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おなかの子が落ち着いた頃、レーンの方は睡蓮宮へ移った。
初産の為か悪阻がひどいらしく、落ち着いてきたとはいえ彼女は睡蓮宮で、寝たり起きたりを繰り返しているらしい。
「お産は個人差が大きいのですよ。産み月まで悪阻が続く人も稀にいるという話を、わたくしは昔、神殿で世話をしてくれていたばあやから聞きました。私の母もそうだったと聞いてます。だからそんなに心配なさらないで下さい」
レーンの方はそう言うのだそうだ。
しかしスタニエールは不安そうにしている。産み月が近付くにつれ、彼は仕事も手につかなくなっている様子だ。
「リーナは妊娠中苦しまなかったのに、どうしてレーンはああなるんだろうね、可哀相に」
「苦しまなかった訳ではありませんわ」
スタニエールの無神経な一言に、さすがのカタリーナもむっとする。
「かの方がおっしゃる通り、お産に関することは個人差が大きいものです。でも健やかに過ごせている妊婦だって、妊娠していない常よりは辛いものなのですよ。おなかが大きくなってくると足腰に負担がかかって痛みが出たりむくんだりしますし、子供に圧迫されて胃腸も常にすっきりしませんし。すっきりしないのに異常に食欲が出たり、かと言って食べると胸焼けがしたり、とにかく大変なものなのです。殿方はその辺り、まったくわかって下さいませんけれども」
たたみかけるようなカタリーナの言葉にある、いつにない棘にスタニエールは怯む。
「そ……うだったんだ。す、すまない、悪かった。リーナが平気そうにしていたから、大丈夫なんだと思い込んでいたよ。妊娠中の君を、私はもっといたわるべきだったね、反省するよ」
いえ、わたくしも言い過ぎました、と、やや脱力しながらカタリーナは答えた。
それでもレーンの方は無事に元気な男の子を生んだ。
母譲りの黒髪に菫色の瞳だったが、顔立ちはスタニエールの息子たちの中で一番父の面差しを受け継いでいるようだ。赤子ながら凛とした顔立ちの、いかにもラクレイド王家の血を感じさせる王子だった。
しかし、赤子に精を吸い取られたかのように、レーンの方は弱った。
産後の回復も遅く、床上げをしたのは半年後、それなりに付き合い等に顔を出せるようになったのは一年後だった。
ほとんどの時間を睡蓮宮に引きこもるようにして、彼女は暮らすようになってしまった。特に冬場の寒さが身体に堪えるようで、寝込むことが増えた。
スタニエールはもちろん、カタリーナも心配した。
すでに優秀な侍医を付けていたが、補佐役に若くて優秀な薬師もつけ、彼女の体調管理に気を配った。
彼女の存在に対し思うところがないではないが、それでもカタリーナは彼女を嫌いにはなれなかった。
同じ男の寵を奪い合うような出会い方ではなく、もし彼女がどこかの侯爵家か伯爵家の令嬢だったのならきっといい友人になれたのに、とよく思った。
彼女の息子である第三王子がよちよち歩くようになると、定例のお茶会に連れてくるよう彼女へ言った。
大人たちがお茶を飲んでいる間、母の違うスタニエールの息子たちがお互い馴染めるようにしたかったからだ。
セイイールが生まれた頃、やきもちをやいて癇癪を起していたライオナールも今は落ち着き、すっかり『おにいさま』だ。
ふたりの弟を『チビたち』と呼び、勝手気ままに動き回る幼児の弟たちに苛立ちながらも根気よく、遊んでやっている。
いずれにせよ、彼らは次世代を担うスタニエールの息子たちだ。
普通に考えれば長子のライオナールがスタニエールの次に王位を継ぐが、二人の弟も場合によれば、王位を継がなくてはならない状況になり得る。
王位を継ぐに足る人材に、すべての王子を育てなくてはならない。
人間の命が思いがけないほど儚いことも、この世に絶対確かなことなど何ひとつないことも、早くに母と死に別れたカタリーナは身に沁みている。弟王子たちも王を支える能吏・能臣としての技術と共に、いざという時には国を背負えるだけの器や力量を持つ者へと育てる必要がある。
少なくともそういう方向へ、子供たちは教育するべきだ。正妃の子だ側室の子だと言っている場合ではない。
目の端で子供たちをとらえながらお茶を飲み、当たり障りのない世間話をしつつカタリーナは、母というより将来の王妃として王子たちの今後を考えていた。
どこかにひりつくような緊張をはらみながらも、カタリーナの日常は続く。
レーンの方の体調は、良くはならないが悪くもならない。
スタニエールも彼女の体調を心配するのはあきらめた様子だ。
来た頃のように健康に暮らすのは無理でも、このまま穏やかに暮らしてくれればいい、そう思ったようだ。
どうやら彼女にとってラクレイドは、あまりにも寒く、あまりにも乾いているらしい。病みつくほどではないが、このところよく咳をしているそうだ。
侍医と薬師がのどにいい香草茶を配合し、飲ませるようになって少し症状が和らいできたという話だが、虚しい対症療法だろう。
彼女の健康だけを考えるのなら、一日も早くレーンへ帰すのが一番だろうが、それは外交政策上出来ないしスタニエール個人としてもしたくないだろう。
カタリーナは……どうしたいのだろうか?
王太子妃としてでなくスタニエールの妻として、自分はどうしたいのだろうかと、カタリーナは時々思う。
彼女がいなくなれば心は安らぐだろうか?
