序章 悠久
世には、多種多様の生き物が暮らしている。
人間、動物、虫、目に見えない小さな生物まで。そのほとんどが、己の、命という砂の落ちていく砂時計を持ち、最後の砂が落ちきるまでその生を全うする。
これは、摂理。自然という物が存在し続ける限り、決して朽ちることの無い掟なのだ。
言ってしまえば、生き物は皆寿命という足枷を、この世に生を受けた時点で嵌められているのだ。
強固な鎖で繋がれた命は、足掻こうともその摂理から逃れることは出来ない。
されど、世には多種多様の生き物が暮らしている。
その足枷を、嵌められなかった者は。
一体どこへ向かい、何になると言うのか。
それは、言葉通り神すらも知る余地のない。
なぜならば、自然の摂理からの逸脱は。
禁忌以外の何でも無いのだから。
――――
「……っ」
鼻先に一滴の水滴が滴り落ち目を覚ました。深海から浮き上がるように意識が覚醒していく。
「ここは……」
幾度か目を擦り、辺りを見回す。周りには誰もいない、一面の緑が広がっている。視界の端で、木の葉が落ち、鳥が舞い、そのさえずりが耳をくすぶった。
「何だっけ……。なんか……ぼーっとする……」
未だ夢を見ているかのように、朦朧とする思考。幾度か首を振って、なんとか意識を表に持ち上げる。
「いっつつ……。腰が……」
ずっと仰向けに寝ていたようで、体を持ち上げると腰がメキメキと悲鳴を上げる。
……静かだ。まるで自分以外の何者もいなくなってしまったかのように。誰かがいたら、助けを求めでもしたのだろうか。
助けを求める?何故。自分が何をしたくてここにいることすら、はっきりとしないくせに。
ひたすらに、喉が乾いた。声を出すたびに、喉の奥にジクリと痛みが走る。何か飲まないと、張り裂けてしまいそうだ。
静かに立ち上がり、フラフラとゆく当ても無く歩き始める。どこに水があるのか、そんなことすら知らないと言うのに。
「……獣道?」
特な考えも無く、辺りをさ迷っていると地面に生い茂る草が一部剥げ、土が剥き出しになっている場所があった。
人か、動物か、その区別は付かないがきっと何かの生き物が定期的にここを踏んで歩いているということだろう。心にほんの少しの期待を浮かべながら、その獣道に入り樹木の幹を支えに進んでいく。
少しの距離しか移動していないのに、既に何時間も経ったかのように感じる。額からは脂汗が滲み、視界もグラグラと歪む。もう、タイムリミットは長くは無いようだ。
「…………っ、み、ず」
そこに、神の気まぐれかのように、仏が投げた蜘蛛の糸のように。一つ、水たまりがあった。但し、本当の水たまり。泥にまみれ、お世辞にも綺麗とは言えず、飲んだら腹を下す事は目に見えている。
それでも、この焼け付くように乾いた喉を潤わせる唯一の方法だ。頭で考えるよりも先に足が勝手に動き、水たまりの前で膝を着いていた。
獣のように、ただその水を喉に流し込む。嫌にざらつくし、砂が口の中に残って不快感を与えてくる。何かが口の中で動いたような気もする。それでも徐々に喉の乾きは潤い、その焼け付くような痛みも引いて行った。
「……っはあ、はあ……」
無我夢中で水を飲んでいたからか、呼吸をする事すら忘れてしまっていたようだ。水槽の金魚のようにパクパクと息を吸い、高まる心臓の鼓動を抑えつける。
口の中に残った砂を唾と共に吐き出しながら、ふと水面に映る人影に目をやった。
「……これが……」
己の姿か。泥水なのと、波紋が立っているのでハッキリとは見えてはいないのだが、そこにいるのは紛れもない自分。右手を動かせば、左手を動かすし、首を捻れば首を捻り返す。
色白な肌に、肩の程まで伸びた黒い髪の毛。それを見て気がついたが、どうにも服は着ているらしい。服と言っても布切れのようになり、何ヶ所にも穴が空いているのだが。
「……」
どうしたか、とは言わないが自分の性別は確認したようだ。
彼女は満たされた喉の乾きに満足し、地面を押してゆっくりと立ち上がる。
喉の乾きはなんとか潤った。幸いにも腹は喉の乾きに比べれば、そこまで空いてはいない。
