第6話:エイミーとローレンス
1週間後―――。
「ふっふふ〜ん」
町では、鼻歌を歌いながらおつかいをするエイミーの姿があった。中身はゆう子。ここの暮らしに慣れて、ひとりで出かけられるようになっている。軒がつらなる大きな通りを歩く。ちょうど、昼から夜の顔に変わりはじめ、店じまいをする店主や、これから飲みに行こうとする男たちが入り混じっていた。
「エイミー、今晩のおかずは決まっているかい? 新鮮な羊の肉が入ってるよ」
いつもの肉屋の女性がゆう子に声をかける。
「ありがとう。おつかいをすませてから、また寄ります」
(王宮のみんな、元気になってるといいんだけど・・・)
ゆう子は、ひまがあると兵のことを考えていた。
(にしても、わたし普通にここの生活を楽しんじゃってるわ。道にも迷わなくなったし、顔見知りの人も増えた)
ゆう子のにやけ顔に、大通りの人たちがすれ違いざまに振り返る。
(でも、こんなことしていて元の時代にちゃんと戻れるのかな)
ただ、思ってみた。
「えっと、診療所に必要なものはそろえたから・・・。あとは今晩の食材か」
(そういえば、いつも旦那にご飯のことを任せてたけど、ここに来てから毎日料理してる。自然に早寝早起きになってるし)
ゆう子は買いものの足を止めて、夕日でオレンジがかったむらさき色の空を見上げる。
(時間がゆっくり、おだやかに流れる・・・)
「うん、こんな暮らし、きらいじゃないかも」
自分が楽しんでいることをしみじみ感じて、勝手にまた顔がほころぶ。
そんな感覚にひたりながら、一歩ふみだした瞬間だった。
ずさぁぁぁぁ!
ゆう子は、いきおいよく頭から地面に転んだ。
「あいたたたた・・・!」
買ったものが入った袋も、1メートル先にふっ飛んだ。
(はっ・・・はずかしい〜! でも、痛った〜い!)
「大丈夫か?」
そういって、ゆう子の腕をつかんで、からだをグッと引っぱり立たせてくれた人がいた。ふっ飛んで散乱したものをひろい上げ、買いもの袋に戻してくれている。涙目で視界がうまく定まらない。土まみれになったワンピースをはたきながら、はずかしさにたえるしかなかった。
買いもの袋が戻ってきた。
「あんたは、どこでも目立つんだな」
聞き覚えのある声。ゆう子はハッとして顔を上げた。
美しいヘーゼルの瞳。繊細で引きしまったからだ。布を巻いだだけの、帽子のようなものを深くかぶっていたが、ゆう子には、それがだれなのかすぐにわかった。
「たっ、立花のり子・・・っ! じゃなくて、ローレンス・エドワード⁉︎」
ゆう子は、からだをのけぞって叫ぶ。
「なっ・・・! しぃぃぃぃ!」
猫の毛がブワッと逆立ったように慌てたローレンスに、口元を手でおさえられた。
「ううっ・・・」
(息ができないっ)
ゆう子は、もげそうになる首を、なんとか立て直そうとする。
「ローレンス・エドワード?」
「あのエドワード騎士様か?」
「まさか、こんなところに?」
大通りを行き交う人が足を止めてザワザワしはじめた。予想以上に人が集まってきた。ローレンスは、目を細め、瞳だけ左右に2往復させて、おもむろに、ゆう子の背中とひざに手をまわす。
「へ?」
そのままフワッと宙に浮いたと思ったら、ローレンスに抱きかかえられた。
「ちょっ、ちょっと!」
ゆう子の抵抗もむなしく、ローレンスにからだを預けてしまう。
「おれは、まだあんたに用がある。しっかりつかまれ」
そう言うと、ローレンスはその場から走り出した。唐突すぎて、理解の糸が絡んだまま、ゆう子はふり落とされないようにローレンスのシャツを握りしめる。
(ひぇぇぇ! これって・・・お姫様抱っこじゃん!)
