01 暗殺者はこの日全くツイていない。たぶん、運勢は大凶。
――もしテレビや漫画で見るような正義の味方、ヒーローが実在したとしたら、そいつはきっと悪い奴だろう。
なぜなら、正義のためなら平気で人を傷つける。殺人だって厭わない。最低最悪のワガママだ。
それでも人々は彼らを求める。結果的に自分達を救ってくれるし、彼らも人々を助けようと考えているからだ。
「撃て! 撃てぇ!」
武装した集団は、一斉に発砲した。拳銃、ライフル銃、ガトリング砲。無数の弾丸が放たれる。
彼らは軍人ではない。テロリストだ。イナーム教という宗教を都合のいいように捻じ曲げ、異教徒を抹殺しようとする極悪人である。
そんな奴らのアジトに、一人の女が乗り込んできた。今、それを始末しようとしている所だ。
しかし、これだけ撃っても彼女には一発も当たらない。
狙いがデタラメなのか。いや、違う。彼女が全て避けているのだ。普通は肉眼では見えないような速さの弾丸を、それ以上の速さで避けている。彼女は怪物であった。
「ウワァ!」
「グフッ!」
「グワァ!」
女は次々にメンバーを殺していった。持っていた細身の剣で、喉や心臓などを一突きで。
一人、また一人と死んでいき、テロリスト達の恐怖はどんどん大きくなっていく。
中には命乞いをする者も現れた。しかし、彼女はそれを無視し、始末する。救いなど無い。そう言っているかのようであった。
恐怖に駆られたメンバーの一人が手榴弾を投げた。ここは洞窟の中。こんな所で使えば自分達もタダでは済まない。そんな事すら分からない状態だ。
それを女は冷静に投げ返し、投げた者の足元に落とした。爆発。落盤こそしなかったが、メンバーの肉片が飛び散り、大量の土煙が広がる。彼らの状況はさらに悪化した。
何も見えない。そんな中で悲鳴だけが聞こえる。生き残りは緊張と恐怖で足が震えた。逃げる事すらできない。
次第に土煙が晴れてきた。これで女がどこにいるのか見える。そう思っているのは、まだ助かりたいと思っているバカだ。
ここでの最良の方法は、死を覚悟して今までの悪行を悔いる事であった。これからさらに恐ろしい目に遭うのだから。
視界が良好になって現れたのは女ではなかった。半分人間、半分獣という異形の化け物である。
しかし、女の面影はあった。服装も同じ。彼女が化け物に変身したと理解するのには時間がかからなかった。
――だから、ヒーローは頑張れる。たとえ救えるのが一人であっても、どれだけ危ない目に遭っても、酷いバッシングを受けたとしても。
笑顔が、助けられて喜ぶ顔が見たいから。そのために命を張れる。血で手を染めたって構わない。それが信念だ。
「な、何なんだよぉ! お前はぁ!」
メンバーの一人が裏返った声で言った。
すると化け物はニヤリと笑い、そして答えた。
「アタシか? アタシは見ての通り、悪魔だよ」
洞窟いっぱいに、テロリスト達の悲鳴が響いた。
◆◆◆
54時間前。エメリゴ合衆国、ネオヨーク市。
ビルが密林の木々のように立ち、人や自動車は蟻の群れのように動き、無数の電灯や電光掲示板は夜でも昼間のように明るく照らす。
ここは様々な文化の発信地。先進国であるこの国の中でも、特に発展した地域である。
夕方。仕事を終えた人々で街が賑わい始める時間。
繁華街から路地に入った所にバーが一軒あった。まるで光を避け、影に隠れているかのように、である。
名前は『電気イス』。死刑を連想させる物騒な名前であるが、店内にはたくさんの客がいる。
ただし、その全ての客はどこかおかしい。今日は何人殺しただのと自慢する者、大量の札束を出して数える者、白い粉の入った袋を並べて商談を行なう者。明らかに悪い奴だ。
この店は裏の世界の住人が集まる所なのである。
そしてこの場にいる全てが、人の姿をした獣だ。