さて、これからどうしたものか。整った理性に、彼女は語りかける。どこかへ行って人を見つける?いや、そもそも人が見つかるなんて保証は無い。ではここで暮らす?いや、この水だって有限だし食住が満足に供給できない以上、いづれのたれ死ぬのは目に見えている。
だとすれば……。
「っ……!?」
背後で、草を踏みしめる音がした。彼女は飛び上がり、振り返って音のした方向を睨みつける。
動物か?いや、動物なのならそれ以降物音がしないのは不自然だ。逃げるなり、その場で動いたりで何かしらの音がするはずだ。
音の発生源は、こちらがその存在に気がついた事を察しじっと息を殺して待っているのだ。
「……誰だ?」
「……」
返事は無い。
彼女はゆっくりと一歩前に踏み出す。音のした場所をじっと睨み付けながらじりじりと距離を詰めていく。
「バレてんのか……。相変わらず察しがいいな」
すると、その周囲の草木が揺れ、そこからゆらりと一つの人影が姿を現す。
燃えるように真っ赤な癖のある髪の毛を腰辺りまで伸ばした女。口からは笑みが溢れ半月状に割れている。その端からは異様に長い犬歯が顔を覗かせており、白い、絹のような服を身にまとい、両手に何とも重そうな鉄製の鎚を携えている。
「さ、まどろっこしい事は無しだ。心臓喰らい、その首は貰ったぜ」
「……!?」
刹那、目にも止まらぬ速さで距離を詰められる。一度瞬きをした時には、その鎚は顔面の横にまで振られていた。
足元のバランスを崩したのが幸いし、すんでの所でその一撃は頬を掠めるに済んだ。
「……なっ」
その攻撃を回避出来たのはいいものの、膝を曲げて体を後方に大きく反らしているこの体勢は長くは続かず、そのまま地面に尻餅を着いてしまった。
「……な、何を……」
当然、この訳の分からぬ状況に困惑を隠せずにいる。突然人が現れたかと思えば、問答無用で殴り掛かってくるなんて誰が想像出来るだろうか。
「っち、外したか。……まあ、いい。決着が着くのも時間の問題だろうし、なっ!!!」
「っ」
すんでのところで体を捻り、転がるようにして横に避けると、ついさっきまでいたその地面は大きく陥没しその鎚より遥かに大きなクレーターが出来上がっていた。
彼女はその光景を見て、静かに息を飲んだ。相手は、冗談でもなんでもない、本当に自分の事を殺すつもりなのだと。
あれほどの打撃を受ければ、当たった場所の部位破壊は免れず、場所次第ではいとも容易く致命傷になりかねない。
「……お前、誰だ……」
大地に手をつき、息を整えながら立ち上がり彼女は問うた。
すると女は、鎚を地面から引き抜きそれを肩に携えると尻目でこちらに鋭い視線を向けてきた。
背筋が凍るような感覚、草食動物が肉食動物に睨まれているような無力感と絶望をその肌から感じた。
「お前、アタシの事忘れてやがんのか?心臓喰らい」
「……心臓、喰らい……?」
そういえば、先もその名で呼ばれていた。当たり前のように呼ぶからその時は気に止めもしなかったが、よくよく考えれば妙な名前である。
「それは、私の名前なのか?」
「………………は?………………お前、マジで?………………………ぷっ……、ふふ……」
「?」
半分時間稼ぎのつもりもあったが、真面目な顔をして問いかけたのに、女はそれを聞いて目を丸くしたかと思えばいきなり口元を抑え肩を震わせて笑いだした。
「お前!本気で言ってんのか!?……あは、あははっ。本当に覚えてないんだとしたら、こいつあ傑作だぜ!ははっ……腹痛てぇ……!」
「覚えて……ない?」
「だとしたらこっちも好都合だ。ってこたあ、今のお前は何も知らないお嬢ちゃんを殴ってるって事と同等だもんな」
女はさぞかし嬉しそうに犬歯を覗かせ、再び鎚を構えた。
「なら、この仕事は楽に済みそうだ」
「がっ…………!?」
世界が一瞬暗転する程の激痛が、脇腹に走る。視界がジカジカと光り、鈍い骨の砕ける音が全身の肉を伝播して耳に伝わる。
また一瞬で距離を詰められていた。脇腹を鎚で殴られた衝撃で体は大きく吹っ飛び、数秒滞空したと思えば地面に叩きつけられる。
「ぐっ……かはっ……」
脇腹からの激痛に、全身を叩きつけられた衝撃が合わさり、思考が纏まらなくなる。頭の中から意識が離れ、それを線一本で繋げるのが精一杯な状況である。
「へえ……、流石に悠久の名は飾りじゃないみたいだな。普通の人間ならくたばってるぜ」