ローレンスとチラチラ目が合う。こちらの様子を確認されている。彼の整った顔立ちと、瞳の奥から感じられるやさしさに、いつのまにかはずかしさを通りこして、ポ〜ッと宙に浮く感覚に陥ってしまっていた。ローレンスはスピードをゆるめず走り続ける。そして、ゆう子の鼓動も痛いほど速まっていった。
町のはずれにさしかかり、人通りが少なくなった。
「ふう、ここまでくればいいだろう」
ローレンスはまわりを確認して、小川にかかった石橋でゆう子をそっとおろす。
ゆう子の胸の鼓動は、全身がばらばらになるくらい波打っていた。からだが火照る。
「どうした、大丈夫か?」
そう言って、ローレンスは足を水路のほうに投げだすようにして石橋に座った。王宮で見た団長服ではなく、胸が開いた裾の長いベージュ色のシャツを着て腕まくりをしている。皮のベルトを巻き、深い緑色の長ズボンに、こげ茶色のブーツを履いていた。
ローレンスは、ゆう子を横に座るように手まねきした。ゆう子は、地上に戻ってきたように我に返り、顔を真っ赤にしながら、言われるがままちょこんと彼の横に座った。
「それよりも、まだあんたの名前を聞いてない」
ローレンスは、単刀直入に言った。
「へ?」
落ちつくひまも与えてもらえなかった。
「王宮で会ったとき、あんたは、名前を言うかわりにおれを気絶させた」
そう言われて、ゆう子は、王宮でローレンスに会ったときの記憶をたどる。入り乱れたシーンの断片を数珠つなぎにして、パチッとつながった。
「あ! あばら! もう大丈夫なの⁉︎」
ゆう子は、ローレンスの方に上半身を向けて言った。
「問題ない」
ローレンスは、表情を変えずに答える。
「うそ。そんなにはやく治るわけない」
ゆう子は目を細めて冷静に返した。
「うちの救護団員みたいだな、あんたは。言っておくけど、あの一件がなければ、すぐにまた作戦に参加できたんだ」
(もしかして、根にもってる? か、かわいい・・・)
ふてくされた様子のローレンスが、ゆう子にはたまらなかった。
「とにかく、わたしは、ゆう子・・・じゃなかった、エイミーと申します」
ゆう子は、姿勢を正して言った。
「エイミー」
ローレンスは、にっこりした。
ゆう子はドキッとして顔が赤くなる。
(急に見せるその笑顔、反則だわ・・・)
「おれは、ローレンス・エドワード。よろしく」
ローレンスは、子供のような無垢な笑顔で言った。
(そんな顔もできるんだ・・・)
ゆう子は、まだ見たことのない、団長服を脱いだローレンスの一面に吸い込まれていく。
「エイミー、もうひとつ、聞きたいことがある」
ローレンスは、まじめな顔をしてゆう子に言った。
「は、はい」
ゆう子は、またシャキッと背筋を伸ばして返事をする。
「のんびりするってどうやればいい?」
ローレンスは、ゆう子の目を見つめて言った。
「は?」
ゆう子は一気に肩の力が抜けた。そして顔にパッと花が咲いたように笑顔を満開にした。
ローレンスの心臓がトクッと反応する。
「ごめんなさい、笑っちゃって。どうしてそんなこと聞くの?」
ゆう子は目に涙を浮かべて、笑いをこらえながら聞いた。
「のんびりしてこいと言われた。でも、のんびりってどうしたらいいのかわからない」
ローレンスは、ただ真剣な顔をして言う。
(やっぱり、かわいい・・・)
「コールマン団長に言われたの?」
ゆう子は、ローレンスのもう一歩深いところに踏み入れようとした。
「それは言えない」
ローレンスは目をそらす。
(コールマン団長に言われたのね。なんという忠誠心・・・)
まったく隠せていないところが、ゆう子のツボにはまる。
「ねえ、コールマン団長のなにがいいの? コールマン団長も、あなたのこと、すごく好きよね?」
少し彼に嫉妬心を抱いてしまった。
「クリスさんか? あの人がおれのことをどう思ってるかは知らないけど、おれはクリスさんがいなければ騎士をしてない」
ローレンスは、ゆう子を見て、コールマン団長の背中を思い浮かべながら言った。
「うまく言えないけど・・・。あの人のそばにいると、すっごくしびれるんだ」
ローレンスは両手のひらを顔の前にかざし、ビリビリとする指先の血流を感じて言った。まるで大好きなおもちゃを与えられた子供ように目を輝かせている。
(ああ・・・、だからローレンスを町に出したのね・・・)
ゆう子は、コールマン団長の思惑がなんとなくわかった気がした。
「あのね、ローレンス。のんびりするって、あなたが楽しいと思うことをすればいいのよ」
ゆう子は、子供にしゃべりかけるように言った。
「おれが楽しいと思うこと?」
ローレンスは、未知の部分の脳みそに刺激を送られたように目を丸くした。
「剣の稽古か?」
ローレンスは真剣に答える。
(いやいや、なんでそこで剣が出てくるの!)