獣人。一言で言えばそう。だが、彼らは自身をズーマンと呼ぶ。『獣人』という表現はそもそも彼らには無い。
では何故、店に人間がいないのか。それは、遠い昔に絶滅したからだと言われている。
しかし、実際のところはよく分かっていない。今もどこかで生き残っているという話もある。
客の一人であるカリンもまたズーマンであった。白い毛で覆われた、兎の若い女性である。
カウンター席に座り、マスターと向かい合うようにして、酒を飲んでいる。その様子は落ち込んでいるように見えた。
実際、彼女は落ち込んでいる。仕事でポカをして、辞めなくてはならなくなったからだ。
「はぁ……アタシってなんでいつもこうなんだろ……」
カリンは大きくため息をつきながら、独り言を言った。そして右手でカクテルの入ったグラスを握ったまま、左手で頭を掻きむしった。
今日のような事は、今回が初めてというわけではない。コンビニ、掃除、警備、他にもたくさん。今までに様々な仕事をしてきた。そして、どれも同じようなポカをし、辞める事になってしまった。長続きした仕事は全くない。
「アタシってホント、ダメな奴だよな……」
そう言ってテーブルに頭をぶつける。
同じ事を言ったのはこれで何度目か、彼女は覚えていない。それに数えている人もいないので、何度目なのか知る事もできない。
しかしマスターは数えていなくても、ウンザリするくらい彼女が同じ事を言っている事には気づいたらしい。声をかけてきた。
「お客さん。ずいぶん落ち込んでいるようですが、どうしましたか?」
真っ黒なサングラスをかけた熊の男は、太い指でグラスを拭きながら言った。
「聞いてくれよ、マスター。アタシ、ピザ屋のバイト、クビになってさぁ……まかないでピザが食えるんで、気に入ってたのによ……」
カリンは頭を上げて彼を見た。彼女が小さいのか、それとも彼が大きいのか。とにかく身長差があるため、彼女のルビーのような赤い目は上目づかいだ。
ちなみにこの世界での飲食業界は食材に植物性の物を使う。これは肉食の人でも草食の人でも分け隔てなく食べられるようにという配慮なのだが、それは建前で、本音は肉食用と草食用とで食材を使い分けるのが面倒なだけである。
「ピザ屋……ですか」
マスターは眉をひそめた。
当然かもしれない。ここは裏の世界の住人が集まる店なのだ。そこにカタギの仕事をしていた者が混じっている。迷い込んだのか、そう思うのが普通だろう。
しかし、カリンの事情はそうではない。彼女は話を続けた。
「ああ。今日、店に強盗が入ってよ。つい条件反射で殺しちまったんだ。まあ、クビになったっていうか『もうここにはいられない』って思って逃げたわけなんだけどさ……」
「ほう、殺しですか……どんなふうに殺したんです?」
マスターは少しだけ興味を持ったらしく、体を前のめりにした。
彼もまた裏の世界の住人。彼女が語るような犯罪の話は、他の客への話のネタに使えるのだ。
「ん? アタシがレジやってた時なんだけどさ、いきなりやってきて『金出せ』って拳銃を出してよ」
「ほう、それで?」
カリンは身振り手振りで説明し、マスターはそれを見て頷く。
「バカな奴で、アタシの手が届くくらいに突き付けてさ。だからチョップで手首を折ってやった」
「はいはい」
「で、机の上に銃を落としたから、奪って撃ってやってさ」
「なるほど……ちなみに、何発撃ちました?」
「あー、7発かな? 胸に北斗七星作ったから」
カリンは思い出すのに少し時間をかけてから答えた。
「北斗七星ですか。美しいですね」
「……あ。悪ぃ、8発だった。最後の一発を脳天にブチ込んでやったんだった」
「つまり、そこが奴の死兆星だったというわけですな?」
「まあな。その前にもう死んでいたかもしれねぇけどよ」
二人は同時に笑う。落ち込んでいた気持ちは少しだけ晴れた。
