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「お先に失礼します。」ぼくは挨拶をした。
「お疲れ様です。」社内の人の何人かがそれに応える。
金曜日、時刻は午後四時半、僕は元気よく挨拶をし、この会社を退社する。毎週金曜日はこんな感じだ。そこから電車に乗り、空港へ向かう。一週間分の着替えと、私用の本やら何やら生活用品が入った、大きなキャリーケースを空港のカウンターへ預ける。
「大野歩夢様ですね。お荷物一点、羽田までお預かりいたします。」
係員に荷物を預けて、保安検査場に進み、飛行機に搭乗する。そう、僕は、月曜日から金曜日まで地方のクライアント先に常駐して週末だけ自分の家に帰る、そんな生活を行っている。だから毎週金曜日は帰宅する時間が早いのだ、そして月曜日も午後から入ることになる。今日は金曜日、帰りの飛行機が離陸する。離陸直後、疲れて飛行機内で眠りに落ちる。
という夢を見た。時計の針は土曜日の昼の時刻を指していた。おかしいなと思う。こんな魅力的な働き方があったら、そんな会社に転職したいくらいだ。いや、そもそも、転職ができたとしてもクライアントの最寄りに引っ越してしまうだろう。いや、諸事情で内定を辞退してしまうだろう。東京の僕の部屋は散らかっていた。ごみ屋敷のように・・・・。
昨日もどうやって自分の家に帰って来たかわからない。最近、仕事が休みの日の前日は一人飲み屋で浴びるほどの量の酒を飲み、意識がない中家に帰宅することが多くなっていた。
原因はとても明確であった。今週も牧野という女にこっぴどく叱られたからだ。少し前まではとても楽しいと思っていたデータベース運用のプロジェクト。データベースのコマンドを用いて、様々なデータを出力し、今年、このお客さんはどのような施策を行っていくのか、これを事前に分析し、様々な事業やソリューションを提供し、結果を報告していく。こんな楽しいプロジェクトはなかった。
だが、この楽しいプロジェクトに、2か月ほど前、新しく牧野がやって来た。別に僕が原因で怒られに出社するなら自業自得だ。しかし、この牧野という人物、僕の会社ではかなりの曲者であった。どのように曲者なのか。それは、10年以上も前、この会社の創立期から人の悪口しか言わない、何かあったらすぐ人のせいにする、その上、自分に関係のない話は何も聞かず、いや、そもそも人の話を聞かず自分の都合のいいように推し進めていく人であった。
ある人は、牧野と仕事をし、牧野に対し資料が出来上がっていないことを詫びたが、牧野が次の瞬間豹変し、机をバンバン叩き、大声を出して、「何でこんな小学生でもできないようなことができないの?小学生以下だ。」とドストレートに大声で怒鳴りつけ、これが4時間以上続き、周りの人間もつらそうな目つきでこちらを見ていたそうである。最後は怒られただけで終電まで逃してしまった、それだけ時間があれば、資料が作成できたのにと嘆いていた。これが毎日のように続き、ある人は会社を去ってしまった。
また別の人は、牧野とお客さんがシステムのメンテナンスの作業を行うに際し、手順書を作成することになった。牧野は僕の会社の設立時期から10年以上このプロジェクトに従事していたため、そしてお客さんも相当長い期間システムの作業をしているため。
「このメンテナンスは年次作業で、長いことやっているから大丈夫。手順書は簡単でいい、むしろ、必要ないくらい。今回行う作業のデータの整合性を何度もテスト環境で確認する作業を優先してください。」と別の人に指示をだし、お客さんもそれを承知していた。その指示を受けた別の人も、メンテナンスの手順書の優先度を下げ、メンテナンス作業のテストリハーサルを優先する予定を組んで、それを実行し、お客様からのメンテナンス作業の許可が例年通り、承認されていた。しかし実際のメンテナンス作業前日になり、牧野がその人に向かって、
「手順書はどこだ、ドキュメントはどこだ?こんな簡素なものしかないのか?幼稚園児でもそんなものは作れる。幼稚園児以下だ、日本語も雑。あなた、本当に日本人なの?これだと品質が悪いとお客さんに言われて取引が停止になる場合だってありうる。手順書をよこせ。作れ。直せ。」
と、横暴に言ってきた例もあり、徹夜で手順書を作成する羽目になった例もあった。
こんな例が10年以上続いたためなのか、挙句の果てに、本社の牧野のチームがうるさくて作業に集中できないと、本社で同じフロアのWebデザインチームから文句が来た。これにより、本社の席替えを行い、牧野や僕の在籍している、運用、コンサルタントチームの席の島の間に、誰もいない机の島が一つでき、その誰もいない机の島の向こうに、Webデザインチームの机の島が存在するようになった。以前は、その誰もいない机の島にWebデザインチームが座っていたはずなのに。
