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非はいつも鳴っている

作者: 平野雄隆

無骨さというか荒い人柄を書いてみました。

 最後の玉も壁と硝子の空間を何事もなかったかのように当たっては弾け、震えるように釘の森をすり抜けて一番下の穴に吸い込まれていった。


「くそ、何で俺ばっかり損をするんだ」


 男はくわえた煙草を震わせながらイライラしていた。強く握った拳は今にも目の前の釘を守る硝子を叩かんばかりに振り上げられている。

 過去に何度かその拳で硝子を叩き割り、いくつかの店を出入り禁止になった経緯もある。その度に一応は反省をしていたのだが、今回もこみ上げる怒りや不満といった衝動を抑えることが出来なかった。

 がしゃん――

 その拳を振り下ろした先で硝子が大きく波打つ。その音はこのうるさい店内でも遠くまで響いた。その瞬間に男ははっとしたように周りを見渡す。隣に座る男もその横の女もみんな顔をひきつらせてこちらを注目している。

 居心地が悪くなった男は飛び上がるように椅子から立ち上がり、台と椅子の並ぶ狭い通路を玉の入った箱を避けながら足早にその場を去った。

 振り返ると店員がこちらを確認しながら、叩きつけた台へ走り寄っていた。無線で何やら会話をしているようだ。店員は台を確認するともう一度こちらを睨むように見ていたが、追いかけてくることはなかった。きっと硝子が割れていなかったからだろう。確かにあの感触は割れたときほどの爽快感がなかった。

 けたたましい音と欲望を放つパチンコ屋の自動ドアを抜けると、季節感のないぬるい風が頬を撫でた。それがまた男を不快にさせる。


「全くついてないぜ。会社まで休んでパチンコに来たのに二時間で二万もやられたし」


 そう言って駐車場のガードマンを睨みつけた。こっちの事情をしらないガードマンは緩い口元を開いて、ありがとうございましたと軽い会釈をしてくる。それがまた癪に障った。

 車がずらりと並ぶ駐車場には一体どれだけのお金の流れがあったのだろうか。一台百万としても数百台はこの広くて狭い敷地に収まっているのだから、この周辺だけでも数億円以上が数年か数十年で自動車業界に流れたことは間違いないのだ。その持ち主が今この建物の中に収まっている。軽く見積もっても、このパチンコ屋の中には数百万が群をなしているのだ。更に店の運転資金もあるのだから、もの凄い額になるはずだ。


「けっ、こんな俺みたいな貧乏人から巻き上げる業界はろくな商売じゃねーな」


 運転席でエンジンをかけ、背もたれを倒して煙草の煙を天井に向かって吐きかける。負ける度にこの台詞を言ってるのだから、どうせまたお世話になるんだろうが、今は文句しか思いつかない。そんな文句が一頻り駈け巡ると、次は仕事のくそ面白くない出来事をまた思い出した。それは上司に呼び出されるところから始まった。





 暦の上ではもう秋を過ぎて冬だというのに、未だに昼間はじんわりと身体から水分が蒸発するような日が続いていた。


「おい田嶋、ちょっとこっちきてくれるか」


と上司の勝山が手をひらひらさせていた。顔はこっちを向いていない。いちいち顔を見てられるほど暇じゃないとでも言いたいのだろう。

 田嶋はその勝山の仕草が嫌いだった。なんか人を小馬鹿にしたように見えるのが原因だったが、ねっとりと粘り着くような声もそれを助長していた。そしてそんなときは決まってろくな話じゃない。大抵は面倒な仕事を押しつけられるか、何か指摘されたりといったことだった。

 勝山のデスクの前に立った田嶋は、今回は後者だと気づいた。座る勝山の目の前には二日前に提出した書類があったからだ。しかし、田嶋はその書類の何が悪いか心当たりがなかった。きちんと見直しもしたし間違いはないはずである。しいていえば、その書類は新婚で長期休暇を取っている保波から引き継いで完成させたものだというくらいだった。

