#5
5.
鼻唄が聞こえる。間違いない。先週も夢の中で聞いたことがあるこの声。美咲ちゃんの鼻唄だ。
「夕焼け小焼けの赤とんぼ、おわれてみたのはいつの日か。」
僕が口ずさんで、彼女はこちらに気付く。
「こんにちは美咲ちゃん。」
僕は挨拶をしてみた。
「こんにちは大野君。えっと、歩夢君。」
彼女がこのように返すから、僕は驚いた。なぜ名前を知っているのだろう。僕は先週名乗ったけれど、彼女には聞こえていない感じであったし。
「どうして、僕の名前を。僕、名前言ったっけ。」
彼女に聞いてみたら彼女はすぐにこう答えた。
「名前は、もともと知ってたよ。夢で見たの。大野歩夢君という私と同い年くらいの男の人がこの公園に来るとても楽しい夢。今、こうして会ってるよね。」
「そうなんだ。」
僕はこれが夢だと知っている。牧野という現実の存在のおかげで。そして、高校時代、大学時代、一人も彼女ができなかったという現実のおかげで。だから、僕は夢の中だと知っているから、美咲ちゃんに声を掛けた。現実であれば、それはナンパかセクハラに間違えられて警察沙汰になってしまうかもしれない。
「他に、夢の中で僕にあったことはある。」
彼女に聞いてみた。
「うん。カラオケに行ったり、ショッピングに行ったり。」
すなわちデートのようなそんな感じであった。デートかあ。こんな可愛い子とデートができるなんて。夢の中の僕は誇りに思っていた。しかし現実は甘くない。牧野もいるし、成果を出さなければ、林田さんにまた怒られてしまうかもしれない。今の現場のお客さんに納期が延びるとか言って、障害が出たと言って、怒られてしまうかも知れない。現実の僕と照らし合わせると、とてもそれは悲しかった。悔しかった。
一瞬の溜息。思い切って僕は話題を変えてみた。
「ねえ、鼻唄何時も歌ってるけれど、うまいね。ピアノとかやってたから、僕わかるんだ。」
「本当?ありがとう。そして、大野君もうまいね。昔、ママに教わったんだけど、私、歌詞、あんまり覚えてなくて・・・・。」
「そうなんだね。」
そうなのか、お母さんに教わったのか。きっとお母さんは素晴らしく、心が豊かな人なのかな。僕は彼女と話しているうちに、素晴らしい家族の温もりが彼女から感じられた。僕は思い切って切り出してみた。
「ねえ、またここで会うと思うから、ライン交換しない?」
彼女は二つ返事で、こくっとうなずいた。僕もどうせここは夢の中だし、ラインを交換しても、現実の僕の携帯に、反映されるわけがなかった。
それに僕は確かめたいことがあった。最初美咲ちゃんと会う時に感じた古い記憶。幼稚園の初恋の女の子、美咲という名前。もしかすると夢に、美咲ちゃんが会いに来てくれたのか。確信はないけれどあった。それは、美咲ちゃんが歌っている歌をお母さんから教わったということ。その事例で、きっとそうだと思いたかったが、ラインを交換すると違っていた。どうやら、僕の夢の中に初恋の美咲ちゃんが会いに来てくれたのは、妄想であり、間違いらしい。ラインの画面にはきちんと、『河原美咲』と記されていた。
「河原美咲ちゃん。・・・・。」僕はつぶやいてみた。
「そうだよ。この間も私、名乗ったよ。」
僕の初恋の女の子は、確かに美咲という名前であったが、名字は『杉山』である。杉山美咲もしかしたら、同姓同名の人もいるくらいだ。
「本当にありがとう、また会いたいな。」
「うん、またね、さよなら。」
美咲ちゃんと大きく手を振って別れた。そして、そこから意識がまた不明な状態が続き、夢から目覚めた。
