一、知恵の神獣"白沢"
西暦二百年代の中国は、三国時代と称される乱世の只中にあった。
天下に天子は一人だけという原理原則は崩壊し、魏・呉・蜀漢という三つの王朝が鼎立した時代である。
黄河流域の広大な平原地帯に勢力を構える魏王朝。
"天府の地"と称される豊饒な四川盆地に勢力を構える蜀漢王朝。
そして諸葛恪の暮らすこの呉王朝は、長江以南の地を抑える国であった。
これまで大多数の人々は長江以北に暮らしていたが、乱世から逃れるように南へ南へと疎開。
この時代の長江以南の土地はそのほとんどが未開拓地域であり、多種多様な少数部族が暮らしていたとされる。
呉王朝はその未開拓地域を切り開き、先住民を制圧し、文明を持ち込み国家を樹立させた史上初の王朝であった。
「全員解雇か。あれだけの精兵を揃えたのに、まったく贅沢な人だ」
「優れていたのは馬の扱いだけ。命令もなく矢を放つ、主人が危地に飛び込んでも動かない。ケッ」
「怪異を前にすれば誰しもがそうなる。貴方がおかしいんだ」
「優れていると言え」
人の少ないガランとした宿舎。
眉を顰めて悪態をつく諸葛恪と文机を挟んで相対しているのは、強面かつ大柄の軍人であった。
諸葛恪の倍はあろうかという巨躯でありながら、その大柄の軍人は腰を低くバツが悪そうにするばかり。
「文奥、また新しい従者を寄越してくれ。今度は使えそうなやつを」
「そんなムチャクチャな。もう殿下に言ってくれ、あれ以上の精兵をウチの部隊に求められても困る」
文奥、それは彼の"字"で、名は"陳表"といった。
名を呼ぶことは相手を支配すること。
そのため親しい間柄でも本名を呼び合うことはあまりなく、基本的にこの"字"が用いられる。
陳表と諸葛恪はこの国の皇太子「孫登」の側近という、同僚の関係であった。
見かけとは真逆で陳表は気弱で優しい軍人であり、諸葛恪にとって数少ない友人の一人と言える。
ちなみに諸葛恪の字は"元遜"という。
親からの「もっと謙虚な人になってくれ、マジで」という思いがこれでもかと込められていることがよくわかる。
「でも本当に怪異を討ち取るとは。遭遇し、生きて帰るだけでも奇跡なのに。殿下もお喜びになるだろう」
「"白沢図"を覚えれば誰だって怪異に対処できる。出来ない奴らが馬鹿なんだ」
「その白沢図の文量が途方も無く多いんだよ。これを完全に暗記して、実践に用いるなんて常人には無理さ」
「知の神獣"白沢"は一万千五百二十種の怪異の対策を記したが、今ではその半分以上が散逸した。喜べ、覚える数が一気に減ったぞ」
「それでも途方も無さすぎるんだよ」
古今東西のありとあらゆる怪異や災害に対処するための対応策の記された古書、それが白沢図である。
陳表の言う通り、この白沢図を頭の中に入れて、その時々に応じて活用できる人間は尋常じゃないのだ。
しかし諸葛恪にはそれが分からなかった。
学んで覚えて活用するだけ。誰でも出来ることを、誰もやらない。それが不思議でしょうがなかった。
「とりあえず、自分は帰る。怪異討伐の成果もちゃんと報告しとくから、ご心配なく」
「殿下によろしく伝えてくれ」
「元遜は他に何か仕事が?」
「ん? あぁ、ちょっとな。こっちは殿下じゃなくて、陛下からの案件だ」
「陛下から?」
「あー、"朱"将軍の様子を見て来いってさ。どうも最近調子が悪いらしい」
諸葛恪は陳表を追い出すように、手をひらひらと振る。
慣れているのか陳表は少し呆れた表情を浮かべるだけであった。
陳表が居なくなると、余計に人が少なくなったことを感じさせる広い宿舎。
確かにあの従者たちは皆精兵だった。馬が希少な呉の国で、あそこまで馬術に優れた兵は少ない。
しかし命令に従わず、主人に追随しない兵士はどう考えても処罰対象である。
「失態を起こしたのなら解雇して当然だ、俺は間違ってない」
当たり前のことを当たり前にやってくれるだけでいいのに、それが出来る人間のなんと少ないことか。
結局は何でも自分がやった方が早い。そして皆が言う。お前は才に恵まれているのだと。
それが腹立たしくてしょうがなかった。
ふと、あの落頭民を思い出す。胴と離した頭を飛ばすことも出来ない落ちこぼれの馬鹿。
あそこまで当たり前のことを当たり前に出来ないヤツも珍しかったな、と。
そんなことを悶々と考えながら髪を結い直し、衣服を正し、帯を巻いて、絹の頭巾を被る。
馬に乗って外に出るとそこには人々が行き交っていたが、その多くが軍人であり戦場の臭いの濃い町並みであった。
ここ濡須口は呉の最前線軍事拠点。魏は呉を攻める際まずこの濡須口を攻め、呉が魏を攻める際は濡須口から軍を出す。
そしてこの地を守っているのは呉軍きっての猛将"朱桓"であり、諸葛瑾はその朱桓に用があってここを訪れたのであった。
ただ、まだ面会の時間には少し早い。城内の様子でも見ようと馬を軽く駆けさせる。
活気があり、娼妓が男を引き、そして喧騒が多い。朱桓軍は荒くれ者の猛者ばかりという評判通りの光景であった。
中でも城門付近は治安が悪そうだ。浮浪者や物乞いがあちこちで横になっており、特にガラの悪そうな兵士ばかりがうろついている。
また裏の稼業を働く者達もこの城門付近のスラムに暮らすことが多く、身寄りのない者達はこの裏の世界で稼ぐしか生きる道はなかったのである。
「うん?」
そんな薄汚い場所で、一層目を引く者がいた。とにかく華奢な美形であり、一束に編まれた長い髪は帯のように腰に巻かれている。
五、六人のガラの悪い兵士達は上物の娼婦だと鼻息を荒くし、その周囲を取り囲んでいたのである。
遠目でも分かる。あれは諸葛恪の嫌いな馬鹿「楊甜」とかいう名前の落頭民であった。
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