私を婚約破棄ですか? では『業務停止命令』として受理いたします。〜前世が大企業の経理部長なので、私が無償で回していた国家予算の差し止め手続きを遂行致します。だって、私は悪役令嬢ですから〜
「エリーゼ・ルクイツゥア。本日をもって、君との婚約を破棄させてもらう‼」
「…………は?」
第一王子イグノス・アルノーラ。
ここアルノーラ王国の王太子にして、私の婚約者でもある彼が、私に怜悧な言葉を突き付けてきた。
しかも今は、国内の貴族たちを呼び寄せ、年に一度の晩餐会を開いている最中。
国の要人が一堂に会しているこの状況で、私情も甚だしい婚約破棄を突き付けてくるとは……。
「うふふ……良い気味ね」
「ええ、ほんと。殿下の婚約者として、あまりに似つかわしくない方でしたから」
にわかには信じがたい状況ではあるけれど、他の貴族たちには既に根回し済みなのかもしれない。突如として婚約破棄を告げられた私に対して、同情の意を表する者は一人もおらず、むしろほとんどの参加者たちが失笑していた。
「なるほど。婚約破棄、ですか」
しかしなぜだろう。
私の心は不思議と揺るがなかった。
「……念のためにお聞きしますが、理由をお伺いしてもよろしいですか?」
「ふん、本当に呆れたものだね。そんなことを聞いてくる時点で駄目なのさ!」
イグノスはそう言って鼻で笑うと、彼の横に立つ女性の片腕で抱き寄せた。
「理由など必要ない。そう、出会った瞬間に感じた胸の高鳴り……! 僕らはついに運命の出会いを果たしたのだ!」
「は、はあ……」
なにを言っているのだろう。
なんだか都合の良い解釈をしているけど、言ってしまえばただの一目惚れ。
そんなものを〝運命の出会い〟と勘違いするなんて、驚くくらい浅はかなのだけど。正直冗談なのかと思ってしまったが、あの表情を見る限り――本気だ。
「クスクスクス……」
「ふふ、驚きすぎて言葉も出ないみたいね」
しかし取り巻きの貴族たちはみな王子の味方をしているらしい。
無言で突っ立っている私を見ては、陰でクスクス笑っている。
「……はあ」
私は思わずため息を発しつつ、王子に片腕で抱かれている女性に視線を送る。
「理解が追い付かないけれど、要はあなたが〝運命の相手〟ってことでいいのね? ユミリー」
「きゃっ。お姉さま、怖い……」
私に名前を呼ばれたユミリーが、演技がかった仕草で王子に縋りつく。
――ユミリー・ルクイツゥア。
文字通り私の妹で、今年で十七歳になる公爵令嬢だ。
今の言動を見てわかる通り、彼女はとにかく人に甘えるのが上手だ。平均的な十八歳より身長が高い私に対して、彼女は小柄。男性が好むような風貌をしているのもあって、昔から多くの男性に追いかけられていたように思う。
とどのつまり、王子もその〝甘えん坊〟に惚れたっていうだけ。
なにが運命の出会いなのかと突っ込みたくなるが、もはやそれさえ許されない空気だった。
「おい、なんてことをするんだエリーゼ! 曲がりなりにも、彼女は君の妹なんじゃないのか」
「……はあ。そうは言われましても、ただ事実確認を取ったまでですが」
「き、君という女は……! つくづく変わらないな」
王子は一層ユミリーを強く抱きしめると、より冷たい目で私を睨んできた。
「いつもそうだ。君からは愛情を感じたことがない。いつも無表情で勉強ばっかりしてて……婚約者として恥ずかしいと思わないのか⁉」
「……むしろ、婚約者だからこそ研鑽の必要があると感じていたまでですが」
本音を言ってしまうと、私は王子に惚れたことは一度もない。
同世代の子たちはみんな彼を「格好いい」「素敵な方」と評していたけれど、なんだか言動が幼いっていうか。彼とは同い年であるはずなのに、なぜだか子どもと接しているような気分になってしまうのだ。
けれど、私は名門貴族であるルクイツゥア公爵家の長女。
両親からは第一王子との婚約が使命だと何度も聞かされてきたし、だからそれに恥じないように研鑽し続けてきた。それだけだ。
無愛想という指摘は、まあその通りかもしれないけどね。
だからできる限り彼の公務をサポートしてあげたり、悩んでいる時にはさりげなく助言してあげたのだけど……それでは駄目だったみたい。
婚約破棄されたというのなら、また別の道を探ればいいだけの――。
「…………っ」
瞬間、私の脳裏にいくつもの映像が流れ込んできて、思わず片腕で頭部を抑え込んでしまう。
――日本。
――大企業の重役。
――五十五歳で交通事故に巻き込まれ死去。
――桜坂絵里。
な、なにこれ……?