夢から覚めた。2つの夢も先週初めて見たときより、密度が濃く、充実したものであった。時計の時刻は日曜の朝、7時半を指している。今日は午前中の礼拝から参加して、オルガンを弾かせてもらおう。身支度を整えて、家を出る。カフェリーフハーモニーの交差点を君島牧師の大きな教会の方へ曲がる。白い大きな建物の教会が目に飛び込む。
「大野君、おはよう。待っていたよ。」
君島牧師がいつものテノール声で歓迎してくれた。
「久しぶりですね、大野君。」
普段教会の礼拝に参加している人も歓迎してくれた。
「おはようございます。大野君。今日の讃美歌の楽譜です。」
デイヴィットくんが今日の讃美歌の楽譜を僕に手渡してくれた。相変わらず日本語がとてもうまくなったと感心する。
教会の礼拝を行う会堂は、一つの音楽の演奏会が行えるような大きなホールであった。この会堂が満席になるのは君島聖歌隊兼混声合唱団の定期演奏会、もしくは外部からの演奏会や講演会を行う場合のようなごく一部の日しかない。しかしながら、それでも教会の会堂に半分以上の人が座っている。聖歌隊兼混声合唱団メンバーの席は決まっており、一番右側の前から6列目までの椅子であった。今日はグループラインで出席の回答をしていたので、右側の前から4列目に座った。クリスマスやイースターなど特別な礼拝の時は聖歌隊兼混声合唱団のメンバーは前に出る時があるのだが、普段の礼拝はこの席のままその場で立って、讃美歌を歌う。
礼拝のプログラムは滞りなく終了し、久しぶりに大きな声で、大きな会堂で歌を歌ったという充実感があった。
ここからは僕の時間。教会の会堂のステージに駆け上がる。パイプオルガンが置かれている。パイプオルガンは世界に一つしかない楽器だ。楽器店が、それぞれの教会やホールに合わせてデザインを考えて、それぞれの教会やホールに納品するからである。つまりこのオルガンも君島牧師の教会の会堂の大きさに合わせて作ったものだ。
このオルガン、牧師がテノール歌手時代に、留学先のドイツのフランクフルトで、将来オルガニストを志しているわけではないが、オルガンの職人になりたいという人と友達になったらしい。何年か後に、君島が君島の父と同じ牧師の道を志し、念願の教会の牧師になった時に、そのドイツのオルガン職人の友達が、牧師就任祝いとして、作ってくれたそうなのだ。君島の世界中にいる友達の多さにとても感心する。
さあ、オルガンを弾いてみよう。思いっきりペダルを踏み、両手で鍵盤を抑えてい弾いてみる。素晴らしい音色である。何よりも、ペダル鍵盤ができることが美味しい。それでオルガンの音により一層厚みが増してくる。
弾きなれてきたところで、バッハの曲を一曲やってみる。メジャーなところで、「主よ人の望みと喜びを」か「小フーガト短調」か、それともオーケストラの曲をオルガンアレンジで弾いてみるか。と考えながら、「主よ人の望みと喜びを」の最初の一節を引いている自分の姿があった。
やがて、昼食をはさみ、午後から練習参加予定の聖歌隊兼混声合唱団メンバーが集まってくる。今日は『僕の町の小さな公園』の3曲目、4曲目の練習と、来月のクリスマスで予定している讃美歌も配られ合わせることになっていた。
今日参加予定のメンバーが集まり、最初の挨拶を行い、簡単なお祈りを済ませる。そして、デイヴィットくんからクリスマスの讃美歌の楽譜を受け取る。
「よろしくお願いいたします。いよいよ、教会もクリスマスへと突入します。今年のクリスマスはこちらの讃美歌でやります。それとコンクールで披露した何曲かをお届けしようと思います、どうかよろしくお願いいたします。」
君島牧師が挨拶を述べて、各パートのパート練習へと向かう。