 勝山はその書類を持ち上げてから、わざわざもう一度机に放った。書類はぱんっ、と音を立てて机の上を滑る。


「どういうことか分かるか」


 先ほどよりも語気を強めると腕を組んで田嶋を見つめた。


「いえ、どこかおかしかったですか」


 書類に目を落としながら背中がじんわりと湿り気を帯びていくのを感じた。椅子がぎしっと音を立てたので反射的にそちらを見ると、勝山がこちらを睨んでいる。


「どこがおかしいかだと、こんなでたらめな数字入れておいて気づかないとかありえないだろ」


 荒っぽく書類を開き折り目を付けると、叩きつけるようにある場所を指でさした。

 その場所を見てみるが、田嶋は未だそんなはずはないとどこかで思っていた。

 だが、次の瞬間に心臓が飛び跳ねることになる。それはあまりにあり得ない間違い、明らかに歪な数字だったからだ。そんなはずはない。くそっどういうことだと怒りさえこみ上げてくる。そこは保波が作成した場所じゃないか。あいつは間違いなく「確認してますので」と言ってたじゃないか。だからあいつが作成したところは見直しもしていなかったのに。


「そこは保波のやつが」


「人のせいにするんじゃない。確かにこの書類は保波から引き継いだものだろうが、間違えたものを提出したのは君だろ。大体責任感が足りないんだよ君は。責任感が」


 思わず出した言葉を制され釘を刺される。

 勝山はイライラが収まらないのか肩を上下に揺らしている。

 田嶋は今は下手なことを言わない方がいいと察して嵐が過ぎるのを耐えることに決めた。


「すみません」


 俯き書類を凝視する。保波の笑った顔が浮かんで心が沸騰しそうになる。今頃、夫婦水入らずで楽しんでるかと思うと、動悸が治まらない。


「君が間違えたせいでどれだけ恥をかいたと思ってるんだ。私の信用もがた落ちだよ」


 既に田嶋は言葉を受け流していたので、半分も頭に入ってこない。保波に対する怒りだけが心を占めていた。タイミング良く、頷いたり返事をするだけで自分のミスに対する反省はなかった。全部保波のせいだ。


「だから―― どうして―― いつまでも――」


 十五分は続いただろうか。言葉を接続する断片だけが耳から脳へ通過する。そして曖昧な返事。文句という蒸気を放出して勝山の熱が下がってるのを感じると、そろそろかなんて冷静に考えたりもした。


「分かったな。もういい、仕事に戻れ」


 言いたいことを言い疲れたのか、背もたれに勢いよくもたれると、手をひらひらと動かす。

 田嶋はもう一度形だけ謝り「すいません」と言うと、自分のデスクに戻った。

 パソコンのロックを外し、書類のファイルを開く。そして間違いの箇所を見つめた。やっぱり明らかに保波が悪いじゃないか、くそっ。

 その後は仕事が手に着かないままその日一日を終えた。

 そんなことがあって、今日の朝になっても怒りが治まらず仕事をサボったというわけである。

 やっぱり俺は悪くない。


 田嶋はイライラしながら煙草を数本連続でふかし、この辺で一番大型のショッピングモールへと車を走らせた。

 平日ということもあってか駐車場は疎らで、すぐに停めることができた。しかも入り口近くだったので何だか気分がいい。

 これが休日ともなると、どこにそんなに人がいたのだろうかと思えるほど、外も屋内や屋上駐車場も満車、満車になるのだ。きっと家族サービスやらなんやらで、近くのショッピングセンターより、少し足を延ばしてこちらの大きいモールへとやってくるのだろう。後は若い奴らが暇を持て余してとか、何とも不愉快な動機で多くの人が訪れているのは間違いないはずだ。

 店の中に入るとやはり人は疎らでがらんとしている。人が少ない訳ではないのだろうが、何せ施設が巨大なせいで、広い歩廊は車でも三輪のバイクでも走れそうなくらいだった。

 ベビーカーを押している主婦、学校をサボっているであろう制服を着た高校生、仕事が休みなのか適当に薄くメイクをしている女と殆どが女性だった。別に男が居ないわけではないが、わざわざ男を観察するほど興味はない。田嶋は自分の見たいものしか見る気も更々ないのである。

 ここに来た目的は、もっぱらフードコートでゆっくりと時間を潰すためだった。ファミレスでもいいのだが、時間が経過する度に周りの目が気になりだすので、長時間滞在するには少し落ち着かなかったりする。ゆっくりできる所を探すうちに、このフードコートに行き着いたのだ。

 ここのフードコートは広くて、意識していないと人の入れ替わりなんかも気づかない。逆にずっと居座っていても意識できるような距離にいなければ居ないのと同じ扱いなのだ。というよりは、そういう圧力が広さがあるせいか分散されやすいということなのかもしれない。