そして、牧野は自分が原因でその席替えが起きたことに気付いていなかった。別の意味でなんとも幸せな人だと僕は感じた。
その牧野が僕の現場に来ることになった。僕は本社ではなく、クライアント先に出向し常駐している。現場は虎の門で、医療系のお客さんのデータベースのサーバがたくさんある場所だ。そこでデータベースの運用をしている。
今、僕は牧野に怒られに行くために会社に出社していると思うようになっている。そして、出社するために、電車の中で酷い咳をし、胸やけを抑えながら出社するようになった。
このデータベース運用プロジェクト、初めは、小川さんという人が現場リーダをつとめる中でのびのびとやらせてもらえた。小川さんは2児の母でもあり、お母さんというような感じの人で、厳しい中にも母親という愛情がたくさんこめられていた。確かに小川さんに注意を受けたことは何度もあった。その中に厳しさもあった。しかし、僕はそれが普通だと思った。小川さんは2児の母ということもあり、基本的には定時退社を心がける、体調が悪い時も必ず優しく声を掛けてくださる。この働き方が素晴らしかった。そう、小川さんは飴と鞭の使い方が絶妙にうまかった。やがて僕が成長してきたということで、小川さんはこのプロジェクトから外され、本社の現場に配属になった。普段このプロジェクトはデータベースを基本とするので、お客さんのデータベースのサーバが管理されている現場の常駐となる。その現場も役所のようなところなので、基本的には夕方には終礼のチャイムが鳴る仕組みだ。うまく時間管理を行うことができていた。小川さんが本社のプロジェクトに戻ってからは、今まで小川さん、僕、そしてもう一人、長谷川さんの3人体制であったのが、僕と長谷川さんの2人体制になった。
長谷川さんは無口だがとても頼れる人であった。エンジニアというような顔つきで、システムのエラーが起きてもすぐに対応してくれる。わからない事を聞いてもすぐに返してくれる。年も僕と離れておらず、素晴らしい人であった。体調を崩しやすく、通院をしているのが欠点だが、2人体制の現在、長谷川さんの存在は大きく、この欠点も気にならない程度だった。文系の学部からこのシステム開発の業界に入ったこともあり、今まで在籍していた保守開発チームで、夜間対応や休日出勤も頻繁にある中で、スキル不足を多く感じていたこと、そして、今まで勉強するやる気も興味もなかったため、負のスパイラルに陥っていた。しかし、小川さんと長谷川さんの、データベース運用やシステムコンサルタント、営業をメインとしたチームのこのプロジェクトに参加することにより、少しずつではあるが勉強して、頑張ろうと思えてきた。
このプロジェクトが存在する現場には牧野の被害者の人も多かった。牧野と一緒に仕事をして、NGになり、現場である虎の門の高層ビルの同じフロアの違う部署に、僕と同じ会社の人が何人か常駐している。かつて、牧野と一緒に仕事をしたことがあり、プロジェクト内容は違っても、このビルの現場に常駐している、僕と同じ会社の池田さんは
「最後の晩餐だな。」と重い口で、僕に向かって語った。僕は本社とこの常駐先現場を行き来している働き方になっていたため、本社内で、牧野が自分の部下を長時間にもわたって、ひどい口調で叱っているのを見たことがあるので知っていた。ああ、これが僕に来るのか、まあでもあの人も人だ、普通にしていればいいんだ。普通に。それに長谷川さんがいてくれる。僕は気楽に構えていた。
だけれども事態は一変する。長谷川さんからお願いが来た。
「牧野さんの引き継ぎ、やってもらえないか。」と。この時長谷川さんはとても忙しかった。かなりプロジェクトの案件が立て込んでおり、ああ、そうか、いろいろな現場へ行かなければならないのか。それだったら、僕がやらないといけないんだな。そう思って僕は2つ返事で了解した。しかし、牧野の立ち位置を見ると、作業を行うより、マネジメントを行う人であった。マネジメント等は今まで長谷川さんがやっており、僕は作業メインだったので、一連の作業だけを引き継ぐことを条件とした。これは当然、長谷川さんも了承してくれた。
「申し訳ない、林田さんの思い切った命令だからさ。」長谷川さんが続けた。
頷くと同時に、なるほどここが林田さんの短所なのかとも感じた。
林田さんというのは、この運用やコンサルタント、営業を行うチーム、つまり今僕がデータベースの運用のプロジェクトを管理しているチームの部長だ。僕の会社は従業員が百人程度の中小企業のため、林田さんは部長兼執行役員でもあった。半年ごとに、僕たちの評価をしてくれる。口調はとても強いが、根は悪い人ではないように思えた。営業の腕前は素晴らしいく、僕はそこを尊敬していた。ただ、お客様に合わせるのが営業のコミュニケーションの取り方なのだろう、意見ががらりと変わったり、突然違うことを言いだしたり、ある意味、自由奔放さも併せ持つ人物であった。今回の牧野のアサインの件も林田さんの突然の思い付きらしい。なるほど、少し厳しくなるかなと思ったが、これはチャンスでもあった。