「……く」
「つっても流石に動けないか。知らねえみたいだから死に際の土産に教えてやるよ、悠久。アタシは剛力。巨鎚使いのウゥルカーナだ。あんた、殺されるのがアタシで良かったぜ?他の奴らだったらどれだけ嬲られてたかって」
ウゥルカーナと名乗ったその女は、引きずるようにして鎚を運び、辛うじて意識を繋ぎ止めている悠久の頭部に狙いを合わせると、それを天に掲げた。
「これで、アタシも悠久に……!!!」
「……っっ」
視界に影が掛かり、彼女は思わず目を瞑った。死ぬ時は一瞬?よく言ったものだ。死ぬまでのほんの数秒、どんな時間よりも長く感じるでは無いか。
「……なっ!?」
迫り来るであろう痛みに身構え、ぐっと歯を食いしばっていると、瞼の裏に光を感じた。
「……え」
死んだ、のか?彼女は恐る恐る目を開けた。
いや、景色は何も変わっていない。変わったのは、先程まで頭を叩き潰そうとしていたウゥルカーナとその鎚が視界から消えているという事か。
「……ったく、この森で何やってんだよ」
代わりに、白い何かが揺れた。きめ細かい絹のようにも見えるそれは、光を反射し風に柔らかく靡いていた。
「っち、邪魔しやがって。何モンだ、テメェ」
地面に仰向けになっているウゥルカーナが悪態を着きながら、体を反らせそのバネのような反動で立ち上がる。
「それはこっちのセリフだっつの。嫌な空気が漂ってるから駆け付けてみればこの有様だ。どっちに加勢しようか迷ってたけど、そりゃ即決したよな」
白髪を揺らしながら、その人物は彼女の方を振り返る。
「大丈夫か?今終わらせっから、少し待ってろ」
ニカッと戦闘中とは思えないようは眩しい笑みを浮かべ、その白髪を揺らす女は再びウゥルカーナの方に目を向けた。
「来いよ、長引かせると疲れる」
「言われなくても……!」
ウゥルカーナは鎚で地面を叩き付ける。その地面に突き刺さるようにして巨大な衝撃を走らせた鎚を軸に、地を蹴り鎚よりも前に体を躍らせる。そしてその勢いを今度は鎚に戻し、巨大な遠心力の力を帯びた鎚の一撃が白髪の女に迫る。
「遅い、俺の友人はもっと早く槌を振ってたぜ」
ここまで、目にも追えない程の速さでウゥルカーナは動いていた。しかし、白髪の女はいとも冷静に腰に刺した短剣を引き抜き、まるで流水が流れるかの如く滑らかな動きでウゥルカーナの懐に潜り込み、短剣の束を彼女の鳩尾に叩き込む。
「っが……!?」
ウゥルカーナも、その攻撃は予測できなかったようで大きく体のバランスを崩し、体の内に響く衝撃に一瞬意識が飛びそうになる。
白髪の女は更に畳み掛けるようにして、左手のでウゥルカーナの顎を手根で捕まえ、勢いに乗ったまま地面に叩き付ける。
辛うじて受身を取ったのか、彼女がそこで意識を失うということは無かったが。ダメージは大きかったようで、体を痙攣させながら立ち上がろうともがいていた。
「詰みだ。何をしたかったのかは知らんが、お前は俺に負けた。大人しく投降しろ」
白髪の女は、ウゥルカーナに馬乗りになるようにしてその喉笛に短剣の刃を押し当てた。
どうやら脅し、という訳では無いらしい。首の皮に切っ先が当たり、そこから薄らと血が滲み出ている。
「……お前、何者だ?このアタシをここまで追い詰めたのは、指で数える程しかいねぇ」
「別に、俺はそこら辺の通りすがりの一般人だよ。誰でもねーよ」
「なるほどなるほど。……なら、アタシの邪魔をするんじゃねぇ!!」
ウゥルカーナは体から力を抜き、まるで無抵抗かのように見せつけていたのだが。短剣を恐れず、体を一気に起こし白髪の短剣を持つ手の手首をその尋常ではない握力で握り締める。
「っ……!?」
それには、白髪の女も思わず顔を顰め、更に手から短剣を離してしまう。
ウゥルカーナはその隙を見逃さず、白髪の女の体に蹴りを叩き込み、その反動で大きくバックステップを踏み距離を取る。
「中々いい短剣じゃないか。……アンタに持たせとくには勿体ないね」
奪った短剣を、舐めまわすように見ながらウゥルカーナは白髪の女に目を向ける。
「クソが……。バカみてーな力で握りやがって。骨が数本折れただろーが」