 田嶋はいつもどおりフードコートの何カ所かにある水くみ場で紙コップを取り、水を入れる。そして店舗からも水くみ場からも少し距離のある、一番人の流れのない席に紙コップを置いた。こうして席を取られない準備をしたら、いつものようにコーヒーを買いに行く。

 大抵の店舗でコーヒーくらいは取り扱っているのだが、田嶋の最近のお気に入りはドーナツ店のブレンドコーヒーだった。ついでにドーナツも二つ確保した。平日は売り切れも少ないので選び放題なのも嬉しい。トレーにドーナツとコーヒーを乗せ席へと戻ろうと足早に歩く。

 遠くの通路で泣きわめく子供が廊下で転がっていた。きっと何か駄々をこねているが思い通りに行かないのが気に入らないのだろう。

 田嶋は唇を歪ませ笑う。そんなに世の中上手くできてはないんだよ、子供のうちから学ぶがいい。人類は不公平と不合理で出来てるんだから。

 その時どんっと音がしたかと思うと、突然衝撃と共に持っていたトレーが手から離れドーナツとコーヒーが床に散らばった。


「あっぶねー」


 田嶋はこぼれたドーナツとコーヒーを見た後、服に飛び散ってないかを確認していると、横からか細い声が聞こえてきた。


「すいません、大丈夫ですか」


 目の前には黒のパンツにジャケット風の上着を羽織っている女性が申し訳なさそうにして立っていた。俯いているので髪で顔は半分隠れているが、二十台後半位だろう。


「大丈夫なわけないだろ。どうしてくれるんだ、コーヒー零れちまっただろう」


 田嶋は凄い剣幕でまくしたてる。


「ほんとうにすいません、弁償しますんで」


 女性は口元に手を当てながら、頭を深々と下げている。


「弁償すればいいってもんじゃないだろう。大体気を付けて歩いてればぶつかるはずがねーだろうが!」


 怒りが治まらずむしろどんどんと湧いてくるほどだった。


「でも…… あなただって余所見……」


「はあ、俺はちょっと気になったことがあったからいいんだよ。そっちが前見て避ければこんなことにはならなかっただろ、マジで勘弁してくれよ」


 ほんっとどいつもこいつも俺が悪いって言いやがって、ぶつかって来たくせに何なんだ。

 声を荒げてしまったせいか、周囲の人たちがこちらをチラチラと見ていた。

 ちっ、会社サボってこんなところで問題起こしたら目も当てられないな。

 田嶋は俯いている女性の前に手を出した。それに気づいた女性は意味が分からないまま目を見開いている。


「まあ、いいや千円で許してやるよ、ほらっ」


「あっ、はい」


 意味を理解したのか、それとも早くここを立ち去りたいだけなのかもしれないが、素早く鞄から財布を引っ張り出して千円を一枚取り出して田嶋の手の上に置いた。


「すいませんでした。では――」


 女性は踵を返し小走りで去っていった。


「おい」


 届いているのかいないのか、田嶋の声はただむなしく空気を響かせただけだった。

 ほんと最近の奴は礼儀がなってない、金だけ置いて掃除もしていかないなんて。

 まあいい田嶋はさっきのドーナツ店に戻ると、同じ物を注文した。


「ねえねえ、兄ちゃん。さっき買ったドーナツとコーヒーをさ、人にぶつけられて床にぶちまけられたから掃除しといてよ」


 田嶋は自分の後ろに親指を向けて指し示した。

 店員は一瞬顔をしかめたが、すぐに笑顔で分かりましたと、いい返事をした。

 注文のドーナツとコーヒーを用意した後、店員は小走りで掃除へと向かう。

 田嶋は満足そうに最初に用意した席に向かった。

 そしてドーナツを頬張りながらスマホを取り出し、ゲームを起動して飽きるまで没頭していった。

 さっきあったことなんて既に忘れているかのように機嫌はそんなに悪くないように口元は緩んでいた。





 時計を見ると夕方四時を廻ろうとしているところだった。

 もうこんな時間か。とはいえ独身で家に帰る必要もない田嶋にはまだ少し早い時間だった。ここに座っているのももう飽きていたし、少し人も増えだしている。

 これから夕食の買い物や仕事、学校帰りの人も増えるだろうしそろそろ動くか、と根っこの生えていた椅子から腰を引っ剥がすとすたすたと歩き出した。もちろんトレーやゴミはそのままにしてある。どうせ誰かがするだろうし、清掃員の仕事を奪うわけにはいかないしなと、いつものように澄ました顔でフードコートを後にした。

