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死神と呼ばれた少年

作者: SS便乗者

ふと気がついた時、僕の眼前に広がっていたのは欝蒼と茂った背の高い森の木々だった。

これは、町のそばに広がっているあの深い森の中なのだろうか・・・?

だがぼんやりとした頭でそんなことを考えている内に、僕は何気なく自分の手の異様に気がついてそれをまじまじと見つめていた。

確かに自分の手が存在しているはずの場所に見える小さな黒い蹄と腕に当たる部分に生えた白い斑点のある栗毛が、この世界での自分の正体へと僕の意識を導いていく。

ああそうか・・・今度は僕・・・仔鹿なんだな・・・

道理で周囲に生えている木がやたらと大きく見えるはずだ。

恐らく目の高さは地面から50cmくらいといったところに違いない。

そんな新鮮な森の景色を堪能しながら、僕はしばらく森の小道を歩いていた。


ガサッ・・・

とその時、突然背後から何やら不穏な物音が聞こえてきた。

いつも感じる悪い予感に思考を巡らす猶予もなく、仔鹿の首がグルンと物凄い速さで背後へと振り向けられる。

果たしてそこにあったのは、ようやく空腹を満たせる喜びに顔を綻ばせた1匹の大きなドラゴンの姿だった。

暗い森の色に同化するかのようなその深緑色の鱗がギラギラと鈍い光を照り返し、早くも獲物である僕の味を想像しているのか鋭い牙の生え揃った顎の端からトロトロと唾液が溢れ出している。

う、うわっ・・・

「ヒッ・・・!」

その恐ろしい捕食者の姿を目の当たりにした瞬間、まるで僕の上げた声をそのまま外に吐き出したかのような仔鹿の引き攣った悲鳴が辺りへと響きわたった。

そしてまるで弾かれたかのようにドラゴンへと背を向けると、仔鹿が正に脱兎の如くといった様相で一目散にその場から逃げ出し始める。


ザッザッザッザッ・・・ガッズザァ!

「ヒギィ!」

だがほんの数歩も走らぬ内に、仔鹿である僕は背後から一足飛びに襲いかかってきたドラゴンに捕まると柔らかな黒土が覆った地面の上へと勢いよく押し倒されてしまっていた。

た、助けて・・・!

「ヒィ・・・ヒヒー!」

自分の何倍もあるようなドラゴンの巨体に背後から組み敷かれ、その細い首筋に唾液の滴る牙を押し付けられる恐怖・・・

僕の頭と背中を地面に押し付けているドラゴンの腕にはほんの一握りの力しか込められていないのだろうが、最早絶体絶命の獲物と化した仔鹿にはそれを撥ね退ける力など微塵も残されているはずもない。

やがて死に対する諦観に仔鹿がそっと目を閉じると、首筋に鋭い牙が食い込んだズブッという鈍い感触とともに意識が暗い闇の中へと吸い込まれていった。



「わあぁっ!」

不意に全身に弾けた恐怖の奔流に、僕は勢いよくベッドの中から飛び起きていた。

その声に驚いて両親が慌てて僕の部屋を覗きに来たものの、すぐに2人ともいつものことかとばかりにそっけない顔で部屋を出て行ってしまう。

「よかった・・・見たのが人間の夢じゃなくて・・・」

僕は両親を驚かせてしまったことに軽い気恥ずかしさを感じはしていたものの、そう声に出して平静を取り戻すと近い内にドラゴンの餌食になるであろう憐れな仔鹿を思って窓から見える森へと視線を向けていた。


僕は、時々誰かが死を迎える瞬間を夢に見ることがある。

そしてその夢の中で起こったことは、正確に何時かはわからないものの近い将来に現実となるのだ。

いわゆる予知夢というものなのだろうけれど、不思議なことに僕はその死の予知夢以外に夢を見たことがない。

僕がその忌わしい能力に気が付いたのは、6歳の時にお爺ちゃんとお婆ちゃんを亡くしたのがきっかけだった。

町の周囲を取り囲んでいる森にお婆ちゃんが山菜を採りに行こうとした前日の夜、僕はお婆ちゃんが森の中を流れる川沿いの土手で足を滑らせて溺れてしまう夢を見たのだ。

しかもそれは決して客観的に景色を見るようなおぼろげな夢などではなく、まるで自分自身がそのお婆ちゃんになったかのように鮮明で恐ろしいものだった。

傾斜の急な土手を転がり落ちる感触や、勢いよく流れる川の水の味までもが今も記憶の底にこびり付いている。

だが僕はそれをただの何でもない悪夢だと思い込み、その時はお婆ちゃんはもちろんパパにもママにも夢のことは話さなかった。

そして何も知らずに森へと出かけて行ったお婆ちゃんはその日・・・結局家には戻ってこなかった。


さらにその晩、僕は今度はお爺ちゃんが森の中で大きな熊に襲われて命を落とす夢を見た。

翌日森にお婆ちゃんを探しに行くと言い出したお爺ちゃんの様子には流石に不安に駆られて夢のことを教えてみたものの、幼い僕の言うことなどにはまともに取り合ってくれるはずもない。

やがて日が暮れても一向に帰ってくる気配のない2人を心配して町中の人達で森の中を捜索すると、川の下流で力尽きているお婆ちゃんと森の中で猛獣に襲われたと見える無残に変わり果てた姿のお爺ちゃんが見つかった。

それ以来、僕が度々町の誰かが死ぬ夢を見る度にそれを警告するようになったのは言うまでもないだろう。

だが幾度となく予言通りの死が繰り返される内に、やがて町の人々は僕を恐れるようになっていった。

悉く現実となる死の宣告を恐れて、パパやママまでもが僕のことを気味悪がり始めているのだ。


「こんな力なんて、もう無くなっちゃえばいいのに・・・」

朝だというのにもかかわらずどんよりと曇った外の様子を眺めながら、僕はぼそりとそんな独り言を漏らした。

何しろいくら夢とは言え、僕は今までに見た予知夢の数だけリアルな死の恐怖を味わい続けてきたのだ。

小鳥になって空を飛んでいる内に何処からともなく飛来した鷹の鉤爪に引き裂かれる夢や、草食動物になって熊や森の何処かに巣食っているドラゴンの餌食になるような夢はまだいい方だろう。

中には町中で不運な事故に遭った人や目を血走せた人間に殺されるような夢まで見ることがあるのだから、いつ知っている人達が死んでしまう夢を見るのかとハラハラしていなければならないのは辛いものがある。

尤も同世代の子供達にも死神なんて呼ばれて忌避されている僕にとっては、親しい友人など1人もいないのだが。


しばらくそんな暗い思索に耽りながら見飽きた外の景色から視線を外すと、僕は朝食を摂るために家の階段を降りて行った。

やがて下着姿のまま階下に着いた僕を見つけると、既に食卓についていたパパが何処となく不安げな表情を浮かべながらも夢のことを聞いてくる。

「それで・・・今日は誰だったんだい・・・?」

パパは多分、知人の誰かが死ぬことよりも自分が死の宣告を受けやしないかが心配なのに違いない。

「ううん・・・今日は森に住んでる動物だったよ」

「そ、そうか・・・それはよかった」

その僕の返事を聞いて、パパがあからさまにホッと胸を撫で下ろす。

どこがいいもんか!僕の悩みなんてほんのこれっぽっちも知らない癖に!

