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3.
月曜の朝、いつものように胸やけとせき込みから始まる。しかしながら、今日はそこまで、せき込みをしなかった。今日は長谷川さんが僕と牧野の現場に来る日であったからだ。いくつものプロジェクトを掛け持ちし、急に忙しくなってしまった長谷川さん。基本的に牧野の引き継ぎは僕が行い、牧野や僕の質問したいことをまとめて、長谷川さんが来る日に応用的な引き継ぎを行うことになっていた。だけれども、せき込みが止まらない、胸やけも止まらない。なぜだろうか、僕は祈るしかなかった。
やっぱり来てしまった、現場の僕の机。出社してしまった。現場は9時の始業で、僕は少し余裕を見て8時40分ごろ現場に到着する。つまり会社に出社する。始業ギリギリになり、牧野が出社してきた。はあ、牧野の電車の遅れはなかった、そして、体調不良でお休みをしていた時期の持病は今日は悪化しなかった。心の中で僕はため息をつく。やがて詩業界紙のチャイムが鳴る。長谷川さんはまだ到着していない。もしものことが頭をよぎった。またか。またか。案の定、始業時間後に一通のメールが来た。『勤怠連絡・長谷川』という件名でメールが来た。
【体調不良で午後出社予定とさせてください。連絡が遅れて申し訳ありません。】
との内容であった。承知した。別に内容はこれでよかった。過去にもこのようなメールは長谷川さんから受信しているし、その間僕は一人で作業を進め、午後、長谷川さんが出社するころには、ドキュメントをすべて作り終え、長谷川さんが僕の作った資料のチェックを行う流れになっていた。そして、現場で終礼が鳴り終わったら、
「大野君、今日も午後出社してごめんね、午前中から出社しているから、君はもう帰っていいよ。チェック長引きそうだから。」
といって、早い時間に家に帰してもらえた。そして翌朝、メールをチェックすると、資料を納品済みです。と長谷川さんからお客様宛に送信したメールが自分もCCで送られてきており、さらに、別のメールで、僕宛てに、資料が間違っていたので、間違っていたところはどこで、このように修正しました。というようなメールが来ていた。長谷川さんは無口ではあったが、このように丁寧に、丁寧に僕に作業を教えてくれた。そして、僕と2人で仕事をしていた時は、午後出社します、というようなメールが来ても、遅くとも14時には現場に来ていた。
だが、牧野が来てからのここ数か月、長谷川さんの遅刻はエスカレートしていた。16時に現場に出社したり、時には終礼間際に出社した。もう終礼のチャイムが鳴るよ。なんで今頃来るんだろう。僕と二人でやっていたころは、14時ごろには体調が戻らないため本日はおやすみを頂きます、というような連絡が、追加できていたのに。ため息をついた。
―逃げたな、長谷川。バガ川―
結論はそれしかなかった。
この日も結局牧野と2人で大半の時間を過ごすことになった。現在このプロジェクトは繁忙期のため、牧野にはデータベースの比較的簡単なコマンドの操作から引き継ぎ始めた。そして、このコマンドの操作を実行すると、処理に2時間前後を要することになるため、その間に資料を見てもらいわからないところをまとめてもらうことにした。こうすることで、僕の、このプロジェクトの繁忙期の作業も比較的中断せず行うことができるし、質問の対応や、対応の不備で怒られる回数を少なくしようという試みであったが、これも逆効果だった。
「なんで、この作業をやるの。」
「資料がわからない。何でこの資料で今まで作業することができたね。」
「どうやってあなたは小川さんや長谷川さんから引き継いでもらったの。」