「あ、そうそう。逃げるついでにさ、今日の分の給料をレジからいただいたんだっけな。ついでに強盗の財布もいただいて」
「……ふっ。これじゃあ、どちらが強盗なのか分かりませんね」
「そうだな」
カリンは微笑むと、残ったカクテルを一気に飲み干した。
「おかわり」
「お客さん、そろそろ違うものを召し上がったらどうです? 『クリームパイ』ばかり、もう7杯目でしょう? コーヒーリキュールを使ったカクテルですから、眠れなくなるかもしれませんよ?」
「大丈夫だって。ほら、早く」
「……かしこまりました」
マスターはすぐに作り始めた。
「そんなに気に入りましたか?」
手を動かしながら彼は聞く。
「ん? まあな。甘いの適当にって頼んで出てきたヤツだけど、コイツは最高だ。甘いミルクにホイップ、凄ぇセンスだと思うよ」
「そうでしたか。喜んでもらえて光栄です。アヴァさん」
「へ?」
その名前を聞いた瞬間、カリンは目を見開いた。
アヴァ、それはかつて仕事で使っていた偽名である。そう呼んだという事は、昔の彼女を彼は知っているという事になる。
「銃を突き付けられた状況で、そんな事をできるなんて普通じゃ無理です。殺しに身を置く方、それもかなりのプロでなければありえない行動です。そして貴女は兎だ。殺しを得意とする兎。そんなのアヴァさんぐらいしか考えられませんよ」
「まいったな。いや、別にこういう場所じゃ隠すつもりはなかったんだけどよ」
「いやぁ。まさか、あの天才暗殺者の貴女が来店してくださるとは思いませんでしたよ」
手を伸ばして握手を求められたので、反射的に応じた。彼はとても嬉しそうだ。
実はカリンは裏の世界では有名人である。若くして一流の暗殺者となり、殺しの天才と呼ばれている。
「しかし……何故貴女がピザ屋なんかで仕事を?」
マスターは新しい『クリームパイ』を出しながら、不思議そうな顔をして訊ねてきた。
無理もないだろう。殺しの仕事というのは儲かるのだ。リスクが大きい分リターンも大きい。だから少なくても大富豪みたいな贅沢な暮らしをしない限り、お金には困らない。副業、それもカタギの仕事なんてする必要は無いはずなのだ。
「あー、それは……だな」
「はい」
「引退……したんだ。もう暗殺者は辞めた」
少し答えにくかったので、カリンは息を吐いてから答えた。
「何故です? 貴女はまだ若い。それに、仕事ができなくなるような怪我をしたようにも思えません」
マスターは明らかに驚いた様子で訊ねてきた。
その様子にカリンはたどたどしい言葉で説明する。
「実は……今……家族と暮らしているんだ。死んだと思っていた妹と。ずっと殺しとは無縁の暮らしをしてたみたいでさ。……カタギなんだよ。アタシはあの子と暮らしていたいし、あの子もそうしたいと思ってる。だからアタシもカタギにならなきゃって思ってさ」
「そんな……暗殺者にはカタギの家族と暮らしている者もいます。別にそうする必要は無いでしょう」
そう言われて、カリンは小さくため息をつく。
「……マスター。暗殺者と殺し屋の違いって分かるか?」
「はい。しかし、いきなりどうしてそんな質問を?」
「いいから。分かるなら言ってみろって」
促されて、マスターは軽く咳払いをしてから説明を始めた。
「殺し屋というのはお金のために動く者です。まあ、殺しの代行業者と言ってもよろしいでしょうか? それに対して暗殺者というのは、教えや信念に基づいて動くものです。どちらも報酬を要求しますが、行動原理が違います」
「大正解」
「ですが、今の質問の意味は?」
「だからさ、暗殺するには信念がなくちゃいけないんだ。でもアタシはそれを失くしちまったのさ。だから辞めたんだ」
「信念を失くした? 貴女が? いったい何故?」
「それは……秘密だ」