 色んな店舗をぐるりと見渡しながら駐車場へ向かっていると、ある雑貨屋が目に入る。田嶋はその店舗へと吸い込まれるように入っていった。

 これといって特に見る物があるわけではないが、時間を潰すには雑貨屋はもってこいである。昔はもっと男性客が多かったはずだが、最近の雑貨屋は女性が八割を占めていた。お洒落で可愛いものが増え、コスメ用品が増え、生活便利用品が増えて男性はどんどん居場所がなくなっていく。だが、独身の田嶋には必要なものも少なからずあったため、雑貨屋に寄ることはそんなに不自然でもなかった。

 棚を見ると所狭しと品物が乗っている。こんなに狭い店舗でも千種類以上の物が置いてあるというのだから現代の生産力は過剰か異常かのどちらかなのだろう。きっと売れることなく廃棄されるようなものも数十点はあるはずだ。

 だいたい可愛いからってこんなに高い爪楊枝なんて誰が買うのかすら見当もつかない。手にとってみても購買意欲は一向に湧かなかった。

 顔をしかめ元にあった所にテレビのリモコンを放るように置いた。とんっと滑り隣の品物に当たり止まる。

 箸の柄を見ては、またぽんと放る。コップは爪で音をチェックする。だからといって買う気はない。雑に扱ってもどうせ自分のものじゃないし、少々壊れても知ったこっちゃない。どうせ海外で安く量産された劣悪品ばかりだろう。

 骨の形をした悪趣味の箸置きを手に取る。骨の上に食べ物を食べた箸を置くなんて考えただけで気持ちが悪くなってまた放る。

 思わず力が入ってしまったのか、骨の箸置きは横に並んでいたこれまた悪趣味のドクロの形をした醤油皿に当たり、弾かれ棚から落下した。

 田嶋はあっと思ったが、既に遅く地面に落ちて破片となって散らばった。 

 やべっ、とその場を立ち去ろうとしたが、ちょうど店員と目が合ってしまった。

 店員は慌てた様子でこちらに向かってくる。仕方がないので、その場で立ち尽くすことにした。


「どうかされましたか」


 店員は田嶋の目を見たあと、足下に散らばる骨の破片を見つめていた。


「この店物を置きすぎなんじゃないの。ちょっとさわって置いただけで転がり落ちるなんて、整理が出来てない証拠でしょう」


「はあ」


 納得がいかないとも理解できないとも取れる微妙な表情で田嶋の目を見つめている。


「だーかーら、俺のせいじゃないってこと」


 眉間に皺を寄せる田嶋に、店員はいきなり明るい表情をしだした。なんだこいつ馬鹿なのか。田嶋はその表情に虚をつかれて少し身を引いてしまった。


「すいません、でも良かった、お怪我はなさそうで。すぐに片づけますのでゆっくりショッピングを楽しんでください」


 そう言うとどこからか取り出した小さな箒のようなもので骨の破片を集め出した。

 田嶋は少しの間それを見つめていたのだが、何か視線のようなものを感じて周囲を見渡してみる。

 すると、何人かの人たちがこちらを見つめているではないか。それも全員が冷たく不快な目をしていた。

 何なんだ一体。また俺が悪いとでもいうのか。どいつもこいつもすぐに人のせいにしやがって、善と悪の区別もつかないなんて、ほんと現代は狂ってやがる。


「俺のせいじゃないからな」


 一生懸命に破片を集める店員にそう吐き捨てると、田嶋は逃げるように雑貨屋を後にした。

 まだ背中にちくちくと視線を感じるような気がしたが、それを振り切るかのように足の回転をどんどん早めて歩いた。そう歩いた。決して走らないように。俺は逃げてなんかいないんだ。





 夜が迫った夕方、通常であれば帰宅ラッシュの渋滞が発生しているであろう時間に田嶋はアパートから二十分ほど歩く距離にある、チェーンの居酒屋のカウンターに席を確保していた。

 車はアパートの駐車場に置いてきた。最近の飲酒に対する避難の嵐は凄いものがある。

 とはいえ、逆に免許を失う、罰金が異常、しかも会社までクビになるというリスクを負ってまで飲酒をする理由はない。俺はそれほど常識はずれな人間ではないのだ。

 ジョッキに入ったビールを飲みながら、この理不尽な世の中に対して考えていた。というよりもなぜどいつもこいつも俺ばかり非難するのだろうという思いを馳せていた。非難と言っても全員が別に何かを直接言うわけではないが、あの周りの視線も非難の一つといえば一つだろう。