少なくともアルノーラ王国の風景ではないけれど、私はなぜかこの人生を知っている……?
仕事に打ち込み続けて出世街道に乗ったはいいものの、気づいた時にはかなりの年齢を重ね続けていて、さりとて良い相手にも恵まれず独り身を謳歌した人生。
昔から人と慣れ合うのが苦手だったけれど、陰ながら応援していた部下が伴侶を見つけた時は本当に嬉しかったっけ……。
――桜坂部長、本当にありがとうございました。部長の指導はいつも厳しくて、本音を言うと怖かったですけど……。いつも僕を見守ってくれていたこと、今ならわかります――
――桜坂部長のおっしゃっていた通りでした。彼は本当に節操がなくて、平気で浮気をするような人で……。あの時は意地悪されたとか言ってしまってすみません。私、何もわかってなかったです――
そうか。
これが私の人生だったんだ。
王子を幼く感じていたのも、笑顔を作ることが苦手だったのも、思わず仕事に熱中していたのも……。
きっと前世の経験が、今生にも引き継がれているのだ。
過去の記憶を辿ると、私は昔から笑顔を作ることが苦手だった。
別に〝心を閉ざしている〟ってわけじゃない。
煌びやかな景色を見れば当然のように感動するし、可愛い動物を見た時は、私だって一目散に抱きしめたくなってしまう。
けれど、私はどうも自分の感情を素直に出すことが苦手で。
それが〝公爵令嬢〟および〝王太子の婚約者〟としてふさわしくない振る舞いなのはわかっていたから、自分なりに勉学を重ねて、徹底的に魔法の練習をして、より自分を高めるようにして。
だけど――それでは王子にとって不服だったみたいね。
このアルノーラ王国は、学生時代に熱中した乙女ゲームの世界観にマッチしている。
だいぶ昔にやったゲームなので詳細は覚えていないけれど、たしかエリーゼは悪役令嬢と世間では蔑まれ、悲惨な末路を辿っていくはずだ。
「そっか。悪役令嬢、か……」
過去の記憶はなかなか衝撃的だったものの、これ自体は悪くない転生先だと言えるだろう。
自分で言うのもなんだが、前世では仕事人間として恐れられてきた。
人と慣れ合うのは苦手だし、王子なんかの婚約相手になるよりも、独り身を謳歌するほうがよっぽど性に合っている。
もちろん、さすがに断罪ルートだけは避けたいけどね。
好きでもない王子のために生きるよりも、悪役令嬢として一人で生きていけるのなら――正直、願ったり叶ったりだ。
「……事情はわかりました。現状を簡単にまとめると、殿下は直情的に沸き起こってきた感情を〝運命の出会い〟と解釈し、他の貴族たちにも根回しをしたうえで、ごく一方的に私に婚約破棄を突き付けた。そういう話になりますね?」
「は……」
突然の反論に面食らったのか、王子がわずかに目を見開く。
「な、なにを言っているんだ君は。だからそれは、君から愛情を感じられなかったから……」
「ですから妹との愛を〝運命の出会い〟だと解釈した。かなり論理的な飛躍がありますが、それがあなたの主張です。なにか相違がありますでしょうか?」
「……ぐっ」
私の圧に押されたのかわからないが、王子が一歩だけ後ろにたじろぐ。
なんだろう。
前世において、仕事をサボっている部下を説教したら同じような顔をしていた気がする。
「……ですが、あなたが婚約破棄をなさりたいのならそれで結構です。これ以上あなたと話すつもりはありませんので、早く私の沙汰をお決めになってください」
「さ、沙汰だって……?」
「私の処遇ですよ。まさか――それさえも決めずに一方的に話を進めていたとか?」
「え、えっと、それは……」
まあ、本当は王子に私の処遇を決定する権利なんてないけどね。
私がなんらかの罪を犯したわけじゃないし、王太子と公爵令嬢の婚約は〝個人間の約束〟ではなく、〝王家と公爵家の国家間契約〟。