カリンはカクテルを真実と共に飲み込んだ。
全てを語る必要なんてない。第一、自身が思い出すのを拒否している。本当に、悲しくて、つらい、苦い記憶。口にすれば平静を保つ事なんてできないだろう。
決して言う事が無いよう、彼女は口に力をかける。
「そうですか……であれば深くお訊ねする気はありません。誰にでも言えない事はありますから。しかし、引退だけは考え直してもらえませんでしょうか?」
「なんで? 別にアタシじゃなくても暗殺者はいっぱいいるだろ? 代わりなんてすぐに出てくるって」
「何をおっしゃいます。貴女の代わりなんて簡単には見つかりませんよ」
「んな事言われてもねぇ……」
カリンは少しだけ不快な顔をした。
励まされるのはいい。しかし、カタギになりたいと思っている自分を裏の世界に引き戻そうとしている。もちろん嬉しくはない。
「しっかりしてください。貴女は必要な人なのです。世の中には死んだ方がいい人がたくさんいます。裏にも表にも。そいつらを始末し、多くの人に希望を与える。言わばヒーローですよ」
「……ヒーロー? アタシが? まさかぁ」
「いえいえ、本当ですって! 貴女ならなれます! いえ、もうなってます!」
「違うと思うんだけどなぁ……」
カリンは少し照れた。しかし言葉通り、自分はヒーローになれないと思った。
ヒーローとはどんな人物か。彼女はよく知っているつもりであった。優しく、強い、正義の味方である。
では自身はどうか。殺す事しか能が無い。それに教えや信念に基づくと言っても、結局は上から指示を受けて殺す。受け身の仕事だ。そんな者にヒーローを名乗る資格があるだろうか。答えはノーだ。
「自分にもっと自信を持ってください。……あ、では、それを証明させてあげます。後ろの方をご覧ください」
「後ろ?」
カリンはチラリと後ろを見た。
テーブル席に8人、似たような顔をした小男達が騒いでいる。全員ネズミだ。
「ツケが溜まっているんです。全員、3ヶ月分もですよ? たぶん払う気が無いんですよ。今日だってきっとそうです。このままでは店が潰れてしまいます」
「それは……よくないな」
「お金が払えないなら、『体』で払ってもらうしかありません。というわけで、どうか私を救っていただけますでしょうか?」
マスターは困った顔をして頼んできた。
この場合の『体で払う』とは皿洗いをやらせろとかそういう意味ではない。文字通り、体で代金を払ってもらうという事だ。
裏の世界では死体は金塊のようなもの。換金、つまり売れるのである。小男達を始末してもらい、その死体を売り払って代金を取るつもりらしい。
「あのさ、聞いてなかった? もう殺しはしないの。他の奴に頼んでくれ」
「お願いしますよ……お代をタダにしますから……」
「え? タダ?」
タダという言葉にカリンは反応した。
正直、今日は飲み過ぎた。量の話ではなく、代金の話だ。ピザ屋の給料は安い。強盗の財布の中身も少なかった。それに元々の持ち合わせも多くはない。
もしかすると払いきれないかもしれない。そう思うと、乗らずにはいられない話であった。
しかし、そうするとまた殺しをしなくてはいけなくなる。もうしないと決めたのに、その禁を破る事になる。
妹を裏切るつもりか。心の中で叱る声も聞こえる。だが、支払いを考えると仕方ないようにも思える。
「……わかったよ。やればいいんだろ?」
さんざん悩んだあげく、カリンが出した結論はこれであった。
支払えないのはマズい。小男達同様、命を狙われるのは困る。妹にまで飛び火しては最悪。そう思ったからである。
「おお! ありがとうございます。いやぁ、一流の方の殺しが観れるなんて感激です」
「……アンタさ、本当はそれが本音なんじゃね? まあいいけどさ」
カリンは軽くため息をつくと、首と肩を回した。そして、テーブルの上に右手をかざす。
