憶測
科研の警備担当の小出康夫は陸自出身だった。演習中の事故で負傷し科研の再生医療プロジェクトの治験に志願した。なにより実験に協力すれば治療費はただになる。康夫は身体の色々な部分が東博士のチームにより機械に置き換わっている。治験終了後もデータ提供とメンテナンスを兼ねて科研に留まり警備の職に就くことにした。
科研はヒロシとタカシの脱走で大変な事になっていた。マスコミの対応と警察の現場検証、被害総額の見積もりなどなど。 緑川博士と東博士は実験体の逃亡に落胆を隠せない。次のプレゼンに懸けていたのだ。
両博士の落胆をよそにして康夫は脱走時の監視カメラの映像を見てあることに気がついた。
「甲武さんは首の爆弾については知らないはずだ。」
首に付いていた箱は細胞分裂のスピードをコントロールする電気パルスを送る装置と万が一被験者が暴走した時のための電気ショック、制御不能になった時に頭部を破壊する爆弾が入っていた。中身について知っているのは警備チームと緑川博士と箱を製作した東博士だけのはずだった。東博士は甲武氏のバイオサポートマシンにもこれとは違ったタイプだがセーフティ機構が付いていたのに作動しなかった事を不思議に思った。
穂高夏子は職場に付けっぱなしにしているラジオのニュースに手を止めた。科研でボヤ騒ぎがあり実験用のサルが逃げたそうだ。付近住民の方はご注意下さいとの事。
「科研ね。」
夏子は科研で緑川博士の実験助手を努めていたが半年前に解雇になった。予算不足なのだそうだ。渋々辞令を受け取った彼女はしばらく失業保険で暮らしていたが現在の職場である洋菓子店に再就職した。実験助手としては優秀で複雑な工程の実験を材料や手順を間違える事無くこなすことができた。そんな彼女だから正確な計量と手順が要求されるお菓子作りはぴったりだった。古巣での事件のニュースで科研での最後の仕事の事を思い出していた。強化STAP細胞の培養 細心の温度管理とデリケートな扱いが必要で科研の職員の中では彼女しか成功できなかった。そんな自分を予算不足で放るなんてと怒りが込み上げて来たが感情を抑えないとと思った。感情がお菓子の味や出来に影響してしまうと考えていた。自分の培養した強化STAP細胞を投与されたあの患者はどうなっただろう。もう部外者となった彼女には知る由もなかった。
ショップの方に制服警官が訪ねて来た。最近空き巣が増えているので戸締まりを厳重にとの事だった。この辺も外国人労働者が増えて治安が悪くなったと思った。
科研のある相模原郊外とこの店はそう遠く離れていない。夏子は科研の通勤圏内にマンションを買ったので再就職先も通える圏内で探したのだ。ちょっと様子を見に行ってみようかなと野次馬根性と好奇心が彼女の心に湧き上がっていた。
強化STAP細胞とは成長が早く生命力の強い昆虫の細胞をモデルとしていた。人間由来のものだと適応と成長スピードが遅く治療に必要な要件を満たしていなかった。怪我が治る前にどちらかが死んでしまう。昆虫由来のSTAP細胞を人間由来のSTAP細胞に混ぜる事ができれば問題が解決できると考えた。しかし定説では昆虫と人間の細胞が合体するわけが無い。だが穂高夏子のゴッドハンドだけがそれが可能だった。彼女は流体の分子の動きを正確にイメージして撹拌する事ができるのだ。
勤務時間が終わると夏子は自分の自動車に乗ってドライブがてら科研の様子を見に行くことにした。数十分の距離だ。相模川を渡って川沿いの道を厚木方面に進み高台にある工場地帯に科研はあった。途中何台か赤色灯を回転させたパトカーとすれ違った。指名手配犯が潜伏しているかのような警戒体制だった。科研の敷地に沿った道を一周回って帰ることにした。建物の5階の壁に穴が空いていて青いビニールシートで応急処置してあるのが見えた。夏子が勤務していた緑川研究室のあるフロアーだった。あの建物の壁に穴が空くなんてボヤなんかじゃない。夏子はなにか重大な事故が発生したと確信した。