だがそんな激情に任せた悪態をつく気力もなく、僕は黙って席に着くともう慣れてしまった重苦しい雰囲気の中で朝食を食べ始めていた。


「あの仔鹿・・・もうドラゴンに食べられちゃったのかなぁ・・・」

朝食を終えて部屋に戻ると、僕は再びベッドの中に潜り込んで窓の外へと顔を向けた。

そして忌々しくもハッキリと脳裏に刻み込まれてしまった夢に見た光景を、頭の中で何度も何度も反芻する。

僕を地面に押さえつけたドラゴンから吹き掛けられる興奮に湿った生暖かい吐息の気配や、暴れようとする気力すら奪い去ろうとじっくり嬲るように首筋に這わせられたおぞましい舌の感触。

そんなとても夢とは思えないほどに現実味を帯びた恐怖に身を震わせている内に、僕は何だか遠く離れた森の中から仔鹿の悲痛な断末魔の声が聞こえてきたような気がした。


さて・・・しばらく学校が休みなのはいいとして、この曇り空じゃあきっと外へ行っても憂鬱になるだけだろう。

何だかもう1度寝たらまた見たくもない悪夢を見てしまいそうで少し不安だったものの、こんなつまらない日は何もせずに部屋でじっとしているに限る。

どうせ僕が夢を見ても見なくても、死の運命を覆すことができる者などこの世には存在しないのだ。

その証拠にこれまで何度も夢で見た死を声高に呼びかけてきたというのに、それを聞いてなお今も生きている人はただの1人もいない。

やがて冬の肌寒さが甘いまどろみを運んでくると、僕は心地よい暖かさに身を委ねて静かに目を閉じた。


ん・・・

次に目が覚めた時、僕は深い闇の中にいた。

確かに意識が覚醒はしているのだが、感じるのはゆったりとした周期の長い呼吸の音ばかり。

これは・・・もしかして僕はまた誰かの予知夢を見ているのだろうか・・・?

仮にそうだとするならば、僕の意識が乗り移っているこの生物は恐らく深い眠りについているのだろう。

「ピィーピリリリリリリリリ・・・」

だがその眠りもやがて、不意に何処からか聞こえてきた妙な鳥の鳴き声に邪魔されてしまう。

「う・・・ん・・・」

幾分か艶のかかった溜息のような声が聞こえ、大きな体がのそりと動いた気配がある。

そして薄っすらと両目が開けられると、僕は周囲の様子を素早く窺った。

どこかの洞窟の中なのだろうか、遠くに歪な蒲鉾型に切り取られた外の景色が見える。

自分の腕は暗闇のせいでよくは見えなかったが、どうも赤っぽい色をした短い毛で覆われているらしかった。


「ピィーピリリリリリ・・・」

「んん・・・うるさいわねぇ・・・」

え・・・喋った・・・?

先程自分の腕が視界に入った時、確かに僕の正体は人間ではなかったはず・・・

なのにこいつは今、人間の僕にも理解できる言葉を発した。

だが背後で揺れる太い尾の感触や舌先でなぞる長い牙の存在に、ようやく僕が誰なのかを理解する。

もしかして僕・・・ドラゴンになってるのかな・・・

「ピィーピリリリリリリリリリリー・・・」

やがて安眠を阻害されて不快感を募らせるドラゴンに更に追い打ちをかけるかのように、一際高い鳥の声が洞窟の中にまで響き渡った。

「もう・・・!いい加減に静かにしないと怒るわよ!」

それに続いて吐き出された、ビリビリと空気を震わせるようなドラゴンの怒号。

口調から察するに、恐らくは雌のドラゴンなのに違いない。

そしてしばらくすると、ドラゴンはなかなか鳴き止もうとしない甲高い鳥の鳴き声に業を煮やして地面に伏せていた巨大な体をゆっくりと起こしていた。


それにしても不思議な話だ。

今まで僕が見た夢では必ず結末には己の死が待っていたはずなのだが、少なくとも今の所この雌のドラゴンにはさっぱり命を落とすような予兆が見当たらない。

今から洞窟の外に出て行ってピリピリと泣き喚くうるさい鳥を追い払いに行くのだとしても、その行動に一体どんな死の危険が伴うというのだろうか?

だがもしかしたら初めて死の予知ではない夢を見れたのではないかと安堵した次の瞬間、流石の僕にもまるで予想できなかった信じられない事態が起こった。


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・

突如洞窟内に響き渡った、耳を劈くようなけたたましい轟音。

それとともにグラグラと激しい揺れが足元を襲ってきて、僕は立っていることもできずにその場に身を伏せた。

うわわ・・・

「きゃぁ!」

ピシ・・・ピシピシッ・・・

凄まじい地震の揺れのお陰で、厚い岩でできた洞窟の天井に少しずつ亀裂が入っていく。

まずいぞ・・・このままここにいたら、きっと天井が崩れてくるに違いない。

だがなおも揺れ続ける地面に重い体重を支える足が取られてしまい、ドラゴンは既に逃げるどころかその場から立ち上がることすらできなくなってしまっているようだった。

そして・・・僕の頭上で何かが弾ける音が盛大に鳴り響く。

ガラガラ・・・ドドドドドドドドド・・・!

う、うわああああああああ・・・!

「ああぁ~~っ!」

やがて崩壊した洞窟の天井から大量の土砂と大岩が自らの上に降り注いでくる光景を最期に、しばし雌のドラゴンとなっていた僕の意識はそこでぷっつりと途切れることとなった。


「・・・!」

次の瞬間、僕は声を上げることもできずにベッドの上で体を起こしていた。

雌のドラゴンが迎えた死の恐怖などよりも、もっと大きな衝撃が頭の中を駆け巡っていく。

僕が夢で見たことがいずれ現実に起こるのだとしたら、今のは1匹のドラゴンの死であると同時に近々大きな地震がやってくるという予知に他ならないのだ。

反射的に窓の外へと目を向けてみると、何時の間に降り出したのかザーザーという音とともに激しい雨が窓を叩いている。

時間は昼を少し回ったところだろう。

目を覚ましたドラゴンの視界の中に一瞬だけ映った洞窟の外では、確か雨は降っていなかったはずだ。

それにそれまでドラゴンが長いこと眠っていたことを考えれば、恐らくあれは朝の出来事に違いない。

ということは明日か、或いは明後日か、いずれにしろ晴れた日の朝に大きな地震が起こるということなのだろう。


僕は急いでベッドから這い出すと、慌てて服を着替えながら階下へと降りて行った。

だがパパもママももう仕事へ行ってしまっているのか、家の中に2人の姿は見当たらない。

それに冷静になって考えてみると・・・果たしてこのことを本当に両親に話してもいいものなのだろうか・・・?

2人ともただでさえ僕から不穏な話を聞くことを恐れているというのに、そんな時に僕が"大地震が来る!"なんて言ったら、家の中で一体どんなパニックが起きるかは容易に想像がつく。

いつかは伝えなければならないことには違いないが、僕は黙って部屋に引き返すとベッドの上に寝転がってゴロゴロと本を読みながら2人の帰りをじっと待つことにした。

だが手にした漫画の本からちょっとでも意識を逸らすと、再び夢の中の光景が目の前に広がってくる。

どうして神様はこの僕に、こんなありがたみのない能力を授けたのだろう・・・?

誰かの死の瞬間が見えることに、一体何の意味があるっていうんだ?