「コールマン団長は、あなたに剣を持たせなかったんでしょ? なんでだと思う?」
ゆう子は、いつのまにか自分をあやしながらしゃべっている。
ローレンスはゆっくり目をそらし、石橋の下に映る、ゆらゆら揺れる自分と目を合わす。
「よくわからないけど・・・、のんびりすることが、楽しいことをするってのはわかった」
ローレンスは、ニコッと笑顔を見せて言った。
「そ、それはよかったわ。ははは・・・」
ゆう子は精一杯の笑顔を見せた。
そのあと、わたしたちは、ただ、たわいもない話をした―――。
(やっぱり、王宮で見たときの顔と全然ちがう。リラックスしてるというか・・・なんか楽しそう)
ゆう子は、胸があたたかくなった。
(でも、楽しいと思うことがよくわからないって・・・)
同時に、ゆう子は王宮でコールマン団長に会ったときの、凍った緊張感を思い出した。自らの命を王国に捧げ、殺らなければ、殺られる世界で生きる騎士。情に流されると瞬時に身を滅ぼす。だから、非情になれない感情は最初から持ち合わせない。ゆう子には、ローレンスがコールマン団長の言葉をそのまま受け取り、ただ素直に従っているように見えた。
ゆう子の胸がギュウっと締めつけられる。すぐそこに感じられるローレンスのやさしさや愛情が、彼自身の手で封印されているように感じた。
(騎士も、団長も、本当にあなたがしたいことなの・・・? なんか、悲しいな。なにか、わたしにできることはないのかしら。なにか、この人のために・・・)
ゆう子は、隣にいるローレンスの顔を見ながら、なにかほど遠いものを見つめていた。
「どうした、そんなむずかしい顔をして」
ローレンスの声が聞こえた。
「へ?」
(わたし、どんな顔してた?)
ローレンスは、おもむろに、ゆう子の右腕をつかみ上げた。
「擦りむいている。痛いのか?」
ローレンスは、ゆう子の顔と擦り傷を交互に見て言った。
「はいはい、さっきこけましたよ。診療所に戻ったときにでも消毒するわ」
ゆう子は、ドジな自分をあきらめて受け入れるかのように、引きつった笑顔で返した。
「じゃあ、戻ろう」
ローレンスは、立ち上がってゆう子に手を伸ばした。ゆう子は、顔を赤くしながらその手をつかむ。
「はっ・・・! 買いもの!」
ゆう子は、買いもの袋が手元にないことに気づいた。結局、転んだ場所に置き去りにしてしまっていた。
「買いなおすにしても、もうこの時間じゃ、お店は閉まっているわね。あやまるしかないか・・・」
(ほんと、ドジなわたし・・・)
がっくり肩を落とすゆう子。
「おれも、いっしょにあやまる」
ローレンスは、真顔で言った。
「え?」
ローレンスはゆう子の手をひいて歩きはじめた。ゆう子は、ローレンスの大きな歩幅に合わせてがんばってついていく。
ローレンスの手のぬくもりが心地いい。人にぶつからないように、さりげなく誘導してくれているのがわかる。夕日を浴びる大きな背中。でも、どこか痛々しい。心とからだが悲鳴を上げているのに、本人がそれに気づいていないと訴えてくるようだった。それは、ゆう子の胸を締めつけ、とめどなく切なくさせた。
「泣くほど痛むのか?」
ローレンスがこちらを見て歩をゆるめた。ゆう子は、涙があふれていることに気がついた。
「あれ・・・?」
ふいてもふいても止まらない。まるで雨水のように涙がポロポロとひとりでにこぼれ落ちる。
「ローレンス、わたし・・・。どうしてあなたがそこまで傷つかないといけないかと思うと、すごく悲しくなるの」
ゆう子は、ただ、感じたままを口にした。
「傷? おれの怪我はもう治ってるよ」
ローレンスは、大まじめに答える。
「バカ! そうじゃない!」
ゆう子は、啖呵を切ったように言い立てた。
「バ、バカって・・・!」
ローレンスには、ゆう子がまた苦手な救護団員に見えた。
「楽しいことがわからないなんて、いったいどんな生き方をしてきたの?」
ゆう子は、擦り傷に塩をすり込むような顔をしてローレンスに詰めよる。
「それを想像したら・・・、ものすごく悲しくなって・・・」
ゆう子が顔を両手でおさえながら、なりふり構わず泣いている。
ローレンスの心臓がトクンと音を立てた。
からだが包み込まれる―――。
ローレンスのやや速い心臓の音が耳元で聞こえる。彼のからだ中のぬくもりが、ひとつひとつの細胞に染みこんでいく。
「おれは、大丈夫」
ローレンスは、やさしくささやいた。そして、わたしの涙が底をつくまで、ずっと抱きしめてくれていた。
あたりはすっかり暗くなっていた。
明かりがついている診療所の裏口の扉をそぉっと開けて、おそるおそるヒューバートの様子をうかがう。
「お父様〜、ただいま戻りました。遅くなって、ごめんなさい」
奥の方から、ヒューバートがかけ寄ってきた。
