止まれなくても、またそばに
夕暮れに染まる街を走る影が二つある。街と呼ぶにはだいぶ荒廃してしまっているが、かつては膨大な人口を誇っていた街区を、その二つの影は走り抜ける。太陽の従者と化した怠惰な影たちのひとつとなることを拒み、永遠の生に等しいものを得たその体を躍動させながら――――
ケメルは背丈ほどの高さの壁の上に座っているミオンを見上げて尋ねた。
「なあ、ミオン。なんで『人柱』なんて呼び方をするんだろうな、あれのこと」
ケメルの目も手も、何も指してはいなかったが、ミオンにはケメルが何のことを言っているのか分かっていた。
人柱は二人の目の前の、高度に発展した街区の大通りに無数に立っていた。
「人は死んだら神様になるって考えで、神様を数えるときには柱っていうから」
ミオンはさらりと言った。
「本当かそれ」
「わたしは名付け親じゃないよ」
ミオンはケメルの横に飛び降りた。
「適当言うなよミオン」
「本当かもしれないじゃない」
本当かもしれない、とケメルは思った。ただ、死んでいる、とは思いたくなかった。
もうミオンが壁の上に座り込んでからかなりの時間が経っている。そろそろまた動き始めなければならない。なぜならば、静止を続けることが人柱となる原因だからだ。
二人は再び並んで歩き始めた。どちらからともなく、二人は手をとった。
今の二人には、互いがぬくもりだった。
人柱はかつて人間だった。だからどんな精巧な像よりも人間的で、それぞれに排他的な特徴をそなえている。
人柱化の始まりは唐突で、しかも進行が早かった。幸運にも事態を察知し、なんとかして動き続けようと必死に試みた者たちもいたが、人間は疲労と睡魔に打ち克って生存することはできず、彼らも人柱となっていった。
またひとり動けなくなり、人柱が世界に現れる。そんな光景を見て、ある者は言った。今は『冷酷な春』なのだ、と。新たなものが生まれ、だがぬくもりの感じられない時間なのだ、と。
人間は誰一人として残らないはずだった。だが、ケメルとミオンは残った。それは冷酷な春が訪れる前に、幸運か偶然か、二人が『永遠に動き続けられる体』を得ていたからだった。
研究員が全員人柱になってからも、研究所のシステムは二人を閉じ込めていたが、長い時を経てようやくシステムが落ち、二人は力尽くで研究所を出た。
研究所の直上に広がる街区にも人柱が溢れていた。人間は二人だけだった。どこを向いても、動きはなかった。
もう誰も何も教えてはくれなかった。二人が研究所での日々で得た知識は、自分たちがこの春を生き続けてゆけることと、他には誰も生きられないということだけだった。
生きられるのなら、と二人は歩き始めた。永遠に動き続けられるということの意味を、二人はまだ知らなかった。
「なあ、ミオン。次はどこに行こうか。今なら誰にも邪魔されない。どんなところも、きっともう俺たちだけだ」
かつては住宅地だった廃屋地区を過ぎながら、ケメルは隣を共に歩くミオンに尋ねた。
「ケメルの気が向くところへ行こう。わたしはケメルについていく」
それだけ言うと、ミオンは黙ってしまった。ケメルもさらに尋ねようとはしなかった。ただ、互いに手はしっかりと握っていた。
このところはもう日も短くなってきて、ミオンの手は冷えることが多くなっていた。
「寒いか?」
「どうして?」
「いや、手がさ」
ケメルの手の中でミオンの手がぴくりと動いた。
「手? もしかしてまた冷たい?」
ミオンは空いている手を頬に当て、「ひゃっ?!」と小さく飛び上がった。
「本当だ……やっぱり冷え性なのかな?」
「俺は医者じゃないぞ」
「もう……『そうかもしれない』でいいじゃない。どうして行き過ぎちゃうかなあ」
ややわざとらしさを残してつかれた溜め息がまだ白くはならないような、そんな季節だった。
ミオンは思った。次第に冷たくなるのは、時の移ろいを表しているのかもしれない。ぬくもりの中だけにいてはならない、と世界が背を押しているのかもしれない。いつか来るはずの本当の春へとたどり着くために。
「なあ、ミオン。俺、海は初めて見るんだよ。こんなに、なんていうか……厳しくて、冷たいんだな」
極地の海を眼下に臨みながら、ケメルは隣で同じように海を見つめるミオンに不意に語りかけていた。
「この海はね、きっとわたしたちの『今』なんだよ」
「……なんだよそれ。どういうこと?」
「わたしにも分かんないよ。なんとなく、ね」
「適当言うなよミオン」
「そうだね、適当だった。適当以外の何物でもないね。あははは……」
ケメルは、適当ではない、と信じたかった。なにか意味があるはずだ、と考え続けていたかった。けれども、どう頑張ってみても、ケメルはなにも思いつかなかった。
振り返れば、崖上の開けた裸地にぽつりぽつりと人柱があった。ケメルは思わず握る手をきつくし、ミオンも冷たい指をケメルの手の甲に一層強く押し付けた。
「なあ、ミオン。いいのか? こんなところ、お前には退屈だろ」
そこは大陸のちょうど中央に位置する大山脈を臨む小さな村だった。
「いいよ。想像してみるのも悪くないよ。ケメルが教えてくれた作品のストーリーで、登場人物がどんな動きをしたんだろう、とかね」
その村は人柱の出現以前にケメルが大きな影響を受けた映像作品の舞台の一つだった。放送当時は観光規制がかかるほどの賑わいだったが、今いる人間は二人だけだ。
「あっ、ねえケメル。あれが昨日の晩くらいに言ってたやつ?」
「ん? えっと、どれのことを……ああそうそう、あれだぞ」
「本当にあるんだ……『生きてくだけの橋』…………」
その橋は作中で一人の子供が懸命に渡ろうとし、中ほどで背後の森から撃たれ、時間とともに爆破されてすべてを落とした、という場面の舞台だった。実際にその橋では同じことが起きたといい、橋は途切れている。
「生きてくだけ……生きて砕け、か…………」
ミオンがどのような意味を含ませたいのか、ケメルには分かっていた。
ケメル自身も考えたことがあった。なにかをするばかりでは、砕けてしまうまでがあまりにも短すぎる。何をし続けるかでも大違いだろう。人がそれぞれに、生きてくだけ、死んでくだけ、歌ってくだけ、語ってくだけ、黙ってくだけ、笑ってくだけ、泣いてくだけ、悲しんでくだけ、なんてことを考えていた時もあった。いろんなことをしたい、と思ったのだ。
「まだ俺は……俺たちは死んでいない。砕けていない。動き続けていられる。だから、もっとたくさんのことをしにどこへだって行こう」
ぬくもりがケメルの身に伝わってきた。生命のぬくもりだった。
「……ケメル? いきなりどうしたの?」
ミオンはいつのまにかケメルの腕の中にいたことに対して言った。
「どこへだって……どこへだってだっ…………」
わけも分からずに感情が極まり、涙さえ出てきた。わけが分からないのに、悲しみがないことだけは分かった。
ミオンはケメルの意味の分からない涙さえも受け止めている。それに悲しみを見出せる者などいないだろう。
「せっかく初めて行き先をリクエストしてくれたのに、こんなんじゃなあ……」