それを私情だけで解約するのは、いくら王族と言えども権力の濫用に当たる。
けれど――王子は私に詰められて頭が真っ白になっているようね。
前世で私が部下に問い詰めた時と同じく、次の言葉が思いつかずに言い淀んでいる。
「ふふ、仕方ありませんね。王子殿下」
私は口の端に笑みを浮かべると、視線を真っすぐに王子へ向けた。
「――それでは、アドノルド地方に私を送るのはいかがでしょう? あそこは過酷な荒野地帯ですし、妥当な選択ではありませんか?」
★ ★ ★
その翌日。
いち早く荷物を取りまとめた私は、自分自身で手配した辻馬車に乗り、第二の移住先へと向かっていた。王子に手配させても良かったが、あんなポンコツに任せたんじゃ、正直不安しかないしね。
――アドノルド地方。
王子にも述べた通り、そこはアルノーラ王国でも特に過酷な地域として知られている。
広範囲に渡って荒野が広がっており、作物を育てるのは夢のまた夢。数少ない食糧を狙って事件や暴動も多発しているようで、いわゆる〝ならず者〟たちで結集された場所といえる。
ゆえに私がこの地域への強制送還を提案した時、イグノス王子は即座にそれを了承した。
――はは、アドノルド地方か。君にもちゃんと常識はあったようだね――
王子はこんなことを言っていたけれど、もちろんすべて狙い通り。
たしかにアドノルド地方は評判こそ悪いものの、まだ未発掘の魔石が大量に眠っている場所があるはず。それを売り捌けば、きっと相応の金額になるはずだ。
それに〝ならず者〟たちはみな不器用なだけで、根っこの部分は悪人ではない。その意味では晩餐会に参加していた者たちよりもはるかに接しやすいというのが、乙女ゲームの知識を踏まえた上での決断だった。
……もちろん、だとしても積極的に人と関わるつもりはないけどね。
ストレスのない人間関係を築ける場所にいたほうが、私としても気が楽だったから。
「着きましたよ、エリーゼ様」
そこまで考えを巡らせていたところで、御者が私にそう声をかけてきた。
窓に視線を向けると、そこに広がっていたのはゲームの世界観通りの光景。
地平線まで続く荒野に、申し訳程度に生えている背の低い植物。一応舗装されている道はあるけれど、整備が行き届いていないのか、いたるところがヒビ割れているのが見て取れる。
そして目の前にあるのが、今回私が嫁がされることとなるルドガー伯爵家の住居か。
――ルドガー・アリスレン。
聞くところによると、無骨を地でいくような性格をしているという。
地域の〝ならず者〟たちを取りまとめているわけで、それなりに険しい性格になるのも必然かもしれないけれど。いつも無表情で大人しくて、何を考えているかわからない冷血なる男と評されているらしい。
「でも、お気をつけくださいエリーゼ様。ここは王都と違って、治安は最悪級……。魔獣も溢れていると聞きます」
「ええ、そうね。ちょうど向こうから来るところじゃないかしら」
「――へ」
御者が目を見開いた瞬間、聞くもおぞましい咆哮が周囲に響き渡る。
「あれは……オークみたいね」
合計で三体。
成人男性の二倍はあろうかという巨体と、獣のごとき頭部が特徴か。右手には棍棒を携えて、じりじりとこちらへ歩み寄っているのが見て取れる。
「ふふ、良い獲物を見つけたとでも思ってるのかしらね。なんだか嬉しそうだわ」
「わ、笑ってる場合ですか! すぐに引き返さないと!」
そうは言っても、二頭の馬は恐怖のあまり足が竦んでしまっている状態だ。
オークはああ見えて足が異常に速いため、今から逃げおおせることは困難だろう。
「構わないわ。私が斬る。あなたは見ててちょうだい」
「へ……? エ、エリーゼ様がですか……⁉」
