欠けた指輪
共鳴堂の扉を開けた瞬間、外の冷え切った空気が背中に押し返されるようにして閉じ込められた。
午後の光は低く差し込み、店内の棚に並ぶ古物たちの輪郭を金色に縁取っている。
「来ると思っていましたよ」
カウンターの奥から、店主が声をかけた。
その声は、あの日と同じく落ち着いていて、こちらの感情の揺れを先読みしているかのようだった。
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カウンターの上には、小さな木箱が置かれていた。
中にあったのは、銀色の指輪。
輪は完全ではなく、ほんの少し欠けたように口が開いている。細工は精緻で、蔦のような模様がぐるりと刻まれているが、その溝には時間が入り込み、かすかに黒ずんでいた。
「欠けた指輪……?」
私は思わず声に出した。
「戦後すぐの頃のものです。持ち主はもう九十近い方ですが、これは——ある理由でこの店に置いていくことになった」
店主は箱を回し、私の方へ押し出した。
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指輪を手に取ると、金属の冷たさが皮膚を刺すようだった。
重さはほとんど感じられない。けれど、なぜか胸の奥がずしりと沈む。
親指で蔦の模様をなぞると、その瞬間、耳の奥でかすかなざわめきが生まれた。
——汽笛のような音、遠くで響く人の声。
かすれたアコーディオンの旋律。
そして、焦げた木材の匂い。
「これは……」
私が呟くと、店主はうなずいた。
「強い記憶が宿っています。見てみますか」
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秒針ではない。今回は、指輪の内側に刻まれた模様の一部が光を帯び、視界の端が淡く揺れた。
その揺れはすぐに大きくなり、世界の輪郭を飲み込んでいく。
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目を開けると、私は瓦礫の積み重なった通りに立っていた。
建物の壁は半分崩れ、電柱は傾き、空気は灰色の粉塵で満ちている。
足元の土はまだ熱を残し、焦げた匂いが鼻を突いた。
そんな中、二人の若者が立っていた。
一人は背の高い青年、軍服の上着だけを羽織り、袖は破れて糸がほつれている。
もう一人は、小柄な女性。肩までの髪は埃で白くなり、薄いコートの袖口が擦り切れていた。
彼らは何かを必死に探していた。
地面に膝をつき、瓦礫をどかし、時々互いの顔を見合わせては小さくうなずく。
その眼差しの奥に、焦燥と希望とが同居していた。
女性の指には——欠けた指輪が光っていた。
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次の瞬間、視界が再び揺れ、私は店内へ引き戻された。
指先にはまだ金属の感触が残っている。
「……二人、でした」
私の言葉に、店主は静かに笑った。
「ええ。あの指輪は、恋人たちの約束の証だった」
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店主は淡々と説明を続けた。
指輪を持ち込んだのは、その女性——今は老いた彼女の甥だという人物だった。
「彼女は今、記憶があいまいになってきているそうです。ただ、この指輪のことだけは、最後まで忘れないらしい」
私は指輪を見つめた。
小さな輪の中に、あの崩れた街と二人の姿が今も閉じ込められているように思えた。
そして、不思議な確信があった。
——私はもう一度、あの瓦礫の街に行くことになる。
——白い光の中で、私は再び目を開けた。
そこは、戦後間もない東京だった。
冬の空は灰色で、陽射しはあるのに寒気が骨に染みる。
周囲の建物は半壊し、壁の一部が黒く焼け焦げている。崩れた屋根の下から、割れた茶碗や歪んだ鍋が覗いていた。
土の匂いに混じって、焦げた木材と煤の匂いが強く漂っている。
細い路地に、あの二人がいた。
青年は二十代前半、日焼けした肌と鋭い目。軍服の上着の袖口はほつれ、足元は破れた編み上げ靴。
女性は小柄で、肩までの黒髪が埃をかぶって灰色に見える。頬はこけていたが、瞳だけは濁っていなかった。
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「……あった!」
女性が小さな箱を瓦礫の中から見つけ出した。
蓋を開けると、中には金色の細い指輪が二つ並んでいた——ただし、そのうちの一つは口が少し欠けていた。
青年は笑い、欠けた指輪を女性の指にはめた。
「悪いな、ちゃんとしたのを買ってやれなくて」
女性は首を振り、指輪をなぞった。
「これでいいの。……これがいいの」
その声は、焼け跡の冷たい空気の中で驚くほど柔らかく響いた。
彼女は欠けた部分を親指で押さえるようにして、そっと微笑んだ。
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そこへ、遠くから汽笛の音が響く。
青年が振り返ると、路地の向こうに貨物列車の影が見えた。
「……行かないと」
「また行くの?」
「物資の運び出しが終わったら、きっと戻る」
そう言っても、彼の声の奥には揺れるものがあった。
女性は一瞬ためらい、それから彼の手を握った。
「じゃあ、戻ってきたら——この指輪、二つ揃えようね」
青年はうなずき、彼女を一度だけ強く抱きしめた。
次の瞬間、彼は瓦礫の道を駆けていき、その背中は煙と粉塵の向こうに消えた。
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視界がふっと暗くなり、私は現代の共鳴堂に戻っていた。
手の中の指輪は、あの時と同じ欠け目を光らせている。
店主が静かに口を開いた。
「……青年は、そのまま帰らなかったそうです」
胸の奥がひやりとした。
「女性は、その後?」
「家族を持ち、長く生きました。それでも、晩年までこの指輪だけは手放さなかった」
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その日の夕方、私は店主の紹介で、女性の甥に会った。
彼は七十代半ば、やや背を丸めた穏やかな老人だった。
指輪を差し出すと、彼は目を細めた。
「……伯母さんがね、いつもこれを『約束の輪』って呼んでたんです」
私はあの灰色の東京の路地を思い出した。
焦げた匂い、指輪の欠け目に触れた時の女性の微笑み。
それらが甦るたび、指輪の小さな輪が、時代を越えて人と人を繋いでいることを感じた。
別れ際、老人は私に深く頭を下げた。
「ありがとう。これで、伯母さんも……あの人と、また会える」
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夜道を歩きながら、私はポケットの中で自分の鼓動と指輪の冷たさを感じていた。
欠けた輪は閉じないまま、それでも形を保ち続けている。
——まるで、途切れたままでも続く縁のように。