プロローグ:女神様からのありがたいお言葉
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「……で、本当にいいの? それで後悔しても知らないわよ?」
目の前でこの世のものとは思えないほど透き通った美貌を持つ女性―――自称・女神様がまるでおかしな深海魚でも見るような目で一人の男を見つめていた。
周囲は境界線のない真っ白な空間。
上下左右の感覚すら曖昧で、自分の身体が浮いているのか立っているのかさえ分からない。
空間は静寂に包まれていた。
男はつい数分前に女神から自分が死んだことを聞かされたばかりだった。
日常の風景。
代わり映えのしない交差点。
歩行者用信号機が青になり一歩前へ踏み出した瞬間、横から大型トラックが突っ込んできて―――……。
男にそこから先の記憶はない。
おそらく“不慮の事故”でそのまま……だったのだろう。
今の男にとって、自分の死は些細な問題だった。
今、彼の魂を支配し深淵のような絶望へと叩き落としているのは、別の理由だ。
「『いいの?』って……よくないですよ……。全然よくない……ふざけないでください……。死ぬ直前、あともう少し……あと三十分……いや、あと十五分あれば、おれの“特製レモンタルト”が完璧な状態で焼き上がるところだったんです! オーブンの完成を知らせる音を聞かずに死ぬなんて……専属パティシエ志望として、いやっ、一人の人間として、これ以上の屈辱はありませんよ! あれはおれの人生で最高傑作……エベレストの頂上を掴むような一品になるはずだったんです! くっ、牛乳を切らせなければ……死んでも死にきれない……!」
「いや、もう人生終わっちゃったんだけどね。物理的に。……まぁ、いいわ。私は気まぐれな女神様。たまたま多次元の狭間に落ちてきたあなたの魂を拾い上げ、特別な“異世界転生”に招待してあげようっていうんだから、もっとこう……泣いて喜ぶとか私にひれ伏すとかしてくれてもいいんじゃない?」
女神は長い銀髪を細い指先で弄びながら、退屈そうに告げた。
彼女の瞳はアメジストのように輝いているが、その奥には“人間”という種族への興味が希薄で、神性ゆえの冷ややかさが透けて見える。
「話を戻しましょうか。一つだけ、あなたがいた世界のものを持ち込ませてあげましょう。この手の話の定番でしょう? スマホ? 銃? それとも、あらゆる呪文を無効化するチート級の魔導書がいいかしら。どれを選んでも、私が“異世界仕様”にアップデートしてあげるわよ。魔法のバッテリーが切れないスマホとか、魔力弾を無限に撃ち出すライフルとかね。さぁ、選びなさい。あなたの新しい人生の唯一無二のパートナーを!」
普通の人間なら、ここで迷うのだろう。
厳しい異世界で生き抜くための強力な武力か。
現代の叡智が詰まった文明の利器か。
あるいは、地位や名誉を約束する権能か。
男の答えは肉体を失ってもなお、魂の芯に深く刻み込まれた本能が導き出していた。
彼は迷わず、指を一本立てて宣言した。
「……レモン」
「えっ?」
女神の動きが止まる。
「レモンをお願いします。それもただのレモンじゃない。国産……瀬戸内海の温暖な地域で太陽の光をたっぷり浴びて育った防腐剤・防カビ剤・ワックス不使用。皮まで愛せる最高に香りの強いやつを一個。それだけでいい」
数秒の沈黙。
女神は口を半開きにしたまま固まり、数回パチパチと瞬きをした。
「……待って。私の聞き間違いかしら? レモン? レモンってあの黄色くて酸っぱいやつ? 料理の付け合わせに添えられたり、部活の差し入れでハチミツ漬けにされたり、唐揚げにかけるかどうかで論争が起きる、あの地味な果物のこと?」
「地味とは失礼な! あんた、レモンの真実を知らないのか!? レモンにはグリーンレモンだってある!」
男は一歩前へ詰め寄った。
重力がないはずの空間で、彼の執念が地面を捉えていた。
