懐中時計の記憶
それから三日間、私は妙な心持ちで過ごしていた。
頭の片隅から、あの雪の景色と白いコートの女性が離れない。
夢の中にまで、あの石橋が現れ、彼女は必ず時計を見つめている。秒針の音はなぜか私の胸の奥に響き、そのたびに目が覚めるのだ。
仕事を休んで以来、こんなに強く何かを考え続けたことはなかった。
そのせいか、三日目の午後には、私は無意識のうちにあの路地を目指して歩いていた。
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「また来てくれたんですね」
共鳴堂の扉を開けると、店主が穏やかな笑みを浮かべた。
今日は薄いグレーのシャツに、茶色のベストを着ている。外の冷えた空気から一歩足を踏み入れると、店内の温もりが肌にまとわりつくようだった。
「……あの時のこと、もう一度確かめたくて」
私が言うと、店主は軽くうなずいた。
「共鳴は、物に宿った“記憶”を感じ取る現象です。この店にある品は、すべてそれを起こす可能性を持っています」
「記憶……? それって持ち主の……?」
「そう。持ち主がその物に触れ、日々を共に過ごした時間。その中で刻まれた感情や景色が、何らかの形で染み込むんです」
私はカウンターに置かれた懐中時計を見つめた。
「じゃあ、あの女性は……?」
「彼女の名前は早瀬真白。この時計の前の持ち主です」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が微かに疼いた。
私は、知っているはずのない響きを懐かしいと感じた。
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「会ってみますか」
店主がそう言った時、私は即答できなかった。
見知らぬ他人の記憶を垣間見た私が、その本人に会いに行く——それは奇妙で、どこか罪悪感めいたものを伴っていた。
それでも結局、私はうなずいていた。
店主は時計を丁寧に包み、小さな紙袋に入れて渡してくれた。
「これを持って行くといい。きっと話せることが増えるはずです」
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早瀬真白と会ったのは、その日の夕方だった。
店主が教えてくれた喫茶店は、駅から少し離れた路地裏にあった。外観は古びたレンガ造りで、店内は暖色のランプが柔らかく灯っている。
彼女は窓際の席に座っていた。
白いコートこそ着ていなかったが、長い黒髪と淡い肌色は、あの雪の中に立っていた女性と同じだった。
「……あなたが?」
私が名乗ると、真白はわずかに目を見開いた。
「時計を……持っていると聞きました」
紙袋から懐中時計を取り出し、テーブルの上に置く。
彼女の指がそれに触れた瞬間、空気が少し変わったような気がした。
「これは……父のものです」
真白はそう呟き、しばらく黙って時計を見つめていた。
その視線の奥に、まだ言葉にならない何かが沈んでいるのが分かった。
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「どうして手放したんですか」
私は気付けばそう聞いていた。
真白は苦笑のような、哀しみのような表情を浮かべた。
「長く持っていると、ずっとあの日のままで止まってしまいそうで……」
その言葉と同時に、私の胸の奥で、またあの日の雪の景色が蘇る。
真白の声と、記憶の中の彼女の姿が重なり、世界が二重になったように感じた。
その時だった。
懐中時計から、かすかな秒針の音が耳に届いた——
秒針の音は、はじめは遠くから忍び寄る雨音のようだった。
だがそれは確実に近づき、私の耳の奥を静かに叩き続ける。ひとつひとつの音が、皮膚ではなく心臓の内側に直接落ちてくるようだった。
——気づくと、喫茶店の柔らかな灯りは消えていた。
視界の隅まで白に満たされ、世界が音もなく凍りつく。
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雪が降っていた。
細かく、乾いた粉雪だ。降りしきるそれは空気を軽く震わせ、吐く息はすぐさま白く膨らんで消えた。
私は駅前広場に立っていた。古い木造の待合室があり、その横に石造りの橋が架かっている。
足元の石畳は濡れて滑りやすく、靴底の冷たさがじわりと伝わってくる。
真白が、私のすぐ前にいた。
白いコートに、淡いグレーのマフラー。髪には雪の粒がいくつも溶け残っており、その黒さを際立たせている。
彼女の頬は赤く、唇はかすかに震えていた。
彼女の向かいには、一人の男性が立っていた。
五十代半ば、背は高くないが姿勢は真っ直ぐだ。
顔の輪郭は真白に似ているが、目元は少し柔らかい。手袋をしていない指先は赤くひび割れ、細かな傷跡がいくつも走っていた。それは長年の仕事が刻んだ痕のように見えた。
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「……もう行くんだな」
低く、くぐもった声だった。
真白はうつむき、コートのポケットの中で拳を握りしめている。
「仕事なんでしょ? 止めないよ」
そう言う声は震えていなかったが、彼女の肩はほんの少し揺れていた。
男は小さく笑い、しかしその目尻は滲んでいた。
「でも……お前の卒業式、見たかった」
その一言が、雪の降りしきる空気を一瞬止めた気がした。
真白の瞳が大きく揺れ、口が何かを言いかけて閉じる。
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駅の発車ベルが鳴った。
冷たい金属的な音が、雪を裂くように響く。
男はコートのポケットから銀色の懐中時計を取り出した。小さな光が雪明かりを反射し、ほんの一瞬だけ二人の間を温める。
「これは……?」
「昔、お前の母さんからもらった。俺にとって、一番大事なものだ」
男の声は不思議なくらい穏やかだった。
真白は両手でそれを受け取り、蓋をそっと開いた。中で秒針が静かに動いている。
「次に会うときまで、これを持っていてくれ」
約束とも、祈りともつかない響き。だが、その奥には確かな温もりがあった。
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列車のドアが閉まる音。
男は一歩、また一歩と後ずさりし、真白に手を振る。
雪が濃くなり、その姿は白い帳の中にすぐ溶けていく。
真白は追いかけることもせず、時計を胸に抱きしめた。
その肩が小さく震え、唇がわずかに開く。
「……行かないで」
かすれたその声は、雪に触れた瞬間、消えてしまった。
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世界が再び暗転した。
気づくと私は喫茶店の席に戻っており、目の前には真白がいた。
カップから立ちのぼる湯気が、現実へ戻る唯一の証のように感じられた。
「……それが、最後の日だった」
真白の声は静かだったが、その静けさの奥底で、まだ形にならない哀しみが息を潜めていた。
「父はその数日後、仕事先で事故に遭って……帰ってこなかった」
彼女の指先は懐中時計の上で止まり、ほんの少し震えていた。
「この時計を見るたびに、あの日の駅に戻ってしまう。だから、持ち続ければ前に進めない気がして……」
真白は時計の蓋を閉じた。カチリ、という小さな音がやけに大きく響いた。
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店を出ると、外はもう暮れかけていた。
ビルの谷間に沈む夕陽が、灰色の街をわずかに朱く染めている。
吐く息は白く、胸の奥の鼓動と秒針の音が重なって聞こえた。
ポケットの中で時計を握ると、その冷たさはもう雪の冷たさではなく、何かを伝えようとする脈動のように感じられた。