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黒いカメラ

 その日、東京の空は、朝から薄い鉛色の雲に覆われていた。

 冬の午後は短く、ビルの間を渡る風は金属の匂いを含んで頬を刺す。私は外苑西通りを南へと歩き、青山墓地の脇を抜けていった。通りの脇には古い石垣や黒い鉄柵が連なり、その向こうには葉を落とした銀杏並木が静かに並んでいる。


 なぜか、この道を通るときはいつも、共鳴堂のことを思い出す。

 もちろん、地図に載っているわけでもない。あの店は、ふとした瞬間にしか現れない。だが今日——どうしても、あの木製の扉を開けるべき気がしていた。



---


 見覚えのある横道に足を踏み入れると、そこは都心とは思えないほど静かだった。アスファルトの割れ目から伸びた雑草が、冬の光に色を失いながら揺れている。

 曲がり角の先に、ひときわ古びた建物があった。洋館を思わせる木造二階建てで、外壁は濃い緑色に塗られているが、ところどころ塗装が剥げて白木が覗いていた。


 ドアの上には金文字で「共鳴堂」と彫られた木の看板。

 ガラス越しに見える店内は、影と光の粒で満ちていた。



---


 扉を押すと、重い蝶番が軋んだ。

 店内は静かで、外の冷気が背後でふっと途切れる。古い木の匂いと、紙と金属の乾いた香りが混じって鼻腔をくすぐった。

 壁際の棚には、懐中時計や古地図、陶器、革張りの本がぎっしりと並んでいる。


 カウンターの奥、店主は無言で湯気の立つカップを置いた。白髪混じりの長い髪を後ろで束ね、黒いエプロンを着ている。

 「来ると思っていました」

 彼の声は、冬の空気よりも深く静かだった。



---


 「今日は……何があるんですか」

 私の問いに、店主は木箱を差し出した。中には黒い金属製のカメラが収まっていた。

 「これは戦後から昭和三十年代にかけて活動した写真家、葛城清志のカメラです」

 手のひらにずしりと響く重み。表面は擦り傷だらけで、塗装の角からは銀色の地金が覗いている。


 「依頼は、彼の弟子筋から。『なぜ師匠が、ある一枚を撮ったのか知りたい』——そのために、このカメラの記憶を辿ってほしいのです」


 私は深く息を吸った。共鳴堂での儀式は、何度やっても少し緊張する。

 カメラに両手を添えた瞬間、金属の冷たさが皮膚に貼りつき、次の呼吸の合間に、視界がぐらりと揺れた。



---


 気がつくと、私は路面電車の音の中に立っていた。

 目の前に広がるのは、昭和三十年代の東京。背の低いビルが並び、道路の端では行商の声が響き、川沿いには煉瓦造りの倉庫が影を落としている。

 遠くに煙突が立ち、灰色の空からは微細な煤のようなものが舞っていた。


 私の視界のすぐ下には、黒いカメラを抱える男がいる。

 葛城清志——痩せた頬、深い皺、鋭い眼光。

 彼は歩みを止め、無言でファインダーを覗き込み、シャッターを切った。その指の動きには、妙な切迫感があった。



---


 葛城は、川沿いの道を歩いていた。足元の泥を気にする様子もなく、被写体を探すように周囲を見渡している。

 やがて、彼の視線が一点に止まった。そこには——十二、三歳ほどの少女が立っていた。


 セーラー服の裾が風に揺れ、両手には紙袋。足元には古い木箱が置かれている。

 葛城は迷いなくファインダーを覗いた。だが、その直前、一瞬だけ彼の眉がわずかに震えた。

 シャッター音が冬の空気に溶けた瞬間——少女が振り向いた。


 その瞳は怯えでも警戒でもなく、ただまっすぐだった。

 次の瞬間、景色は霞み、音も色も吸い込まれるように消えていった。



---


 私は息を吐き、共鳴堂の店内に戻っていた。

 手のひらにはまだ金属の冷たさが残っている。


 「……見ましたね」

 店主の声は、まるで私の内心を知っているかのようだった。

 「ええ。でも——あの少女は、いったい……?」