クリスマスの讃美歌の中には黒人霊歌のような英語の歌詞の楽譜も含まれていた。この曲はバスのパートリーダ、デイヴィットくんの本力発揮だ。デイヴィットくんはこの曲の成り立ちを教えてくれ、英語の発音まで面倒を見てくれた。
そして、そのお返しということもあるのだが、『僕の町の小さな公園』の3曲目、4曲目、の日本語の意味を僕たち団員が教えてデイヴィットくんに教えていく。『ジャングルジムのてっぺんから』の歌詞はどうやら彼は気に入ってくれたようだ。彼も小さいころ、アメリカの公園で、高い場所に上って、木の実や花に手を伸ばした経緯があるのだろうか。国境を越えても、人の純粋さというのは素晴らしい。
『僕の町の小さな公園』の4曲目であり終曲の、『木枯らしの中と雪の下で』の練習に入る。この曲もやはりデイヴィットくんに、意味を教えていく。この曲も気に入ってくれたようだ。
「冬は春のためにある、感動しました。神様も乗り越えられる試練しか与えない、と言ってますが、まさにそれですね。乗り越えれば、まさに。」
おお、自分のことのようにこの詞の内容を解釈までできる。彼の日本語の上達がますます期待される。
いつものパート練習が終わり、君島牧師が指揮を振るアンサンブルへと突入する。
「アンサンブルをやっていきます。今日はクリスマスの讃美歌と、『僕の町の小さな公園』から後半の3曲目、4曲目です。よろしくね。では最初、『ジャングルジムのてっぺんから』で。8分の6拍子ということで、リズム感じながら、実りの秋らしく歌ってほしいところ、でも何か切ない気持ちの部分と歌い分けていきましょう。」
牧師のいつもの大きな指揮が今日も光っていた。彼はこの時を楽しんでいるようだ。神様に感謝しつつ。目いっぱいに腕を広げ、目いっぱいに感情をこめていた。
「ここはスタッカートのように軽やかに生きたい。」
「ここは思いっきり愛情をこめて。」
「ピアノの伴奏が変わってくる、それを聞かないと、曲が単調に聞こえるからね、気を付けて。」
君島牧師の指示は的確であった。やがて、この曲の最初から、最後まですべて通して歌うことになった。君島基吉作詞、作曲、『混声合唱組曲~僕の町の小さな公園~』より、『ジャングルジムのてっぺんから』の始まり。
『紅葉へと手を伸ばす
ジャングルジムのてっぺんから
どんぐりへ手を伸ばす 銀杏へ手を伸ばす
ジャングルジムのてっぺんから
実りの秋がやって来た
結んだ実は美しい
公園の並木も 秋の色で迎えてる
青い空へ手を伸ばす 澄んだ空へ手を伸ばす
ジャングルジムのてっぺんから
君の畑の実りはまだ先か
それでもいい
いつか君にしかできない作物が
育つことを信じよう
だから 君の夢へ手を伸ばす
ジャングルジムのてっぺんから』
「こんな感じの曲ですね。」
君島牧師は指揮を振り終え通し練習を終えると、しみじみ語りだす。
「この曲は8分の6拍子で軽やかに生きたいですね。でも、語るところは語りたい、次回はもっと細かく見ていきたいと思います、出は次の『木枯らしの中と雪の下で』へ進ませてください。」
この曲も3拍子であり、後半の2曲は、先週練習した前半2曲とリズムが違っていた。
「最後の終曲です。特に高声の方、かなり体の支えがしっかり必要です。頑張りましょう。」
君島牧師の言った高声というのは、合唱の中で高い方パートのことを言う。混声合唱の場合は、まず、総合して一番高いパートのソプラノがこの部類に入る。そして、もうひとパートこの部類に入るパートがあり、それが男声のテノールだ。つまり、女声部と男声部のそれぞれ高い方のパートを高声という。構成に対して低声という言葉があり、これが僕の所属している、男声のパートの中で低い方、バスというパートと、女声のパートの中で低い方、アルトというパートがこの低声という言葉の仲間に入るのだ。