ミオンが初めて行き先の希望を言った。それは、そこそこに深い山奥にある小さなロッジだった。外観は至って普通で、人間がいなくなってまだ間もないのか、多少の蔦が伸びてきているだけで比較的きれいなほうだ。
正直、ケメルはかなりがっかりしていた。希望を叶えてやれた感じがまるでしなかった。もっと性質が特殊だったり、到達が困難だったりすればよかったのに、と思い、そしてそれをいつのまにか言葉にもしていた。
「わたしにとってはね、ケメル、ここは特別なの」
そんなケメルの思考を感じ取ったのか、ミオンがケメルに笑いかける。そして、その顔がふっと翳った。
「……ケメルはもう、家族の思い出とかすっかり忘れちゃった?」
「いや、そんなわけ…………あれ?」
家族とはなんだった? そんな問いが侵食を始めた。
「えっ、えあっ……あっ…………あれ?」
塗り潰されているのか、削ぎ落とされているのか、隠されているのか。ケメルの記憶に家族の姿はなかった。ただ家族の概念だけが知識として存在しているばかりだった。実体を認知できないという現状が恐怖を纏ってケメルに襲いかかる。
「誰が……何が……うあっ……あああああああああああぁぁぁぁぁぁぁ」
それでも、家族はいた気がしていた。家族と呼べるものじゃなかった気がしていた。家族が消えれば自分はようやく人間として生まれることができる、と思っていたような気がしていた。ただ、気がするばかりで、なにも確かになってくれなかった。
「わたしはまだ少しなら残ってるんだ。ほんの少しだけ。きっともう直らない。だから、今のわたしの家族との思い出にして、忘れないようにする。そのためにここに来たんだよ」
ミオンはその思い出がどんなものだったのかを語らなかった。どんどん怯えてゆくケメルを抱きしめるばかりだった。自分の心音がケメルのものと重なって響き返してくる心地よさを、ケメルにも知ってほしかった。
今この瞬間を生き、動き続けているという確かなしるべが、ケメルのもとにもゆっくりと現れてゆく。見えない家族の姿が存在を消すことはなく、それでもしるべがそこを囲んで、そこに寄り添う場所に新たな囲みを作ってゆく。
「今のわたしの家族はケメルだよ。たったひとりだけ。それでも家族だよ」
「ミオンが……お前が……俺の家族…………? 家族……なのか…………?」
もうケメルの声音は怯えではなく、ただひたすらに静かだった。
「そうだよ」
「そう、か…………」
はっきりと、でも優しく、ミオンはケメルに答えた。
「永遠に動き続けられる体に一緒になった。ケメルの望むところがわたしの望むところだった。歩幅も違うのに、ずっと隣で歩いて、私の手なんかに触れてたら自分まで冷たいのに、ずっと温かい手で握っていてくれた。ぬくもりをわたしに分けてくれた」
これまでの道が脳裏に浮かぶ。気づけばミオンの手はケメルの頬に添えられていた。冷たさが、温かさが、心地よかった。
「もうケメルはわたしの家族だよ」
頭の高さが逆になった。ケメルは手をミオンの頭にぽんと当て、背にそっと添えた。
「ミオンは俺の家族。二人で家族、か…………」
囲みの中にミオンがふうっと現れ、ケメルに微笑みかけている。ケメルもまた笑顔だった。ケメルはその囲いに歩み寄り、ひとつ頷いて、足を踏み入れた。
この日、ケメルとミオンは家族になった。
「わたしに残っている最後の家族の思い出はね、ここで家族みんなで並んで寝ころんで、天窓の向こうを眺めながら眠る、そんな時間だよ」
天窓のある部屋に二人は立ち尽くしていた。
今となっては二人とも眠る必要もなく、また眠ってはいけなかった。静止がおよそ二時間を越えてからは人柱となる危険が出てくるからだ。
だからミオンの思い出はそのままでは残すことができない。
「俺は起きているから、ミオンは眠れよ。ちゃんと時間が近くなったら起こすし、起きなくてもお前を抱えて進んでやるから」
「……いいの?」
「いいから言ってるんだ」
ケメルは床に仰向けに横たわり、ミオンを目で呼んだ。
「ありがとう、ケメル」
ミオンはケメルの傍に横たわり、ケメルの左腕の上に頭を置いた。
風鳴りが聞こえる。山の木々が葉を擦る音も聞こえてくる。ケメルはその音に耳を澄ませ、ミオンはその音に眠りを誘われた。
傍からふぅ、すぅという音が聞こえてきた。ふと見れば、ミオンは穏やかな顔で眠ってしまっていた。
ケメルはふっと微笑んで、また天窓に目を戻した。月光が二人を照らしていた。ケメルはまったく眠たくなかった。
永遠に動き続けられる体となってから、二人とも一度も眠ったことがなかったのに、こうしてミオンが自分の傍で眠っている。身体的にはまったく必要ではなくなったその行為を、ミオンはしている。
奇跡だろうか、とケメルは思った。この時間だけはいつまでも忘れずにいよう、とケメルは心に決めた。
「おっ、起きたか?」
ミオンが小さく呻いてから目を覚ますと、ケメルに背負われていた。
ケメルの背中が意外に大きいことにミオンは気づいた。無意識にその大きさを手で確かめていた。
「おはよう、ミオン」
「お、おはよう、ケメル。って言っても、ねぇ……」
辺りはまだ暗いままだった。
「寝てから起きるまでは早かったから、おはようでいいじゃんか」
「まあ、そういうことにしとこっか」
「ああ」
ケメルは立ち止まって、ミオンを下ろそうとしたが、ミオンはいっそう腕をきつくした。
「ん? どうした?」
「あっ、えっと…………」
ミオンは顔がかあっと熱くなるのを感じたが、意を決して言った。
「あのねケメル、温かいんだよ。それがうれしいんだよ」
ケメルは返す言葉に詰まった。
「だからね、もう少し、太陽が昇るくらいまではこのままでいて」
「……分かった」
ケメルはミオンを揺すり上げて背負いなおし、再び歩き始めた。
「ねえケメル?」
沁み入る声だった。
「なんだ?」
ケメルは思わず目を閉じて微笑んでいた。
「大好きだよ、わたしはケメルのこと」
ミオンはケメルの頬に手を当てて言った。
「そうか」
ケメルにはその冷たさが心地よかった。
「うん」
ミオンにはケメルの肌のぬくもりが心地よかった。いつまでも、いつまででも、こうしていたいと思った。
「俺は…………」
二人の目の前の空が白み始めていた。
「そうだな……ミオンとぴったり同じだけ大好きだ」
「なあにそれ。ふふっ」
ミオンはケメルの肩にぽんっとあごを置いた。
顔を出した太陽の光よりも大きな温かさを、二人は互いから感じていた。
そして、冷酷な春はどこへでもやってきた。
「がっ、がはっ!」
それは突然の赤色だった。鮮やかに飛び散るそれは、ミオンのものだった。
「は……? おっ、おい! どうした――」
「ぐっ……がぁっ! がはっ!」
ケメルは吐血するミオンを素早く、けれども注意深く下ろした。ミオンはうずくまりながら絶え間なく血を吐き、辺りはすぐに血まみれになった。ケメルは自分では何を言っているのかわからないままに声をかけ、擦り切らんばかりに体をさすり続けた。
そしてミオンは一際大きく血を吐くと、ぐったりと体から力が抜けた。