 店主は少しだけ視線を伏せ、言葉を選ぶように続けた。

 「それを確かめるために、あなたは彼の弟子に会う必要があります」



 翌日、私は店主から渡されたメモを手に、新宿御苑前の裏通りを歩いていた。

 地図アプリにすら出てこない、小さな写真スタジオの名前がそこには記されている。

 ビルの谷間に差し込む冬の陽は薄く、アスファルトの隙間に溜まった雨水がわずかに光を返している。


 目的の建物は、古い四階建ての雑居ビルの二階にあった。エレベーターはなく、薄暗い階段を上がると、木のドアに「葛城写真事務所」と掠れた文字が貼られている。



---


 ノックすると、中から低い声が返った。

 出てきたのは五十代半ばほどの男性で、グレーのセーターの上に古びた作業用エプロンを掛けている。

 「……店主から聞いています。どうぞ」

 彼は私を小さな応接スペースに通した。壁一面には白黒写真が並び、その多くに「葛城清志」のサインが残っている。


 男性は浅く頭を下げた。

 「私は宮坂といいます。葛城先生には、十代の頃からずっとお世話になっていました」

 その口調には、恩師への敬意と、わずかな痛みが滲んでいた。



---


 「あなたが知りたいのは……この写真ですね」

 宮坂は机の引き出しから、一枚のモノクロ写真を取り出した。

 そこには、昨日共鳴で見た少女が写っていた。川沿いの土手に立ち、紙袋を抱きしめ、風に髪を乱されながら、真っ直ぐこちらを見つめている。


 「この写真は、先生の遺作展に出されたものです。けれど、他の作品とは違って、ネガも撮影日も不明でした」

 宮坂は、写真の縁を指でなぞりながら続ける。

 「先生は、生前この一枚についてほとんど語らなかった。ただ、現像所から戻ったときに——『これは撮るはずじゃなかった』と、そう呟いたのを覚えています」



---


 私は鞄から黒いカメラを取り出した。

 「このカメラで、その瞬間が記録されていました」

 宮坂は驚きと懐かしさの入り混じった目でそれを見つめた。

 「……まさか、まだ残っていたとは」


 私は彼に、昨日見た共鳴の断片を話した。

 少女が振り向く瞬間の視線、葛城の眉の揺れ、あの冬の川沿いの空気。

 宮坂は黙って聞いていたが、やがて「続きがあるかもしれません」と言った。

 「先生の最後の撮影地は、神田川沿いの倉庫街だったと聞きます。もしそこへ行けば——何かが見えるかもしれません」



---


 その日の夕方、私はカメラを抱えて神田川の下流へ向かった。

 総武線の鉄橋をくぐると、川沿いには古い煉瓦造りの倉庫が並び、冬の薄明かりが壁の凹凸に影を落としていた。

 川面には灰色の空が映り、時おり風にさざ波が走る。


 私はゆっくりとカメラを持ち上げ、シャッターに触れた。

 金属の感触が指先から腕へ、そして全身へと広がっていく。

 次の瞬間、世界の色が褪せ、風の音が遠ざかった。



---


 気づくと、私は再び昭和の東京に立っていた。

 葛城は私の目の前でカメラを構え、視線の先にはあの少女がいた——だが今度は違う。

 彼女は紙袋を落とし、その中身——包みにくるまれた何か——を必死に拾おうとしている。


 その時、川の向こう岸から男の声が飛んだ。

 「早く来い!」

 少女は一瞬だけ葛城を見た。まるで助けを求めるように。

 だが葛城はシャッターを切った後、動かなかった。


 川面の光が揺れ、少女の姿が遠ざかる。

 そして、景色はまた音もなく崩れ落ちた——。



 視界がゆっくりと元の色を取り戻し、私は神田川の倉庫街に立ち尽くしていた。

 手の中のカメラは静かに冷え、レンズにはうっすらと水滴が付いている。

 あれは……助けを求める目だった。

 けれど葛城は、動かなかった。



---


 事務所に戻ると、宮坂が温かい紅茶を差し出してくれた。

 私が見た光景を告げると、彼は長く息を吐いた。

 「……やはり、先生は迷っていたんですね」