しかも周りの人達は夢の内容なんて目を覚ました時には半分以上忘れているって言うけど、僕の場合は何故か、まるで実際に自分で体験した出来事のように鮮明に夢の中身を思い出すことができるのだ。

いっそ起きた時に全部忘れてしまえば、僕だってこんなに悩みを抱える必要はなかったのかもしれないのに・・・


やがて夕方になってパパとママが仕事から帰ってくると、僕は何事も無かったかのように平静を装ってリビングへと降りて行った。

そして食卓についたままテレビを見ているパパの隣に静かに座り、話を切り出すタイミングをじっと窺う。

「ねえパパ・・・」

「ん・・・?」

パパは相変わらずテレビの方に顔を向けたままだったものの、僕の声を聞くとビクッと小さく身を竦めていた。

全く・・・僕が言うのもなんだけど、本当に情けない父親だと思う。

それを見た途端に何だか緊張していたのが馬鹿らしくなってしまい、僕は喉まで出かかっていた夢の話をゴクリと飲み込んでいた。

「ううん、やっぱり何でもない」


やがて夕食を終えて部屋に戻ると、僕はほんの少しだけ窓を開けて明日の天気を窺った。

すっかり陽の落ちた空は相変わらず厚い黒雲が覆い尽くしていて、雪に変わる前の大雨はまだしばらくの間止む気配がない。

取り敢えず、あの夢の出来事が起こるのはもう少し先のことなのだろう。

そうして明日もまた退屈な1日が待っていることを確認すると、1日中寝転がっていたせいで暖まったベッドに潜り込んで次第に体を包み込んでいく眠気に身を任せる。

今日はもう朝にも昼にも恐ろしい夢を見たし、流石に夜くらいは静かに眠りたいものだ。

だが決して贅沢とは言えない僕のそんなささやかな願い事でさえ、結局叶えられることはなかった。


「ん・・・」

不意に眼前に広がっていた、しんと静まり返った昼下がりの深い森の景色。

その数分前とは繋がりのない突然の光景に、僕はまた夢を見ていることを自覚していた。

今までは予知夢を見るのは精々が2、3日に1回程度の頻度だったというのに、今日だけで3度も夢を見るなんてどうかしているとしか思えない。

だが町に暮らす人間がそう頻繁に命を落としているはずもなく、大抵は弱肉強食という自然の摂理の犠牲となる森の獣達の最期を看取ることが多かった。

(もちろん老衰や病気で亡くなる人は大勢いるだろうが、僕は何故かそんな夢だけは1度も見たことがなかった)

森の中ということを考えれば、今回もきっと猛獣に襲われて命を落とす小動物か何かの夢に違いない。


だがそこまで考えた時、僕は目に見える森の景色が実に自然で何の遜色も無いように見えることに気が付いた。

あれ・・・僕・・・もしかして動物じゃない・・・?

もし今見えているのが4足動物の視界ならば、もう少し目線が低い位置にあってもおかしくないだろう。

だが視界以上に全身に感じるありとあらゆる感触が・・・僕が紛れもなく人間であることを知らせていた。

やがて自分では動かすことのできない人間の視線が少しだけ下げられ、自分のものと思しき両腕が目に入る。

え・・・これって・・・

そこにあったのは、夢ではなく現実の世界で何度も目にしてきた自分自身の腕。

これは僕だ・・・僕が僕の夢を見ているんだ・・・!


それは普通の人にとってみれば、不思議でもなんでもない極々当たり前の出来事だった。

だが僕にとって、それは決して受け入れることのできないある結末を意味している。


死・・・


自分の置かれているこの上もなく恐ろしい状況に、僕は背筋が凍るような悪寒を味わっていた。

その数瞬後・・・"その結末"を運ぶ冥界の使者が僕の前へと姿を現す。

「グル・・・グルル・・・」

突如として背後から聞こえてきた、獰猛そうな獣の唸り声。

まるで自分がそうしようとしたのと寸分違わぬ動作で、"夢の中の僕"が恐る恐る背後に顔を振り向ける。

何時の間にそこまで近づいてきていたのか僕が視線を向けたその数メートル先では、冬眠を間近に控えて気性を荒げた1匹の大きな熊がじっと僕を睨み付けていた。

う、うわああっ!

「う、うわああっ!」

誰にも聞こえぬはずの僕の悲鳴を、"夢の中の僕"が代わりに上げてしまう。


「グオアッ!!」

その獲物の上げた狼狽の声に反応したのか、熊は威嚇とも取れるような大声を上げると足が竦んで動けなくなっていた僕に向けて勢いよく飛びかかってきていた。

ドッ!ドサァ!

「うあっ!」

そして成す術もなく地面の上へと押し倒され、両肩と胸に凄まじい体重を預けられる。

「た、助けて・・・誰・・・うぁ・・・た・・・すけ・・・」

やがてメキッという音とともに押し潰された肺から空気が漏れると、助けを求める声が微かな喘ぎのように森の中へと霧散していった。

そんな僕の目の前で、腹を空かせた熊が恐ろしい牙の生え揃った大きな口を開ける。

牙の先を伝った唾液がトロリと細い糸を引いて流れ落ち、ようやく腹を満たせる喜びに熊の両目が爛々と輝いていた。

い、いやだ・・・こんな死に方・・・うわあああああーーー!!

そして熊が勢いよく牙を振り下ろしたその瞬間、僕の視界は一面鮮やかな深紅に染まっていた。


「うわあぁっ!」

見てはいけないものを見てしまったという焦燥とともに、僕は正に"夢の中の僕"が上げたであろう断末魔の叫び声を上げながら飛び起きていた。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・」

この上もなく鮮明に脳裏に焼き付いた、自分自身の死の瞬間。

どうして・・・どうして僕が森に・・・?

これまで森に入ったことなど1度も無いというのに、どうして僕が森で命を落とすというのだろうか。

だが夢として見てしまった以上、きっとこの結末から逃れる術は皆無なのに違いない。

一見すると森に近寄らなければいいだけのような気もするのだが、そんな簡単なことで死が避けられるのならこれまで僕が死を警告した人達の中に多少は生き残っている人がいてもおかしくないはずなのだ。


「そ、そんな・・・僕・・・もうすぐ死ぬの・・・?」

大きな熊に無残に引き裂かれる瞬間に夢が途絶えたのは、きっと苦しむ間もなく即死したからだろう。

だがそんなものなど、何の気休めにもなりはしない。

やがて荒くなった息をようやく落ち着けてまだ夜明け前の薄暗い外の景色へと目を向けてみると、昨夜あれだけ激しく降っていたはずの雨がまるで嘘のように晴れ上がっていた。

「雨が上がってる・・・じゃあやっぱり・・・」

今日の朝に大きな地震が起こる・・・

ドラゴンの夢の中にはそれが今日の出来事であるという根拠は何も見つけられなかったものの、僕には何だかそんな予感があった。

静かな藍色に染まる空の様子が、嵐の前の静けさの如く混沌とした喧噪を内に孕んでいる。


本当に・・・僕には死ぬ以外の道は残されていないのだろうか・・・?

もし運命というものが最初から決まっていてそれが避けられないものだとすれば、僕の予知夢なんかが一体何の役に立つというのだろう。

「いや・・・待てよ・・・」

その時、僕は不意に俯いていた顔を上げていた。

本当に夢で見た死が現実になるのだとしても、もしかしたら僕ならそれに干渉することができるのかもしれない。

どうせこのまま待っていてもいつかは森の中で熊に食い殺されるしかないというのなら、その前にどうしても試しておくべきことがある。

僕は静かにベッドから這い出して外出用の服に着替えると、まだパパとママが眠っていることを確認してそっと家を抜け出していた。


「はぁ・・・はぁ・・・」

目の前に広がる、どこまでも続いているかのような深い闇の帳。

家を出て十数分後、僕はじっと夜明けの時を待つ暗い森の前で荒い息をついていた。

もし夢で見たドラゴンの洞窟を見つけることができれば、あのドラゴンを死の運命から救うことが出来るかも知れない。

1度も入ったことが無い上にただでさえ広大な森の様子に僕は既に心が折れそうではあったものの、自分の命がかかっているのだと思うと不思議と幾許かの勇気が胸の内に湧いてくる。

そうして2度3度大きく深呼吸しながら何とか気持ちを落ち着けると、僕は意を決して薄明かりも届かぬ森の中へと入って行った。


ガサ・・・ガサガサガサ・・・

無造作に茂みを掻き分ける音が妙に耳障りに感じられること以外、不気味な森の中は生物の気配が全く感じられぬほどに静まり返っていた。

大丈夫・・・大丈夫だ・・・僕の見た夢は辺りの明るさからして昼過ぎの出来事に違いない。

それに冷静になって状況を思い出してみれば、僕が熊に組み敷かれた地面の土は若干湿ってはいたものの、今のように雨上がりのベチャベチャとした泥濘などはほとんどなかったはずだ。