「お……おい? ミオン?」
ケメルはミオンの体を抱き起こした。
「な……なに……? ケメル……」
ケメルの腕の中のミオンはどんどん白くなってゆく。
「なんだよこれは……なんなんだよ?!」
「わたし……は……いしゃじゃ……ない……よ…………」
息が続かない。途切れるミオンの言葉を、ケメルは必死で拾い、つなげていた。
「ね……ねえ……ケメル…………」
「なんだミオン?」
「わた……したちは……かぞく…………。だよね……ケメル…………?」
「ああそうだ、そうだな。だから俺がお前を守るっ…………」
まだ間に合うかもしれない、とケメルは考えた。ケメルはミオンを抱え上げ、どこか治療のための場所を探しに駆け出そうとした。だが――
「かぞ……く……と……いっしょ……か…………」
ケメルは息をのんだ。足が止まり、体は前に崩れていった。
ミオンを背負う背中には、もうなにも伝わってこなかった。そこには確かにミオンがいるのに。
「永遠に……」
心音はひとつだけ。ケメルだけの音が返ってくるばかり。
「永遠に動き続けられるんじゃ……なかったのかよ!! なあ……なあっ!!」
地に額を擦り、拳を打ちつけて叫んでみても、返事は背中からも、どこからも、誰からも、返ってこなかった。
二時間が経った。ケメルはずっと、地面に横たえたミオンをぼうっと眺めていた。
そこからどのくらい経ったか、ミオンの体が末端から無機物のような物質に変わり始めた。生者とは違い、その変換はひどくゆっくりと進行していった。ケメルはなにも言わず、ただぼうっと眺めているばかりだった。
手足から腕や脚へ。胴を飲み込み、首へ。そして最期に笑っていたミオンの顔も。姿かたちはその時のままで、でもすべてが変わってしまった。
ミオンは人柱になった。
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!」
ケメルにはもう縋る先も寄り添う場所もなくなってしまった。どこを向いてもたったひとりで、残されたしるべの意味も分からなくなっていった。
自分はまだ人柱にならないのだろうか。いつになったらなるのだろうか。そう考えていたはずだったが――
「あれ? なんで……歩いてるんだ?」
気づけばケメルは歩いていた。向かっていたほうへ、ミオンから遠ざかって。
「なんでだ……? 俺も……なっちまえばいいじゃんか…………」
そう言っている間にも歩は進められる。振り返って見る背後のひとつの人柱がどんどん遠ざかってゆく。かつてのミオンで、今の人柱が。
「いや……なんでだよ……なんでなんだよおおおおぉぉぉぉっっ!!」
ケメルの体は静止を拒み、意思を振り払い、圧し潰して進む道を選んだ。ケメルの心がどれほど望んでも、ミオンのもとへは帰らず、立ち止まりもしなかった。
そしてケメルは気づいてしまった。もう、自分はあそこにいたくないのだ、ということを。あの姿をもう見たくないという意思も確かに自分の中に存在してしまっている、ということを。
「ああっ……うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」
手は伸ばせたが、はるか遠くなってしまったその場所へ届くことはなく、
「いやっ……ああっ……ああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
ついに見えなくなっても、ケメルは振り返ったまま叫び続けた。ケメルの中の、それを望む領域のすべてがあらん限りに叫んでいた。
灰色の空から、小さな白い一片の雪がケメルの指先に舞い落ちた。その冷たさに、ミオンの冷たい指先の記憶が思い出させられた。
ケメルは自分の手を頬に当ててみた。
「なんで……なんでっ…………」
その手は残酷にも温かかった。
時間は意識しなければ長さが分からなくなる。ケメルはもうあれからずっと同じ方向にしか進んでいない。以前はなんとはなしに数分くらいは立ち止まったりしていたが、今はもう一瞬たりとも足を止めない。どこも見ず、なにも聞かず、進むことだけがケメルの時間となっていた。
膝丈ほどの浅さしかない、世界最浅で有名だった海峡を渡って、いつの間にか違う大陸に入っていた。それがいつのことだったかはおろか、そもそもそんな場所を渡ったことさえケメルは知らなかった。
もし、ケメルがまっすぐ向かった先が浅い海峡ではなく、普通の海だったらどうしていただろうか。足がつかなくなるまで進んで、泳ごうとしただろうか。そのまま沈んで、その体が耐えるのをいいことに海底を歩き続けただろうか。
血がかよう限りは、ケメルの体はどんな環境にも耐えられる。たとえ呼吸できなくとも。そう、本当はケメルもミオンも呼吸さえ必要ではなくなっていた。無意識に気づいて、呼吸さえやめてしまう。そんなことも起こり得ていたのだった。
体がケメルを生かしていた。もう、意思も意識も使わなくなっていた。
ケメルは冷酷な春が続く世界を進み続けた。ずっとずっと遠くへと。世界が続く限り、ケメルの歩みも永遠に止まらない。どこかでその世界の終わりを叫ぶ声が聞こえる気がしたが、それはあまりに小さく、どこにも残りはしなかった。
ケメルが世界を再び認識し始めた時、いつの間にか傍らには眠たそうな目をしている一人の幼い少女がいた。
「……えっ? なんだ……?」
言葉が出た。するりと、虚無の時をすり抜けて。
「あっ……わあ!」
その少女はぱあっと笑顔を咲かせた。目だけは眠たそうなままだった。
「えっとえっと、はじめまして、だね! だってずっとカノンのこと見てなかったし、話も聞いてなかったもんね」
理解ができた。ぱきりと、凍結していた思考を解かして。
「お前の名前はカノンというのか」
「そうだよ! でもなんで……あっ、さっき自分で言ったんだった。ははっ」
自分が閉じていた間にカノンと出会っていたということを理解した。カノンがどのくらいの間か、ずっと一緒にいたということも。時には様子をうかがい、時には話しかけていたということも。
「あなたに付いていって後悔したこともたまにあったんだ。平気で危ないところに進んでいくんだもん。カノンがすごい体じゃなかったら、あのまま引っ張って道を変えてあげられなくて、あなたがひどい目に遭ってたかもしれなかった、なんて時もあったなあ……」
ケメルは気づいた。今、ケメルとカノンがいるのは、あの始まりの場所がある大陸だということに。どのくらいの時を経たのかは分からないが、星をほぼ一周していることに。
けれども、ケメルには分からなかった。なにがケメルをこの世界へ連れ戻してくれたのかを。
「どうして……」
「だって、カノンが見つけたただ一人の人だもん。みんな人柱になっててさ、ずっと一人で歩いていたのに、あなたが来た。一人じゃなくなっちゃったら、もう元の一人ぼっちには戻りたくなくなって、たとえなにも返してくれなくても、いるだけでいいや、って思ったんだ」
カノンは眠そうな目をそのまま閉じた。
「ねえ、あなたの名前は?」
「ケメル」
