序、人喰いの獣
西暦233年。現在の中国の南京から長江を少し遡った先の山林。
曇り空が夕焼けの朱にうっすらと染まり、気にもならない程度の雨が降っていた。
十三騎の軽装兵は人気のない山林に入っていく。
馬は不快そうにぐちゃぐちゃとぬかるんだ地を踏んでいた。
先頭を行く男は子供のように小さい。しかしその顎にはしっかりと髭が生えている。
被っている頭巾は黄色の煌びやかな絹製であり、高貴な身分であることをうかがわせた。
「矢をつがえろ。俺が放てと言ったら放て」
後方に続く騎兵はその小柄な男の部下なのだろう。命令に皆頷き、馬を歩かせながら矢を一本つがえた。
日が出ていないからか山道は夜のように暗い。
ただ彼らは精兵である。夜道で野犬や狼が現れても、仕留めることなど造作もなかった。
しかし今回の獲物は野犬や狼ではない。盗賊でもない。
報告が入ったのだ。この辺りの山林で最近赤子の泣き声が聞こえると。
ただの捨て子であるならそれで良い。よくあることだ。
だがそうでないのなら問題である。
「好んで人を食うヤツは、賢しく人を騙す。赤子の声を真似れば、女を誘き寄せられることを知ってるのさ」
男は呆れたように鼻で笑う。
まるで「騙す方も、騙される方も馬鹿だ」と言いたげな冷笑であった。
そして一行は山道を外れて獣道を進む。より暗く、不快なほどに湿気がまとわりつく。
それでもまだ空には朱色が僅かに見える。完全に日が落ちるまでには山を抜けたかった。
「このあたりだったな。食い千切られていた女が倒れてたって報告があったのは」
「はい。頭は砕け、臓腑を食い漁られていたとのこと。また死肉を色々な獣に漁られてるため身元の判別は難しい状況です。官吏によれば狼の仕業と」
「狼の顎が成人の頭を咥えられるか?虎の方がまだ理解できるが、その女が道から逸れて山中に入る理由が不可解だ」
山道で襲われて引きずられてきたか、それともここまで誘き寄せられたか。
検証したいことは多かったが、日が落ちそうな時間になった。
小柄な男は松明を灯すよう指示を出し、今日はここで帰還しようかと告げる。
おぎゃあ
小さな、今にも消えてしまいそうな"赤子の泣き声"だった。
死にかけた捨て子のようだと誰もが思った。
男はすぐさま馬の尻を叩き、兵士らも遅れて駆けだす。
皆、馬の扱いには慣れていた。矢をつがえたまま木々を避け、泥を蹴り、山の斜面を駆け上る。
どこだ。耳を澄ませる。
すると今度は「うわぁっ!」と叫び声が聞こえた。
その声が男か女かまでは分からない。だが、近い。
男は右手を挙げる。すると兵士たちは瞬時に広く散開した。
息を呑む。これが罠であったなら、もういつ首を嚙み千切られてもおかしくはない。
木々を抜けた先、小柄の男は馬を止める。長草が鬱蒼とする開けた斜面にそれはいた。
体躯は大柄の山羊の様だが、頭は老人の顔という異形の化け物。
その目は潰れていて、口は裂ける様に大きく開いており、まるで笑っているかのようである。
そしてその化け物は長く髪の垂れた生首を咥え、傍らには首のない体が倒れていた。
手遅れだったか。男は眉間に皺を寄せると、その化け物に矢の照準を合わせる。
「ば、化け物だぁっ!!」
男が「放て」と命令を出すよりも早く、散開していた兵士の一人が矢を放ってしまった。
まだ距離は遠い。矢はてんで明後日の方向へと飛んでいく。
化け物は「ぶぇぇ」と鳴き、首を咥えたまま木々の中に逃げ出した。
異形の存在を目の前に、誰もが後を追おうとはしない。
戦場では一歩も退かない精兵でもそうなのだ。怪異の前に人間は無力に近い。
しかし、その小柄な男は違った。
男は生まれつき人並外れた才知を有し、おかげで傲慢であり、不遜な性格であった。
だからこそ瞬時に駆けることが出来た。嬉々とした笑みを浮かべながら。
──怪異が何だ!俺は『諸葛恪』だ!