だから僕はまだ・・・

「ピィーピリリリリリ・・・」

「あ・・・」

だがそこまで考えたその時、静かだった森の中に唐突に聞き覚えのある鳥の鳴き声が響き渡っていた。


朝の訪れを告げる声なのか、森の彼方から聞こえてくるその鳥の鳴き声がもうすぐ何が起こるかを知っている僕の胸を激しく掻き乱していく。

早く・・・早くドラゴンのいる洞窟を見つけないと・・・

「ピィーピリリリリリリ・・・」

まるで妖かしの歌うその美しい歌声に誘われるようにして、僕はフラフラと森の中を一心に歩き続けた。

やがて焦燥に焼かれる胸を押さえながら奥へと進んでいく内に、東の空から朝日の欠片がゆっくりと顔を出す。

夜明けの輝きが静かに森全体を覆っていくにつれ、僕ははっきりと聞こえてくるようになった鳥の鳴き声に神経を研ぎ澄ましていた。


「もうすぐ・・・もうすぐだ・・・」

珍しい鳴き声を発する鳥だ。

これは僕の憶測でしかないが、きっと森の中のそこかしこで鳴いているような鳥ではないのだろう。

それを裏付けるように、先程から大分森の中を歩いているというのに他に似たような鳴き声は一切聞こえない。

そうして微かな希望を頼りに歩き続けること約10分・・・

僕はようやく問題の鳥が留まっているであろう1本の大木を見つけ出していた。

「ピィーピリリリリリリリリ・・・」

間近で聞く甲高い鳴き声が、まるで鐘楼の鐘の音のように森中に鳴り響いている。

この近くに、きっとあのドラゴンが棲んでいる洞窟があるに違いない。


僕は鳥の留まった大木から視線を外すと、周囲をグルリと見回していた。

そしてたわわに生い茂った枝葉と茂みで形造られた緑のカーテンの向こうに、小高い岩棚に掘られた洞窟がぽっかりと口を開けているのを見つけ出す。

「あそこだ!」

ようやく探していた目的地を見つけ出すと、僕は疲れた体に鞭打って再び歩き出していた。

もう夜は完全に明けている。

「ピィーピリリリリリ・・・」

夢の中でも聞いた覚えのある短く抑えた鳥の鳴き声に、僕はようやっと洞窟の入口に辿り着くと微塵の迷いもなくその闇の中へと飛び込んで行った。


タッタッタッ・・・

耳障りな鳥の鳴き声に心地よい眠りを邪魔されて辟易していた私の耳に、今度は誰かの足音のような規則的な物音が聞こえてきていた。

どうやら獣か何かが、私の洞窟の中へと入ってきてしまったらしい。

だがわざわざ相手をするのも面倒で無視を決め込んでいると、やがてその誰かが私の体を揺すり始めていた。

「お、起きて・・・ドラゴンさん・・・!ここにいたら死んじゃうよ!ねぇ、起きてってば!」

どうやら住み処へと入ってきたのは人間・・・それも、随分と幼い子供のようだった。

そんな小さな少年が、自分の何倍も大きな私の体を臆することもなく必死に叩いたり摩ったりして起こそうとしている。


「んん・・・何なの・・・あなた?」

「ドラゴンさん!事情は後でちゃんと説明するから・・・早くここから逃げて!」

私は余りにしつこい人間の様子に半ば不機嫌な表情を浮かべたまま顔を上げて少年を睨み付けたものの、彼の目は必死に何かを、何かしらの危機を私に訴えかけていた。

その真実を伴った澄んだ視線に毒気を抜かれ、自然と横たえていた体を起こしてしまう。

「早く逃げるんだよ!もうじき大きな地震が来て、この洞窟が崩れるんだ!」

一体、この少年は何を言っているのだろうか?

私は今一つ彼の言わんとしていることが理解できないでいたものの、じっと目の前で喚き立てる少年を観察する内に彼が時折洞窟の外へと注意を振り向けていることに気が付いた。

「ピィーピリリリリリリリリリリー・・・」

次の瞬間、これまでよりも一際甲高い鳥の鳴き声が周囲に響き渡る。


「ああ・・・もうだめだ・・・!」

その鳥の鳴き声を聞いた途端に顔を覆ってその場にへたり込んでしまった少年の様子に、私は取り敢えず彼の言葉を信じてみることにした。

シュルッ

「わっ!?」

そして眼前で悲嘆に暮れる少年の体に素早く尻尾を巻き付けると、まるで弓か何かに弾かれたかのように洞窟の外へと向かって走り出す。

やがて洞窟を飛び出して顔に浴びた明るい光に眼を細めたその刹那、耳を劈くような激しい轟音と震動が森全体へと突然に襲いかかっていた。


ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ・・・・・・

「きゃっ・・・」

まるで何処かの火山でも爆発したのではないかと思えるような凄まじい縦揺れに足を取られ、私はしっかりと少年を尻尾で掴まえたまま思わずその場に身を伏せていた。

半信半疑で聞いていた少年の地震が来るという言葉が、まさかという思いとともに急速な現実味を帯びていく。

そして恐る恐る背後の洞窟の様子を窺おうとしたその瞬間、ドオオンという音とともに朦々とした砂煙が洞窟の中から勢いよく外へと噴き出してきた。

今のは恐らく、激しい震動に耐え切れなくなった洞窟の天井が崩落した音に違いない。

もし私があのまま少年の警告を聞き入れていなかったとしたら、今頃は彼と共々あの落盤の下敷きになって命を落としていたことだろう。


やがてほんの1分程もすると地震の揺れは嘘のようにピタリと収まり、森に元の朝の静寂が戻ってきた。

ついさっきまでけたたましく鳴いていたあの鳥は地震に驚いて何処かへと飛んで行ってしまったのか、今はもう木の葉の擦れる優しげな音だけが私と少年の周りを包んでいる。

そうだ・・・あの少年は・・・?

突発的な天災の最中で自分の身を守ることに精一杯だった私は、ふと思考の端に過ぎった少年の安否が気になって尾に感じる少年の感触をそばへと引き寄せてみた。

「あ・・・ぅ・・・」

やがて目に飛び込んできたのは、真っ赤な短毛に覆われた私の尾の中で気絶した体をぐったりと弛緩させている少年の姿。

どうやら私が地震に怯えて身を伏せていた時、知らず知らずの内に尻尾で包んだ彼の体を力一杯締め上げてしまっていたらしい。

「ああ・・・!ごめんなさい!」

私は慌てて少年の体を湿った草の上へと降ろすと、苦しげに歪められていたその顔をペロペロと何度も舐め上げていた。


ペロ・・・ペロ・・・

「う・・・うぅん・・・」

暖かい湿り気を伴って顔を這い上がる何者かの舌の感触に、僕はしばしの間手放してしまっていた意識を取り戻した。

「ゲホ・・・・ゲホゲホッゲホ・・・」

そして息の詰まるような苦しさを吐き出すように、ゲホゲホと数回大きく咳き込む。

「大丈夫・・・?」

やがて遠慮がちにかけられたその言葉に半分涙目になっていた目を開けると、目の前にある大きな赤いドラゴンの顔が視界の大部分を埋め尽くしていた。

「わっ!」

明るい日差しの中で初めてドラゴンの顔を見たせいか、そのあまりの迫力に思わず大声を上げてしまう。

全身を覆う美しい赤色の短毛と、手足の先に生え揃った黒い艶のある鋭い爪。

その顔は大きく口を開けば僕の体くらいペロリと呑み込んでしまえそうな程に大きく、暗がりの中で必死だったとはいえ、今思えばこんな生物を叩き起こそうとしていたなんて自分でも信じられない。

