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彼女と初めて会った時、なんて幼い人だろうとカタリーナは思った。
夏宮にある王太子妃の居間。冬の初めの、乾いた北風が吹く日だった。
ラクレイドへ来た翌日に彼女は、カタリーナ王太子妃殿下に挨拶をしたいと申し入れてきた。
執務の合間でいいのなら、と、侍従に言いつけて午後、大袈裟でない程度の茶菓を王太子妃の居間に用意させ、彼女と会うことにした。
手土産にと、小箱にぎっしり詰まった真円のあこや真珠を手に彼女は来た。ラクレイド風のドレスを身に着けている。おそらくシラノール陛下が用意させていたのだろう。
居間に入ってすぐの場所に立ち止まり、長椅子にくつろぐカタリーナの前で面を伏せる。スカートを軽くつまんで膝を折り、頭を深く下げるラクレイド風の礼。その動きが思ったよりもなめらで優雅だったので、カタリーナは軽く驚いた。
身長はカタリーナの肩ほどしかない。十八歳だと聞いていたが、どう見ても十四、五歳の少女だ。レーンの民は年齢より若く見える者が多いという話だが、こんな少女のような人がたったひとりで、見知らぬ遠い国へ連れてこられたのかとカタリーナは憐れになった。
彼女は漆黒の髪をラクレイド風に結い上げ、黒蝶貝の真珠の髪飾りでまとめていた。あとは首の詰まった暖かそうなドレスの襟に、濃い赤の珊瑚を磨いて作ったブローチが慎ましく飾られている程度のすっきりとした装いである。
華美ではないがみすぼらしくもない、それでいてラクレイドでは希少な海の恵みの装身具をラクレイド風の装いに控えめに取り込み、さりげなく己れの主張もする。
頭の良さそうな娘だ、と次に思い、カタリーナはひとまず安心した。
『大国の宮廷』に気圧されて萎縮するでもなく、逆に、侮られまいと必要以上に虚勢を張るでもない自然な態度。彼女はあちらで高位の神官を務めていたという。おそらく優秀な娘なのだろう。
彼女なら大丈夫。よほどでない限り、ラクレイドの宮廷の雰囲気に呑まれて自分を喪うことはなかろう。思い、カタリーナはゆるくほほ笑む。
「頭を上げて下さい」
型通りに声をかける。ゆっくりと頭を起こし、彼女は目を上げる。浅黒いがきめの細かい肌の顔はやはり少女めいていて、黒と見紛う紫の瞳ははっとするほど澄んでいた。
「ごきげんよう、はじめまして。遠路はるばる大変でしたね。ちょうどこれから寒い時期になりますから、お身体を十分にいたわって下さい」
カタリーナは言う。
南国で生まれ育った彼女はおそらく、ラクレイドの冬の底冷えに驚いているだろう。せめて暖かい時期に来てもらった方が良かったかもしれないと、今更ながらカタリーナは思った。
カタリーナのねぎらいに、彼女は柔らかくほほ笑んで答えた。
「お初にお目にかかります、カタリーナ・デュ・ラク・リュクサレイノ・ラクレイノ王太子妃殿下。あたたかいねぎらいのお言葉を賜り、感謝致します。わたくしはレーンの大神殿にて第三位の神官『レライラ』を務めるルクツと申す者でございます。以後お見知りおき下さいませ。まだまだこちらのしきたりに通じておりませんので、場合によれば失礼をしてしまうやもしれませんが、なにとぞご容赦下さいますようお願い申し上げます」
くせの少ないなめらかなラクレイド語で挨拶をする彼女に、カタリーナは内心ほっとした。
王の決定とはいえ王太子の側室をレーンから迎えるなど、快く思わない者も多い。もし彼女がラクレイド語を一切話せないとすれば、それだけで宮廷に集う者たちからずいぶんと侮られるのは目に見えていた。
「慣れるまで大変でしょうが、わからないことは何でも聞いて下さいね。貴女にこちらのあれこれを案内出来そうな者を用意しました。彼女は優しくて賢い人ですから、貴女のいいお友達になれると思いますよ。まずは彼女に、こちらでの暮らしの手ほどきをしてもらって下さい。……ジャスティン夫人」
腹心の友と呼べる乳兄弟のリサリアーナをそばに招く。
「レーンの方がこちらに馴染まれるよう、助けて差し上げて下さいな」
出身地に『……の方』を付けて呼ぶのが、ラクレイドでの側室の呼び方である。彼女は今後、公には『レーンの方』と呼ばれることになる。
リサリアーナはうやうやしく腰を折る。
「承りました。何事も御心のままに、王太子妃殿下」
型通りの受け答えをするリサリアーナを澄んだ瞳でじっと見つめた後、レーンから連れて来られた痛ましいほど幼い娘は、屈託なくカタリーナへほほ笑んだ。
その刹那、カタリーナの鼻先に黒糖の香りがかすめ、癖のある甘みが口の中に広がった。夫はこの黒糖をすでに味わっている。稲妻が閃くようにカタリーナはそう知覚した。理屈を超えた不思議な感覚だった。
「お心遣いに感謝致します、王太子妃殿下。よろしくお願い致します、ジャスティン夫人」
レーンの方の菫色の瞳に、陰りはまったくなかった。
レーンから戻った日の夜、スタニエールはカタリーナの寝室で、寝台の端に座ってこう言った。