 「迷っていた?」

 「写真家として、瞬間を切り取るか。人間として、手を差し伸べるか」


 宮坂は窓の外を見ながら続けた。

 「先生は昔から、人の弱さや揺らぎを写すのが得意でした。けれど、その分だけ——境界を越えてしまうことを恐れていた」

 「境界?」

 「カメラは記録する道具です。でも、被写体の人生に踏み込みすぎれば、それは記録ではなく介入になる。先生は、その一線をずっと気にしていたんです」



---


 私はポケットから昨日の写真を取り出し、机の上に置いた。

 そこに写る少女は、葛城を真っ直ぐ見つめている。

 「でも、この一瞬を残したのは——助けなかった後悔なんじゃないですか?」

 宮坂は少し目を伏せた。

 「……そうかもしれません。あの写真だけは、先生の部屋の引き出しにしまわれていました。遺作展に出したのは、私です」


 部屋の隅で、時計の秒針が乾いた音を刻む。

 その音に重なるように、私は心の奥で葛城の呟きを聞いた気がした。

 ——撮るはずじゃなかった。

 けれど撮ってしまった。



---


 夜、アパートに戻った私は、どうしても眠れずにカメラを机に置いたまま座っていた。

 シャッターを押せば、またあの場面に行けるのだろうか。

 けれど、次はもっと深く、葛城の感情まで入り込んでしまう気がした。

 そして、入り込んだらもう——ただの傍観者ではいられなくなる。


 その時、不意に部屋の電気がふっと暗くなった。

 窓の外で電車が通り過ぎ、振動がカメラをわずかに揺らす。

 私は手を伸ばし、レンズに触れた。

 金属の冷たさの奥に、確かに脈動のようなものを感じた。



---


 気づくと、私は再び川沿いに立っていた。

 葛城は同じ場所に立ち、カメラを構えている。

 しかし今回は——少女の背後に立つ男の顔が見えた。

 痩せた頬、薄い唇、軍服の名残を思わせる古びたコート。

 彼の目には焦りと恐れが混じり、川の水面に何度も視線を落としている。


 「行くぞ!」

 男の叫びに、少女は紙袋を抱えて立ち上がった。

 その瞬間、葛城の左足が半歩前に出る。

 私は息を呑んだ——助けるのか? それとも……。


 けれど、シャッターの音が川辺に響いた。

 少女の表情が凍りつく。

 その背後で、男が低く何かを呟いた。

 私は耳を澄ませた——「見られたな」。



---


 そこで景色が揺れ、色が滲んだ。

 戻ってきた部屋の空気は冷たく、カメラは再び沈黙していた。

 あの男は……少女の親族なのか、それとも……。

 「見られた」という言葉が、心の奥で重く響き続けていた。



 翌朝、私は宮坂に昨夜の共鳴で見た光景を話した。

 彼は一瞬だけ表情を固くしたが、すぐに紅茶を口に運んだ。

 「……その男、もしかすると戦後すぐの闇市で名の知れた連中のひとりかもしれません」

 「闇市?」

 「ええ。葛城先生は若い頃、街を撮り歩いていて、そういう連中と何度も接触していたんです。写真を撮られたくない人間ほど、よくカメラの前に現れるものですから」


 宮坂は机の引き出しから古い新聞の切り抜きを取り出した。

 そこには「神田川沿いで少女行方不明」という見出しが並んでいた。

 日付は昭和二十二年。記事の右下に、ぼやけた男性の顔写真がある。

 私は息を呑んだ——昨夜見た男だ。



---


 「この人は、佐伯という元軍人です。戦後は闇市で違法な取引をしていたと噂されていました」

 「じゃあ、あの少女は……」

 「もしかすると、何かを運ばされていたのかもしれません」


 胸の奥に重い塊が広がる。

 あの紙袋の中には何が入っていたのだろう。

 葛城は、なぜ彼女を止めなかったのか。



---


 私は黒いカメラを鞄に入れ、再びシャッターを押す準備を整えた。

 目を閉じると、光がすっと引いていき、川沿いの冷たい風が頬を撫でる。

 今度の葛城は、川の向こう岸からこちらを見ていた。

