共鳴の終わり
その朝、共鳴堂の扉を開けても、ベルは鳴らなかった。
音がしないことに違和感を覚えながらも、私は足を踏み入れた。
店内はいつもと同じ——のはずだった。
けれど、どこか「空っぽ」だった。
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カウンターの奥に、柊の姿はない。
棚には、いつもの骨董品や古道具が並んでいる。
だが、一部の棚は、まるで何かを慌てて片付けたように隙間が目立っていた。
「……柊さん?」
返事はない。
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奥の扉を開けると、店の裏口は施錠され、生活の痕跡も整然としていた。
ただ、一枚の封筒がカウンターの上に置かれている。
私の名前が書かれていた。
震える指で封を切ると、中から一枚のメモが落ちた。
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> 君にだけは、伝えておく。
店を離れる。探さないでほしい。
「共鳴」が終わりを迎えようとしている。
その意味は、いずれわかる。
——柊
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心臓が一瞬止まったような感覚のあと、全身に冷たいものが走った。
共鳴が終わる——その言葉が意味することは、私にはまだわからなかった。
ただ、あの店も、あの時間も、永久に失われてしまう予感だけが、はっきりと胸に残った。
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その夜から、私は奇妙な夢を見始めた。
夢の中で、私は暗い廊下を歩いている。
両側には、これまで共鳴してきた物たちが並び、それぞれが微かな声で私を呼んでいた。
夢の中で、私は懐中時計の音を聞いていた。
チク、タク、チク、タク——
暗闇の中、その音だけが道を指し示す。
足元に、見覚えのある銀色が光った。
拾い上げると、それは最初に共鳴した懐中時計だった。
そして、その向こうに、白いコートの女性——早瀬真白が立っていた。
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「……あなた」
声は驚きと安堵が混じっている。
「柊さんを見つけて。あの人は……自分を閉じ込めようとしてる」
「閉じ込める?」
「店も、物も、記憶も。全部消そうとしている。そうすれば、誰も共鳴に縛られないって思ってる」
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気づけば、真白の姿は霧のように消え、代わりに古びた指輪が目の前に転がっていた。
指輪を拾い上げると、視界が一瞬揺れ、戦後の混乱期の街並みが広がる。
あの恋人たち——かつて指輪を介して繋いだ二人が、こちらを見て頷いていた。
「私たちは、忘れられても構わない。ただ……あの人を、独りにしないで」
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目が覚めると、まだ夜明け前だった。
夢に出てきた全員が、まるで同じことを訴えていた気がする。
柊は、物たちを「忘れさせる」ために姿を消したのだろうか。
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翌日、私は手がかりを求めて街を歩いた。
まず向かったのは、黒いカメラの元の持ち主の弟子・榊原のアトリエだった。
壁一面に並んだ写真の中に、柊の後ろ姿が写っていた。
「この人、最近うちに来たよ。何か大事な物を置いていった」
榊原が差し出したのは、一枚の古びた絵葉書だった。
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その絵葉書は、かつて店から消え、また戻ってきたものと同じだった。
ただ、裏面には見覚えのない一行が書き加えられていた。
「最後の共鳴は、ここで待つ」
絵葉書の表には、古いモノクロ写真で写された東京の風景があった。
石畳の道の先に、古い洋館が建っている。
昭和初期の面影を色濃く残すその景色は、どこか懐かしいのに、場所の見当がつかなかった。
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榊原の話では、柊はこの絵葉書を持ってきた翌日、何も告げずに姿を消したらしい。
「最後の共鳴」という言葉が、どうにも引っかかる。
まるで、それがすべての終わりであり、同時に始まりでもあるような——そんな予感がした。
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私は半日をかけて、東京中を歩き回った。
下町の古い商店街、神田の路地裏、根津や谷中の石畳。
どこも似てはいるが、絵葉書と完全には一致しない。
そして夕暮れ前、神楽坂の坂道を上っていたとき、ふと立ち止まった。
横道に伸びる石畳、その奥に、蔦の絡まる古い洋館——
まさに絵葉書と同じ景色がそこにあった。
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胸の奥で、懐中時計の音が響き出す。
チク、タク、チク、タク——
その音は、足を前へと押し出す合図のようだった。
門はわずかに開いていた。
軋む音を立てて押し開けると、庭の向こう、玄関先に一人の影が立っているのが見えた。
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白いシャツに黒いコート。
逆光で顔は見えない。
だが、その背筋の伸びた姿勢と、静かな佇まいは、間違いなく——柊だった。
「……柊さん!」
呼びかけた声が空気を震わせた瞬間、景色が揺らぎ始めた。
石畳も洋館も、溶けるように色を失い、灰色の霧に包まれていく。
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気づけば、私は「どこでもない場所」に立っていた。
柊が、ゆっくりと振り返る。
その瞳には、深い悲しみと決意が混ざっていた。
「ここが……最後の共鳴の場所だ」
霧の中で、柊は懐中時計を手のひらにのせた。
その銀色の蓋には、無数の小さな傷が刻まれている。
「これが……最初の共鳴の器だ」
低く落ち着いた声が、霧の中に溶ける。
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次の瞬間、視界が一変した。
私は店の奥、かつての「共鳴堂」の中に立っていた。
ただし、それは私が知る今の店ではなかった。
棚は新品のように光り、窓から差し込む光は柔らかく、何より——柊が若かった。
彼は、見知らぬ女性と話していた。
その女性は懐中時計を手にし、涙をこらえながら何かを訴えている。
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「記憶を……消すことはできないの?」
「できません。けれど、誰かがそれを受け継ぐことはできます」
「そんなの、残酷すぎるわ……」
柊は静かに頷き、その時計を棚に置いた。
その瞬間、時計から淡い光が溢れ、私の胸に刺さるような感覚が走る。
これが——共鳴の始まりだったのだ。
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場面は変わる。
次に見えたのは、柊が一人で薄暗い店に立っている姿。
棚にあった物たちは半分以上なくなり、埃が舞っている。
「これ以上、誰も巻き込まない……」
そう呟く声は、私の知る柊よりもずっと弱く、疲れ切っていた。
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霧が再び濃くなり、柊の現在の姿が目の前に戻る。
「私は、この場所も、物も、全部終わらせるつもりだった」
「でも、なぜ? あなたは、物と人を繋いできたでしょう?」
「繋ぐことは、同時に……別れを繰り返すことだ。私は、それに耐えられなくなった」
その声は、決意と諦めの間で揺れていた。
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私は一歩踏み出した。
「でも、別れを知っているからこそ、出会いが意味を持つんじゃないですか」
柊の瞳がわずかに揺れる。
懐中時計が、再び音を刻み始めた。
チク、タク、チク、タク——
その音が、柊の心を引き戻すかのように、霧を少しずつ薄くしていく。
霧が完全に晴れると、私と柊はあの洋館の前に立っていた。
夕陽が傾き、赤い光が石畳を染めている。
懐中時計の音は、もう優しい呼吸のように響いていた。
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柊はゆっくりと時計を私に差し出した。
「これは君が持っていてくれ。もう……私は共鳴を続けられない」
「でも、この店は?」
「店は……君が覚えている限り、どこかに存在する」
そう言って柊は微笑んだ。
その笑みは、最初に会ったときよりも、ずっと穏やかで、人間らしかった。
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次の瞬間、景色がふっと揺らいだ。
洋館も、石畳も、柊の姿も、すべてが風に攫われるように消えていく。
私の手の中には、冷たい銀の重みだけが残った。