その手に気を集中。そうしながら、息が止まるほどに冷たい氷をイメージする。
すると小さな塊がテーブルの上に現れた。氷である。それはどんどん大きくなり、何か形を作り上げていく。
ブーメランであった。綺麗な『く』の形をし、刃のように鋭い。
手に取ると、ズシリと手に重さを感じ、巨大なツララを握ったように冷たい。
「ほう、魔法ですか」
マスターは感心した様子で言った。
魔法はこの世界において普遍的なものである。しかし、誰もが使えるというわけではない。
魔法を使うには魔力と呼ばれるエネルギーが必要だ。そのエネルギーを生み出す体質の者だけが使う事ができる。現在は『科学』という物理法則で魔法を再現したもの、つまりは誰もが使えるものに覇権を奪われつつあるが、生まれ持った特殊な才能として、魔法を使える者は今も一目置かれている。
「ああ。で、だ。これをだな……」
「はい」
「投げる」
カリンはブーメランを手の平の上で一回転させると、振り向きざまに投げた。
高速で回転しながら飛ぶブーメラン。行先は小男の一人。弧を描きながら、頭に向かって行く。
衝突。しかし、ブーメランは止まらない。脳を斬り落とし、そのまま飛び続ける。
二人、三人、四人……他の小男達も同じであった。最初の一人のように脳を斬り落とされ、死んでいく。
そして八人目、最後の一人を殺したブーメランは向きを変え、カリンの方へと飛んでいく。
勢いは衰えない、このままでは彼女も小男達と同じ末路を辿る……素人にはそんな風に見えただろう。
「おかえり」
しかし、その心配はいらなかった。それを彼女は平然とキャッチした。親指と人差し指で挟んで受け止めたのである。
「お見事! 鮮やかなです!」
「まだまだ。クライマックスはこれからだ」
そういってカリンはブーメランを今度は上へと高く投げた。するとそれは空中で姿を変え始める。
銛であった。マグロやサメを仕留めるのかと言いたくなるような、大きな銛である。
重力に引っ張られ落下してくる銛、それを彼女は掴み、そして槍のように投げる。
銛は真っ直ぐに飛んで行く。その先には誰もいない。正確には、客のスレスレを通り抜けるが、誰にも当たらない。
そのまま便所の扉に突き刺さろうとした。すると、急に扉が開き、中から一人出てきた。
今さっき始末した小男達にそっくりなネズミの男だ。ここで気づいたが、どうも彼らは兄弟であるらしい。
その男に銛が突き刺さる。眉間にグサリと、完全に貫いた。
男は倒れる。もちろん絶命。目をキョトンとさせ、自分が死んだ事さえ分からないかのようだ。
「確かアイツもだったよな?」
カリンはマスターの方に向き直った。
「ええ、よくお分かりで」
「アタシをナメるな。どいつがどこで何をしてるかぐらい、全部把握している。もちろん目標の一人が便所に行った事もな。でもアンタは言わなかった。何考えてやがる?」
「いえ。貴女ぐらいであれば皆まで言わなくても大丈夫だろうと思いまして……」
「アンタさ……人が悪いとか、意地悪だとか、そんな事言われたりするだろ?」
「さあ? どうでしょう?」
微笑むマスターの顔を見て、カリンはため息をついた。
「で? アタシがヒーローになれる証明がどうのってのは?」
「すぐに分かりますよ。ご覧ください」
マスターに言われ、カリンは再び後ろを振り返った。
すると他の客達が騒ぎだしていた。裏の世界の住人であっても、殺しに無反応というわけではない。好奇心から興味を持つ。だが、それだけではなさそうだった。
「おい、誰か死んだぞ」
「誰が殺した?」
「女だ。兎の女」
「待てよ。アイツ、アヴァじゃね?」
「マジか?」
「『身長150cm』、『バツグンの太腿』、『平たい胸』。間違いねぇ! 噂通りだ!」