「じゃあね、ケメル、カノンを背負ってくれないかな。カノンはもう眠たくて仕方がないんだよ」
どうやらもともと眠そうな目なのではなくて、本当に眠かったようだ。
ケメルの体はいつの間にかひとまわり大きくなって、もう大人になっていた。小さなカノンなど簡単に背負えそうだった。
「そうだな、お前が俺を起こしてくれたようだし、借りは返す。ほら――」
ケメルはしゃがんでカノンの腕をとると、背から肩にまわして背負い上げた。
「おおっ、やっぱり高いなあ。世界が違うや……ふあぁ…………」
カノンはすぐに頭をケメルの首元にもたれさせて眠ってしまった。途端に重くなった気がして、ケメルはカノンを揺すり上げた。カノンは眠ったままで、ケメルはカノンの頭がずれてしまわないよう、背後に気を配りながら歩いた。
「やっぱり大変だな、眠った人を背負って歩くのは」
ミオンを抱えて歩いた時がケメルの脳裏に浮かび上がってきた。
「あの時は……」
ミオンがケメルの背で眠っていた。そして今、カノンがケメルの背で眠っている。
ついさっき知った少女で、けれども知らなかった感じがしない少女。二人で歩き始めた頃の自分たちよりも幼く見える、いつかに出会っていた少女。どのくらいの時間か、自分とともに歩いてきた少女。
カノンのことを思うと、ケメルは心にぬくもりを感じた。ケメルの背中には、カノンの鼓動とぬくもりが伝わってきていた。
懐かしさをくすぐられ、けれども今は今の感覚だった。その違いに目を向けるよりも、ただ感じていたい、とケメルは思い、これまでのように歩いた。
「んん……はじめましてぇ…………」
背中でカノンが寝言を呟く。それを聞いて、ケメルは決めた。
目的地を決めよう。ここから、始まりの場所へ、たどった道へ、立ち止まった場所へ、思い出がまだ残っている場所へ、そして家族のもとへ。
決めた場所に向かう道でカノンから聞こう。自分とカノンとの時間のことを。そしてカノンにも教えよう。ミオンとの時間のことを。
必ず思い出そう。どこかにあるはずの、閉じていた時の記憶を。カノンから全部聞いてしまう前に、自分から。
しるべの囲いが広がってゆく。もっと遠くまで行けるようになってゆく。もうどこへだって行ける気がしてきていた。
そして、ふと思い出したのは、自分が本当にどこまででも進める体なのだということだった。
「眠たくなる、ってお前は俺と同じじゃないのか?」
ケメルはもうすっきりと目を覚ましたカノンに尋ねた。
「うーん、ケメルみたいにいつまでもってわけにはいかないし、多分そうなんじゃないかなぁ。カノンは外に出てからそんなに経ってないからね」
ケメルは最初の目的地を始まりの場所――ケメルとミオンの体を変えた研究施設がある街区――に決めていた。
「じゃあ、お前は俺が戻るまで眠くなったらどうしてたんだ?」
「ああ、それはねぇ……」
カノンは背負っていたバッグから紐で繋がれた金属のパイプを取り出した。
「ここを引っ張って……」
カノンは紐を掴むと、一番近くのパイプを押さえながら引っ張った。すると、パイプたちは互いにはまってゆき、やがて小さなそりができた。
「この紐をケメルの腰にくくりつけて、引いてもらったんだよ」
ケメルはすかさず指を揃えてカノンの脇腹を刺した。
「ひぎゃああっ! なにするのさ!」
「気づかないのをいいことに、ひとを荷引きに使いやがったからだ」
なおも執拗に刺し続ける。
「ああああやめてええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
仕返しは数分続いた。
「うう……まだ痛いよぅ…………」
「ほら着いたぞ。ここが俺と……ミオンの始まりの場所だ」
地下にあった研究施設へ続くハッチは、二人が外へ出た時から変わらず開け放たれたままだった。下を覗き込んでも、すぐに暗闇になっていてなにも見えない。
「降りないの?」
「ああ。ここはいい。ここに求めたのは歩き始めた思い出だけだからな」
ケメルは振り返って空を仰いだ。
あの時はやけによく晴れていた。今も同じようによく晴れている。どこまでも澄みきっていて、周囲の人柱さえ忘れて明るい気持ちになる。不安を軽くしてくれた空を思い出して、ケメルは胸いっぱいに息を吸った。冷たい空気が肺を満たし、体の熱と心地よく混ざり合う。
「いい顔をしてるよケメル。ずっと待っててよかった」
ケメルはゆっくりと息をはいて、カノンのほうを向いた。
「『待ってた』って、なにをだ?」
「ケメルの表情が明るくなること」
息が止まった。
「よかった……よかったよ、ほんとに。さあ、もっと見せてね! カノンはもっとケメルのいろんな顔を見たいな」
「ああ」
もう一度だけケメルはハッチを振り返り、それからカノンの手を握った。
「……えっ?」
「行くぞカノン」
「うん……うんっ!」
二人は一緒に歩き始めた。
「あ、でも怒った顔はもうやめてね。さっきのでもう十分――」
ケメルの指刺しが炸裂し、街区にカノンの叫び声が響き渡った。
「そうそうそこだ」
カノンは壁の上に座っていた。
「へぇ、ミオンさんはこんなところで太陽を眺めてたんだ……。変な感性だね」
「お前、『感性』なんて言葉知ってたんだな」
「知能指数高いんだぞこれでも!」
カノンが手をぶんぶん回して怒ったが、バランスを崩して危うく落ちそうになった。ケメルは身構えたが、カノンは落ちてこなかった。
「おいおい気をつけろよ。……ところで、それっていつ計ったんだよ」
「二年くらい前」
「お前はいま何歳だ?」
「女の子に年齢を尋ねたことはしっかり覚えておくとして、十歳だよ」
ケメルは額に指を立てて目をつむった。
「二年間も進歩しなかったんだな、かわいそうに」
「そう思ってても別にいいもん。いつかほんとに賢いんだって分からせてやるっ!」
カノンはケメルに向かってびしっと人差し指を向け、また危うく落ちそうになった。
「おう、楽しみにしてるぞ」
二人は互いに笑いあった。
ケメルはふと、自分がいま何歳なのか知りたくなった。十五歳から始まったこの春は、一体どのくらい続いているのだろう。もう大人になっている自分の体を思うにつけ、時間の流れを知りたいと思う気持ちは強くなってきていた。
「海の中に行こうとした時はほんとに焦ったよ。絶対冷たいに決まってるしね」
海を前にして、カノンはケメルに過去を語っていた。
「そんなことをしてたのかよ俺は…………」
眺める海は以前と変わらず荒れていた。
「カノンは強引にケメルの手を引いて港まで連れてってあげたんだぞ。船だってカノンが動かしたんだから」
「そうか」
ケメルはまだ思い出せていなかった。もうカノンが教える話ではこの大陸に入ってしまう。戻った時までそう長くは残されていない。
「まっ、もういいやっ! さあ、行こっ! 今度はどこなの?」
カノンはケメルを仰ぎ見て尋ねた。
「えっと次は……山の麓にある小さな村で――」
二人は再び手をつないで歩き始めた。向かう先に見えている大山脈は、以前見た時と変わらず白いままだった。
「ここがそうなの?」
「の、はずだ」