だがやがてこのドラゴンが僕の死の予知を乗り越えたのだということを理解すると、僕は何よりも先にある種の歓喜が胸の内に湧いてくるのを感じていた。


「ド、ドラゴンさん・・・よかった・・・無事だったんだね!」

「え、ええ・・・あなたのお陰でね・・・」

キョトンとしたドラゴンの顔にはまだ何が起こったのかよくわからないといった疑問の色がありありと浮かんでいたものの、取り敢えずは命が助かったことを安堵しているらしい。

「どうしてあなた・・・地震が来ることがわかったの?」

やがて予想していた質問がドラゴンから投げかけられたのをきっかけに、僕は1つ大きく深呼吸して息を整えた。

「う、うん・・・そのことなんだけど・・・話すと長くなるんだ・・・」

そう言いながらそばにあった大きな木の根元に背を預けると、ドラゴンがゴロリと目の前に体を丸めて細めた視線を僕へと注いでくる。

「いいわ・・・聞かせて・・・」

そんないかにも興味津々といったドラゴンの様子に、僕は初めて明るい気持ちで自分の能力のことを話し始めていた。


「・・・それで昨日、ドラゴンさんの夢を見て地震が起きることがわかったんだ」

かつて覗き見てきた数々の最期の瞬間。

その決して色褪せない鮮明な記憶が、ドラゴンへの話を終えた僕の脳裏に次々と去来していた。

「そうなの・・・ふふ・・・ありがとう。私を助けてくれたことは、とっても感謝してるわ」

だがそう言ったドラゴンの顔には、未だ消えぬ疑念の色が微かに見え隠れしている。

「でも不思議ね・・・夢で地震のことがわかったのなら、坊やの家族の方がもっと心配なんじゃないの?」

「もちろん心配だよ。パパもママも、今頃どうしているかわからないもの・・・」

「じゃあ・・・」

そうドラゴンが口を開きかけたのを手で制すと、僕はおずおずと話の先を続けていた。

「昨日の夜にね・・・僕、見ちゃったんだよ・・・」

「見たって・・・何を?」

「・・・自分の夢・・・」


死の予知夢しか見たことのないこの少年が、自分の夢を見た・・・

ぼそりと少年の口から漏れたその言葉の意味を理解するのに、私はとても長い時間を要してしまったような気がした。

そして何と声を掛けていいのかわからずに口を噤んでいた私の耳に、俯いた少年の発した弱々しげな声が届く。

「だからその前に・・・本当に夢に見た結末を変えることはできないのか、どうしても試してみたかったんだ」

成る程・・・彼は死を予知された者を助けるには間接的な警告などではなく、彼自身が助けの手を差し伸べる必要があることを今日初めて知ったのだろう。

もし彼が昨夜自分の夢を見ていなかったとしたら、彼はこの森に来ることもなく無為に自分の家族や町の心配をしていたに違いない。


「ねぇ・・・僕・・・助かるよね・・・」

やがてそんな思案を巡らせていたその時、不意に少年のか細い声が聞こえてきた。

「え・・・?」

そして思わずそう聞き返してしまった私の声に、ズズッと洟を啜り上げる音が返ってくる。

「ドラゴンさんが助かったんだから・・・僕も助かるよね・・・?ねぇ・・・助かるよねぇ・・・?」

気がつくと、少年は静かに泣いていた。

いくら生まれながらにして不思議な力を授かったとはいえ、彼はまだあどけない童顔を湛える小さな子供なのだ。

少なくとも私が知る限り、己の不遇な死の瞬間を見てしまった少年がすぐにその不安と恐怖を克服できるほど人間は強くはできていない。

到底受け止め切れない程の圧倒的な死の実感があるだけに、彼の心は脆くも粉々に崩れかけてしまっていた。

少しでも彼の不安を和らげてやるためにも、何か私にできることがあればよいのだが・・・


「おいで・・・坊や」

唐突にドラゴンからかけられたその言葉に、僕は涙と鼻水でクシャクシャになってしまった顔を上げた。

見ればドラゴンが先程と同じようにそっと地面の上に横たわったまま、僕をその大きな胸元へと誘っている。

やがて僕は反射的にその暖かそうなドラゴンの胸に飛びつくと、声を押し殺して咽び泣いていた。

「う・・・うぅ・・・うわあああん・・・」

怖かったのだ。

これまではどんなに恐ろしい悪夢を見ても目を覚ましさえすれば安堵に胸を撫で下ろすことができたというのに、今の僕は近い将来またあの思い出したくもない終末の光景に出遭うことが運命づけられてしまっている。

まだ死にたくない・・・!

だがそう願えば願うほどに自分でもどうすればよいのかわからなくなり、深い絶望が全身を蝕んでいく。

ドラゴンはひたすらに泣きじゃくる僕をそっとその大きな腕で抱き抱えると、涙となって溢れ出した感情の昂りが収まるまで辛抱強く僕を暖めてくれていた。


フサフサとした心地よいドラゴンの胸の中で、僕は一体どれくらい泣いていたのだろうか。

微かに背中を摩ってくれる大きなドラゴンの手が、先程からサワサワとくすぐったい感触を送り込んでくる。

もし目の前に死の予知を免れたこのドラゴンがいなかったら、今頃僕は深い孤独と絶望の淵に沈んだまま暗い破滅の流れに身を委ねてしまっていたことだろう。

やがて悲嘆に暮れる涙も枯れ尽きてしまうと、僕はようやくドラゴンの胸に埋めていた顔を離していた。

「落ち着いた・・・?」

泣き腫らして真っ赤になった僕の顔は、きっと酷く情けなく見えたことだろう。

だがドラゴンはそんなことには少しも触れることなく、優しげな眼差しを僕に向けながらそう言ってくれた。

生まれて初めて僕を、僕の苦しみを理解してくれる存在が現れたことに、今度は何だか悲しみや恐怖とは別の涙が溢れてくるような気がする。

「うん・・・」

やがて言った自分でも聞き取れるかどうかという小さな声で返事をすると、僕はようやく涙を拭っていた。


「私が町まで送ってあげるわ。ほら、背中に乗って」

「あ・・・ありがとう・・・」

私の提案にまたしても心許無い返事を返す少年に、私はとても言葉では言い表せない程の憐憫を感じていた。

多少は気分が落ち着いたと見える今も彼の手はカタカタと小刻みに震えていて、いずれやって来るであろうその瞬間に彼が心の底から恐れ戦いている様子がよくわかる。

彼が己の死を一体どのように予知したのかについては話してくれなかったものの、きっと思い出すのも憚られるような恐ろしい最期を迎えてしまったのだろう。

それにもしかしたらその悲劇の舞台となるのは・・・この森の中なのではないだろうか・・・?

その証拠に彼は低く身を屈めた私の背の上に攀じ登ると、両腕を一杯に広げて寝そべるように私の背中へとしがみついていた。

細くて小さな少年の指に込められたその力強さが町に辿り着くまで決して私から離れまいとする意志の表れにも感じるのは、きっと私の気のせいではないのに違いない。

そしてそんな少年の命の重さを確かに背に受け止めると、私は人間の町を目指してそっと足を踏み出し始めた。


サクッ・・・サクッ・・・

やがて僕を気遣うようにゆっくりと歩き出したドラゴンの背に揺られながら、僕は一先ずほっと安堵の息をついていた。

これからまた森の中を1人で町まで帰るのは、予知夢のことがあるだけにできれば避けたいところだったのだ。

でも・・・僕はこれから一体どうすればよいのだろうか?