ザワザワと騒ぎは大きくなる。そしてそれは次第に声援へと変わっていった。
「スゲェ! あのアヴァが来ているのか?」
「あんな殺し方、俺には無理だ!」
「流石はアヴァだ! シビれるぜ!」
「サインくれねぇかなぁ!」
「俺を奴隷にしてくれぇ!」
有名人が来ている。それもたった今、殺しの技を披露した。大人しくしていられるはずがない。
「ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ! ア・ヴァ!」
一斉にコール。こうなると無視するわけにもいかず、カリンは皆に小さく手を振った。
「貴女はご自分の影響力をお考えになっていません。バスケットボールや野球の選手のように、あるいはヨーヨーの名人のように、皆さんを喜ばせるエンターテイナーなのです」
「……でもよ」
「それだけではありません。貴女は私を救っただけではなく、お客様全員を救ったのです」
「客を?」
よく分からないカリンは、首を傾げた。
「私達、裏の者にも安心できる場所が必要なのは、貴女もご存知でしょう? ここは裏の者である事を隠す事なく、堂々としていられる数少ない場所、皆さんにとって大事な場所なのです。ここが潰れては皆さんは大変困るでしょう。貴女はその危機を救ったのです」
「救った……ねぇ」
「ヒーローといっても、全てを救えだとかそんな事は申しません。ですが、たとえ殺しという世間から見れば悪いと思われる事でも、誰かを救う事ができるという事をお伝えしたかったのです。そしてその役割は貴女にこそ相応しいとも、ね」
「殺して救う……か」
カリンは言われた事を復唱した。
そういう考え方は今までになかった。だが、一理ある。
掃除の仕事をしていたから分かる。汚れは誰かが綺麗にしないといけない。綺麗にするから喜ばれる。汚れを人に置き換えれば、同じ事が言える。
しかし、殺しは殺しだ。世間に胸を張れる事ではない。とてもカタギとは言えないし、むしろ裏の世界に逆戻りだ。
妹の事を考えるとどうしても躊躇ってしまう。思いは複雑だ。
「まあ、すぐに決めろとは申しません。しっかり考えて決断してください。ただ……」
「ただ?」
「家族の事を、相手の事を思うのは大切な事だと思います。しかし、やはり自分がどうしたいか、正直になる方がいいと私は思いますけどね」
マスターはそう言って微笑んだ。
「アタシがしたい事……」
一口飲みながら、カリンは考えた。
二つある。一つは妹のためにできる事は何でもやる。もう一つは得意な殺しを職業にする。
だが、二つは両立できない。どちらか一方に決めるしかない。どちらを選ぶか。彼女は悩む。
「まあ、いいや。すぐに決めなくていいなら、後で。一ヶ月ぐらいかけてさ、ゆっくり考えていけばいいや」
カリンは残りを一気に飲み干した。
◆◆◆
「帰ったぞー」
アパートの一室、つまり家に戻ったカリンは声をかけた。
あれからどれだけ飲んだのか分からない。だが、意識はシラフのようにはっきりしていた。現役時代の特殊な訓練により、アルコールに対して異常な耐性があるからだ。
声をかけた途端、妹がパタパタとやってきた。まるで親を待っていた幼い子供のように、これでもかというくらいに明るい笑顔で。
もう18歳になるというのに、そんな雰囲気は微塵にも感じさせない。
「お帰りぃ~。今日は遅かったねぇ~」
彼女はいつものユルい言い方で迎える。そしてカリンにハグをした。
いつもの事、しかしカリンにとって至福の瞬間だ。これから2、3分くらいそうする事になっている。
しかし、今日は違う。彼女はすぐに止めた。
「お酒臭~い」
少し眉間に皺を寄せる。それを見てカリンは申し訳ない気持ちになった。
普段なら仕事が終わったら真っ直ぐに家に帰る。だが、今日は飲まずにはいられなかった。仕事をクビになり、家に帰りづらかったからだ。