 カメラを構えたまま、動かない。


 その視線の先で、少女と佐伯がゆっくりと川沿いを歩いてくる。

 少女は不安げに周囲を見回し、紙袋を抱きしめている。

 佐伯の口元は固く結ばれ、時折背後を振り返る。



---


 突然、後方から男たちが現れた。

 彼らは佐伯の腕を掴み、乱暴に引き離そうとする。

 少女は叫び声を上げ、紙袋が地面に落ちる。

 袋の口が開き、中からこぼれたのは——小さな缶詰と、しわくちゃの手紙。


 男たちは佐伯を連れ去り、残された少女はその場に膝をついた。

 葛城はシャッターを切らない。

 ただ両手をポケットに入れ、ゆっくりと川沿いを歩み寄っていく。



---


 私は息を殺して見守った。

 葛城は少女の前にしゃがみ込み、落ちた缶詰を一つ拾い上げた。

 「君の家は、どこだ」

 少女は小さく震えながら、「中野……」と答えた。


 葛城は紙袋を抱え直し、少女の背中を軽く押した。

 「歩こう。暗くなる前に」

 その声は、これまで共鳴で聞いたどの声よりも柔らかかった。



---


 色が溶けるように視界が薄れ、私は部屋に戻ってきた。

 机の上には、黒いカメラと一枚の写真があった。

 それは——少女が川沿いを歩く姿。

 しかし、私が見た最後の場面とは少し違っていた。

 彼女は笑っていた。



 宮坂は、机の上の写真をしばらく見つめたあと、低く息を吐いた。

 「……これが、葛城先生が遺作展に出した最後の写真です」

 「でも、私が見たのと少し違う。彼女、笑ってます」

 「ええ。その笑顔は……実際には存在しない」


 私は言葉を失った。

 「存在しない……?」

 「先生は暗室で何度もこの写真を焼き直し、少しずつ少女の表情を変えていったんです。本当は泣き顔だった。だけど、先生はそうは残さなかった」



---


 宮坂の声は、淡々としていたが、その奥に深い哀しみがあった。

 「この一枚は、撮るつもりじゃなかったそうです。あの時、先生はシャッターを押さなかったと私には話していました」

 「じゃあ、どうして……」

 「きっと、記憶を留めたかったんでしょう。事実じゃなく、願いとしての記憶を」



---


 私は写真に近づき、少女の笑顔を見つめた。

 その目は、少しだけ光を反射していて、川沿いの冬の光景がうっすらと映っているように見えた。

 ——現実にはなかったはずの微笑み。

 それでも、そこには確かに温もりがあった。



---


 「この少女は、その後どうなったんですか?」

 宮坂はしばらく黙っていた。

 「……消息は分かりません。ただ、先生が亡くなる少し前、『あの子はもう大丈夫だ』とだけ言っていました」

 その言葉の真意は、もう誰にも分からない。



---


 共鳴が終わった後も、黒いカメラは私の机の上に残ったままだった。

 ファインダーを覗くと、もう何も映らない。

 ただ、自分の顔と、窓の外の東京の空が広がっているだけ。

 それでも、不思議とあの川沿いの風の感触が、まだ指先に残っていた。



---


 数日後、宮坂から封筒が届いた。

 中には、小さな銀塩プリントが一枚。

 それは、あの少女が振り返る瞬間を切り取ったものだった。

 笑顔でも泣き顔でもない——ただ、真っすぐにこちらを見る表情。


 私はその写真を、カメラと一緒に引き出しの奥にしまった。

 その瞬間、カメラの金属部分がほんのわずかに温かくなった気がした。



---


 冬の東京は、灰色の雲に覆われていた。

 私はコートの襟を立て、駅へ向かう道を歩いた。

 人混みの中で、ふと、あの少女の後ろ姿を見たような気がして振り返る。

 ——そこには、誰もいなかった。


 ただ、耳の奥で、カメラのシャッター音が静かに響いた。



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