「ええ。これでも万一に備えて、相応に鍛えてあるのよ」
今後起こりうるリスクを常に頭に入れ、その対処法を必ず身に付けておくこと――。
これは前世で培った処世術だけれど、記憶を取り戻す前の私でも、この哲学は引き継がれていたみたいね。こういう時に備えて、剣の鍛錬はすでに積んである。
だから私は腰の鞘に手を触れ、そのまま剣を抜こうとしたのだが――。
――――一閃。
私が剣を振るよりも早く、目にも留まらぬ速度で駆けつけてきた者がいた。
その俊敏な動きは、私なんかよりもはるかに精錬されていて。
一見すると線の細い身体をしているけれど、巨大な剣を握るその二の腕には、たしかな盛り上がりがあって。
灰色の長髪を後ろに束ね、そして怜悧な瞳でオークを睨むその男性は、私にもはっきり見覚えがあった。
「ルドガー閣下。来てくださったのですね」
「……何をしている。とっとと馬車内に戻れ」
ここアドノルド地方を束ねる、ルドガー・アリスレン伯爵。
彼はまさしく、評判通りの冷たい声で私に安全を促した。
……聞いた話だと、彼はすでに二十代後半に差し掛かっているにもかかわらず、いくつもの縁談を断ってきたのだという。
そもそも女性との縁に興味がなかったんだと思うけど、それが今回、王家という絶対的権力から無理やりねじ込まれたわけだしね。
いくら女性嫌いといっても、さすがに立場上断ることができなかったのだろう。
――ゆえに、私にはものすごく会いたくなかったはずだ。
むしろそれでいい。
王子よりは多少マシだろうけど、私にとっては彼だって幼子同然なのだから。
「まあ、そう邪険にすることもないでしょう。伯爵家の前ですら魔獣が出現するありさま――地域内に出没する魔獣に、あなたたちも手がまわっていないのではありませんか?」
「む…………」
図星だったのか、すっと押し黙るルドガー。
「その証拠に、敵は三体だけではないようです。あちらを」
言いつつ私が背後を振り返ると、オークがさらに四体もにじり寄ってきていた。
おそらく、先ほどの咆哮に引き寄せられてきたのだろう。
「どうでしょう? ここは一緒に戦うのも悪くないんじゃありません?」
「…………ふん。妙な女だな」
ルドガー伯爵はそう言ってオークに向き直ると、再び大剣の切っ先をオークに向けた。
「好きにしろ。ただし敵を甘く見るな。危険と判断したらすぐに撤退しろ」
「ええ、お任せあれ」
それから数分後。
私とルドガー伯爵の協力によって、計七体ものオークを無事に倒すことができた。
こちらも相応に鍛えてきた自信はあるけれど、やっぱり過酷な地域を統括するルドガー伯爵は違う。私が二体を倒し終えた隙に、彼は残りの五体をすでに倒し終わっていた。
とはいっても、それも当然の話かもしれない。
私の剣術はあくまで護身用であって、彼ほどにまで鍛えるつもりはなかったから。
「……エリーゼ・ルクイツゥアといったか。此度の共闘に感謝と謝罪を述べる。ここに来るとわかっていながら魔獣をあらかじめ退治できていなかったのは、俺の明らかな過失だ」
あら。
なかなか恐ろしい貴族として知られている彼だけれど、意外にも殊勝なところがあるみたいね。
「いえ、気にする必要はありませんわ。あなたはすぐに助けに来てくださいましたし――それに、今は魔獣出没に困っているのでしょう? この婚約自体がそもそも急なんですから、対処が間に合わなくても仕方ありません」
「ふむ…………」
私の言葉を受けて、ルドガー伯爵は短く息を吐く。
……こうして接してみると、私たちは似ているのかもしれない。
昔から笑顔を作ることが苦手で、どうしても人の輪に溶け込めなかった私。
そして彼もまた、ぶっきらぼうという理由で他貴族から距離を置かれている。
仮初の婚約ではあるけれど、似た者同士ということで、少なくとも王都にいるよりは気が楽かもしれない。