苦笑いと共に否定する。
彼女がラクレイドにいてもいなくても、スタニエールの心はカタリーナにない。
カタリーナが欲しい形では、彼は決してカタリーナを愛さない。
王太子として必要なのはカタリーナだろうが、ちょっと傲慢なところはあるけど素直で可愛らしい、スタニエールというひとりの男に必要なのはレーンの方……ルクツという名の女なのだ。
堂々巡りの物思いから覚め、カタリーナはふと窓へ目をやった。
北東にそびえる神山を、彼女は今日もただ虚しく見つめた。
セイイールが四つになった冬。
ラクレイドで質の悪い雪花熱が大流行した。
宮廷も例外ではなく、多くの者が寝付いた。
元から丈夫とは言い難かったセイイールと、初老の声を聞くようになって弱り始めた王も罹患した。
一度危篤状態に陥ったものの、セイイールは持ち直した。
しかし王は回復しないままずるずると病み付き、年が明ける直前にお亡くなりになられた。
喪が明けるとスタニエールが御位に就いた。
賢君と慕われたシラノール陛下を亡くした悲しみは悲しみとして、ラクレイアーンの申し子と称えられ続けた、輝かしくも若い王の誕生に宮廷は華やいだ。
ラクレイドは爛熟期を迎えたのだ。
王妃となったカタリーナも当然忙しくなった。
名実ともに宮廷の女主人となった彼女に、付き合いも増えた。
レーンの方とのお茶会もなし崩しに行われられなくなったが、子供たち同士は付かず離れず仲良くしているようだ。
特に、病の後遺症かすっかり身体が弱くなってしまったセイイールを慰めるべく、レーンの方の息子であるアイオールがちょくちょく、睡蓮宮から遊びに来てくれるようになった。
寝台に横たわって退屈しているセイイールの、紙将棋の相手などをしてくれているようだ。
母によく似て気性の優しい、おっとりとした少年だ。
スタニエールが正式に御位に就いて、二度目の冬の初め。
レーンの方が、侍医たちの手厚い管理の隙を縫うように忍び込んだ雪花熱に罹患し、あっという間に亡くなった。
知らせを聞き、取るものも取りあえずカタリーナは睡蓮宮へ向かう。
最後に彼女に会ったのはいつだっただろうか?
春?夏?
いや、もしかすると新年祭の頃かもしれない。
少なくとも半年は会っていない。
簡単な手紙のやり取りくらいはしていたが、そういうのは形式に過ぎない。忙しさにまぎれてすっかり疎遠になっていた。
そう……ヒトの命は儚い。この世に絶対は有り得ない。
身に沁みて知っていたのに、また同じ過ちを繰り返してしまった。
後悔にひしがれつつ、カタリーナは睡蓮宮の門をくぐる。
彼女が亡くなったのは昨日の宵。
スタニエールが死んだ魚のような目をして春宮へ戻ったのが今朝遅く。
もう午後も遅い。
睡蓮宮は少しずつ、喪の準備が進められている。
持ち服の中から地味なものを着せられたアイオールが、放心したように応接間の長椅子に座っていた。
母亡き後は彼が睡蓮宮の主になる。
喪主も、形だけとはいえ彼が務めることになる。
おそらくさほど多くはないが、これから弔問客も来るだろう。彼はわずか七歳で、喪主として弔問客の相手を務めなくてはならないのだ。
「アイオール」
呼びかけると、アイオールはのろのろとこちらを向いたが目に光はなかった。生気のまったくない彼の顔に、胸が絞めつけられる。
「アイオール。大変でしたね。あなたの兄たちも、知らせを聞いて心を痛めていますよ。明日にでもお悔やみに来たいと言ってますから、明日また改めてこちらへうかがいます。春宮の方からも人をやりますから、今後の心配はしなくてもいいですよ」
言いながら、カタリーナは虚しい思いをかみしめていた。母を亡くした幼子に、こんなことを言って何になるだろう。
アイオールはゆっくり瞬きをし、かすかに笑みを作ると
「ありがとうございます。お心遣いに感謝致します」
と、詩の暗唱でもするように言った。おそらく大人たちに、弔問客へそう言えと教えられているのだろう。
「アイオール!」
思わず名を呼んだ瞬間、カタリーナは、人形のように座っている小さな少年を抱きしめていた。
「アイオール!アイオール!アイオール!」
きつく抱きしめ、とにかく名を呼んだ。理由なんかわからない、ただ、そうしなければならないことだけはわかった。
アイオールは今、本当の意味で生きてはいない。抜け殻の身体で教えられたことをしゃべるだけの、オルゴール人形のような状態になっている。
仮にもしカタリーナが死んだとすれば、ふたりの息子たちはおそらく今のアイオールのようになる。思うと涙がふき出した。息子を救わねば、という思いだけが、カタリーナをかきたてる。
アイオールは思わぬ人物から激しく抱きしめられ、硬直した。
涙ながらに自分の名を呼ぶ声が、こわばって無感情になった彼の心を強くたたく。
「カタリーナ、さま」
彼の母が呼んでいたように、彼はカタリーナの名を呼んだ。声が出たと同時に彼の瞳に涙が浮いた。
「カタリーナ……さま……カタリ……お……おかあさま。おかあさま、おかあさま、おかあさま!」
うわあああん!
声を放ってアイオールは泣き出した。
母を亡くして以来初めて、彼は、声に出して泣くことが出来た。