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とある明け方、カタリーナはふと目が覚めた。
少し寝汗をかいていた。
このところ蒸し暑くなってきたせいだろうか?寝苦しくて、いつもよりかなり早く目が覚めてしまった。
もう一度まぶたを閉じてみたが、眠気は完全に去っていた。カタリーナはひとつ息をつき、半身を起こす。寝台からすべりおりると、かたわらの椅子の背にかけておいた薄手のガウンをはおった。
帯紐を結びながらバルコニーへ出る。蒸し暑くなってきたとはいえ、早朝の空気は澄んで清々しい。深呼吸をするカタリーナの銀の髪を、朝の風がなぶる。首筋の汗がゆっくりと引いてゆく。
北東の地には今日も変わらず、神山ラクレイがそびえている。
『この世を創り終わり、ご自身の姿を写した人間に世界を任せるとラクレイアーンは……』
幼い日に絵本で読んだ、神話の一節が浮かぶ。
『北の地にお座りになられ、目を閉じてお眠りになられた。深い深い眠りであった。あまりに深い眠りであったので、神のお身体はまったく動かなくなり、やがて堅くなってしまわれた。これが神山ラクレイである』
(……スターニョ)
神山をぼんやり見つめながら、カタリーナは夫を思う。
幼馴染であり従兄であり、カタリーナの夫である男。
そして五年前に王位を継いだ、第十代ラクレイド王 スタニエール・デュ・ラク・ラクレイノ陛下。
彼を『スターニョ』などという子供じみた愛称で呼ぶのは、カタリーナ以外、今は誰もいない。
元々は彼の母君であるポリアーナ妃がそう呼んでいた。
リーナは僕のことをそう呼んでもかまわないよ。まだ幼かったスタニエールが特別の恩寵のように許してくれたのは、母や父に連れられて春宮へ遊びに行くようになって一年ほど経ち、婚約が調ってからだ。
彼の方は初対面からカタリーナを『リーナ』と短く呼んでいたが、正式に婚約が調うまでカタリーナは、彼を『スタニエール殿下』としか呼ばなかったし呼べなかった。スタニエールは従兄とはいえ王子、カタリーナは母がシラノール陛下の妹とはいえ臣下の娘。幼くてもその辺りはわきまえていた。
(スターニョ、貴方はまるで……神山ラクレイのような方ね)
いつも変わらず近くにいるのに、彼が本当のところ何を考えているのか、カタリーナは未だによくわからないでいる。
昨日も一昨日も夫はカタリーナの寝室へ来なかった。
かと言って、どこかの愛人の許で眠っている訳でもない。
そもそも彼は愛人を作らない。興味がないのだそうだ。
カタリーナに対しての取り繕いではなく、若い頃から本気で彼は、愛人など面倒だと思っている様子だった。だからカタリーナの許へ来ない時は、自分の寝室でぐっすりと眠っているだけだ。カタリーナの寝室と扉一枚隔てただけの彼の寝室で、おそらく今も眠っているだろう。
少し神経質な彼は元から眠りが浅く、誰かと同じ寝台で眠るのが苦手なのだそうだ。
新婚の頃はさすがに彼も気を遣っていたのか、カタリーナと朝まで同じ寝台で眠っていた。が、このところは仮にカタリーナの寝室へ来ても、事が済めば自分の寝室へ帰って眠るようになっている。
なんだか、事が済めば長居は無用とでも言っている印象を女に与える態度だが、彼に他意はない。その方がお互い気兼ねなく眠れるではないかという、実に合理的な判断しか彼にはないのだ。
他意がないことはわかっているし、スタニエールらしいとも思うが、女心のわからない夫に軽い不満は否めない。
カタリーナは朝の風の中で苦笑する。その軽い不満さえ、あきらめと共に受け入れるようになってすでに久しい。
スタニエールと仲が悪いのでは決してない。
むしろ、親同士が決めた縁で結婚した夫婦とすれば、夫婦仲はかなりいい方だろう。
スタニエールにとってカタリーナは、妻であると同時に腹心の参謀であり、最も信頼する親友でもある。少なくとも今現在、カタリーナ以上の親友をスタニエールは持っていないと思われる。
カタリーナは自分が、容姿や実家の後ろ盾を含めてラクレイド王たるスタニエール・デュ・ラク・ラクレイノにとってまたとない正妃である自信があるし、スタニエール自身そう言ってくれてもいる。
他人に強い執着や興味を持たないスタニエールにとって、カタリーナが数少ない特別であるのは確かだ。
『愛している』という概念をどうとらえるかで微妙に変わってくるかもしれないが、スタニエールはスタニエールなりに誠実に、カタリーナ・デュ・ラク・リュクサレイノ・ラクレイノを、小さかったリーナの頃から愛している。
役割としての王妃・親友としての信頼だけでなく、スタニエールは女性としてのカタリーナに惹かれていない訳でもない。元々淡泊な質らしく、情熱的に求められたことはほとんどないが、彼は、他の誰よりも多くカタリーナと夜を過ごしているはずだ。結果息子が二人いる。
何も問題はない。
問題を感じているのはカタリーナだけであろう。
カタリーナはもう一度大きく息をつき、きびすを返して寝室へ戻った。
カタリーナが、自分とスタニエールとの間に熱量の差があるのに気付いたのは、一体いつだっただろう?