大山脈の麓の小さな村。相変わらず人柱はあれど人間はいない。
「ほんとにこんなところがねぇ……」
カノンが疑うのも無理はない。村はケメルが以前来た時よりもいっそう荒れてしまっていた。
「あっ、ねえケメル、あれが昨日の晩くらいに言ってたやつ?」
「ん? えっと、どれのことを……ああそうそう、あれだぞ」
『生きてくだけの橋』もまた緑がかっていた。崩落部分も大きくなっている。
「生きてくだけ……生きて砕け、か…………」
その言葉はケメルの記憶を殴りつけた。
「あっ……ああっ…………」
ケメルは頭を抱えた。
それはかつてのミオンの言葉だった。それは思い出せるのに、ミオンがどんな顔でそれを言ったのか思い出せない。
「ケメル……? どうしたの?」
ケメルは気づいた。
いつの間にかミオンのことを思い出さなくなっていた。
カノンと進み続ける時間が長くなるにつれて、ミオンの姿が遠くなり、ぼやけていた。
記憶からミオンだけが消えようとしていた。
ミオンと一緒に行ったことを忘れ、いつの間にか、ただ自分が行ったことのある場所をたどるだけになっていた。
「……カノン」
「なに?」
「消えてくれ、俺の前から」
はっ、とカノンが息をのむのが聞こえた。
「お前といると……ミオンが…………」
そこまで言ってしまってから、ケメルは自分の言っていることの残酷さに気づいた。
ケメルは顔を上げた。
隣には冷たい大気だけがあった。振り返れば、自分の後ろに続いていた二人分の足跡の隣に、新しい足跡ができていた。
「カノン…………」
ケメルの目が滲む。その理由をケメルは考えることができなかった。だから後を追えなかった。
山奥のロッジもかなり荒れていた。だが、あの天窓のある部屋は埃が積もっているだけで、壊れてはいなかった。
なぜここに来たのかも、気を抜けば忘れてしまいそうだった。こうして立ち尽くしていたのは自分だけだったような気がして、必死にその嘘を振り払った。
ケメルは床に仰向けに横たわった。天窓は少し曇っていたが、十分に空を見ることができた。月光が差し、ケメルが横たわる場所を照らした。
「一人じゃ……家族になれない…………」
ふと浮かんだその言葉をそのまま口にすると、ケメルはなにかがカチャッとはまった音が聞こえた気がした。
「一人じゃ……思い出もたくさんは持てない…………」
一瞬の後、ケメルは思い出し始めた。
『あっ、あの……はじめまし……ってちょっと?! 聞いてる? ……聞いてないのかぁ』
『カノンはカノンっていうの。あなたは? ……これも聞いてないのかぁ』
『うーん……えいっ! やっ! はあっ! ええ……なんでぇ…………』
『ついていってもなにも言わないね? そうだよね? 黙ってるのはそうだってことだと思っちゃうからね? 知らないからね?』
『なんて呼ぼうかな……。年上だろうし……お兄さん? いや、やっぱり…………』
『ああっ! ねえ見てお父さん! 滝だよ、凍った滝! すごい……あっ、待ってよぉ!』
『この香り、いいでしょ? 寒い場所の生き物の中で一番いい香りがするんだよ、この花』
『なんだかこうして並んでいると家族みたいだね。……でも、カノンは一人じゃなくても一人みたいだなぁ。一人じゃ家族なんてできないし、悲しいなぁ。一人じゃ、思い出も一人分しか持てないよ。ねえ、お父さん、いつかほんとに気がついても、カノンのことを家族みたいにしてくれる?』
『そっちはダメっ! ダメだよ! えっとえっと……あそこに、あそこに行こう! ほら、お父さんっ! ううっ……やあっ!』
『船が動いているときは歩かないんだ……。進んでいるからかなぁ』
『カノンはこっちの大陸には来たことないんだ。ワクワクするよ。お父さんはどうなんだろう……。どこから来たんだろう…………』
『疲れた……疲れたよお父さん…………。ねえ、止まってよ……待ってよ……まっ……うっ……うわあああん!』
『えへへ……お父さんに引いてもらっちゃってるよカノン。重くないかなぁ? 重いよって言ってくれたりしないかなぁ? なんでもいいから、言ってくれないかなぁ…………』
『ここはどこ? お父さんの知ってるところ? カノンはなんだか不安だよ。ずっと一緒にいるのに、なにも言ってくれなくて…………』
『出会わなければよかった……。出会わなければ、こんな思いしなくてよかったんだ…………』
『なんでカノンはお父さんについていってるんだろう。そういや、お父さんはほんとのお父さんじゃなかったんだったや。カノンとはつながりのない、違う世界から来た人だったや…………』
『答えてよっ! あなたは誰なの?! どこから来たの?! どこへ向かってるの?! どんな思い出があるの?! カノンのこと……分かってくれてないの?』
『いつか……いつかはきっと…………』
『あっ……ああ……やっとだ…………。きっとそうだよね? 涙は拭いておかなくちゃ。なんて声をかけよう? やっぱり、はじめましてかな? ううん、もういいや。思ったことをそのまま言おう』
『さあ、目を覚まして。カノンとお話しようよ。カノンを一人じゃなくならせてよ』
『あっ……わあ!』
『えっとえっと、はじめまして、だね! だってずっとカノンのこと見てなかったし、話も聞いてなかったもんね』
「なにが……『はじめまして』だよ…………」
声だけの記憶だったが、確かにケメルの記憶にはカノンの声があった。
ケメルは跳ね起きた。ロッジを飛び出し、進み始めてから初めて、来た道を引き返し始めた。今までほとんどずっと歩いていた道のりを、懸命に走って戻っていった。永遠の動を約束された体を躍動させ、悪路をものともせずに駆けた。
カノンの名を何度も叫ぶ。残っていた足跡が一列から三列になっても、まだカノンの姿は見えない。
必ず会わなければならない。会ってからどうするのかは考えていない。反対を向く二列の足跡には目もくれず、同じ向きの一列の足跡をたどり続けた。
そしてついにケメルははるか前方を歩くカノンを視界に捉えた。
「カノンっ!!」
カノンはびくっと飛び上がり、振り返った。だが、直後にカノンは前を向いて走り出した。
「待てっ! 待ってくれカノンっ!」
カノンはうつむきながら全力で逃げる。
「カノンっ!」
その逃走は延々と続いた。互いに永遠に動き続けられる体だ。互いの距離はなかなか縮まらなかった。
カノンは来た道をぴったり引き返していた。意識していたかどうかは定かでなくとも、まるで記憶をたどるようだった。村を抜け、森を抜け、海辺を抜け、どんどん街区へと近づいてゆく。
少しずつカノンの脚が鈍り始めた頃、時刻はすでに夕方になって、二人は街区の大通りを走り抜けていた。ケメルの影がカノンの足元に届き、そしてとうとうケメルはカノンを掴まえた。
「やめてっ!」
カノンは振り返らずに前方に向かって叫んだ。その叫びは街区の建造物群の狭間に反響した。
だが、なぜ拒むのかを知りながらも、その理由を消してやるために、ケメルは手を離さなかった。ケメルはカノンを引き寄せ、精一杯に抱きしめた。カノンはケメルに顔を見せず、ケメルの胸に顔をうずめながらもがいた。
