を施された男児たちは、皆押しなべて染沙様と自分の才を比較し、一人皮肉に陥るのだ。
可愛らしい公主様。可愛らしいだけならばいいのに、という意図だろう。
「ねえ、なにをぼうっとしているの?」
「……ああ、すいません。ええっと、___花間一壷の酒、独り酌みて相親しむなし、杯を挙げて明月をむかえ__あ、ええと、なんでしたっけ」
「覚えていなかったから間違えたのね。___月既に飲を解せず、影徒らに我が身に随う、暫く月と影とを伴いて、行楽須らく春に及ぶべし_____」と、染沙様はここまでを一息に諳んじると、がばっと纏足の足をコンパスのようにして立ち上がった。
季節外れの、雪の下に合わせた着物が空気を孕んで膨らんだ。
「___我歌えば月徘徊し、我舞えば影繚乱す、醒時は同に交歓し、酔後は各分散す‼永く無情の遊を結び、相期して雲漢遥かなり____ああ、とっても素敵」
情熱的に身を抱き、舞台上に舞う妖艶な劇役者になりきる染沙様を私は微笑ましく見守る。
三か月前は、ここまで見事に漢文を諳んじる女がいるのかと、驚きで縮み上がったものだが、今はいくら平常心で乗り切れるといえども、これは慣れない。染沙様のこの発作は相当の頻度で起きる。
本人も外出する折などは気を付けているようだが、夏秀帝の次女、つまり染沙様の姉にあたる水波様のお呼びでお茶をご一緒した際もまた、梅の花が散る様子を詠った詩文をこれまた情熱的に諳んじられた。
「やっぱりこの子、女のくせに漢文なんぞ覚えて、公主として恥ずべきことだということ、わかっていらっしゃらないのかしらあ」
と水波様が妹の癖を小馬鹿にすると、染沙様はなんとも不思議そうな顔をして
「漢文も詩文もそうですが、先人の優れた知覚を美麗に反映していて、なおかつ長い時を経ても人々の間で語り継がれるものは、琴や歌と同じで芸術といえますのよ。私、琴も歌も大好きだけれど、先人が命を削って書かれた文を読んでいる時が、一番心安らかでいられますの。スィーおねえさまも、ひとつお覚えになるといいでしょう」
淀みなく言い返して場を凍り付かせた。
私は無い肝をひっつかまれたように恐ろしかったが、染沙様は何事もなかったかのように、石像が如くかたまってしまった姉に花が咲くような笑みを向けるとあっというまに姿を消してしまった。
「して、連雲、この歌の題と作者は?」
どこで覚えてきたのか、巷の教師のような素振りで染沙様は私を指す。
「はい。月下独酌、李白の作でございます」
「あたり‼あなた、本当にもの覚えがいいわよね。昔は糞を拾っていたなんて実は嘘で、おとうさまが私を見張るためおいた学者のお弟子さまだったりして」
「そんなまさか、私は一介の貧民に過ぎませんよ。染沙様に教えていただいたことは、洗濯をしている時も風呂に入っている時も、片時も忘れずに反復して、忘れぬようにしています。何しろ、読み書きを教えてほしいと貴女様に頼み込んだのは私のほうでございますから」
染沙様は嬉しそうにこくりこくりと頷いた。
太監であっても読み書きができるに越したことはない。そして私が学問に興味を持てば、染沙様はお喜びになられる。
ぴーちくぴーちく。鳥たちが囀り続けている。祭囃子のような鳴き声を聞いていると、都で行われている科挙試験の前祭の様子が思い浮かんだ。
「そうだ、明後日には都で科挙試験が行われますよね。今夜は花火が上がるかもしれません」
「あら、科挙試験が!?」
染沙様はずいと私に詰め寄った。
「科挙試験、ねえ。進士登第を目指す挙人様たちがこぞって厳しい会試に挑む三年に一度の試験。毎年不正が絶えないのは考えものだけれど、この国の未来を担う、志し有る才子たちが都に集うこの時期は、胸の高鳴りを感じるわ」
「そうですねえ、後宮はなんの変わりもありませんが、大通りはてんやわんやの様子ですよ。屋台を出すにも、場所の争いがたえないそうで、暴動が尽きないのだとか」
「街の様子を見てきたの?」
「ええ、京太監様のお付きで女官の明琳と。天子様のもとへ届け物があったのです。水波様がどうしてもお渡ししたいものがあると仰って。朱色の、文のようなものを」
私は指で四角を作って見せた。
水波様から預かったのは、ちょうど人差し指の長さほどある小さな紙切れだった。これまた小さな朱色の封筒に入れてあり、それを天子様にお届けするというだけの簡単なお勤めだったので、上司である京太監様が書類の始末をなさっている間、私と同輩の明琳は気を抜いてにぎやかな街の景観を眺めていることができた。
明琳は都に用があると別れたが、もしかしたら一人で露店を巡ってきたのかもしれない。
「スィーおねえさまが?」
「なんの御用か、までは、流石にわかりませんけれど」
「ふうん、そうなの。連雲は街に出てきたのね、しかも、明琳まで。いいなあ」
「染沙様はいけませんよ。公主様が街を歩いているなんて公になったら、どんな輩が動きだすか。本当に、恐ろしいことになるんですからね」
「わかってる、わかってる。連雲までそんなに念を押し出すなんて、逃げ場がなくなっちゃうじゃない。乳母様にも京太監にも、きつく言われてわかっているもの。もう放っておいてちょうだい‼」
まったく、この可愛らしい公主様は本当に分かっていらっしゃるのか。
染沙様が後宮を出ようとした機会は幾度かあった。
しかし染沙様の住まう納戸から大門までは相当な距離がある。
それまでに太監たちに囲まれて、乳母に鞭を打たれるのがおちなのだが、今回もそうには違いない。
染沙様がこの広大な後宮の納戸のような汚らしい場所に追いやられたのは、彼女の外への、熱烈な羨望にも起因しているのだから。
「それでは、私はこれで失礼しますが、お約束ですよ。どうか街には行かれないで」
「分かっているわよ。まだ言うつもりなら、本当に出て行ってしまうわよ?」
頬を膨らませて不平を垂れる染沙様をなんとか宥めて納戸の扉を閉めると、気が抜けたようになって、思わずため息がこぼれた。染沙様はお優しい方だし素晴らしい倫理観をお持ちで、天子様の子と思えないほど人間らしい。まして読み書きについて教えてくれと頼んだのは私だ。どうにか彼女を喜ばせたかった。
しかし、主人としての染沙様はというと、厄介極まりない相手に思えるのは、なぜだろうか。