「あの人はレーンの大神殿で幼い頃から暮らしてきたそうだ。今の大神官であるレクテナーンのそばで、おそらくかの地で最高水準の教育を受けてきた。ラクレイドのことも十歳頃から少しずつ教わってきたとかいう話だ。王太子の側室になるかどうかはともかく、こちらとの橋渡し役を務めるように育てられていた人らしいな」
スタニエールの言葉をうなずきながら聞く。
ラクレイドとレーンは古くからあっさりとした付き合いがある。
お互いがお互いの版図を犯すことなく、海を隔てた隣国として淡い友好を結んできた。互いの橋渡し役を務める者はやはり、それなりに必要である。
不意にスタニエールがふき出したので、カタリーナは怪訝に思った。
「いや。実はあの人と今回初めて会った訳じゃなくてね」
「え?」
カタリーナは驚いて夫の目を覗き込んだ。スタニエールは楽しそうに目許をゆるませている。彼のこんな無邪気な顔は、カタリーナでさえめったに見たことがない。
「七年前、今のレクテナーンの就任の儀に、王の名代としてあちらに行ったことがあっただろう?」
カタリーナはうなずく。
今回レーンへ行ったのも、本来はあちらの大祭に王の名代として王太子のスタニエールが出席する為であった。
「就任の儀当日の朝なんだけど、さすがに緊張していたのか思っていたより早く目が覚めてしまってね。退屈しのぎに散歩に出たんだ。我々の宿舎は海に面していて、目の前に真っ白な砂浜があった。私は、今思うとずいぶん無防備なんだけど、朝日に輝く白い砂浜に惹かれ、ひとりでふらふらとそちらへ歩いて行ったんだ」
当然だけど護衛官のラクランはこっそり後ろにいて、後できっちり叱られたんだけどね、と彼は笑う。
「その砂浜に、神殿に仕えているらしい少女がしゃがみ込んでいた。不審に思って声をかけたら、新しい大神官の側仕えをしている子だとわかった。大神官になる『おねえさま』へ、自分の手で祝いの品を用意したいと夜明けの浜で白い貝殻を探しているうちに、ラクレイドの宿舎の近くまで迷ってきたのだそうだ」
「え?」
突拍子もない話で、カタリーナはポカンとした。
儀式の当日に、祝いの品を探す?
いくら彼女が当時子供だったとはいえ、幼児ではなかったはずだ。そんな行きあたりばったりな、いい加減な話があるだろうか?
カタリーナの顔を見て、スタニエールはもう一度愉快そうに笑う。
「我々には理解出来ないだろう?そもそも祝いの品を用意したいのなら、もっと前から用意するべきだし。まあ、そういう物はそういう物としてちゃんと用意していたと後から聞いたけどね。でも彼女が言うには、就任の儀当日の、朝の『レクラ』に祝福されたものがどうしても欲しかったのだそうだ」
「は?レクラ……は、あちらの神の名前ではなかったの?」
知識としてだけ知るレーンの神の名が、『レクラ』だったという記憶がある。不可解そうなカタリーナの表情に、スタニエールは笑む。いたずらに成功した少年のような目をしていた。
「ああ、私もそう思った。それはそれで間違えではないのだそうだが、すべてではないと言うのかな?とにかく、レーンの宗教観はラクレイドの常識では理解出来ない。ラクレイドの感覚では、ただの思い付きや衝動ではないかと思われるようなことも、場合によれば大切な啓示になるらしい。訳知りの年寄りの含蓄ある言葉よりも、幼な子の口から飛び出す何気ない一言の方がより深い真実を表している……とでもいう感じなのだろうね」
そこで不意に、スタニエールは真顔になった。
「あの人はそういう神を信奉している、浮き世離れた神官なんだ。愚かではないが、我々の常識では理解出来ない言動を取るかもしれない。もしかすると、あの人のせいでリーナには思いがけない苦労をかけてしまうかもしれない。だけどおそらく、あの人に悪気はないんだ。私もあの人のことはまだよくわからないが、悪気を持って何かを画策するような人ではないという印象を持っている。私も気を付けるが、リーナもあの人は物を知らない子供なんだとあきらめて、辛抱強く色々と教えてやっておくれ」
もちろんですわ、とカタリーナはほほ笑んで夫へうなずく。
不意に夫が、肩に手をかけてカタリーナの身体を寝台に押し倒したので、驚いた。
「リーナ。私の妻は貴女だけだ、その気持ちは決して変わらない。何があってもそれだけは信じていておくれ」
熱くささやき、いつになく性急に夫は、カタリーナの寝間着をはいで肌に唇を這わせた。新婚の頃でもこんなに情熱的に求められたことはほとんどない。
ふと目の前が暗くなる。
この人は何かを埋めようと虚しい努力をしている。
許婚時代、数は少ないが、彼も遊びの逢瀬を楽しんでいた時があった。それをごまかす時、いつになく優しかったり饒舌だったりしたものだ。
『ラクレイアーンの申し子』と称えられる彼もまた、浮気をする時はただの間抜けな男であった。
不愉快な思い出が目の前を暗くする。静かで深い虚しさが身体からあふれないよう、カタリーナはしっかりと目を閉じ、まるで不貞の言い訳をするような夫の愛撫に身を任せた。
いつになく口数の多い、情熱的な彼が哀しかった。