「カノン…………」
「ダメでしょ……カノンが消えないとさ……ケメルはっ…………」
ケメルの胸に顔を埋めたまま、カノンは口ごもった。
「カノン、お前だって俺の家族なんだ」
カノンは動きを止めた。
勝手を言っているのは重々承知しつつも、ケメルは続けた。
「カノン、俺は思い出したよ。お前が俺にかけた言葉も、行った場所も、したことも、たくさん覚えていたんだ。俺はずっとお前を見ていなかった。なのにお前は俺の傍にいてくれた。でもな、俺はそんなカノンと、ミオンを並べて考えてはいけないんだ、ってどこかで思ってたんだと思う」
うまく言い表せていないと感じた。どうしたらいいかは分からなかった。ケメルの中にはなんとかして話し続けようとするという選択しかなかった。
「お前と出会った時にはもうミオンが俺の家族だったから、家族じゃなかったお前はミオンとは並べられないって……ああ、違う…………どうしてこんな言い方になってるんだっ…………」
カノンが天を仰いだケメルの顔を見上げた。
「ケメル、カノンはちゃんと話を聞いてあげるから、どうか焦らないで言ってごらん」
ケメルがカノンを見下ろすと、カノンはとびきりの優しい笑みをケメルに見せた。目元には涙の跡が赤く残っていて、ケメルの胸元は濡れていた。
カノンはケメルが本当に伝えたいことを察していた。あとはケメルの言葉がそれをしっかりと伝えるのを待っていた。
ケメルはカノンの心を感じ取り、ゆっくりと一呼吸おいた。
「カノンは俺の家族に、もう一度、なってくれるか?」
最後にカノンに尋ねようと思っていたことを、間を飛ばして言った。
「……言い直してそれなのね。もう、なんだかなぁ…………」
「カノンも家族なら、どちらかが、なんてことを考えなくていい。それが俺の思いつきだ。名案だと思わないか?」
「思いつきだ、って言っちゃうところとか、ケメルはほんとに足りないよねぇ…………」
カノンの顔に浮かぶ呆れの色は本心からのものではなく、心の奥にはまた別の感情があった。
「なあカノン、知ってるか? 家族はな、ひとつだけじゃなくていいんだ」
「知ってる」
「ひとつにしてもいいんだ」
「知ってる」
「だからさ、お前の中の『家族』を、もうひとつ、今この時に、始めてくれないか」
カノンはケメルに手を差し出した。
ケメルはその手をそっととり、しっかりと握った。
大気の冷たさが溶け込んでも、握った手のぬくもりは衰えなかった。
傍から見ればほとんど理解できないような、彼らだけの世界で生まれた家族の形は、今ようやく彼ら自身に受け入れられた。共に進んできたこと、共に進んでいること、ともに進んでゆくこと。それで家族だと思い、思われる。そんな家族の形を見出したのは、進み続けた記憶の中からだった。
ケメルとカノンは再び元の道を引き返し始めた。今度は歩いて、ゆっくりと。
足跡は四列になっていた。そこにまた新たに足跡が二列加わってゆく。
目の前に続いていた足跡が二列になったところで二人は顔を見合わせて、ふふっと小さく笑いあった。ケメルがカノンの頭をそっとなでた
幾日かが過ぎて、足跡が途切れたロッジの前で二人は立ち止まった。ちょうど夜になり、月が高くなってきていた。
「ここで俺とミオンは家族になるって決めたんだ。ミオンの消えかけていた家族の記憶を、俺との新しい記憶に変えたんだ」
「それって……」
「ああ。もう全部なくしていた俺と違って、ミオンはその時、家族をひとつ捨てて、俺と家族になる今を選んだんだ」
カノンは、敵わないなぁ、と思ってから、ケメルが『どちらかが、なんてことを考えなくていい』と言ってくれたことを思い出した。
「そういえばさ、『思い出した』って言っただろ? その中にはさ、お前が俺をなんて呼んでいたかも――」
「ちょっ、ちょっと待って」
カノンの声音が低くなった。下を向いて震え始めていた。
「なんだよ」
「おおおお思い出したって…………」
声まで震えていた。
「なるほどな、俺はそんな歳に見えるのか」
「ああああやめてええええぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」
空いた手を頭に当てて悶えるカノンを快活に笑ってから、ケメルは優しい顔になった。
「俺もお前を娘だと思おうかな」
「……へ?」
カノンが顔を上げると、ケメルが空いた手を見つめていた。
「だったら、ミオンは俺の妻かな。そう考えたらもっと家族になるな」
その沁み入るようなケメルの表情に、カノンは見とれてしまった。
「まあ、でも、『お父さん』とはもう呼ばないでくれ。『ケメル』がいい」
ケメルは困ったように笑った。
「カノンもそのほうがいい。もう恥ずかしすぎて…………」
カノンはまた下を向いてしまった。
「お前は……俺と、ミオンの家族だ。それだけは忘れるなよ。俺ももう絶対に忘れない」
「忘れないよ。ケメルこそ、忘れたら今度こそ許さないよ?」
カノンは下を向いたままもそもそと言った。
「ああ」
ケメルは心の中で尋ねた。
なあミオン。俺とお前の家族にカノンを入れること、お前がダメだっていう姿が思いつかないんだ。もしそう思っていたら俺は謝るよ。でも、お前は知ってるもんな。誰よりも、俺よりも、知ってるもんな。家族になるってことを――――
天窓の向こうに再び月が見えてくるまで、二人は黙って床に横たわっていた。時間は気にしなかった。もうそれが間もないことは分かっていたからだ。
「ほら、見えてきた」
二人へ月光が差してきた。
カノンはケメルの右腕を枕にしていた。ケメルの左腕は横に伸ばされていた。
「外に出れば普通に見えるのに、なんでだろう、不思議な気持ちだ…………」
カノンはほうっとため息をついた。その音はまもなく周期的な呼吸音になった。ケメルが横を向くと、カノンが眠ってしまっていた。
「お前も寝るのかよ、ははっ」
やれやれ、とケメルはまた天窓の向こうの月を見上げた。
カノンは完全な体ではない。ほんのわずかずつでも疲労のようなものが蓄積するようだというのは、意識が戻ってすぐに知ったことだった。その疲労のようなものは、もしかしたら肉体的なものだけではなかったのかもしれない。心とも密につながっているのかもしれない。だとしたら、カノンがもっと長い時間を眠らずに過ごせるようにしよう。
ケメルはそんなことを考えながら、月が天窓から見切れてゆくのを見送った。右腕に伝わるカノンの頭の重さを愛おしく思った。伸ばした左腕にも、誰かが触れているような気がしていた。
「ケメルの背中って思ってたよりも大きいんだねぇ」
「おっ、起きたか。おはようカノン」
「おはようケメル」
二人は山を下る道を進んでいた。
「大きいなぁ……」
「なにが?」
「だから背中が」
「そうか」
ケメルがカノンを背負い、ざっざっと歩いてゆく。
「どこに向かってるの?」
「ミオンのところだ」
「そう」
カノンはケメルの肩に手を置き、ぐっと勢いをつけて自分の体を上げた。突然のことにケメルは少しバランスを崩した。
「おわっ?! こらお前、危ないだろ」