確かに、この曲はテノールが高い音域を歌っている。体をしっかり支えて、安定させた声を出さないといけない。君島牧師も、この曲の高い音域で歌っているテノールの部分を気にかけながら、何度も練習しているようだった。そしてここから盛り上がっていく。最後は、先ほど、デイヴィットくんが気に入っていた言葉。
「冬は春のためにある」
という個所でこの曲のクライマックスを迎えていく。
例によって、この曲も一通り譜面をさらったら通し練習を行うことになった。
『ヒューン ヒューン ヒュルーン と
木枯らしが吹いてきた
木枯らしがブランコを揺らす
誰もいない公園で キコ キコ と 音を立ててる
冬を 寒い冬を 誰も知らないで耐えている 音が聞こえる
しんしんと 雪が降ってきた
公園の荒野に 白い 雪が積もるよ
でもね 雪の下ではきっと 木枯らしの中でも
春を待っている花がある
そうだ 冬は春のためにある』
「こんな感じですね。」
これも君島牧師はしみじみと語った。
「冬は春のためにあります。皆さんと来年も歌いたいです。演奏会成功させましょう。というわけで、ここからは、それに向けて今年の集大成、教会の集大成でもあるクリスマスの讃美歌を行います。まずは黒人霊歌の曲から、というわけで、黒人霊歌ということもあり、この曲の指揮は、急ではありますが、いつもお手伝いをしてくれている、デイヴィットくんにやってもらいましょう拍手。」
拍手が沸き起こり、デイヴィットくんが前に出てくる。おめでとうデイヴィットくん、念願の指揮者デビューだ。
「よろしくお願いします。それじゃやっていきます。」
彼の黒人の黒い肌でも、赤い頬の色が見えるようであった。緊張して頬を赤らめることも世界共通らしい。彼の表情も豊かで、なぜ、彼のような、肌が黒いというそれだけで、傷つけられた時代が存在したということが僕には理解できなかった。とても、表情豊かなデイヴィットくんを傷つけるなんて、世界史の教科書を見ても、理解できなかった。
デイヴィットくんは牧師の指揮を見ているのだろう、緊張していてもとても慣れていて、まず、やってみようと思い練習に挑んだ。彼もアメリカでゴスペルミュージックの経験があったため、堂々とした指揮を見せた。その姿勢が、国境を越えて、人種を越えて伝わってくる。僕たちも彼の指揮に応えないと。そう思って僕たちは一生懸命、彼の黒人霊歌の指揮の世界の理想図を汲み取って行った。
黒人霊歌の通しが終わり、デイヴィットくんの指揮が終わると、団員から拍手が沸き起こり、君島牧師も拍手をしていた。
「素晴らしいよ、デイヴィットくん。どうだ、このままクリスマス礼拝で指揮をしてみようよ。」
牧師がにっこりと笑った。僕を含めて、団員が満場一致で牧師の意見を認めるように拍手をした。そのままデイヴィットくんの指揮で、クリスマスの讃美歌の練習をすることになった。彼は終始堂々としており、コミュニケーションをとるための日本語も一生懸命に伝えようと頑張っていた。
やがて練習が終了する時間になり、彼の指揮もものすごい頑張りを見せ、団員から拍手が沸き起こった。牧師が簡単にお祈りを済ませて練習が終了した。冬場だからか、あたりは、日が沈み、すっかり暗くなっていた。
牧師とデイヴィットくんに、挨拶を交わし教会を出て、家に帰宅する。すると一気に肩が重くなる。牧野の存在だ。週末が終わってしまった。という感覚が一気に陥る。また明日から牧野と二人の作業が始まる。一週間は持つだろうが、来年はどうだろうか。来年まで持たない気がする。そんな気がした。