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それからしばらくして、カタリーナは二度目の懐妊をした。
月満ちて、秋の終わりに彼女は二人目の王子を生んだ。
銀の髪に蒼い瞳の、カタリーナとよく似た息子だった。
首が据わるのが上の息子より遅く、乳を飲んでは咳き込んでいるのが少し気になったが、それ以外は問題もなく育っている。赤子ながら理知的な目をしていて、我が子ながらかなり賢いのではないかという期待を持たせる子だ。
その子が、しきりに寝返りを打ったりずり這いをし始めた夏、レーンの方が懐妊したという話が伝わってきた。
彼女は、半分はレーンから来た客という立場でもあったので、宮殿の内側深くに設えられている小離宮・冬宮で暮らしている。
冬宮は外国からの客がある程度の期間、逗留する時の為に造られた離宮だ。
客人の安全を最大限に守る意味と、客人が刺客や間諜にならないよう警戒する意味から、夏宮と春宮の間にある敷地に設営されている。
冬宮にいる客人は冬宮の警護をする近衛武官のみならず、夏宮と春宮の近衛武官からも注視されている状態になるので、ある意味国賓というより虜囚であろう。
しかし子供が生まれるとなると、さすがに冬宮では手狭になる。
身分の低い愛妾が王や王子の子を産む場合なら、赤子だけを春宮へ引き取って育てる場合もあるが、王が正式に認めた側室が王や王太子の子を身ごもれば、それなりの離宮を母子に賜るのがこれまでの慣習だ。
彼女には近いうちに『睡蓮宮』が与えられるだろう。
宮殿の敷地には花の名前を冠した離宮が幾つかある。
シラノール王は彼女が来た頃から少しずつ『睡蓮宮』、睡蓮の花が美しく咲く池が特徴の、規模は小さいながら美しい離宮の手入れをさせていた。
海育ちの彼女の心が少しでも慰められるよう、水を近くに感じて暮らせるようにという配慮だ。
ご自身が青年時代、様々な事情から愛する人と真っ直ぐ結ばれなかったという苦い経験をお持ちの王は、政治的な思惑で大きく人生を変えざるを得なかったレーンの方を、心から不憫に思っていらっしゃるようだ。畏れ多いを承知で言うのなら、王はレーンの方へ、さながらばあやのように細かく気を配っていらっしゃる印象だ。
しかしもちろんそこには、王が溺愛する一粒種・スタニエールの願いも反映されているのだろう。
スタニエールはレーンの方を大切にしている。
正直に言って、カタリーナを含めたラクレイドの宮廷人の誰もが、神のごとくと称えられている比類なき王太子が『南洋の蛮族の女』を大切に扱うとは予想していなかった。
防衛戦略上、レーンが大切な同盟国なのは否めない。だからレーンから来た彼女を、王太子であるスタニエールが冷たく扱うことは立場上出来ない。が、それ以上にはならないしなり得ないと皆思っていたし、カタリーナも思っていた。
スタニエールの性格をよく知るカタリーナは、彼の悪癖もよく知っている。
スタニエールは、己れにとって興味や価値のある者か否かで露骨に態度を変える癖がある。自分にとって意味がないと断じた者への素っ気なさや冷たさは、そばにいる者をたじろがせるほどだ。幼児の頃から彼にはそういう傾向があり、未だに矯められないでいる。
上に立つ者としては決して褒められた態度ではないが、恵まれ過ぎた環境で生まれ育った現王唯一の王子、このくらいの無意識の傲慢はある程度仕方がなかろうと、カタリーナは密かに思っていた。夫の傲慢の尻拭いが妃たる自分の役割のひとつだとも思っている。
しかしそのスタニエールがレーンの方を大切にしているのだ。彼女はスタニエールにとって興味や価値がある存在ということになる。
宮廷内で密かにささやかれている下世話な噂のように、スタニエールが彼女の身体に溺れているというのではなかろう。
もちろんカタリーナはスタニエールではないのだから、絶対違うとまではさすがに断言出来ないが、彼からそちら方面の狂気は特に感じない。彼が夜を過ごすのは、結局自分の寝室であることが一番多い。
ラクレイアーンの申し子にとって夜の時間の第一番の優先は、己れの健やかな睡眠であるご様子。レーンの方が来る前も来た後も、そこは変わらない。
そういう、たとえるなら新しいおもちゃをもらった子供のようなというか、わかりやすい欲で彼女に惹かれているのではなさそうだ。彼はおそらく彼女へ、カタリーナに対するのと同質の静かで深い親愛や信頼を抱いている。
(いいえ、むしろ……)
カタリーナ以上に。
よだれの光る口許で花が咲いたように無心で笑う赤子を膝に抱き、つられたように赤子へほほ笑みを返しながら、カタリーナはぼんやりと考えごとにふける。
このところ、夫の目から虚しい陰りがなだめられた。
消えた訳ではないが、飢え切って放心している獣にも似た、あやうい荒みは感じられなくなった。
彼の怜悧なはしばみ色の瞳がこんなに穏やかにゆるむのだと知り、カタリーナは最近、むしろ戸惑っている。
息子たちを抱き上げるスタニエールの包み込むような優しさに、上の王子ライオナールが赤子の頃、途方に暮れてゆりかごの中を見下ろしていた面影はどこにもない。すっかりいい父親だ。
「殿下も二人目のお子様が生まれて、おとうさまとしての自覚がにわかに深まっていらっしゃるのでしょう」
「殿方は父親の自覚を中々持てないものですからね」