「ひとまずは屋敷に案内しよう。ついてくるといい」
「ええ、ぜひお願い致しますわ」
ルドガー伯爵に促され、私は屋敷へと一歩を踏み出すのだった。
「――それから、ひとつだけ念押しさせてもらおう」
「はい? なんでしょうか」
「共闘には感謝するが、オークごとき、俺なら一人で倒せていた。腕には自信があるのでな」
「…………?」
なんだ。
大真面目な顔でなにを言うかと思ったら、なぜ今更そんなことを……。
「なるほど、左様でしたか。ご立派ですのね」
とりあえずルドガー伯爵を褒めておいたが、私も笑顔を作るのは大の苦手なので、思わず大真面目な顔でそう答えてしまった。
★ ★ ★
それから一週間後。
王都アルノーラの王城にて。
「ふふふ……。良い気分だね、ユミリー」
「ええ、ほんと」
王城の私室にて、第一王子イグノス・アルノーラはユミリー・ルクイツゥア――エリーゼの妹にあたる公爵令嬢――と二人きりの時間を過ごしていた。
大きなダブルベッドで、誰にも邪魔されずにゆっくりできる喜び。
エリーゼとは一度もこのようなことはなかったし、いつも「仕事がありますから」と断られていた。
……本当にくだらない。
エリーゼ自身は綺麗な女性だったが、このようなことが立て続くと男として萎えてしまうものだ。いつも仏頂面で、なにを考えているのかわからなくて……これでは婚約者としての意味がない。
「王子殿下? どうされたのですか?」
しかし目の前のユミリーにはそれがない。
今も毛布の中から、愛嬌満点の顔でイグニスに見上げてきている。
「わかりますよ。エリーゼ姉様のことを考えていたんでしょう?」
「はは、君には見透かされてしまうか。まいったね」
イグニスはふっと苦笑を浮かべると、天井に吊るされているシャンデリアをぼんやり見つめながら二の句を継げる。
「覚えてるかい? あのエリーゼ君が、きみとの愛を〝ただの一目惚れ〟などとのたまっていたことを」
「ええ……。あれは本当にひどかったですわ」
「でも、実際に僕は今はっきりと感じている。君との出会いは本当に運命だったと。僕にふさわしい女性は、君しかいなかったのだと」
「イグニス王子殿下……。愛に満ちたお言葉、嬉しく思います」
そう言って、イグニスの胸に額をあてるユミリー。
「ですが、王子殿下。お姉さまも悪い方ではないはずです。幼い頃は一緒に遊びに興じたものですから、良い思い出が沢山あるのも事実……。おそらくは公爵令嬢としてのプレッシャーに呑まれて、一時的におかしくなってしまっているだけでしょう」
「ユ、ユミリー……!」
「だからどうか、お姉さまのことを悪く思わないでください。お姉さまの分まで、このユミリーが頑張ってみせますから」
「素晴らしい……! きみはなんて素敵な女性なんだ、ユミリー!」
激情がピークに達したイグニスは、再びエミリーを抱きしめようとしたが――。
「――イグニス王子殿下! 緊急事態です!」
ノックもせずに入ってきたのは、顔面を真っ赤にしたロウファー騎士団長。
温厚な男性として知られる彼の表情が、今この時ばかりは、怒りの感情を露骨に表面化させていた。
イグニスたちがベッドに入っているのを見て一瞬だけ眉をひくつかせたが、それでも構う様子なく、ずけずけと部屋に入ってくる。
「ぶ、無礼だぞロウファー! 今は休憩時間だ!」
「失礼ながら殿下、そのようなことを言っている場合ではないのです!」
思い切りロウファー騎士団長を睨みつけるイグニスだが、内心では動悸が止まらなかった。
前述の通り、ロウファー騎士団長は普段温厚な人物。
このようにして怒号を飛ばしてくる人物ではないからだ。
「……用件はなんだ。簡潔に言え」