逸る鼓動に身を預け、内ももで馬の背を強く強く締め上げる。
恐怖心など微塵もない。諸葛恪の胸にあるのは己に対する絶対的な信頼だけであった。
「俺の見立てが正しけりゃ、アレは"狍鴞"だな」
狍鴞。人を食う異形の獣である。
"山海経"には「羊の体躯、人面、虎の牙、目は脇の下にあり、人の赤子の泣き声のように鳴く」とある。
人を騙して喰らう獣は貪欲で狡賢く、臆病である。
人の、特に男の群れの前には現れず、決まって弱そうな単独の人間を襲う。
だから逃げた。卑しくも首を咥えたまま。
馬は主人に似て小柄であったが、おかげで山道も力強く駆けることが出来た。
揺れも少ない。岩肌の露出した起伏も難なく踏み越えてみせる。
首から靡く長い髪が目印となり、逃げる狍鴞をすぐさま視認。
「"狍鴞"!」
諸葛恪は弦を引き絞って、尻をめがけて矢を放つ。
しかし狍鴞は背面からの矢をひらりと躱した。
脇の下についている目が背後を視認しているのかと、諸葛恪は舌打ちをして二の矢をつがえる。
その瞬間であった。
「ひぃぃい!助けてぇえっ!!」
狍鴞の咥えていたその頭が突然、泣き叫んだのだ。
まさかの出来事に狍鴞すら驚き、注意が逸れた。諸葛恪はその瞬間を見逃さず、今度は腹にめがけて矢を放つ。
斜め後方より放たれた矢は狍鴞のあばらを貫き、心の臓を穿つ。異形とはいえ、獣である。
瞬時に絶命した怪物は体を硬直させて地面を転がり、喚く頭は放り出されて木々にぶつかった。
鈍い音を立てて落ちたそれは血に塗れながら、しかし元気そうにびえびえと泣いている。
怪物の死体と、泣く生首。
これは何なんだと諸葛恪は思わずため息を吐いた。
恐らくは、落頭民か。またの名を飛頭蛮。
頭が首から離れ、離れた頭は空を飛ぶことが出来る。それ以外は何ら人間と変わらない怪異。
そのことから怪異に区分するより、こういう特徴を持った少数部族の"人間"だと見る者もいたりする。
しかしいざ目の前にしてみると奇怪なことこの上ない。生首が泣いているのだ。
諸葛恪は腰を下ろしてその首を見下ろす。すると首は怯えるような眼で諸葛恪を見上げた。
「お前、落頭民か?」
「え、あの、いや、違います。人違いです。僕は一般の平凡で善良な農民です」
「…あの狍鴞は虎の様に一噛みで人の頭蓋を砕く。だがお前は噛み痕の肉が少しえぐれてるだけだ」
「えへへ、石頭にはちょっと自信があります」
話しぶりがどうにも馬鹿だ。諸葛恪は馬鹿と会話するのが嫌いだった。
一般の平凡で善良な農民は首と胴が離れたりはしないし、狍鴞に頭を噛まれたらひとたまりもない。
いや、落頭民であろうと狍鴞にかかれば頭は容易く砕ける。
「子供の頃から僕は出来損ないで、頭を飛ばせずよく落としてたんですよ。でもおかげで石頭になりました!」
「聞いてねーよ。頭ぶつけすぎると馬鹿になるんだな」
「ひどい!」
ひとまずこの馬鹿そうな首は置いておいて、諸葛恪は狍鴞の遺骸に目を移した。
綺麗に一矢で即死だ。しかしまだ用心はするべきである。
怪異が普通の獣と同じ身体構造なのかどうかはよく分かっていないからだ。
再び矢をつがえて、頭部と腹に一矢ずつ。反応はなく、確かに死んでることを確認できた。
前足を掴んで持ち上げると、光を失った目玉が確かに脇にある。
どうしてここに目があるのかは分からない。恐らく視界にはあまり頼らない生態なのだろう。
怪異の遺骸の腐敗は早い。
討伐の証に剣で蹄を断ち、牙を折る。それらを諸葛恪は軽く水で洗って、腰の麻袋に押し込んだ。
