5 秘密
「……っ」
頭も、体も、内蔵も。全てに重りを括りつけたのではと錯覚するほど全身が重い。同時に思考も鈍っている。
真っ暗な部屋の中で、自分の体にかけられた布団を寄せそれに縋るように体を縮め込める。
その感覚は、まだ手に残っていた。まるで酒にでも酔ったかのように、本能的に体が動き、二人の体を貫いていた。肉が、骨が貫かれる生々しい感触が、思い出せばその手に蘇ってきそうだった。
そして、何を思ったのかプルの心臓を貪り食った。今覚えば吐き気をもよおすような味と匂いだったのにも関わらず、その時は黄金の果実を手にしたかのような気持ちになり、歯で心臓の筋肉を噛みちぎるあの食感がたまらなかったように思える。
そんな記憶ばかりが蘇ってくる中、脳裏に一人の顔が浮かび上がる。絹のような髪を蓄え、宝石のような真紅色の瞳を輝かせる女性。他の誰でも無いティールである。
「……っ、ティールさん」
彼女は強い。ウゥルカーナとの戦闘でも、彼女を技量、力、知識で遥かに圧倒してみせていた。
しかし、腹部を貫かれて平気な人間などいるのだろうか。朦朧とする意識の中、ヘイゼルは腹部を抑えて座り込んでいるティールの姿を見ていた。彼女の腹から滝のように溢れる血液は、人がそう簡単に失っていいような量では無かったはずだ。致命傷を避けていたとしても、重症であることには変わりないはずである。
嗚呼、どうか彼女が生きているのならば……、面と向かって謝らなければ……。
「呼んだか?」
「っぅええっ!?ティールさん!?」
と、思っていたら視界ににゅっとティールの顔が現れ、ティールは取り乱しながらベッドから跳ね起きた。
「えっ……ええっ!?だ、大丈夫、なんですか?」
ヘイゼルは静かにティールの腹部に視線を落とした。その視線に気が付きティールは着ていたブラウスをちょいとたくし上げ、傷など無かったかと錯覚する程に綺麗なその肌を見せて、ニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「なんもなんも、あの程度の傷じゃ俺は殺せねえよ。気にしなくて平気さ」
「……それでも……、謝らて下さい。……ごめんなさい」
頭を垂れ、ティールに向かって謝罪を行うヘイゼル。ティールは若干困ったような顔を浮かべつつ、直ぐにヘイゼルの頭にポンと手を乗せ、軽く髪をくしゃくしゃと回し撫でた。
「お前がそれで気が楽になるのならそれでいいよ。でも俺は全然平気だから、それ以上の事はしなくていい」
「……わかり、ました。……で、ティールさん、なんで……その、平気なんですか?」
「あぁー、それ聞いちゃう?」
ティールが困ったように肩を竦め、苦笑を浮かべた。
「嫌なら全然大丈夫ですけど……」
「うんや、いいよ。別に。お前がびっくりし過ぎなきゃね」
「お腹に穴が空いて平然としてる時点でびっくりしてるんですが……」
「確かに。まあ、簡潔に言うと俺は吸血鬼なんだよ」
「……」
ヘイゼルの思考が停止する。風呂を知らない彼女でも、吸血鬼は知っているようで驚いたように目を見開いていた。
「吸血鬼って、あの?」
「そう、その吸血鬼。血を吸って、陽の光に当たると消滅するやつ」
ま、日光に関しては大分耐性が着いたから別にそこまで怖くないけどねー、と呟いて彼女は口をカパッと開いて見せた。
「ほら、俺の犬歯尖ってるだろ」
前歯の少し横、人間であっても多少なりとも尖ってはいる犬歯だが、彼女の場合それが目に見えて顕著だった。人の物と比べ一回り長く、先端に行くほど鋭くなる。
彼女がニヤリと笑うとその犬歯が口の隙間から垣間見えた。
「だから人一倍体の再生は早いし、あの程度じゃ死なんのよ。痛みは感じるけどな」
「不死身、なんですか?」
ティールは小さく首を振った。