実は僕も林田さんの強い口調と、突然の思い付きの言い方を見たことがあった。それは僕に対しての半年に一度の1対1の評価面談の時だった。この半年の評価を林田さんは提示し、僕にこう切り出してきた。
「ここは、開発の会社、お前向いてないだろ。今は運用だけれど、出世が遅くなるぜ、同期や後輩はみんな開発を頑張ってランクが上がってるぞ、恥ずかしくないのか?手取りいくらだ?新しい転職先を探せ。」
と。確かに一理あった。すぐにでも探して、年収があげられるのであれば、上がりたい。だが、逆に悔しさもあった。それは、まだ会社の中では僕は一番下のランクだったので、次のシーズンで評価が上がる要素はあった。林田さんが切り出してきた半年間は閑散期だった。チームの予算も思うように上がらなかった。だから、低めの評価になり、給与も新卒当時からのままだ。だが次の半年は繁忙期。予算も達成できる。現に、忙しくなり始めている。それに僕はプライベートの活動もあり、お金が欲しければ副業とかで稼げばいい。逆に給与より休みが欲しい。そう思っていた。でも確かに、自分に向いてないシステム開発の会社で働き続けるのは、この先10年は無理がある。今は会社の僕のランクは低いので、次のランクに行く、評価を上げる、ということは次の半年間で、出来なくはないが、会社のランクが上がるたびにしんどくなっているのは明確であった。今のプロジェクトは現に楽しい。そのような意味もあり、急ぎではないが、転職活動をしてみることにした。一か月に一社の割合で応募した。この時も、なるほど、このようにして、林田さんの自由奔放で突然変わる意見を参考にしていけばいいのかと思った。
だが、2か月前に事態は急変することになる、牧野のアサインで、身も心も持たなくなっていった。初めは牧野も僕の引き継ぎに文句は言わなかった。ただただ牧野の被害妄想を聞いていた。
「ひどいと思わない?あたしが体調不良で入院して、退院したら、この有様。林田も、本社のメンバーもみーんなあたしを追い出したのよ。林田を当てにしない方がいい、やられる。やられた人を5人知ってる。あたしだって、前のプロジェクトではリーダーだったのに。こんな下っ端になるなんて。」
このような話を毎日のように聞かされた。ああ、なるほど。聞き役になればいいんだ。将来の彼女のために頑張ろう。おそらく今までの人は、自分はどうでもいいけれど、他人の人の悪口を言うな、皆悪い人に思わせるような言い方がとても気に入らない。と思ってこの人と働くことにNGを出した人も多いのだろう、きっとそうだ。でも、僕は大丈夫。ただ、注意しないといけないのは、ここは客先常駐の現場で、常時僕と牧野の2人しかいないということ。時々、長谷川さんも在籍しているが、最近は他のプロジェクトで駆り出されているから、それを頑張って汲み取ろう。本社であれば実際に悪口を言われている人を見ることができるので、根はそこまで悪い人ではなく、とても優しい人という印象が誰の顔を見てもうかがえるが、ここは本社のメンバーには会えないので、相当な心構えが必要だな、でも、本社の林田さんや、小川さんを知っているから、大丈夫。本社のみんなの本当の優しい心を信じよう。そう思った。乗り切れる。そう思った。最初の頃は。
だが、そうはいかなくなってきた。牧野の文句と悪口はさらにエスカレート僕に向かってやって来た。
「何言ってるの、さっきはAですと言ったのに、今はAじゃないって。」
「あの、これは特殊なパターンで、こちらの手順書を使うのです、すみません。」
「最初に言ってよ、こんなの幼稚園児でもわかること・・・・・。」と言いながら延々と説教が続く。
林田さんの自由奔放な発言のメールで指示が飛んできたときには、
「あなた、林田さんの操り人形なの?こんなの聴いてない、何で今まで黙ってたの?黙ってるように指示されていたのでしょ?」
と、こんな事例が延年と続いた。最後は、お客さんに怒られたのを自分のせいにされ、僕の悪口をどうやら、本社のメンバーに言ったらしく、僕の一番信頼できる管理部の方から、注意を受けてしまった。牧野さんの気持ちを汲み取ってほしいと。
このころから、酒におぼれるようになっていった。毎週金曜日は飲み屋を梯子し、どうやって自分の家に帰ったか、覚えていない日々が続いた。
今までのことを振り返った、そう思うと、今見ていた夢をもう一度見たい。何度も見たい。出張先のお客さんは素敵な人ばかりで、僕が東京から通っていることも承知している。今の会社もいい人がいるから、プログラミングが苦手でも入ったんだよな、それがこの有様じゃ。もう、パワハラなのか自分に非があるのかわからなくなった。自分に非があるのだろうな、こうやって僕は少しずつ、自分を追いつめた。そして僕はまた、頭がくらくらしているので、眠った。