服を着てベッドから降りたイグニスに対して、ロウファー騎士団長は、引き続き怒り心頭といった様子で告げる。
「殿下。先日、『ライオット公爵家のリヴェール川上流の灌漑ダムの建設予算』、および『アルバラン侯爵家のリヴェール川下流の運河拡張予算』を承認されませんでしたか?」
「な、なんだって……?」
一瞬なんのことがわからなかったが、記憶を辿っていくとたしかにあった。
たしかエリーゼへ婚約破棄を突き付けて、数日後に届いてきた書類だったか。
「ああ、そうだな。どちらも王家への忠誠心がある家だ。ここは王子としての器を示す意味で、両方とも承認してやったが」
「…………!」
瞬間、ロウファー騎士団長の目が恐怖を感じるほどに見開かれた。
「……よくお考えください、王子殿下。上流をダムで堰き止めれば、下流の運河は干上がり、ただの溝になります。反対に運河に水を引けば、上流の貯水量は足りなくなります。……殿下が承認したのは、物理的に両立しえない二つの予算申告書。そのせいで、両家が互いの権利を主張し続け――現在、紛争まで引き起こされているのですぞ!」
「な、なに……⁉」
紛争。
その言葉を聞いて、イグニスは胸に鋭利なものを突き付けられたかのごとき衝撃を覚えた。
「それだけではありません。王子殿下は最初から、この紛争を引き起こすことが目的だったのか。仮にミスだとするなら、王子殿下を今後とも信用していいものか。そのような憶測まで入交じり、あなたが考えなしに承認した書類が、今、大きな問題を引き起こしているのです!」
「そ、そんな、馬鹿な……!」
ありえない。
ありえないありえないありえない。
書類の確認くらい今まで散々やってきたのに、どうしてここにきてこんなミスを……!
――王子殿下。こちらの書類ですが、ひとつ懸念事項がございます。承認する際はご注意ください――
――こちらの予算申告書ですが、承認するとあらぬ武力衝突を起こす可能性があります。承認しないことを推奨します。詳細は別紙にてご確認ください――
そこではっとした。
エリーゼだ。
今までエリーゼが、自分の仕事を先回りして軽減してくれていたのだ。
たとえば今回のような〝書類の確認〟だって、エリーゼが事前に調査を重ねることで、イグニスが承認するべきか否かのアドバイスをくれていた。
もう十八歳になったし、一通りの公務くらいは簡単にこなせると思っていたのに――。
まさかこんなところで、エリーゼのことを思い出すことになるとは。
「騎士団長、それはあんまりじゃないですか~? 王子殿下は悪くないと思いますが」
ふいに会話に割り込んできたのは、服をしっかりと着込んだユミリーだ。
切羽詰まっているロウファー騎士団長に対して、随分とゆったりした口調で喋っている。
「ダムと運河って、両方作れれば便利になるじゃないんですか? 王子殿下は民のことを思って承認しただけですし、私もそう思って背中を押したんですけど? だって、ライオット侯爵家からは素敵なプレゼントも届きましたし!」
「…………はあ」
そこで何を思ったか、ユミリーを一瞥してため息をつくロウファー騎士団長。
「そんな軽率なことで承認できる書類ではなかったのですよ、あれは。実際にも、仲裁に入った我が軍の兵士が三名ほど負傷しました。その責任をどう取るおつもりです?」
「……こ、怖いです。そこまで言う必要ないじゃないですか。私たちは国のためを思って……」
「…………」
ロウファー騎士団長は再び額に手をあて、再度ため息をつく。
「王子殿下。私にはわかっております。今まではエリーゼ様が手厚くサポートしてくださっていたのではありませんか?」
「いや、そんなことは……‼」
いま最も言われたくなかった言葉を突き付けられ、イグニスは思わず口ごもる。