「残念ならがそうじゃない。そりゃ人より長生きだけど、寿命はちゃんとある。それに首を飛ばされでもしたら流石の俺でもお陀仏だよ」
彼女は首を切るジェスチャーを交え、苦い笑みを浮かべた。
「じゃあ、やっぱり吸うんですか?血液」
「もちろん。食事からでも栄養は取れるけど、定期的に血を飲まないと干からびて死んじまうんだ」
「じゃあ……、私の、飲みます?」
ヘイゼルがシャツの襟を引っ張り、首元を顕にしたのを見てティールは一瞬目を丸くするも、すぐに吹き出した。
「あはははっ、まさか。他の人の血は貰わないよ。俺はソウカの血で充分間に合ってるから」
それを聞いて、そういえば結婚してるんだっけ、とヘイゼルは納得した。
「ちなみにソウカも半分吸血鬼な、もう半分は蛇女」
「情報量が多くて着いていけないんですが……」
「後々分かってくれればいいさ」
ティールは軽く息を吐き、手に持っていたグラスをヘイゼルに手渡した。
「まあ、今回の事は俺たちに任せてヘイゼルはゆっくり休め。精神的にも疲れてるだろうからな。それ飲んでもう一回ゆっくり寝てな」
「……ありがとう、ございます」
ヘイゼルは渡されたグラスに口を付け、その中身を一気に飲み干した。何が入っていたのかは、正直分からない。ただ、ほんの少し甘くて酸味の効いたそれは喉を軽々と通り抜け、優しく胃に納まった。
空になったグラスをティールに返すと、急激な眠気に襲われる。重りでも括り付けたかのように瞼が重くなり、意識がふわふわと綿菓子のように浮き始める。
「おやすみ」
「……」
そしてそのまま倒れ込むようにしてベッドに収まるヘイゼル。ティールは彼女の目元に掛かった髪の毛を軽く手で避け、その体に布団を掛けて部屋を後にした。
――
「随分と無茶したのね、今回は」
「いやあ……、まさか背後からぶっ刺されるなんて思って無かったし……」
それから丸一日が経過した。ティールは古い友人で医者である『トゥルナ』の元を訪れていた。
それなりに深い傷を負っていたヘイゼルの治療をしてもらう為に、病室を借りて彼女を休ませていたのだ。
それに、ティール自身も少なからず負傷していた。彼女持ち前の治癒能力の高さで傷は瞬く間に修復されてはいたが、念の為という事でティールもトゥルナから治療を施されていた。
ティールは何事もトゥルナと対面になる、カウンターテーブルの脇の椅子に腰掛け、カップに注がれた紅茶を喉に流し込んだ。
「普通の人間だったら死んでたわよ。起きたらちゃんと注意しておきなさい」
「へいへい」
テーブル越しに、束ねた長い黒髪を揺らしながらプカプカと煙管の煙を浮かばせるトゥルナ。そんな彼女に対してティールは面倒くさそうに返事をした。
「あなたの弟子の……門番の上官さんは?」
「ヴィオラか?まあ……部下が一人死んでる訳だし。色んな所に根回ししてくれてるわけだし無理して来させる訳にもいかんさ」
ヴィオラ、彼はこの街の門番や警備兵らを束ねる上官である。彼は短剣を好んで使い、過去にティールから手ほどき受けていたことがある。
散々ティールにしごかれた苦労もあってか、今はこの街の守衛たちの上官を務めている。最近会う用事は無かったものの、時折ティールらと顔を合わせ共に酒を交わすような仲でもある。
そんな彼も門番のルカが命を落とした以上、ヴィオラはしばらくの間忙しいだろう。彼に聞いて、ルカの葬式に出席しなければ……、とティールは思った。
「もう痛まない?もし痛むようだったら薬を出しておくけど」
「もう平気。久しぶりに傷という傷を負ってビビったけど」
ティールは苦笑いしながら腹を軽くさすった。ヘイゼルによって貫かれた腹部は完全に修復され、何事も無かったかのように彼女は平然としていた。
