プロローグ
その日、私は理由もなく街を歩いていた。
理由がないというのは少し嘘かもしれない。ただ家にいるのが嫌だったのだ。休職してから、外に出るのは近所のスーパーかコンビニだけになっていた。部屋の空気は濁り、机の上には読みかけの原稿や未開封の手紙が積み重なっている。それらを見ないようにするためには、歩き続けるしかなかった。
冬の夕暮れは、街全体を灰色に染める。吐く息は白く、アスファルトの隙間に落ちた雨粒が、街灯に照らされて微かに光っている。
駅前の雑踏から遠ざかると、急に音が薄くなる。古い商店街のアーケードを抜け、さらに奥の細い路地に入ると、舗道の石畳が雨に濡れて鈍く光っていた。
その路地の奥で、ふと立ち止まった。
そこには、今まで一度も見たことのない店があった。
「共鳴堂」と、煤けた金文字で書かれた木の看板。
入り口は低く、半分だけ開いた扉の隙間から、薄暗い光が漏れている。ショーウィンドウには、古い懐中時計や万年筆、写真立て、小さなブローチが無造作に並べられていた。どれも時代を感じさせるが、埃ひとつない。
私は、足を止めたまましばらく見つめていた。
なぜか、この店に入らなければならない気がした。
扉を押すと、からん、と乾いた鈴の音が鳴った。
中は外観より広く、棚やガラスケースが迷路のように配置されている。木の床は深く磨き込まれ、空気には古い紙と金属の匂いが混じっていた。
カウンターの奥から、低く落ち着いた声がした。
「いらっしゃい」
そこに立っていたのは、年齢不詳の男だった。長い黒髪を後ろで束ね、薄い色のシャツの上に古びたベストを着ている。瞳は琥珀色で、まるで光を溜め込んでいるようだった。
「初めての方ですね」
私はうなずいた。どう答えればいいのか分からない。
視線を棚に移すと、小さな銀色の懐中時計が目に入った。
丸いケースの表面には、蔦のような模様が彫り込まれている。チェーンは細く、触れれば折れそうなくらい華奢だ。
私は思わずガラス越しに顔を近づけた。
「それが気になりますか」
男が静かに近づいてきて、鍵でケースを開けた。
懐中時計を手渡された瞬間、掌にひやりとした重みが伝わる。
次の瞬間——
私は、見知らぬ場所に立っていた。
白い雪が降っている。
石造りの橋の上で、一人の女性が立っていた。
白いコートに身を包み、胸のあたりで何かをぎゅっと握りしめている。その横顔は、驚くほど静かで、けれど泣き出しそうなほど脆かった。
——誰?
声を出そうとしたが、私の声は雪に吸い込まれて消えた。
彼女はゆっくりと時計の蓋を開け、秒針の動きをじっと見つめた。
そして、小さく息をつく。
その瞬間、私の胸の奥で何かが震えた。
視界がふっと暗くなり、私は再び店の中に戻っていた。
懐中時計はまだ私の手の中にあった。
「……今のは、何ですか?」
私の問いに、店主は淡く笑った。
「それは、この店で時折起こること。——共鳴です」
私はその言葉を、うまく飲み込めないまま立ち尽くしていた。