などなど、今まで、僕や長谷川さん、小川さん、そしてもっと前の方が作成してくれた資料を一通り渡したのだが、その資料一つ一つに、僕も答えられないような質問をぶつけ、いざ、答え方を間違うと、この資料を作った人までの悪口を言う。一つ一つの回答に時間をかけ、怒られていると、コマンドの処理が終了してしまう。細かい作業の引き継ぎは、この繁忙期が終了後の翌年以降に持ち越しということで、牧野も承知しているのになあと、一瞬思うが仕方ない。自分を中心に話題に入れてほしい人なのだから。地球は自分を中心に回っている、この世界は自分を中心にできている。まさにこの人のことを指す。
今は11月。この作業の繁忙期は12月で終了する。そして僕の会社はここで決算を迎える。そして、評価の時期へと突入する。これを乗り切れば。おそらくきっと林田さんから、前回の評価でグサッと来た一言を、覆すことができる。僕はそう信じて頑張った。
やがて、16時半頃、長谷川さんがやっと出社した。終礼の一時間前だがこれで作業に集中できる。ありがたかった。案の定、牧野は長谷川さんに質問していった。その間に僕は作業に集中して、大急ぎで今日の完成予定の二つの資料のうちの一つ目を完成させた。資料の納品は別日程だが、長谷川さんや林田さんのチェックやレビューしてもらうスケジュールを考えると、今日までにやっておかないと、という気持ちが先行する。
終礼のチャイムが鳴り、牧野が帰って行った。入院明けであるので、今年中は定時に帰宅させる約束であったからだ。これがありがたかった。急いで残業時間に2つ目の資料を完成させる。そして、明日の予定と、明日目安に完成予定の資料を少し進めておき、帰宅時間は21時であった。これでもまだましな方だ。最近はだんだんと帰る時間が伸びていく。この状態で、年明け、細かい作業の引き継ぎを牧野に行った際、どのようになるのかが心配であった。牧野の言動がますますエスカレートしていくのだろうか。それとも、別にアサインを変えてくれるのだろうか。僕は思った。
今週も牧野の言動に耐えながら、そして長谷川さんの勤怠に耐えながら、無事に乗り切った。会社に対しての牧野に対しての役回り、林田さんの勤めるシステム運用・コンサルタントチームの負の連鎖、そういったしわ寄せが僕の方によってきている、そんなように最近感じてままならない。
今週の終礼のチャイムが聞こえ、牧野が帰宅し、僕も無事に家の帰路に就くと僕だけの時間の始まりだ。虎の門から銀座線に乗り、新橋か、それとも足を延ばして、神田にしようか、日本橋にしようか。いや、今日もやっぱり新橋だ。浴びるほど酒を飲み、牧野のことをきれいさっぱり浄化して、週末を迎えたかった。新橋のどこでもいい、海鮮のお刺身が食べられる、飲み屋へ入ろう。
新橋駅で電車を降り、一目散に飲み屋に入る、
「おやじ、ビールを一杯。疲れた。」と大きな声で真っ先に注文した。
ビールが運ばれ、そして通しのたこわさが運ばれてくる。味が体に染みる。牧野の言動が日に日にエスカレートする度に、味が体に染みる、心にしみる度合いが、比例していく。お刺身5点盛り、から揚げ、てんぷら、サラダ。お酒もビールから日本酒に変えて、この店に常備してある日本酒の種類を一杯ずつ、全種類制覇する勢いで酒を飲んでいく。
やがて口元が、昨年歯医者で経験した、親知らずを抜いた時の麻酔がかかったような感覚に陥る、それと同時に、何を思っているのか、徐々に言葉で表現できなくなっていく。お店のラストオーダ―の時間になり、酔っぱらって意識が半分失っているので、今日の勘定も、財布の中からカードをお店の人に手渡し、領収書をもらうことにした。
帰巣本能はあるようで、最寄りの新橋から山手線に乗り、渋谷で井の頭線に乗り換え、自宅の最寄りの吉祥寺付近へと帰って行った。自宅の最寄りのコンビニで、ビールとほろよい、チューハイをさらに購入していく。そして、自宅のマンションに入り、先ほどコンビニで購入した、お酒の缶をすべてあけて飲んでいく。やがて、意識がなくなるのと同時に眠りについた。死んだように、僕は眠りについていった。