人間にとって、そう簡単に治るような傷では無かったのだが、それは彼女にとっては関係の無い事だ。
「ヘイゼルの様子は?」
「飲み物に睡眠薬を飲ませて少し寝かせてる。あいつ自身も傷を負っていたし、今は休息が必要だと思ったからさ」
「そう」
しばらく二人の間に沈黙が流れる。店の壁にかけられた多種多様な時計が、カチカチと秒を刻む音が嫌に大きく響いた。
「なあ、ヘイゼルはどうして」
「心臓を喰らったのか。それも本人の無意識下でね」
「……ん」
言おうとしていた事をトゥルナに先取られ、ティールはバツが悪そうに目を細めた。
「出血多量に加えて疲労も大きく、彼女は完全に意識を失っていたわ。それなのに、人一人のお腹を貫いてまで心臓を引き抜いた後、黙々とそれを食べ始めたなんて」
「半分本能のように感じたよ。今回襲ってきた『プル』に話を聞ければ良かったんだけど……」
「少なからず、あの子には何かあるわよ。……それも本人すら知らないね」
「嘘を着くようには見えないからな。……本人が知らなきゃ俺たちも分からん。こんな事がまた起きなければ良いんだけど、な」
しかし、ウゥルーナの事は逃がしてしまっている。プルにウゥルーナ、どちらもヘイゼルを狙って襲撃を仕掛けてきている。
二人ともお互いの事は知っているようだったし、三人の間には何か切っても切れない関係があるのかもしれない。
「二度あることは三度ある。私はこれが最後だとは思えないのだけれど?」
トゥルナは煙管の中で焼け焦げた葉をポンポンと手に叩いて落とし、小さく息を吐いた。
「否定しきれないのが困ったところだよ。このままじゃ、あいつはまた襲われる。今回は俺とかヴィオラが近くにいたかは何とかなったけど、俺たちも付きっきりでヘイゼルの元にいるわけにいかないし」
どうしたものかなあ、とティールは椅子の背もたれに寄りかかりながら大きく体を逸らした。
「しばらくは傍にいてあげなさい。彼女の精神も不安定だろうし。まだこの世界の記憶が浅い彼女に、独り歩きさせるのは酷な事よ」
「分かってるさ……」
そう言った瞬間、奥の寝室の扉が開け放たれ、眠そうな顔をした少女が姿を現した。
「あ、ヘイゼル。おは、よ……ぅ」
それに気がついてそちらに首を向けた刹那、ティールの顔が硬直した。
「えっ……!?」
その視線の先にあるものをトゥルナも追い掛けると、思わず言葉を失ってしまった。
「……ん、んん。……ど、うしたんですか?」
目元を擦りながら欠伸を噛み殺す少女。しかし、それはヘイゼルの姿では無く、そっくりそのままティールの見た目だったからだ。
「え、え。ええっーーー!?」
店中にティール本人の素っ頓狂な叫び声が響き渡り、外の枝に止まっていた小鳥が驚いた様子でその場を離れていく。
「な、なななななんで……俺がいるのぉ?」
「……え?」
未だ寝ぼけた様子で自分の体を見回すヘイゼル。何も変なところは……と呟いた所で己の髪色が絹のように真っ白になっている事に気がつく。
「えっ、えええええーーーーっ!?」
一呼吸置いて、ヘイゼルの悲鳴に近い叫び声が響き渡る。
瓜二つ、トゥルナの目から見ても二人の姿は寸分違わず同じだった。
――
「一度情報を整理しよう」
真剣な趣で、ティールが机に拳を叩き付けた。
「お前……ほんとにヘイゼルなんだよな……?」
「は、はい。……多分、……きっと……そうです」
ぐるぐると目を回しながらヘイゼルは曖昧な返事を返す。本人もトゥルナが持って来た鏡を見てティールと瓜二つになっていることに気がついた為に、未だ頭の整理が着いていないようである。
「寝てる間に姿形が変わるなんて、とんだ奇病よ。流石の私も聞いたことも無い」
原理は満月の日に狼になる人狼と近いのかもね、とトゥルナは零した。
「何か思い当たる事は無いのか?変なモン食ったとか……」