二人は幼い頃からの許婚だったし、ずっと仲も好かった。
お互いがお互い以上の伴侶はいないと信じ、共に成長してきた。
そんな日々の中で、カタリーナはいつの間にか、スタニエールを異性として愛し始めていた。
スタニエールもそうだろうと、カタリーナは無邪気に信じてきた。
打ち消す理由が何もなかったからだ。
そしてスタニエールが十八歳、カタリーナが十六歳の春、盛大な婚礼の儀が執り行われて二人は結ばれ、祝いの宴は十日続いた。
だが、幸せの絶頂であるはずのその時からすでに、カタリーナの心の隅に言いようのない影があった。あったが、見ないふりをした。それでやり過ごせるとも思っていた。
カタリーナの心に影が落ちる理由に、スタニエールの瞳の中に虚ろな陰りがあると気付いたせいもある。
いつからなのかはっきりしないが、カタリーナはスタニエールのはしばみ色の瞳に虚ろな陰りを見るようになっていた。
彼が、どうやら深い虚しさを抱えているらしいと見当をつけたが、虚しさの理由やきっかけがわからなかった。
有り余るほどの恵まれた境遇で生まれ育ち、『比類なき王子』『ラクレイアーンの申し子』と称えられてきたスタニエール。彼に欠けたものは何もない。普通に考えれば虚しさを感じる必要などないし、不足を言うのも贅沢だ。
誰よりスタニエールがそう思っているのだろう。カタリーナが物問いたげに彼の瞳を覗いても、スタニエールは微苦笑をしてごまかすだけだ。
ほどなくカタリーナは身ごもり、彼と同じ黄金の髪にはしばみ色の瞳の男の子が生まれた。
順風満帆、絵に描いたような幸せ。
スタニエール王太子殿下の御一家は、物語以上に物語のような、輝きに満ちた素晴らしい暮らしをなさっている。
かの方々は正に、ラクレイアーンに愛でられし方々。
大仰な褒め言葉の羅列で吟遊詩人は称える。
その『素晴らしい暮らし』は、数多の人々の努力と『愛でられし方々』本人の気配りや自制で成り立っているのだが、そういう地道は歌われない。
美しく輝く光の当たっている部分だけが強調される。求められる。
虚しくなって当然かもしれないと、カタリーナはようやく少し、夫の虚しさの一端を理解した。
息子が二歳になるある夕方、浮かない顔でスタニエールはカタリーナへ、話がある、と、彼らしくもなく口ごもるように言った。
膝の上で遊ばせていた息子を乳母に託す。昼中離れていた息子は、おかあさまがいいとぐずったが、乳母たちが上手く言いくるめて子供部屋へ連れて行く。
「どうなさったの?」
お茶の用意をさせた後、侍女たちを下がらせてカタリーナは問う。スタニエールは大きくため息をつき、
「あまり嬉しくない事態になった」
と言った。
「レーンと同盟を結んだことを知っているだろう?」
カタリーナはうなずく。確か息子が生まれた頃、海軍の設置と前後して南方の海洋国であるレーンと同盟を結んだと聞いた。海伝いに侵略を仕掛けてきそうな東方の新興国があるらしい、そちら方面の警戒を両国で協力して行う取り決めをした、と。
しかし元々ラクレイドは陸軍国、海軍を展開するのも初めてなら海戦の経験もない。そこでレーンからこちら方面の指導者を招聘し、共に演習もしているという話は漏れ聞いている。
「レーン側から、軍事機密に近い情報も開示してそちらを指導している、故に更なる堅固な同盟を結びたいという申し入れがあってね。その証として……」
言いにくそうに口ごもるスタニエールに、カタリーナは察する。
「ラクレイドの王太子へ、レーン側から誰か嫁がせたい、と?」
スタニエールは苦い顔でうなずく。
ラクレイドの貴人が複数の妻や妾を持つことは禁じられていないし、特に王族の場合、側室の一人や二人はいる方が普通と考えられている。後を継ぐ子供が多いに越したことはないからだ。
子を産んだ側室は、妃に準ずる扱いになる慣習でもある。カタリーナの母も先王の側室の娘だ。
カタリーナが嫁いでまもなく元気な王子を生んだのもあり、現宮廷でスタニエールへ側室をという話は出ていない。カタリーナの実家であるリュクサレイノ侯爵家に対する遠慮もあろう。
しかし、外国という思わぬところから圧力がかかってきたという訳だ。
スタニエールに側室が来るというのは考えなかった事態ではない。遅かれ早かれ出てくる問題だと覚悟していた。カタリーナは苦い顔をしている夫へ、同情のこもった笑みを向けて静かに言う。
「それが国の為なのですから、お迎えになられるべきです、殿下」
スタニエールは更に苦く顔をしかめる。
「君以外に妻など必要ない」
吐き捨てるように言う。彼が心の底から本気でそう言っているのがわかる。カタリーナはふと、まだ見ぬレーンの側室を憐れに思った。スタニエールが興味のない者に対し、冷酷なまでに素っ気ないことをカタリーナはよく知っている。
それでなくともラクレイドのような閉鎖的な宮廷へ、まったく文化の違う遠国から来るのだ。彼女がどれほど苦労するか、考えると胸が塞ぐ。自分の立場とすればこう思うのは傲慢や僭越かもしれないが、彼女がラクレイドであまり辛い思いをしないよう、出来るだけ気にかけるべきであろう。
「わたくしも貴方以外の夫は考えられませんわ、スターニョ」
あえて愛称でささやくように呼びかけ、カタリーナはもう一度ほほ笑む。
「スターニョとしての気持ちは気持ちとして。王太子のお務めのひとつとして、レーンから来る方をいたわって差し上げて下さい」
スタニエールの瞳が複雑に揺れた。が、彼は愚かではない。言葉の奥にあるカタリーナの気持ちがわかったのだろう、泣き笑いのような笑みを浮かべてそうだなと言った後、居住まいを正した。
「すまない」
万感を込めた一言だった。