誰もがおぼろげだという夢の記憶が僕の場合に限って鮮明に残っているのは、きっとそれをヒントに救える命を救ってやれということなのだろう。

お陰で夢に見た情報を頼りに何とかドラゴンを助けることはできたものの、それが自分自身のこととなるとどうしていいのかなど皆目見当もつかない。

だがこのまま無為に時間を食い潰せば、背後に取り憑いた本物の死神がいずれ僕の魂を刈り取っていくであろうことは火を見るよりも明らかだった。


森の中を歩くこと十数分後、やがて森の切れ間の向こうに大きな町の姿が見えてくると、ドラゴンは再び身を屈めて僕を地面の上へと降ろしてくれた。

「ほら、着いたわよ・・・1人で大丈夫・・・?」

「うん・・・ここまで来ればもう大丈夫だよ。ありがとう、ドラゴンさん」

その僕の言葉に、ドラゴンが大きな首を静かに横に振る。

「ふふふ・・・お礼を言うのは私の方よ。ほらこれ・・・お守り代わりに持っていくといいわ」

そう言ったドラゴンの手にはここまでくる途中に摘んでいたのだろうか、茎がついたままの1輪の小さな赤い花が握られていた。


「これ、何のお花?」

「さぁ・・・名前はわからないけど、私のお気に入りの花なの。いい匂いがするでしょう?」

それを聞いて花の匂いを嗅いでみると、確かに胸の空くような甘い匂いがふわりと鼻腔を突いてくる。

成る程・・・このドラゴンは、何とかして僕を勇気付けようと精一杯気を遣ってくれているのだろう。

彼女の体色と同じこの赤い花を見て、僕の理解者がそばにいることを忘れさせまいとしているのだ。

「ありがとう、もらっていくよ」

「じゃあ、気をつけてね」

そんな慈愛のこもった声に手を振ってドラゴンと別れると、僕は大地震で破壊されたと見える町の喧騒を遠くから眺めて胸の鼓動を早めていた。


跡形もなく崩れ落ちて瓦礫と化した無数の建物、あちこちで傷ついた体を休めている人々の群れ。

あれだけの激しい揺れが襲ったのだ。

僕の町も無事では済まないだろうことは予想していたものの、今目の前に広がっている光景はそんな僕の予想を遥かに上回る程の悲惨極まりない状況だった。

原型を留めたまま残っている家は約半数程で、残りは堆く積まれた石や煉瓦の山となってしまっている。

そうだ・・・僕の家は・・・?パパやママは無事なのだろうか・・・?

やがて記憶を頼りにすっかり変わり果ててしまった町の通りを歩いてようやく自分の家へと辿り着くと、僕はそこにあったものに愕然と肩を落としていた。

「そ、そんな・・・パパ・・・!ママ・・・!」

見るも無残に崩れ落ちた我が家の残骸が、他の全壊した家々と同じようにこんもりとした瓦礫の山を作っている。

地震が起こったのは早朝だった。

初冬とはいえ既に肌寒い季節、パパもママもまだ家のベッドで眠りについていたことだろう。

だとすれば、2人ともこの巨大な瓦礫の山の何処かに埋まっているのに違いない。


僕は頭の中が真っ白に塗り潰される感覚を味わったまま、ほとんど無意識の内に重い瓦礫を退け始めていた。

ガラ・・・ガラガラ・・・

「うわわっ・・・」

だが渾身の力を振り絞って屋根の一部と思われる煉瓦の塊を持ち上げたその途端に、新たな瓦礫が山の上の方から転がり落ちてくる。

「坊主、何をやってる!危ないから離れろ!」

やがて背後からかけられた声に後ろを振り向いてみると、数人の人々が心配そうにこちらへと視線を向けていた。

「パパとママが、この下にいるんだ!早く助けないと・・・」

「いいから戻ってくるんだ!」

どうして、彼らは僕を手伝ってはくれないのだろうか。

遠巻きに眺めているくらいなら、この瓦礫を退けるのに手を貸してくれてもいいのに・・・


だがそこまで考えたその時、僕は薄々感じてはいたものの決して認めたくなかったある結論に辿り着かざるを得ないことを悟っていた。

もう、手遅れなのだ。

1階の寝室で眠っていたパパとママが、これ程酷く瓦解した建物の下敷きになって生きているはずがない。

いや・・・もし仮に生き埋めになっているのだとしても、この瓦礫を退ける頃には衰弱で命を落としてしまっているであろうことは僕にも十分に理解できた。

そして他の人々に誘われるままに瓦礫の山を降り、近くにあった低い石塀に背を預けてその場に座り込む。

「なんで・・・どうして・・・どうして僕・・・ドラゴンの夢なんか・・・」

両手で顔を覆って悲しみの涙に暮れる僕の脳裏に、昨日からの記憶がいくつも蘇ってきた。

もしパパもママもあの地震で死を運命づけられていたのだとしたら、どうして僕は2人の夢ではなくあのドラゴンが死ぬ夢を見てしまったのだろうか。

もしパパやママの夢を見ていたとしたら、僕が2人を助けられたかもしれないのに・・・!


どうしても遣り切れない悔しさが、僕の胸を一杯に満たしていた。

いくら誰かの命を救うことができる能力があったって、大事な人の命が救えないのなら何の役にも立たないのと同じだ。

あんな森に棲んでいる1匹のドラゴンの命を救ったところで、一体僕に何の意味があるっていうんだ!

だがやがて抑え切れなくなった激情に顔を上げてみたその時、見覚えのある何人かの人々が何やら僕の方を見て話をしているのが見えた。

あれは・・・そうだ、過去に僕が死を予言した人の家族や友人に違いない。

それに、僕を死神呼ばわりした子供達の姿も見える。

きっと僕がこの地震の中でも無事だったのに目を付けて、また根も葉もない噂話をしているのだろう。

くそ・・・どうして僕が・・・どうして僕だけがこんな目に遭わなければならないんだ・・・?

もう、こんな所になんていたくない・・・!

自分の能力を知ってからずっと心の中に溜め込んできた負の感情が一気に溢れ出しそうになったのを感じると、僕はおもむろにその場から立ち上がって幾人かから向けられる疑惑と忌避の視線を背に町から出て行った。


僕・・・これからどうしよう・・・

町から出た後も、僕は小さく俯いたままフラフラと町の周囲を彷徨っていた。

家族も家も、一瞬の内に全て失ってしまった。

もう今の僕には、終ぞ逃れる方法を見つけることのできなかったあの恐ろしい死の運命だけしか残っていない。

そんな目の背けようのない残酷な現実が、僕の生きる気力をじわじわと溶かしていく。

よくよく考えてみれば、パパやママを助けるチャンスはあったはずなのだ。

もし昨日の夕食前にパパに夢で見た地震のことを打ち明けていたとしたら、仮に命は助けられなかったとしてもここまで救いようのない結果にはならなかったかも知れない。

でも・・・


僕はそこまで考えると、きっと僕の背後でせせら笑っているであろう目に見えぬ死神に虚ろな視線を向けた。

「くそ・・・」

悪態をつく語調も弱々しく、大粒の悔し涙が目の奥から溢れてくる。

だがゴシゴシと乱暴に涙を拭った手をズボンに擦り付けたその時、僕はポケットの中に何か細長い物が入っているのに気が付いた。

そしてそっとポケットの中に手を入れてみると・・・

押し潰されてすっかりクシャクシャになってしまった1輪の赤い花が指先へと触れる。

「ドラゴンさん・・・」

やがて失意の底にあった僕はあの赤いドラゴンに貰った花を目にすると、思わず森の方へと顔を向けていた。


そうだ・・・また、あのドラゴンに会いに行こうか・・・

どうせこのまま町の外をうろついていたところで、この辛辣極まりない状況が好転するわけでもない。

それよりなら・・・僕のことを理解してくれるあのドラゴンと一緒にいた方が、きっとこの荒み切ってしまった心も多少は癒えることだろう。

やがてそれが死神の罠だということも知らずに、僕は再び深い森の中へと足を踏み入れていた。

薄暗い朝方とは違って、昼下がりの明るい日光が差し込む森の中は一面不思議な静寂に包まれている。

僕は朝に通った道筋を頭の中に思い描きながら、今はもういなくなってしまったあの鳥の鳴き声を追いかけるようにしてフラフラと茂みを掻き分けて行った。

やがてドラゴンの棲む洞窟が近くなってくるにつれて、所々地面の上にあのドラゴンがくれた赤い花が揺れているのが目に付き始める。

その可愛らしい花の様子にほんの少しだけ気持ちが落ち着くと、僕は後少しとばかりに顔を上げていた。


「あ、あれ・・・?」

次の瞬間目に飛び込んできた森の光景・・・

何となくだが、前にもどこかで見たような気がする。

いや、朝方にも同じ道を通ってきているのだからそれ自体は別に不思議なことではないのだが、静まり返った空間の中で木の葉だけが揺れているその情景には確かに奇妙な既視感があった。