「漢字で書くと“檸檬”。画数が多くて複雑で、書くのが大変だけど……! でもっ、だからこそっ、高貴で気高き果実なんですよ! あの鮮烈で鼻腔を一気に駆け抜ける清涼な香り! 脳を突き抜ける電撃のような酸味! そして何より、肉、魚、野菜、飲み物、スイーツ……あらゆる食材のポテンシャルを三段階くらい跳ね上げる圧倒的な万能性! レモンがない食卓は色のない虹のようなものです! おれの人生にはレモンさえあれば他には何もいらないんです!!!!」
「いや、異世界よ? 魔法とか魔物とかいるんだってば。スマホを選んだら“全知の魔法端末”にしてあげるし、カメラを選んだら“魂を写す神器”とかにしてあげるのに。果物一つで凶暴なドラゴンとか邪悪な魔王とか、どうにかできると思ってるの?」
女神の困惑はもっともだ。
「レモンでお願いします。瀬戸内産です。それ以外は認めません。たとえ魔物に囲まれようと、おれはレモンを搾ってその香りに包まれて死ぬのなら本望です!」
だけど、男は引かない。
レモン愛好家として、ここで妥協することはこれまでの人生の全てを否定することと同義だった。
「……分かったわよ。もういいわ。変な奴を選んじゃったみたいだけど、約束は約束だもんね。神の言葉に二言はないわ」
女神は深いため息をついた。
その美貌が呆れで歪む。
「その代わり、あなたがあまりに無防備すぎてすぐ死なれるのも困るの。一つしかないレモンを食べて終わらせないように、私の方でいくつか“特典”をつけておくわ。せっかく転生させたのに異世界の地面を踏んだ初日に餓死や撲殺されたら、私の管理能力を疑われて面目丸潰れだし」
女神が指をパチンと鳴らすと、天から一筋の光が降り注いだ。
「手を出しなさい」
男が素直に両手を差し出す。
すると、男の手の中にずっしりとした重みが加わる。
それは、一個の黄金だった。
美しく磨き上げられたような完璧な楕円形。
表面の細かな凹凸からは鼻を近づけずとも、精神を洗浄するかのような清涼感が溢れ出していた。
黄金の正体はレモンだった。
「ああ……これだ。この重み、この肌触り……。これですよ、おれが求めていたのは……!」
「そのレモン、スペックは最高にしておいたから」
うっとりとレモンを頬擦りする男を、女神は引き気味に見ながら続けた。
「それで、名前はどうするの?」
「この子のですか?」
「違うわよ。 転生したら、前の世界の名前は思い出せなくなるの。自分に関わる固有名詞は消えるのがこの世界のルールだから。まあ、魂に刻まれた“概念”としての名前は自分で決めていいわよ」
女神の言葉に、男は手の中のレモンをじっと見つめた。
(自分の名前……?)
不思議なことに、男は頭の中に霧がかかったように自分の名前が思い出せなくなっていた。
苗字は何だったか。
友人は自分をどう呼んでいたか。
だけど、悲しくも寂しくもなかった。
彼にはこの黄色い相棒がいる。
この香りが自分の存在を証明してくれる。
「……ナギ」
「なぎ?」
「このレモンが育った場所には穏やかな瀬戸内海の“凪”があった。そして、これから立ち塞がる困難はこの子と一緒に全部“なぎ倒す”。だから、これからのおれの名前はナギです」
「……単純ね。まぁ、いいわ。レモン使いのナギ。その執念が異世界でどう転ぶか……期待しないで見ててあげる」
女神が優雅に手をかざすと、男……ナギの足元に巨大な黄金色の魔法陣が浮かび上がる。
ナギの視界が白から金へと塗り替えられていく。
「あぁ、そうそう。最後に言っておくけど、そのレモン、あなたが転生する異世界では“酸棄果”って呼ばれてて、家畜も食わない最低の雑草扱いだからね。せいぜい世界中から嫌われないように頑張りなさいな」
ナギの意識が遠退く直前、女神が意地悪そうに口角を上げた。
(……なんだって?)
その不穏な言葉を最後に、ナギの意識は急激な加速と共に別の次元へと吸い込まれていくのだった。
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