息子の乳母たちが訳知りそうにうなずき合う。
(そう……なのかもしれないけど)
多分それだけではなかろう。
子供が何人生まれようと、ヒトの根本など簡単には変わらない。
彼の抱える深い虚しさが、子供が生まれたくらいで満たされるとも思えない。
カタリーナはそう思う。
伊達に幼い頃から彼のそばにいた訳ではない。彼の性格を、もしかすると彼自身より知っているかもしれない。
ふと思い出すのは、レーンの方が来て半年ばかり経った頃。
カタリーナとレーンの方は彼女がラクレイドへ来て以来、十日に一度くらいの割合で一緒に午後のお茶を楽しむようにしている。
レーンの方がラクレイドで困っていないか、悩んでいないか、カタリーナがそれとなく探る意味もある。
大抵は夏宮や春宮のカタリーナの居間へ彼女が伺候する形を取るが、五回に一度くらいはカタリーナが彼女を訪ねる。
それは初夏から夏に移ろう頃だった。
冬宮は、冬は暖かいが夏は蒸しやすい。暑さの苦手なカタリーナは、廊下を行く途中で思わず立ち止まり、ため息をつきながらハンカチで額を押さえた。
夏場は冬宮でお茶会をするのは控えた方がいいかもしれない、と思ったその時。鼻先に梔子の花の香りがただよってきた。
冬宮に梔子の木はなかったはずなのにと怪訝に思った。
「王太子殿下が持って来て下さったのです」
お茶の席で居間に飾られた梔子の枝の一輪挿しを見ながら、レーンの方は屈託なくほほ笑んで言う。
「わたくしが、ラクレイドにある香りのある花のことを知りたがっていましたので持って来て下さったのですよ。春先には沈丁花の枝を下さいました。香りのある白っぽい花の花びらの質感って、みんななんとなく似ていますね」
もちろんただの印象ですけど、ジャスミンの花の質感を思い出しましたから。
そんな浮世離れたことを楽しそうに語る彼女を見ているうち、梔子の花の香りのせいか、むせて咳き込みそうになった。
ハンカチでそれとなく口許を押さえ、どうにか咳を呑み込んだ。
何故か深い敗北感にひしがれていて、そんなことを感じる自分に戸惑った。
冬宮からの帰り道、宮殿内を移動する為の簡素な二頭立ての馬車に揺られながら、カタリーナは、いつか聞いたジャスティン夫人ことリサリアーナの言葉を思い出した。
『レーンの方は本当に子供のような方ですよ。あれは何これは何と、まあ、子供のように色々なことに興味を持たれるのです。まるで言葉を覚え始めた幼子のようですわ。時々、王太子殿下も困ったように苦笑いをなさっています』
あきれたようにリサリアーナは言うが口調は柔らかく、彼女がレーンの方を好ましく思っているのが伝わってきた。
スタニエールが女へ贈り物をすることそのものに、敗北感を感じた訳ではおそらくない。
カタリーナもこれまで、スタニエールから色々贈り物をもらったし、所用で出かけた先で見つけた珍しい物を土産にもらったりもした。
庭先で咲く地味な花より、もっと美しく華やかな花をもらったことも何度かある。
しかし、女が興味を持っているものをふと思い出し、彼女が喜ぶだろうことだけを考えてささやかな贈り物をする、そんな細やかな気遣いをする男ではないと思っていた。
庭師に言いつけ、沈丁花や梔子の枝を切らせているスタニエールの笑顔を思い描き、あちらでいただいたお茶菓子を戻しそうな気分になった。
「いや!」
甲高い幼い声が突然響き、カタリーナは我に返った。
上の王子ライオナールだ。
このところよく癇癪を起こしている。そういう時期なのかもしれない。膝の上であーうーと喃語をしゃべっては機嫌よく笑っているセイイールを、乳母のクシュタン夫人へ預けてカタリーナは、小さな身体を悲憤でいっぱいにして不貞腐れているライオナールへ近付く。
「どうしたのライオナール。お着替えがそんなに嫌なの?」
外で遊んで泥が付いたので、部屋着に着替えましょうと乳母たちに言われて着替え始めた途中、何かが気に障ったらしくぐずり出したのだ。
半分脱いだ状態のシャツを片腕に引っかけ、ライオナールはふくれっ面でそっぽを向いた。
「ライオナール」
少しきつめの声で呼びかけると、ライオナールは涙のたまった目でキッとこちらをにらんだ。
「いや!おかあさま嫌い!セイイールはもっと嫌い!」
大声に驚いたのかセイイールが泣き出した。急に泣いたせいで息が詰まったのか激しく咳き込み、けぽ、という音と共に乳を大量に吐いた。
慌てふためく乳母や侍女たちの様子を見て、ライオナールは硬直していた。自分のせいで弟が大変なことになった、と感じているのだろう。涙の残るはしばみ色の瞳は凍りついている。
気付くとカタリーナは、ライオナールの小さな身体を抱きしめていた。
「お、おかあ、さま」
ライオナールはおどおどと母を呼ぶ。
「ごめんなさい。ごめんなさいおかあさま。ぼく、ぼく……ごめんなさい」
ふるえているライオナールの髪を撫ぜ、カタリーナはかぶりを振る。
「いいえ。ごめんなさいをするのはおかあさまの方だわ。ごめんなさいね、ライオナール。ライオナールは元気でいい子だから大丈夫だと思って、小さくて弱い赤ちゃんのセイイールばかり、ここ最近気にかけてしまっていたわね」
寂しかったね。ごめんなさいね。
言いながら幼い息子を抱きしめていると、カタリーナの瞳もくもってきた。
べそをかく息子をカタリーナは、自分の中の寂しさごと抱きしめた。