その途端にドクンという一際大きな鼓動の音とともに何かが・・・

例えるなら乗っていたトロッコのポイントが独りでに切り替わり、深い奈落へと通じる線路に接続してしまったかのような重苦しい不安感が圧し掛かってくる。

そうだ・・・この光景・・・確かに夢で・・・

だが、そう思った時には既に遅かった。

カサ・・・カサ・・・という夢の中では聞き取れなかった小さな足音とともに、人間ではない何かが僕の方へと近づいてくる気配がする。

そして・・・


「グル・・・グルル・・・」

き、来た・・・!

突如として背後から聞こえてきた、獰猛そうな獣の唸り声。

まるで予めそういう行動をすると定められていたのかのように、僕は夢の中で感じたのと全く同じ動作で恐る恐る背後を"振り向かされ"た。

その視線を向けた先に、空腹にいきり立った様子の大きな羆の姿が浮かび上がる。

だ、だめだ・・・悲鳴を上げちゃ・・・絶対に・・・だめ・・・

「う、うわああっ!」

だが必死で声を上げまいと口を噤んでいたのにもかかわらず、僕は何時の間にか夢で聞いた通りの悲鳴を上げていた。


自らの意思とは関係無しに展開される、逃れ得ぬ死の劇場。

強大な死神の手に操られて夢で見た光景を再現させられる凄まじい恐怖の前に、最早成す術などあるはずがない。

「グオアッ!!」

やがて僕の悲鳴に対する予定調和の如く、熊の短い咆哮が聞こえてくる。

だがこのままでは死が待っていることは十分に理解していたにもかかわらず、僕はその巨大な黒い悪魔がこちらに向かって飛び掛かってくるのを絶望に塗れた悲壮な表情を浮かべたままただ待つことしかできなかった。


ドッ!ドサァ!

「うあっ!」

だめだ・・・まるで同じビデオテープを何度も再生した時のように、何から何まで夢で見た通りの出来事が整然と繰り広げられていく。

「た、助けて・・・誰・・・うぁ・・・た・・・すけ・・・」

巨大な熊に突き飛ばされて湿った地面の上に組み敷かれた今となってもなお、僕には用意された台本を読み上げる以外に道は残されていなかった。

更にはミシミシッという音とともに胸の上へ凄まじい体重を預けられ、久し振りの獲物を制圧した熊の顔に心なしか勝ち誇った笑みが浮かんでいるような気がする。


い、いやだ・・・だ、誰か・・・誰か助けて・・・

やがて息苦しさに声を上げることもできずに宙を見上げていた僕の眼前で、凶暴そうな牙の生えた大きな口がゆっくりと開けられていく。

尖った牙の先を伝った唾液がトロリと細い糸を引いて地面の上に流れ落ちると、ようやく腹を満たせる喜びにか巨熊の両目が爛々とした輝きを放っていた。

そしていよいよトドメとなる死の一撃が、凶悪な牙の森が、僕の頭上へと勢いよく振り下ろされる。

う、うわあああああーーー!!

やがて声にならない断末魔を上げながら死を覚悟した瞬間、僕の視界は一面鮮やかな深紅の色に染まっていた。


ガッ!ドオッ!

「あぐっ・・・!」

肉と肉がぶつかる鈍い音とともに、僕の全身に激しい衝撃が走る。

だが次の瞬間、今の今まで僕の体に預けられていた息の詰まるような圧迫感がまるで嘘のように跡形もなく消え去っていた。

何事かと思って混乱した頭を整理しながら周囲を見回すと、僕の上から熊を突き飛ばしたあの赤いドラゴンが草の上でもがく熊の様子をじっと睨み付けている。

そして突然の不意打ちに怒り狂った熊がこちらに敵意を向けたその瞬間、あの柔らかくて暖かそうだったドラゴンの太い尾がまるで鞭のように唸りを上げて風を切った。

ブン!バシィ!

「ガッ!」

体重数百キロはあろうかという屈強な熊の巨体が一瞬傾ぐほどの、強烈な尾撃。

さらにはそれに怯んだ熊に追い込みをかけるように、ドラゴンが恐ろしげな殺意のこもった低い唸り声を上げる。


「グルル・・・グオオッ・・・」

やがてドラゴンの後ろでそれを聞いた僕までもがゾワッと全身の毛を逆立てた程のその静かで激しい威嚇に、熊の方も流石に勝ち目が無いと悟ったのか大人しく身を翻すとガサゴソと不満げに森の奥へと消えて行った。

「ド、ドラゴンさん・・・?」

「坊や・・・怪我はない?」

内心ドラゴンという生物の内包する恐ろしさにビクつきながらも声をかけると、彼女が元の優しげな表情を浮かべたままこちらを振り向いてそう聞いてくる。

「う、うん・・・大丈夫・・・でも、どうして・・・?」

何故彼女は、僕が熊に襲われて命を落とすことを知っていたのだろうか?