冗談交じりで言って、ティールは小さく「あ」と声を漏らした。
「その……心臓、でしょうか……」
ティールがやっちまったと言わんばかりに頭を抱え、トゥルナからは白い目線を送られる。
「おほん、まあ心臓の話は置いておいて。どうしてヘイゼルが俺の格好になったか……だな」
はぐらかされたような気もするが、自分で傷つけた以上そこに深く追求する気にはならない。ヘイゼルは素直に折れ、顎に手を当てて思考を巡らせた。
「あ」
「お、何か分かったか?」
「そういえば、あの青髪の女の子……」
「プルって名乗ってたな」
「ですです、プル。彼女は衛兵に顔を変えて私を連れて行きましたよね」
ああー、とティールは納得した様子を見せる。
「そっか。てっきり変装か何かかと思ってたけど、あれって姿形をそのまま変えてたってことか」
「元の姿に戻る時、顔が歪んでましたし。もしかすると……」
「その子の心臓を喰らったから、あなたもその力を使えるようになった、って事かしら」
トゥルナが推察を述べ、二人は頷き返した。
「へえ……。面白いじゃん、喰らった心臓の持ち主の能力を自分のものに出来るのか」
「そう決めつけるのは早いかもしれないけど、今の所一番結論に近そうではあるわね。……ヘイゼル、元の姿には戻れないの?」
「……やってみます」
ぐっ、とヘイゼルが目を瞑り全身に力を篭める。恐らくやり方は探り探りなのであろう。時々首を傾げながら、あらゆる場所に力を込め直していく。
そんな彼女の様子を微笑みながら、冷めた紅茶を軽く口に含む二人。
「……あ」
ヘイゼルが小さく声を漏らしたかと思えば、徐々に彼女の顔の造形が変化し元の彼女の姿に戻る。
白銀の髪の毛も、インクに染めたかのように白から白みがかった黒色へと変化し、ヘイゼルは自分の髪を手で取って色の変色していく様を眺めていた。
「お、できたじゃん。こりゃ面白いな」
その様子を見てティールが差程驚く様子も見せず、ケタケタと笑う。トゥルナも少し口角を上げて見せただけて特にこれといった反応は見せてこない。
「っ、髪が……」
「ひと房だけ色が変わったままだな」
白みがかった彼女の黒髪にひと房、瑠璃色に近い髪の毛が混じっている。根元までしっかりその色に染まっているようで、時間が経って消えていくようなものには見えなかった。
「プルの髪の毛の色と同じだな。そいつの心臓を喰らった証とでも言うのかね」
「証……」
ティールが立ち上がり、青く染まった髪を持ち上げて軽く手で梳く。
「良いじゃん、綺麗だぜ。メッシュみたいでさ」
「うん、悪くないわね。お洒落みたいでいいんじゃない?」
どうやら二人とも賛同のようである。
「ま、気に入らなかったら私に言いなさい。髪の色くらい軽く魔力を流せば永続的に変えることくらいできるから」
「髪の色を変える魔法ですか?」
「簡単に言えばね。私もティールも昔よく使ってたわ」
「魔法って、……何でもありなんですね」
ヘイゼルは若干引き攣った笑いを浮かべたが、また何時ものように明るい笑みを取り戻した。
自分の事を何も知らず数日間過ごしていたが、自分自身にアイデンティティが生まれた事によって少し気が楽になったのかもしれない。
「じゃあ、今度魔法教えてくださいね」
半ば独り言のように呟かれたその一言に、ティールの耳がピクリと反応する。
「おうよ、俺の修行は厳しいぜ?」
ティールが笑う。そしてその口の端から犬歯が垣間見える。
「頑張りますよ」
「思い立ったが吉日、家に戻ったら軽くやってみようか」
「はい!」
カウンターに置かれた紅茶は既に冷め、小さく波紋を立てて静かにカップの中で留まっていた。
三人の話し声は、無数にある奇妙な形の時計の秒針の進む音をもかき消してしまう程にトゥルナの店の中に響き渡っていた。