「王子殿下の意見とは異なると思いますが、エリーゼ様は本当に素晴らしいお方でした。たしかに、ややぶっきらぼうなところはあったかもしれません。ですがその実、あの方は多方面を気遣ってくださっていた。本件だって、気づかぬところで書類のサポートをしてくださっていたではないですか」
「…………」
「……このままでは内乱も起こりえます。国王陛下とも協議し、今後の対応を決めさせていただきますので、殿下もどうか備えていてください」
なんだ。
なんだなんだなんだ。
あの婚約破棄は間違っていなかったはず。
なのにいったい、この状況はなんなんだ……‼
一気に押し寄せてくる現実に、イグニスは頭を抱えるしかないのだった。
★ ★ ★
一方その頃、ルドガー・アリスレン伯爵家の屋敷内にて。
「……驚いたな。よもや本当に、あの場所に魔石が眠っていようとは」
「ええ。地質学者たちが使用する計測器では、高濃度のエネルギーを放つ魔石を特定できない。学問の限界を〝常識〟と捉えてしまったのは、学者たちの痛恨のミスと言えるでしょうね」
「…………」
私がルドガー閣下のもとに嫁いでから、およそ三週間が経った。
すでに繰り返し述べた通り、私とルドガー閣下とでは、精神年齢で大きな差がある。
ゆえに単なる〝新妻〟で収まるつもりは毛頭なく、このアドノルド地方の黒字化と自立が最も大きな目標となる。
かつて大企業でそこそこの地位にいたせいか、この極貧状態はむず痒いしね。
乙女ゲームでの〝エリーゼ・ルクイツゥア〟は世界から後ろ指をさされ、孤立したのちに断罪されていった。そんな悲惨なルートを避ける意味でも、強力な味方が多いのに越したことはない。
だから私は、ゲーム知識を引き出して、魔石の眠っているポイントをルドガー閣下に教えることにした。ここの人たちは人情に溢れているから、戦力を強化しつつ味方にできれば、逆に敵側を返り討ちにできると判断したためだ。
当初こそルドガー閣下も半信半疑だったけれど、しぶしぶ調査団を派遣したところ、ものの見事に高純度の魔石が発掘され――。
そして今、その結果をルドガー閣下から受けているところだった。
「それで、どうでしょうか。その魔石を売り上げれば、〝あの子〟の治療薬を買えるのではないかと思いますが」
「……そうだな。さすがにそれくらいは、天の女神様もお赦しになるか……」
私が述べた〝あの子〟というのは、ルドガー閣下の飼っている狼のことだ。
名前をフェンというらしく、ルドガー閣下にとっては相棒のような存在。
早くから両親をなくし、さりとて厳しい土地ゆえにほとんどの血縁者に逃げられ、ひとりでこの地域を守り続けてきたルドガー閣下。
そんな彼のたったひとりの相棒が、このフェンだったのだという。
しかしそのフェンは、数年前から難病を患ってしまい――。
ルドガー閣下としても早めに助けてあげたかったが、そもそもアドノルド地方の財政が厳しい状態において、私情で高額の薬を購入することは本当に正しいのか……。
ここ一帯をおさめる領主として、深く葛藤してきたのだという(召使いから教えてもらった)。
けれど、今回の魔石発掘で、財政には多少の余裕が出てきたはず。
そのお金を用いて、治療薬を買ってはどうかと提案した形である。
「フェン。大丈夫か」
それから数日後。
治療薬を購入してきたルドガー閣下が、屋敷の庭にてうずくまるフェンに声をかける。
白銀にきらめく美しい毛並みに、そして翡翠色の大きな瞳。本来ならその瞳にも生気が宿っているのだろうけど、今は著しく元気がない。地面にうつ伏せとなり、荒々しい呼吸を繰り返すのみである。
「フェン。ごめんな。今までずっと……苦しい思いをさせて」