「エイミー! よかった無事で! 心配したよ、大丈夫だったかい?」
今度は、ヒューバートに抱きしめられた。ローレンスとはちがう、親のぬくもりを感じた。
「腕を擦りむいているじゃないか。また転んだのかい? なにがあった?」
父親は、エイミーの状況を把握しようと矢継ぎ早に質問をする。
「はい、転びました。怪我はたいしたことないのですが・・・。頼まれていたおつかいで、買ったものをなくしてしまいました」
ゆう子は、肩を落とし、上目遣いで言った。
「ああ、それなら騒ぎを見ていた人が届けてくれたよ。それで、わたしもさっきまでおまえを探してたんだが、見つからなくて仕方なく戻って来たんだ」
ヒューバートの興奮が冷め止まない。
すると、ローレンスがうしろから姿をあらわし、帽子をぬいで礼儀正しく頭を下げた。
「ヒューバート先生、わたしがエイミーを連れまわしていました。心配をおかけして申しわけありませんでした」
ローレンスの急な態度の変化に、ゆう子の胸がドキッとする。
「エ、エドワード騎士様? なぜこんなところに」
父親は、自分のメガネをつかみ、目を丸くして言った。
「はい、先日は、大変お世話になりました。おかげさまで、兵たちは順調に回復しています」
ゆう子は、ヒューバートがかなり混乱している様子だったので、会話にわり込む。
「あの・・・っ! わたしがこけてはずかしい思いをしているときに、エドワード様が助けてくださったの。そのあと、わたしの話をしばらく聞いてくださっていたので遅くなりました・・・」
ゆう子の語尾がゆっくり消えていったが、ヒューバートは状況を理解してきた。
「そうだったのですか。こちらこそ、娘がお世話になりました。ありがとうございました」
ヒューバートは、ローレンスにお礼を言った。ゆう子は胸をなで下ろす。
「では、わたしはこれで失礼します」
ローレンスは、お辞儀をして、帽子を深くかぶりなおした。
「もう行かれるのですか? なにかお礼をさせてください」
ヒューバートは、ローレンスを引きとめようとする。
「いえ、今日はこれで失礼します。それに、お礼をしないといけないのはこちらの方です。わたしの部下がたいへんお世話になりました」
ゆう子は、横で聞きながら、ローレンスの大人の態度に吸い込まれていく。ヒューバートは、目をつぶって自分を納得させた。
「わかりました。またいつでもお越しください。あと、あなたのあばらは、絶対安静がまだ必要ですよ」
ヒューバートは、医者の顔に切り替えて言った。
「うっ・・・」
ローレンスは、また救護団員が頭をよぎって顔がひきつった。
裏口から出ていったローレンス。
腕の傷の消毒をしようとしたゆう子だったが、そわそわして落ち着かない。ヒューバートは、目を閉じて、ふうっと息を吐いた。
「エイミー、彼ともう少し話をしたいのなら追いなさい。わたしは、先に家に帰っているから」
ヒューバートは、やさしい目でゆう子を見つめる。
「お父様?」
ゆう子は、数ある気持ちを錯綜させながら言った。
「おまえの母さんが病気で死んでから、よく思うんだ。わたしたちは、自分の幸せのために生きていいんだよ」
ヒューバートは、自分の中で出した答えを確認するように続ける。
「エイミー、自分が本当に大切にしたい想いとともに、いまを生きなさい」
父親の無償の愛―――。
胸にひろがるあたたかさと信頼は、ゆう子に一歩を踏み出す力強さを与えた。
「お父様・・・! いってきます!」
ゆう子は、いきおいよく裏口の扉を開け、ローレンスのあとを追った。
「ローレンス!」
口から心臓が飛び出しそうなくらいドキドキしながら、ローレンスの名前をよんだ。
大通りに出ていたローレンスは、立ち止まって振りかえる。
ゆう子は、彼の名を呼ぶのが精一杯だった。ローレンスに追いつき、彼のシャツをつかんで呼吸を整える。言いたいことはたくさんあるはずなのに、ギュウッと、のどが締めつけてきて言葉がうまく出てこない。
ゆう子は、なんとか声をしぼりだそうとする。
「あっ・・・ありがとう。それが・・・言いたかっただけ」
声が出た。
ローレンスの心臓がドクッと動く。
そして、フッと笑って、右手でゆう子の髪をそっとかきわけた。
やわらかい唇の感触―――。
からだが、唇から溶けていく。
髪の毛にからみ込んでくるローレンスの指が、さらにさらに、ゆう子のからだを熱くさせる。そして、ローレンスはゆう子のおでこに自分のひたいを当てて、苦しそうにして言った。
「さっき、がんばってさよならしたのに・・・戻ってきたらもう離せないじゃないか」
また、唇がかさなり合う。
先ほどより濃密で、ひとまわり大きく奪われる―――。
それは、必要とされている確かな感覚と、超絶な安心感をゆう子にもたらした。
ゆう子の意識は、そのまま遠のいていく―――。