 あの雑貨屋のときの視線を思い出すだけでも腹に熱を帯びてくる。


「どいつもこいつも」


 どん、とビールをカウンターに乱暴に置くと、カウンターの店員と目が合ったが田嶋はそれを無視した。

 いつからだろう、こんなに人の目が冷たいだなんて思うようになったのは。と、いうより人の好意すらも信用出来なくなってしまったのは。

 田嶋の頭の中に坊主頭の男の顔が浮かんできた。それは中学二年生の頃の俺だった。


「ああ、あの頃か……」


 それから田嶋は遠い目で俯いて呟きだした。

 

 例年より日差しの強い日が多く熱中症のニュースが毎日のように流れていた中二の秋だ。その年は真夏よりも秋の残暑によって熱中症が多発していた。夏を過ぎて九月の中旬という油断が被害を大きくしていたのだろう。

 その日も田嶋は制服の中に汗をたくさん掻いていた。この校舎は山の上に建っているからか作りが少し変わっていて、昇降口の一階から地下に下りることが出来るようになっていた。地下といっても光は射すし、外にも出ることはできる。ただ便宜上は地下になっているといった感じだ。

 そのせいもあってか、地下を一年生が、二階を二年生が、そして三年生が一階という感じで教室が振り分けられていた。

 二年生だった田嶋は二階に水の入ったバケツを持って上がっていくところだった。何故わざわざ水の入ったバケツを二階に運んでいたのかは忘れたが、その階段を昇りきったところで躓いて水を踊り場にぶちまけてしまったのだ。暫く自分でも何が起こったのか分からず呆然としていたのだが、何を思ったのかその場を立ち去ってしまったのだ。魔が差したってやつだ。誰にでもある若気の至り。

 今考えても思春期の行動に理由を見つけることができずにいる。その時もそうだった。

 田嶋はコソコソと逃げるようにしてそれを放置すると、自分の教室に逃げ帰り机につっぷして黙りをきめた。

 だがそれがいけなかった。

 誰が見ていたのかは今でも分かっていないが、担任が田嶋を怒り、そして教室でも見せ物のようにみんなの前で晒し者にしたのだ。それだけでも田嶋は傷ついたし、どうしてという思いだったが、それでもその時すぐに対応せずに逃げたことを反省していた。

 だが、それからだった。担任は事あることに田嶋をまず疑ったのだ。

 煙草の吸い殻が見つかったときもそうだし、窓硝子が何者かに割られていたときもまず担任に呼び出された。当然田嶋は犯人ではなかったし、そんなことをしたこともなかったのだが、それを聞き入れてもらえることもなかった。

 そんなこともあってか田嶋は人を信用することが出来なくなっていた。人は嘘をつくし、罪を被せてくる。こちらに非がなくとも平気でねじ伏せてくるのだ。

 田嶋は泡のなくなったビールのジョッキを見つめたままそんなことを思い出していた。いつの間にか時間が結構経っていたのだろう。居酒屋の中は人が増えていて、笑い声と愚痴が空間を埋め尽くしていた。

 そんな中、サラリーマンだろうか近くのボックス席からの話し声がはっきりと届いてきた。田嶋は気になりその話しに耳を傾ける。


「ほんっとあの人って認めないよな」


「おい、声がでかいって」


「大丈夫だって、どうせ誰のこと言ってるかなんて分かるわけがないだろ」


「確かにそうかもしれないけどさ」


 どうやらそこにいない誰かのことを言っているようだ。田嶋は聞き耳を立てながら空になったビールのおかわりを頼む。


「それにお前だって何だかんだでいつも乗っかってくるじゃないか」


「俺はお前みたいに露骨じゃないぞ」


「けっ、歯に衣を着せないだけだと言ってくれ。それはともかく――」


「で、今回は何やったわけ?」


「ああ、書類の数字が間違ってたらしいよ。で、いつものパターン」


 田嶋はどきっとした。たまたまとは怖いもので、自分と同じような間違いをした奴がいるらしい。というより書類の数字の間違いなんて日々、日本中に溢れているのだろうし、珍しいことでもないだろうが。