また腹を割いてみようかとも思ったものの、人食い獣の腹の中を想像して止めた。
ちなみに怪異を討伐して、試しに焼いて食べてみたという記録も残ってはいる。
ただ、諸葛恪にそこまでの好奇心は無かった。
流石に人の顔をした人食いの化け物を食うのは倫理的にもどうかという思いがある。
「怪異に、人の矢が刺さるところを始めて見ました」
落ちた首は不思議そうにそう呟いた。
これが、人が怪異に対抗できない大きな理由の一つ。
怪異といっても多種多様であり、怪異かそうでないかを区別する定義は極めてあいまいである。
しかし多くの怪異は「魂」や「念」や「精」と同じ枠の中にあり、実体が無かったり、刃物や矢が通じないことも多い。
故に武器で抵抗することも出来ず、祭祀や呪い(まじない)で鎮めたりするのが一般的とされていた。
敵意を向けられたら最後。未知の存在に人間は本能で恐怖し、成す術なく屠られるのみ。
「"名前"だ。名も知らん相手に対処するのは難しいが、知っていれば手は打てる。まずは名を知り、生態を知り、対処を知ることで怪異は討てる。そして俺はこの"狍鴞"を知っていた、だから殺せた」
諸葛恪はその長い髪を掴んで首を持ち上げた。髪を引っ張られたせいか顔をしかめている。
落頭民のくせして本当に首を浮かせる力は持たないらしい。
「あの、い、痛いです…」
「お前ら落頭民のことも知っている。首と胴のこのつなぎ目を板か何かで塞ぐと、呼吸が出来なくなって死ぬらしいな」
「ひぃっ」
「ふん、落頭民が害をなしたという話は聞かない。ならば殺す理由もない、安心しろ」
「ありがとうございます!ありがとうございます!!」
血に濡れてよく分からなかったが、非常に端正な顔立ちをしていた。
諸葛恪に女をいたぶる趣味はない。だが馬鹿に気を遣うほど優しくも無かった。
長い髪を雑にぐるぐるまとめ、それを小脇に抱えて馬に跨る。
「胴のところまでは持っていってやる」
「口は悪いのにちょっと優しいのが怖い…」
「やっぱりここに捨てていくか」
「ごめんなさい!役人さん凄く頭いい!強い!かっこいい!」
「それで、名はなんという」
「あ、楊甜と言います!助けていただきありがとうございます!」
つい先ほど「名を知る」ことの意味を教えたのに、この首はあっさりと自分の名を明かした。
名を呼ぶこと、すなわちそれは相手を支配すること。
故に人々は無暗に自分の名を他人に明かさず、人の名前を気軽に呼ぼうとはしない。
名を呼ぶのは目上の人間か親くらいだ。
そして「殺さない」とは言ったものの、落頭民はやはり奇怪な存在である。
異物は除かれるのが世の習わし。この能天気な性格でよく生きてこられたものだと諸葛恪は呆れる他なかった。
「お節介のついでに山の歩き方を教えてやる。女は入るな。一人で入るな。赤子の声や助けを求める声が聞こえても無視しろ。お前はこの全てを破ったから死にかけた」
「あの」
「なんだ」
「僕、女じゃないです」
「…」
「あ、大丈夫です。よく間違われるんです、ごめんなさい」
なにを喋ったものか。二人とも帰り道が随分と長く感じた。
諸葛恪は遠くに見えるたいまつを目指して、無言で馬を歩かせる。
そして山を下りてからは楊甜と別れ、諸葛恪の一行は夜明けを待って関所を超えた。
目的の地は濡須口。諸葛恪らが暮らすこの「呉の国」の最前線軍事拠点である。
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