「……悪ぃ、ハンナ。今日は飲んできた」
カリンは謝る。
するとハンナは不機嫌そうな顔をした。肩を怒らせ、糸のように細い目は傾斜がキツくなる。だが、これは遅く帰って来た事を怒っているわけではない。
「む~、またハンナって言った。ハンナじゃないよ、ハナだよ」
「あ、そうだったな……悪ぃ、ハナ」
カリンは訂正し、頭を撫でてあげた。それで許してくれたのか、彼女は態度を軟化させた。
妹の名前はハンナ。しかし現在は、ハナと名乗っている。ハンナという名前は共に殺しの英才教育を受けていた時の名前、完全にカタギとなった今ではその名前を使わない。
見た目はかなり子供っぽい。カリンよりも体が小さいだけでなく、童顔で頭がユルい。そのせいか、実際に子供と間違われる事も少なくない。
現在は、カリンと同じくフリーターとして働いている。学校に行くよりも姉と同じ事をしている方がいいからだそうだ。カリンの気持ちは複雑である。
「遅くなるならぁ、ちゃんと電話して欲しかったなぁ。ハナ、お姉ちゃんのために頑張って作って待ってたのにぃ~」
「作ったって? 何を?」
訊ねるカリン。するとハナは無言でテーブルの方を見た。
カリンも彼女と同じ方を向く。すると、そこには幅の広い円筒状の物が置いてあった。
ケーキだ。それも、たくさんのロウソクが刺さっている。その数、23本。それを見てカリンはピンときた。
「あ、そうか! 今日は――」
「うん。お誕生日おめでとぉ」
ハナは出迎えた以上に明るい笑顔で言った。そしてカリンをテーブルの方へと連れていった。
ロウソクに火をつける。ライターは使わない。魔法で指先に火を灯し、その火を使う。彼女も魔法が使えるのだ。
「お姉ちゃん、消して! 消して!」
全てつけ終わったハナはカリンに呼びかける。カリンは返事をすると、一息で吹き消した。
するとハナはどこからかクラッカーを取り出し、鳴らす。それを見て、カリンは目頭が熱くなった。
嬉しかった。もちろん祝ってくれた事もそうだ。だが、何より妹がここにいる事自体が嬉しい。
彼女に会えなかった期間は長い。11年間。その間、彼女は死んだと思っていた。寂しかった。時には空っぽの墓の前で泣いた事もある。
でも彼女は生きていた。それもカタギとして、血塗れの人生を歩んでいた自分と違い、真っ白な人生を、憧れていても決してなれないと思っていた生活を送っていた。これほど嬉しい事は無い。
だから、カリンは言った。この嬉しさを込めて、『ありがとう』と。
「えへへ。喜んでくれて、ハナ、凄く嬉しい」
「お姉ちゃんも嬉しいぞ、ハナ」
二人は再びハグをした。
「食べよ?」
「ああ、そうだな」
二人は向かい合うように席につく。そしてハナはナイフでケーキを大きく切り、取り皿に乗せ、それをカリンの前に置いた。
カリンはフォークで一口分取ろうとした。しかし、ケーキに触れるスレスレで手が止まる。それ以上、全く動かない。何故。彼女自身にもそれが分からない。
ここで彼女はようやくケーキの違和感に気づいた。クリームたっぷりのケーキ、その中にも外にも大量の薄くて黄色い何かがあるのだ。
「変わったケーキだな、何ってヤツだ?」
気になって仕方ないカリンはハナに訊ねた。
「チーズケーキだよぉ」
自分の分のケーキを口いっぱい頬張りながら、彼女は答える。
「チーズ……」
分かった瞬間、カリンはフォークを置いた。
スライスチーズだ。苺のケーキのように、これはスライスチーズだらけのケーキなのだ。
一気に食欲は失せる。チーズは好きだが、クリームとの相性はどうか。試してみる勇気が湧かなかった。
「食べないのぉ? 大好物なんでしょお?」
「あ、いや、その……うん、大好きだ」
自分の知っているチーズケーキと違う、そう思ったカリンは躊躇したが、食べる事にした。せっかく自分のために作ってくれたのだ、食べない事で嫌われたくはない。