「だって、カノンがケメルより先にミオンを見つけるんだもん。もっと高く上げろぅ! ほらほらぁ!」
「そういうことか……」
ケメルは静かに呟くと、ぶんっと体を激しく振った。
「うわっ!」
そして落ちるカノンを振り向いて受け止めて地面に下ろすと、
「じゃあ、先に行くぞ。ちゃんとついてこいよっ!」
と言い残し、駆け出した。
「えっ、うそぉ! そんなのずるいってばぁ!!」
カノンもケメルのあとを追って駆け出した。
ケメルは何度も振り返っては、カノンがついてきているのを確かめた。ケメルが振り返るたびに、カノンは笑顔を返した。どちらからともなく、楽しさが溢れ出たような笑い声を上げた。
そして、その姿は見えてきた。
ケメルはゆっくりと速度を緩め、カノンもケメルに追いつくと隣に並んだ。
長い年月が過ぎ、風雨や日射に晒されてきたはずなのに、姿はまったく変わることなく、笑顔もまるできらりと輝いているのではないかと思えた。
「これが、ミオン……」
「の、人柱だ」
ケメルはあえて現実を言った。
「俺が逃げ出しても、まったく変わることもなくて、まるでずっと待ってるみたいにも見えて、でもきっと……違う」
あの日、もう変わり果てたミオンの姿を見たくなくて、ケメルは去った。心では一緒にいようとしていたのに、その思いは体を制する強さを持たなかった。いや、心さえも、どこかに拒む気持ちを隠していた。
生きて、動き、進み続ける。そうさせる向きへの力が最も強い力だと知っていても、それに抗う意思の力を信じたかったのに、無残にも圧倒され、そこからケメル自身も長い時を経ることになった。
今度もまた、ケメルは進もうとしている。カノンと共に、家族と共に、進もうとしている。ミオンを残して、家族を残して、進もうとしている。
きつく握られたケメルの拳に、ふわりと小さなぬくもりが覆いかぶさった。ケメルがはっとなって見ると、それはカノンの手だった。
「あのね、ケメル。カノン、さっきミオンを見たとき、ふって感じたの。うまく伝わるか分からないけど…………」
カノンはそこから長い間をとった。ケメルは手の甲に感じるカノンのぬくもりに感じ入りながら、その時を待った。
そして、その時は何度目かの深呼吸の後に来た。
「もうね……この春は終わるんだよ」
なにを言っているのか分からなかった。
「『人柱』はね、あといくつかやるべきことをすれば、みんな人間に戻るんだよ」
ケメルの表情が一気に険しくなった。
「お前は……自分がどれだけめちゃくちゃなことを言っているか分かってるのか?」
「カノンは感じたこと……というか、なにもないところからいきなり分かったことを、できるだけそのまま言ってるだけだよ」
「人柱が元に戻って……冷酷な春が終わる…………?」
それはただの願望だったはずだ。ケメルには到底信じられないことだった。
「これはたぶん、ミオンがカノンに教えてくれてるんだ」
そう当たり前のように言ったカノンに、ケメルはついに声を荒げた。
「お前、ふざけてるのか? なあ?!」
「ふざけてなんかないっ!」
カノンもまた声を荒げた。
「お願いだから……分かって…………」
一転、静まった声に、ケメルは言葉を詰まらせた。
黙り込んだケメルをカノンは悲しげな顔で見て、それからミオンの人柱に向かいあった。
「ミオン。カノンはあなたの家族。だから、いいんだよね? カノンでも」
カノンはミオンの人柱に手を伸ばした。
「おはよう、ミオン」
カノンはそっと呟くと、ミオンの胸の真ん中に指で触れた。
その瞬間、キンッとひとつ、高く鋭い音が響いた。その余韻は長い時間をかけて消えてゆき、静寂に溶けきってしまい、そして――ケメルとカノンの前にはミオンが立っていた。
「おはよう、カノン。おはよう……ケメルっ!」
ミオンはケメルのもとへ飛び込んだ。ケメルはミオンが自分の胸へたどり着くまでの刹那に、あの日確かに見届けたはずの死の記憶を呼び起こしていたが、飛び込んできた衝撃、抱きとめた腕に伝わる重みとぬくもりに、それらは吹き飛んだ。
「おはよう……ミオン……ミオンっ…………」
ケメルはミオンをしっかりと抱きしめ、確かな存在を確かめていた。あらゆる幻を殺して、今この瞬間を現実にしようとして。
ケメルとミオンは互いにゆっくりと腕を解いた。
「カノン」
ケメルがカノンを呼んだ。
「わたしの家族はもうケメルだけじゃないよ。カノンも…………」
ミオンもカノンを呼んだ。
どこかで遠慮していたことにカノンは気づいた。この時間が途方もなく残酷だと知っているから、そう思うのも無理はない。けれども、カノンはケメルの、そしてミオンの家族だった。他の誰でもなく、ケメルと、そしてミオンとが、カノンを家族だと言った。
わずか数歩の距離を、カノンは飛び込んだ。
ケメルとミオンはカノンをしっかりと受け止めた。二人分のぬくもりを感じた瞬間、静かに、こらえながら、カノンは泣いた。その涙には、うれしさも、かなしさも、さみしさも、つらさも、すべてが溶け込んでいて、それがケメルとミオンの肌に触れると、二人もまたそれぞれに持っている思いを呼び起こされ、自然と涙が出てしまった。
「なんで……泣いてるんだろうね、わたしたち」
「時間だろ。俺たちのこれまでの時間が、しまってあったところから流れ込んでるんだ、一気に…………」
「カノンのせいだよ。カノンが泣いちゃったから…………」
「いいんだよ……そんなの。わたしだって泣いてるんだから」
涙はいつまでも流れ続けはしない。始まりと同じように、終わる瞬間もあった。この小さな家族にも。
三人は誰からともなく腕を解いた。
「こんなふうに、他のやつらも誰かとまた出会い始めてるのか」
ケメルがどことなく嬉しそうに言った。
「それは……違うよ」
ミオンがどこまでも悲しそうに言った。
「えっ? だって、冷酷な春は終わったんじゃ…………」
カノンは首を横に振った。
「じゃあ、なんでミオンは…………」
ミオンとカノンは、ケメルにも感じ取ることができるほどに、二人とも悲しさを抑えられていなかった。
「おい待てよ……なんだよその顔…………」
動揺がケメルの声を揺らした。
「ケメルとカノン、あなたたち『最後の家族』が共に歩み、わたしのもとへやってきて、初めて人は冷酷な春を終える。ただ、本当はね、ケメルとカノンの二人が永遠に続けば、ううん、もし片方だけになっても、この春は終わらないはずだった。この春を人が終わらせるためだけに、わたしはこうしてここに存在しているの」
ケメルは聡い男だった。その聡さをケメルは呪いたくなった。行く手になにが待っているのかがケメルの中で残酷にもどんどん明らかになってゆく。
「分かんねえよ…………。ミオン、お前は――」
「あの時死んだ」
ミオンはきっぱりと言いきった。ケメルは目前に鉄壁が下ろされたように感じた。
「そうだよ、わたしは確かにあの時死んだし、でも今はこうしてここにいる。それはね、ケメル、わたしが果たすべきなことがあるからだよ。そのためだけに存在しているの」
ケメルは逃げようとした。逃げてしまえば、結末を迎えることはないと信じて。
