コンタクト
本郷タカシは科研の正門が見渡せる一本の太い木の枝の上に隠れていた。緑の葉が生い茂り虫人間になったタカシを隠していた。ウエアは背中のリュックに畳んでいれてある。緑川博士が出てくるのを待っていた。出てきたら後をつけてどこか人目のつかない所で話をするつもりだった。
「そういえば声が出ないんだった。」
「筆談すればいいか。」
「筆記用具は借りよう。」
などと思っていた。夕方勤務終了と思わしき時間帯から待っているのだがそれらしき人物は出て来ない。
「他に出口があるのか、それともさっきの直行バスに乗っていたのかな?」
建物は24時間照明を切らさないので帰ったのか残業しているのかも分からなかった。
もっと作戦を練ろうと帰ろうとしていた時に国産の中古セダンがゆっくり敷地外外周路を進んで来るのが見えた。挙動不審なドライバーは建物の様子を伺っていた。
ドライバーは白マスクをしていたが髪型や目つきに見覚えがあった。息苦しいのかマスクをずらした瞬間口元が見えた。
「たぶん助手の人だ。」
「いつも緑川博士の側にいた愛人みたいな人。最近見かけなかったけど。」
セダンはゆっくり目の前を過ぎて行った。タカシはセダンを追うことにした。
自宅近くまで戻ってきた穂高夏子は車にガソリンを入れようとセルフスタンドに入った。ドアを開け給油機の操作画面に向かおうとした時にスタンドにバイクが入って来た。
バイクは夏子の車のすぐ後ろに止まりライダーはバイクから降りると夏子に向かって歩いて来た。強盗かと警戒したがライダーはジャケットのポケットから缶コーヒーと缶ジュースを取り出して夏子に差し出した。「ナンパなの?」少し油断した。
ライダーは人差し指を立て口元に当て静かにしろとでも言うようなゼスチャーをしたので再び警戒した。
ライダーはヘルメットのシールドを上げて見せた。
ヘルメットを被っているのは人間では無かった。夏子は悲鳴を上げそうになったがライダーは静かに落ち着けとゼスチャーを繰り返す。更に喉を指差して声が出ない、ペンをくれというようなゼスチャーをした。夏子は警戒しながらも助手席のバッグの中からボールペンと手帳を取り出し手渡した。スタンドに他に客は居なく事務所に人影は見えない。
ライダーは手帳の空きページに「科研の人ですか?自分は本郷タカシです。」と書き込み夏子に見せた。続けて「こんな姿になってしまい困っている。」と書いた。夏子は自分に向かって手を合わせてペコペコ頭を下げているライダーが強化STAP細胞再生医療実験被験者第一号の彼である事を察した。
夏子の部屋はマンションの10階だった。正面から入ると防犯カメラがあるため先に一人で部屋に入ってベランダで待っているとタカシがジャンプして入って来た。異常な跳躍力が付いたというのは本当だった。リュックを背負っていて中から飲み物を取り出して夏子に手渡した。「最近空き巣や自販機荒らしが増えているのはこいつね。」タカシのジャケットの小銭と千円札の束を見て夏子は思った。
夏子の方も聞きたい事があったのでタカシを部屋に招き入れたのだ。怪物のような見た目だが元々の姿を知っていたし心はまだ人間のようだと判断した。独身の女性の部屋に上がり込んだタカシは恐縮しているようだった。
タカシはキッチンの椅子に座って自分の質問事項を手帳に書いていった。
「なぜこんな姿になったか?もっと変身してしまうのか?」
「人間に戻れるか?」
「寿命はどのくらいあるか?」
「声が出ない。」
「この姿のままでは普通の生活が出来ない。」
など切りが無い。
夏子は研究所に戻った方がいいと言ったがタカシは拒絶した。しかしそのうちタカシの昆虫化について世間に知られる様になって追いかけ回される。海外の諜報機関に狙われるかもしれない。そう言って脅かしたがあながち間違っていないだろう。
今度は夏子がどうやって脱走したのか質問した。タカシは「ロボットのような物にさらわれて首の箱を引き抜かれた。」と手帳に書いた。夏子はタカシの首の後ろを見た。
箱が無くなっていてそこだけ他の部分より色が薄くなっていた。制御装置が無くなって細胞分裂のスピードが早くなってこの姿になったのだと推測した。爆破物については制御装置に組み込まれていたと推測したがタカシには話さないでおいた。ロボットの暴走は東博士のチームの研究になにかが起こったと考えた。
続けて、「ロボットには人間が乗っていて一緒に外に出たが自分を置いてどこかに行ってしまった。行き先は知らない。」と書いた。
タカシが筆談に疲れて来た頃に夏子のスマートフォンの着信音が鳴った。緑川博士からだった。
「なっちゃん元気?」
と切り出した緑川博士は解雇に至った事情を詫び近況を気遣うなどして夏子の機嫌を伺った。
「御要件は?」
夏子の硬い態度にたじろいだが予想していた反応だ。緑川は夏子に科研に戻って研究を手伝って欲しいと頼んだ。
夏子は一旦はぐらかして科研の最近のボヤ騒ぎについて話を振った。自分の事は黙っててくれというようなゼスチャーをするタカシを横目に自分が関わった強化STAP細胞の研究の近況について訪ねた。
「実はね。」
緑川博士は泣きそうな声で打ち明けた。
「被験者が逃げてしまったんだ。」
研究が振り出しに戻ったと同然で助けて欲しいと懇願した。
今はもう再就職して急に時間は空かないから明日勤務が終わったら科研に伺うと伝え通話を切った。強化STAP細胞は人類にとって有益な研究だと信じている夏子は緑川博士からの申し出は嬉しかった。今の職場への配慮も必要だから当然の返答だと緑川博士は納得していた。
「あなたはどうする?」と夏子は聞いた。タカシはもともと緑川博士に会おうとしていたから「研究所の外でなら会います。」と手帳に書いた。外だったらいざとなれば跳躍力で逃げられると考えていた。
タカシはそろそろお暇しますとゼスチャーしベランダに出た。明日の夕方科研の正門に来ることを約束し夏子のもとを去った。夏子は軽々と飛び降りて闇に紛れるタカシを見送りどこに寝泊まりしているか聞けば良かったと悔やんだ。
タカシはマンションから少し離れた所にバイクを置いていた。そこに戻ろうと民家の屋根や電柱伝いに移動していたがそのバイクの付近に赤色灯を点けたパトカーが止まっている。バイクにはナンバープレートが付いていなかったから目を付けられたのだ。しばらく物陰から様子をうかがっているとレッカーがやってきてバイクを持ち去って行ってしまった。タカシは短い付き合いだった愛車に別れを告げた。
タカシは今夜の寝床を求めて相模川のほとりまで来た。
もう夏だったが川の側は比較的涼しかった。
夜空の星や月灯りを透かして光る雲を眺めながら今後の事について思いを馳せた。