フォークを取り、ケーキを一口分切る。そしてそれを恐る恐る口へと運ぶ。
が、口には入らなかった。その直前、彼女のスマートフォンが鳴ったからである。着信だ。
「……誰だ? こんな時間に?」
カリンは電話を取り、表示された電話番号を見た。知らない番号だ。
何者なのか気になり、電話に出る。
「はい、もしもし」
『どうも、私です』
「……誰だ?」
『分かりません? バルドゥイーン・アーベルですよ』
「……アンタか。何でアタシの番号を知っているんだよ?」
カリンは苦虫を噛み潰したような顔をした。
このバルドゥイーンという男の事をカリンは知っている。実際に会い、話した事もある。
だが知り合いであるのと好きかどうかは一致しない。彼女は彼の事が大嫌いなのであった。
『それは企業秘密です』
「ああ、そうかい。で? 何の用だ?」
『こんな時間に申し訳ないのですが、実は頼みたい事がありましてね』
「あ?」
『ちょっと困った事になったのですよ。それでアナタの力をお借りしたいなと思いまして……』
「断る。じゃあな」
そう言ってカリンは電話を切ろうとした。
しかし、できなかった。その瞬間、外から妙な音が聞こえ、それで指が止まってしまったからである。
何か警笛のようであった。まるで電車が発するようなそんな音。
だが、ここから駅まではだいぶ距離がある。線路だって遠い。たとえ聞こえたとしても、こんなにハッキリと聞こえるはずが無い。
『そんな事言わないでくださいよ。もう、迎えに向かっているところなのですから』
「え? 何?」
カリンはもの凄く嫌な予感がし、急いで外に出た。
再び同じ音が聞こえる。空の方からだ。
見上げる。夜空には星は無く、しかし月がその環と共にハッキリと見える。そこを、光る芋虫が走っていった。
いや、違う。あれは電車だ。
高速鉄道、そう呼べるようなデザインの電車。それが空を轟音と共に走り抜ける。
そして同じ所をグルグル回りながら降下すると、アパートに面した道路の上へと着陸していった。
ゆっくりと停車。ドアが開き、一人の人影が出てくる。
カリンは固まった。もう少しで電話を落としそうになる。
いくら魔法のある世界でも、この光景は異常であった。空を飛ぶなら飛行機だ。電車が飛ぶだなんて聞いた事が無い。
それに、こんなに建物が密集した所に着陸するだなんて非常識だ。周りの事なんて全く考えていない、とても迷惑な行動である。
『失礼、今着きました』
「……アンタ、バカか?」
人影が手を振っているのを見ながら、カリンは呟くように言う。
『大嫌い』が『超嫌い』に変わった瞬間であった。
『あまり長い間停めておく事ができないんで、早めに準備していただけます? できれば5分以内で』
「……ふざけんなよ、クソが」
『まあまあ、ケーキを準備していますから。嘘じゃないですよ』
「……ケーキなら間に合ってるよ!」
カリンは電話を切ると、家の中へと戻ろうとした。しかし、その瞬間、視界がひっくり返った。
足を滑らした。何故か足元がローションをブチ撒けたように滑るのだ。流石の彼女でも、突然の事に何もする事ができない。
「おおう!」
そのままカリンは倒れ、頭を地面にぶつけた。星が飛び散る。
「失礼。この辺一帯の地面から摩擦を取り除きました」
いつの間にか人影はすぐ近くに立っていた。そしてカリンを見下ろしている。
「何……しやがる……」
頭を抱えながらカリンは言った。
「どうしてもアナタの力が必要なのです。嫌だと言うなら、無理にでも連れて行くしかありません」
そう言って彼は右手をカリンの頭にかざした。そしてその手からは緑の光が放たれる。
頭がクラクラして避ける事ができない。光が直撃したカリンは、そのまま気を失った。