「ふーん、でもそんなのみんなしょっちゅう間違ってるんじゃ?」

 そうだ、そうだ、と心の中で援護する。


「まあ、そうなんだけどかなり大きな企画だったし、課長が会議で恥を掻いたって話だからだろう」


「そりゃ災難だな、運が悪い」


 田嶋は課長の勝山の顔が浮かんだ。確かあいつも同じようなこと言ってたような気がする。やっぱどこの会社でも上司ってやつは自分の非を認めないんだな。きっとその課長ってやつの悪口だろう。そいつも俺もほんと運が悪い。さっきは数字を間違った方のことを言ってるかと思ってどきっとしてしまったじゃないか。


「で、いつものパターンっていつものか?」


「ああ、そうだよ。そのせいでこっちがその尻居拭いさせられちゃってさ。マジ勘弁しろっつーの」


「はははっ」


 きっとその上司から数字の間違いの訂正でもさせられたのだろう。若いうちの苦労は買ってでもしろっていうし、その捌け口がこの居酒屋ってわけだ。まあ、頑張れ若者。

 田嶋は煙草に火をつけるとゆっくりと煙をくゆらせた。じじじ、と音を立てながら葉が火に削られていく。


「ほんっとあいつ最悪。何であいつがクビにならねーんだよ」


「ああそれなら昔、結構会社に貢献したらしーよ。あの人居なかったら倒産したとかしてないとか」


「いつの話だよ。そんなのコンピュータが普及する前の化石時代の話だろ。今なんてその三倍以上の仕事をぺーぺーの俺でもこなすんだし、あいつくらいの仕事量だったら楽勝だろ」


「まっ、確かにミス多すぎ、タジマ!」


「おまっ、自分がでかい声で話すなとか言ってたくせに名前出しちゃってるじゃん」


 甲高い笑い声が響く。

 んっ? タジマって名前まで一緒なのか。そんな偶然あるだろうか。

 田嶋は今まで聞いた話の内容ではなく、その声質を聞くために頭の中で二人の会話をリピートした。

 話し声はどこにでもいそうだったが、笑い声というのはその人物の癖が出やすいのだ。

「はははっ」と笑った奴と甲高い笑い声の奴。はて、どこかで聞いたことのある気がする。

 社内の誰か。話の内容から恐らく一人は同じ部署で、もう一人は別の部署。だが、話の内容から親密さは窺えた――。

 田嶋の中でかちり、と何かがはまる音がした。それと同時に脳からビックリマークが無数に生える。別の部署の二人が会社の食堂で仲良く向かい合って笑う姿がありありと浮かんだのだ。

 灰皿が割れそうなほど煙草をねじり込む。指に熱が伝わってくるが、その熱さも怒りには適わなかった。

 もう田嶋のことを言っていることは明白だった。何だって俺のミスが多いだと。違う、今回のは保波のせいで起きたミスで俺のせいじゃない。

 怒りが治まらず出て行って釈明しようかと何度も思ったが、話の続きも気になるのでじっと我慢した。


「俺は部署違うからそこまで被害は受けてないけど、あの人ってほんとにいつも非を認めないよな。これはあいつが悪い、あれはこいつが悪いってさ」


「そうそう、今回のだって保波さんのミスが元々あったらしいけど、あんなのちょっと見直せば分かるくらいのやつだし」


「そんな分かりやすかったんだ?」


「ああ、あんなの誰でも見つけれるよ」


「で、今日も例のズルと云う名の休暇」


「そうそうほんっと何様って感じなわけよ。そしてそのとばっちりがこっちに回ってくるんだよ。ちょっとミスったから休むとか小学生かよって話」


「ははは、俺別の部署で良かったな」


「辞めてくれねーかな、それか移動、いや島流しで左還」


「お前ひでーな。ああ次何呑む?」


 一体何なんだこいつらは。俺の悪口を言っているのか。俺がミスをするのは大抵無能な上司とお前等みたいな無能な同僚のせいじゃないか。俺が非を認めないんじゃない、周りの奴らが俺に罪を擦り付けてくるんじゃないか。だから、今日の休みだって、理不尽な奴らに対する罰を与えてるだけだろう。

 くそ、言いたいこと言いやがって。

 田嶋はカウンターに拳を叩きつけた。

 どん、という音と共に店員と何人かの客がこちらを向いていたが、そんなものはもう目に入らなかった。

 田嶋は足に力を込め、ゆっくりと腰を上げながら、怒りの矛先を定める。

 お前等の言い分もあるだろうが、俺の言い分もあるんだ。確かに俺はミスをしたし、今日だって会社をサボった。

 だが、それがどうした。

 


[――それでも俺は悪くない]

 

 

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