ルドガー閣下は片膝をついてフェンに話しかけると、片手に持っていた治療薬を、優しく口から飲ませていく。もとより信頼関係を築けているためか、フェンも特に抵抗することなく、素直にそれを受け入れた。
すると。
「ウ……。バ、バウ……?」
信じがたいことに、フェンの瞳に少しずつ生気が宿っていき――。
先ほどまで苦しげに呼吸をしていたのが嘘だったかのように、ひょいと首から上までを起こしたのである。
「フェ、フェン……。治ったのか?」
「バウ、バウ」
即効性のある薬とはいえ、さすがに数年も身体を蝕んできた難病だ。
すぐに完治したわけではなさそうだが、先ほどまでの様子と比べて、フェンがかすかに元気を取り戻したのは明らかだ。
「バウ、バウ……!」
「フェン。本当に良かった……!」
そう言って、優しくフェンを抱きしめるルドガー閣下。
長年連れ添ってきた相棒が回復したのだ、きっと喜びも一入だろう。
「ルドガー閣下。失礼ですが、私も触ってみてもよろしいですか?」
「ああ、もちろん構わない。フェンもきっと礼を言ってくれるだろう」
ルドガー閣下の言葉を受けて、私はそっとフェンの胴体に触れてみる。
もふもふ……と。
動物特有の柔らかな毛並みが、優しく私の手を受け止めてくれた。
「バウ、バウ!」
無邪気にこちらを見上げるフェンを見て、私ははっとする。
――桜坂部長、本当にありがとうございました。部長の指導はいつも厳しくて、本音を言うと怖かったですけど……。いつも僕を見守ってくれていたこと、今ならわかります――
――桜坂部長のおっしゃっていた通りでした。彼は本当に節操がなくて、平気で浮気をするような人で……。あの時は意地悪されたとか言ってしまってすみません。私、何もわかってなかったです――
ああ、そうだ。
断罪ルートを避けるためだとか、アドノルド地方を再建するためだとか、そんなのは正直格好つけているだけだ。
前世でも今生でも誰にもわかってもらえなかったけど、本当は、私はこういう笑顔が見たくて……。
「……エリーゼ。その顔は……」
ふと笑みがこぼれてしまっていたのかもしれない。
夢中でフェンを撫でている私に対して、ルドガー閣下が驚いたように目を見開いていた。
「失礼しました。あなたの相棒なのに、私ばかり満喫していてはいけませんね」
「い、いや。むしろ……」
ルドガー閣下はそこでなにかを言いかけると、我に返ったようにそっぽを向く。
「エリーゼ。私が今まで縁談を受けてこなかったのは、伴侶となる女性を必ず不幸にしてしまうためだ。ここアドノルド地方は、結婚するにまったく向いていない」
「…………」
「だが――きみが嫌じゃないなら、今後とも我が地方の再建に協力してくれないか。そのためには、俺の剣だけでは役不足だ」
「ええ。その契約、喜んで結ばせていただきましょう」
私はそう答えると、今度はフェンの頭部をモフりつつ二の句を継げる。
「ただし、フェンのブラッシングは私の日課に組み込ませていただきます。もちろん散歩は相棒であるあなたにお任せしますので――それでもよろしいですか?」
「……ああ。好きにするがいい」
気のせいだろうか。
ルドガー閣下の返答そのものは相変わらずぶっきらぼうだったが、その声のトーンが少しだけ柔らかくなっていたのは。
いつしか空を覆っていた雲はどこかへと消え、私たちを温かな陽光が優しく包み込んでいた。
あとで気づいたのだけど、一方の王都からはこのような手紙が届いていたらしい。
――エリーゼ、急きょ戻ってきてくれないか? 今王国ではとんでもないことになってて……と、とにかく相談したいことがあるんだ――
ええ、もちろんそんなのは無視させていただきますとも。
今さら復縁を迫らされても、もう御免です。
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