「なあカノン、お前は分かるか? ミオンがなに言ってるのか。分かんねえよな?」
だが、それはできなかった。
「ううん。分かるよ」
カノンは沈痛な顔で言った。たった二言が、ケメルを釘で打ち付けた。
「嘘だっ!」
「嘘じゃないよ」
カノンはケメルの叫びにも動じなかった。ケメルがどこを向いても、行く末は変わらなかった。
「もう一度、今度はちゃんとお別れして、ケメル。待ち続けた時間が報われる瞬間を、わたしに見せて…………」
だが、それがミオンの願いでも、ケメルは受け入れ難かった。
今度こそ本当に消える。いま目の前にいるミオンが、今度こそ二度と会えない遠い世界の存在になる。家族がようやく形になったのに、こんなにも早く、どうしようもなく壊れるのだと思うと、どこまでも足掻きたくなった。打ち付けられても、引きちぎってでも逃れたかった。
「なんで……そんな役、お前じゃなくても……俺でもいいんじゃないのか?!」
カノンがケメルとミオンの間に立った。
ミオンとカノンは、未来へとケメルを手招き続ける。
「違うよケメル。カノンとケメルが揃っていて初めてできることなんだよ。もう生きてないミオンじゃダメなんだよ。カノンかケメルのどっちかが欠けたら、今度こそ永遠にこんな世界が続くことになる――」
「なんで分かるんだよそんなこと?!」
「わたしがそのたった一つの可能性を、この冷酷な春をもたらした存在から伝えられて、わたしからカノンにも伝えることができた、って言ったら?」
「俺はなんでそれが分からないんだよ?!」
「分からないよそんなの。わたしはそれを聞いて、誰かにそのメッセージを届けたいって強く願っただけ」
もはやケメルだけが未来に反逆していた。
「わたしはケメルとカノンに未来を、この春の先をあげられるなら、こういうこともできちゃうんだよ。世界で一番大事な家族のためなら、このもう終わってる体でも力になれるなら、ね。わたしがなにもしなければ、こうして待っていたこともなんの役にも立たないで、わたしはただ消えてしまうだけ。だからお願い、ケメル…………」
ケメルはもはや、なにを言われても否定しか答えられなくなっていた。ただひたすら「嫌だ」と頭を抱え、呟き、叫ぶばかりだった。
だから、ミオンとカノンは最もつらい選択をした。
「カノン、手を……」
ミオンはカノンに手を差し出し、カノンはためらわずにその上に手を乗せた。そして、ミオンは頭を抱えるばかりのケメルの手の上に自分の手を乗せた。
ケメルとカノンは同時に感じた。その手から、ミオンへと向かう流れを。ほのかに温かく、かすかに振動する、その流れを。
「ミオン……これが、最後の?」
「そう。二人が最後の進行者として引き受け続けた、人類の『動』のすべてを、わたしが全部持っていく。二人を永遠に閉じ込めるはずだった鎖は、人類が等しく受けるべきだった『静』とひとつになる。わたしがそこへ行くの。その融合が果たされる場所へ」
ケメルは気づき、衝撃に顔も上げられなかった。もしそうでなかったとしても、すぐ後にケメルとカノンの体に襲いかかった途方もない重量感には逆らえなかっただろう。流れが引くと同時に、ケメルとカノンの体は地面に倒れていった。
ミオンはケメルとカノンから動作の可能性を奪った。二人はミオンを見ることしかできなくなった。
最初から、ケメルには拒めなかったのだ。
ミオンに再び会いに来た時には、もうミオンがこうすることは決まっていた。
だからこそ、変えられたものがあった。時間があった。心があった。
なのに、ケメルは拒み続け、そして今、ミオンはケメルの意思を逆さまに打ち砕いた。
「おま……え…………」
体は動かせなかったが、かろうじて声は出た。
「お願いってね、聞いてもらえなかったら、それがたとえどんなにつまらないことでも、無理なことでも、それを自分で分かっていても、悲しいよ……悲しいんだよ…………」
ミオンは二人を見下ろしている。その体は次第に透いてきていた。
「ま……て…………」
カノンはもう黙ってミオンを見ていた。ミオンはそんなカノンに微笑みかけ、自分の両手を目の前にかざした。
「こんなことまでしたんだ。絶対にわたしは二人に未来を…………」
ミオンはその両手を胸の前にぐっと握り締め、くるりと背を向けた。
「ま……ぁっ…………」
ミオンはゆっくりと一歩を踏み出し、
「た……のむ…………っ」
また一歩を踏み出して、
「行ってきます、カノン、ケメル…………」
振り返って涙をかばいながらそう言うと、
「み……お…………」
音もなく、風もなく、光もなく、ただ静かに消えた。
その瞬間、ケメルとカノンの視界は暗転した。
それからすべてが感覚から消え、どれくらいの時間が経っただろうか。
冷酷な春は、その長い時間を終え、次の季節へと動き始めた。
「おはよう、ケメル」
カノンの声だとすぐに分かった。
「起きてるんでしょ? 目を開けて、ゆっくり明るさに慣らして、周りを、この世界を見てごらんよ」
ケメルはぴたりと閉じていた目をゆっくりと開けた。青のグラデーションが見事な空に、雲が薄く、高くにかかっていた。
ケメルはしばらく空を仰ぎ見続けた。カノンはケメルを見守り続けた。そして、ケメルはゆっくりと体を起こして周りを見渡し、カノンと目が合った。
「春の次って、夏だったよな?」
「そんなのもう分からないよ」
ほどよく温まった大気。雲がやんわり遮る陽の光。穏やかな風と、木の葉が擦れる音。
「春の次もまた別の春、なんてことになってるのかもしれないじゃない」
「そうかも……しれないな」
ケメルがそこまで言ってから――
かつての春の名残が、ケメルの心にふわりと舞い降りた。
もう耐えられなかった。
胸を押さえ、心の感触を染み込ませる。
「ミオン……ミオンっ…………!」
それをケメルのすべてがつなぎとめようとする。身も、心も、そのひとりを刻み込もうと必死になる。
「ごめっ…………」
続けようとした言葉を、それをミオンは望まないと思い直し、ケメルはもう一度言った。すべてを引き受けて、冷酷な春を明けさせた、家族へ向けて。
「ありがとう……ミオンっ…………」
なにに感謝を告げたのか、はっきりとは分からない。全てに対してかも、たった一つに対してかもしれない。ただ、ケメルと、傍でケメルの背に手を置いて目をつむるカノンとは、同じ思いだった。
残された家族へと、一陣の風が吹き抜けた。
風は、その家族に未来を教えてくだけ。
残された家族へと、陽の光は等しく降り注いだ。
光は、その家族に世界を照らしてくだけ。
残された家族へと、贈られたものがあった。
道は、その家族をそれがある場所へと連れてくだけ。
残された家族は二人。まだ進めるのだから、もう一度始めよう。
今までどれほど進み続けてきたとしても、待っているのは同じ時ではなくて、でもほんの少し、懐かしくて、いつの間にか記憶がなくしかけていたことを寂しく思うような、そんな全てだ。
どこまでもは進めなくても、ただひとつの場所へと進めるなら、いつか止まってしまうまで、いつまでも、いつまでも…………