僕の夢のことについては、彼女には何も話していなかったはずなのに・・・


「ふふふ・・・言ったでしょう?あなたにあげたあの赤い花、お守り代わりに持っていなさいって」

ドラゴンにそう言われて、僕はポケットに突っこんだままにしていたあの赤い1輪の花を取り出していた。

「あなた、朝に私に会った時から、森の中にいる間中ずっと何かに怯えていたでしょう?」

「うん・・・」

「だからもしかしたらあなたが見た夢って、この森で死ぬ夢なんじゃないかって思ったの」

そうか・・・彼女が僕との別れ際にこの花をくれたのは僕を元気付けるためなんかじゃなくて、この花の匂いで森の中での僕の居場所を突き止めるためだったんだ。

でももし僕がこのドラゴンを地震による洞窟の崩落から救っていなかったとしたら、きっと僕の死の運命も変わらなかったに違いない。

やがてもやもやと霞がかっていた頭の中が幾分かすっきりしてくると、僕は今頃になってから危うく死にかけた恐怖を思い出して泣き出していた。


「う・・・ふぅぅ・・・」

恐ろしい死の予知を乗り切ったという事実に、緊張の緩んだ目からボロボロと熱い涙が溢れてくる。

ドラゴンはそんな僕をそっと抱き上げて泣き濡れた顔を自らの大きな胸に押し付けると、まるで赤子をあやす時のようにゆっくりを僕の体を揺らしてくれた。

暖かいドラゴンの体毛がサワサワと頬を撫で上げては、極上の羽毛に包まれているかのような心地よさが全身の疲労と固く強張った筋肉を癒していく。

「無事でよかった・・・」

やがてドラゴンの口から聞こえてきたその言葉に、僕はまだ涙の跡をつけたまま彼女の顔を見上げていた。

じっと僕を見つめるドラゴンの眼に、九死に一生を得た僕以上の深い安堵の色が表れている。

「ドラゴン・・・さん・・・?」

そのドラゴンが放っていた不思議な雰囲気に疑問の声を上げてみると、彼女は周囲に気を配る振りをしながら僕から視線を外して話し始めた。


「私ね・・・本当はあなたを助けられるかどうか、自信がなかったのよ」

「どうして?」

「だって、あなたがこの森で実際にどんな最期を迎えるのか、私にはわからなかったんですもの」

確かにたまたま猛獣に襲われるという結末だったからこそドラゴンに救われるという結果になったものの、広大な森の中に潜む危険は無論それだけではない。

お婆ちゃんが亡くなった時のように川の土手で不意に足を滑らせてしまうのかも知れないし、或いはふとした拍子に毒蛇か何かに突然噛まれてしまうのかも知れないのだ。

「だから風に乗ってあなたの花の匂いがここまで届いてきた時は、私・・・とても焦ったの」

そのドラゴンの様子から、きっと彼女は今まで必死に僕を見つけようと森の中を走り回っていてくれたのだろう。


「あなたが熊に押し倒されているのを見つけた時なんてもう、私の心臓の方が止まりそうなくらいだったわ」

「でも・・・助けてくれたんだね」

「当然でしょう?あなたは、私の命の恩人ですもの」

そのやり取りに、僕はドラゴンに抱かれたままようやく心を落ち着けていた。

「それで・・・家族は無事だったの・・・?」

そんな僕の様子を確かめてから、ドラゴンが少し遠慮がちにそう聞いてくる。

だが僕が視線を落したまま首を横に振ると、彼女は苦々しい表情を浮かべて僕とともに沈黙していた。

「ねえ・・・ドラゴンさん・・・僕、これからどうすればいいのかな?」

「どうして・・・?」

「家が潰れて・・・パパもママももういないんだ・・・せっかく助かったのに、僕・・・一体どうしたら・・・」


やがて1度は平静を取り戻したかに見えた少年は住む家や両親といったかけがえのないものをいくつも失ったという無慈悲な現実を認識すると、唯一手元に残ったたった1つの命の灯を暗澹とした表情で睨み付けていた。

そして小さく俯いたそのあどけない顔に再び涙が流れた様子を見てしまい、私の胸がぎゅっと締め付けられる。

一瞬いらぬことを聞いてしまったかという後悔の念が湧き上がってきたものの、今更陳腐な謝罪の言葉を並べたところで彼の気持ちが落ち着くわけではないだろう。

きっとその胸中には、彼自身にも制御することができないほどの複雑な感情が渦巻いているのに違いない。

今にも彼を蝕もうとしているその黒々とした負の感情は、両親の危機を知りながらそれを助けられなかったことに対する深い後悔と、いらぬ苦しみを味わうことになる己の不思議な力に対する激しい怨嗟に彩られていた。


「そうね・・・坊やはどうしたいの?」

「僕は・・・もう何も考えられないよ・・・あの町にはもう僕の居場所なんてないし、眠るのだって怖いんだ」

もし夢でまた自分の死に様を見てしまったら・・・

憔悴した彼の顔に浮かんでいたそんな不安が、まるでそう告白されたかのように私の中へと流れ込んでくる。

無理もない話だ。

形はどうあれ彼の見る夢は必ず自分が命を落とす夢・・・即ちそれは全て恐ろしい悪夢に他ならない。

しかもそれが皆悉く現実に起こる出来事だというのだから、今回のような目に遭えば殊更に眠るのが怖くなるのは当然のことだろう。

そんなあらゆる意味で死神に魅入られてしまった不運な少年を何とか宥めようと、私は懸命に頭の中で彼にかける言葉を選んでいた。


「ねえ坊や・・・あんな大きな雄熊を相手にしても何とも思わないような私だって、死ぬのは怖いのよ」

「・・・え?」

唐突に放った私の言葉に、少年が驚く程大きな反応を示す。

「もしあの時洞窟であなたに助けられなかったら死んでいたと思うと私、ゾッとするの」

「・・・・・・」

その何も言わずにじっと私の話に耳を傾ける彼の様子には、微かな同情の色が浮かんでいた。

「だからもし本当にそんなものがいればの話だけど、あなたの力は確かに死神の力かも知れない。でもね・・・」

「でも・・・?」

「私が知っている死神っていうのは、本来は生と死の両方を司る神だったはずよ」

そこまで言うとようやく私の言わんとしていることを汲み取ったのか、少年が暗く落ち込んだその目に微かな生気を蘇らせる。

「じゃあ僕の夢を見る力は、誰かを生かすための力だって言うの?」

「そうよ。現に私も坊やも、その力のお陰で生きているじゃないの」


ドラゴンにそう言われて、僕は過去に見た様々な夢のことを冷静に思い返していた。

そこに展開されていくのは、いつも結末の決まっている死神の描いた1本のシナリオ。

だが自分では絶対に抗うことのできないその恐ろしい悲劇に対しても、決して対抗策がないわけではなかった。

誰かがそこにほんの小さな救いの手を差し伸べれば、そんな死への引力は跡形もなく消え去ってしまうのだ。

「そうか、本当は皆助けられたかも知れないんだね・・・お爺ちゃんも、お婆ちゃんも、パパも、ママも・・・」

でもそのためには、僕の夢の話を信じてくれる協力者が必要になるだろう。

僕にしかわからない真実の存在を後押ししてくれる者がいなければ、あの町でもそうだったように結局僕はただ死を運ぶだけの忌むべき存在として迫害されてしまうのに違いない。


「だから・・・私と一緒に暮らしましょう?私なら、坊やの言うことを信じてあげられるもの」

とその時、まるで僕の胸の内を見透かしたかのようなドラゴンの提案が聞こえてくる。

「え・・・?ほ、本当に・・・いいの・・・?」

「もちろんよ。たとえ悪夢を見たって、また死と向き合うことになったって、もうあなたは独りじゃないわ」

ドラゴンは静かにそう言うと、その大きな腕で僕の体をそっと抱き締めていた。

「でもそうしたら・・・もう一生人間の生活には戻れないかもしれないわよ・・・?」

「うん・・・ドラゴンさんと一緒にいられるなら、僕、それでもいい」


その僕の返答に満足したドラゴンは、夕方頃になってから僕を森の更に奥深くにある前よりもずっと大きな洞窟へと連れて行ってくれた。

天井に空いた幾つもの小さな明かり取り用の穴から、薄暗い洞窟の中に夕焼けに染まった美しい朱色の光の筋が降り注いでいる。

この洞窟が今日から僕の住む新たな家となり、ドラゴンが今日から僕の新たな母親となるのだ。

「坊や、お腹は空いてない?」

「そうだね・・・よく考えたら僕、朝から何も食べてなかったや」

「じゃあ、あなたにも食べられそうなものを探してくるわ」

ドラゴン・・・いや、ママはそう言うと、何だかウキウキと楽しげに腰を振りながら洞窟の外へと出て行った。



やがて今日初めての遅い狩りから帰ってきた心優しい竜の母親は、新たな住み処の中で眠りに落ちてしまった人間の息子の姿を見つけるに違いない。

そしてその疲れ切った顔にまるで楽しい夢でも見ているかのような穏やかな笑みが浮かんでいるのを目にすると、彼女は手に入れてきた食糧を地面の上に置いて静かに少年の背へとその身を擦り寄せるのだ。

「坊や・・・いい夢が見られるといいわね・・・」

不意にそう呟いたドラゴンの声にも、少年が反応する様子はない。

森には早くも冷たい木枯らしが吹き始めていたものの、互いに体を暖め合って眠る少年とドラゴンの親子はきっとこれからも力を合わせて幸せに生きていけることだろう・・・


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