額から脂汗を流し、白髪の女は右手の手首を抑えている。手首から先の手はダランと垂れ、ロクに力が入っていない。
あの様子では、右手は使い物にならないだろう。
「アタシは剛力だからね。武器なんざ無くても握るだけで相手に致命傷を与えられるのさ」
「へえ……。それでも鎚を持ったり短剣を持ったりするのは自分に自信が無いからなのかね」
白髪の女がボソッと零した言葉を、ウゥルカーナは聞き逃さなかった。
「……んだと?」
どうやら、逆鱗に触れてしまったようだ。ウゥルカーナの瞳が今確かに揺れた。
「あ、聞こえた?でもホントの事だもんな、そんなに自信があるのなら、素手で掛かってくればいいじゃねーか」
白髪の女は額の汗を拭いながら、ニヤリと自信に満ちた笑みを浮かべる。
……ダメだ。
彼女の片腕は破壊されている上に武器も相手に取られてしまっている。諸々のダメージは向こうの方が大きいかもしれないが、それでも今の戦況では明らかに白髪の女の方が不利だ。
「……っ!!」
悠久、そう呼ばれた彼女は必死に手を伸ばした。
彼女が誰か、そんな事はどうでもいい。
彼女だって、助けた人物が誰なのかも知らずに飛び込んできたのだ。
そんな彼女を、助けたい。そんな一心だった。
が。
(大丈夫)
「っ」
その様子に気が付いたのか、白髪の女はこちらに首を向け、口の動きだけでそれを伝えた。
悠久は何かを察したかのようにピタリと腕を止め、じっと動かずにその様子を見つめていた。
「っらァァァァァァァァァァァッッッ!!!」
ウゥルカーナが短剣を投げつける。
目にも止まらぬ速さで空を切るそれは、白髪の女の顔の真横を通り抜ける。それでも、彼女は指一本動かすこと無く、不動のまま、迫り拳を振り上げるウゥルカーナをじっと見詰めている。
「単純で、助かったよ」
「っ」
彼女が指を一瞬動かした。そう思った刹那に勝負は着いた。
「っが……!?」
先程投げ捨てられた短剣が、まるで意思を持つかのように空を飛び、迫る彼女の片腕を切り飛ばしたのだ。
まるで、時間が止まったのかのように、切り落とされた片腕が鮮血を吹き出しながら落下していく様子がはっきりと見えた。
切られた本人も、何が起こったのか理解出来ていない。
短剣の持ち主である彼女は不敵な笑みを浮かべ、自分の手元に戻って来たそれの刃にこびり付いた血液を軽く拭い腰の鞘に戻した。
「な、何っ、を!?」
「さ、お前さん大丈夫か?見た感じだとここら辺ぶっ叩かれてたけど」
切られ、滝のように血の溢れる腕を抑えながら叫ぶウゥルカーナには目もくれず、白髪の女は悠久の方へ足を運び、腰を下ろした。
彼女が先程殴られた脇腹の辺りに手を当てると、悠久が顔を顰め、ビクンと体を痙攣させた。
「っと、悪い。思ったより重症だな、こいつあ。肋骨も折れてるみたいだし。……待ってろ、あいつを処理したら俺の村に……」
彼女が視線を戻すと、既にそこにウゥルカーナの姿はなかった。残されたのは切り落とされた腕と、そこに出来た血溜まりだけ。
どうやら逃げられたようである。血痕は森の奥の方へ続いていたが、追っても意味が無いと察したのか。彼女は再び悠久の方に顔を戻し、手を伸ばした。
「動けるか?俺の町で治療しに行こう」
「…………」
差し伸べられた手を見て、彼女は手を伸ばすが一瞬躊躇する。
「……あなたは、何故。見ず知らずの私をここまで?」
そういうと、彼女は目を丸くして首を傾げた。まるで彼女にとって、それが当たり前で、疑問を持たれることが逆に不思議なように。
「……何故って、お前が殺されそうになってたから。そんなのほっとける訳ねーだろ?」
「でも……、私が誰かも知らないのに……」
「おや?訳あり?まあー、別に治療くらいいいだろ。訳ありなら治療済んだ後にでも出ていってくれて構わないし」
悠久が呆れたように小さく笑いを浮かべると、釣られたように白髪の女も小さく笑う。
「俺はティアーシャ、皆からはティールって呼ばれてる。よろしくな」
「……よろしく、お願いします」
悠久は、今度こそ力を込めて彼女の手を握った。
「――――――――――!?!?!?」
――どうやら、破壊された方の手だったらしい。ティールは膝から崩れ落ち、しばらくの間声にならない悲鳴を上げ、手を抑えて地面でのたうち回っていた。