『そして、僕はOEDを読んだ』――え? よ、読んだの? ほんとに?
『そして、僕はOEDを読んだ』
アモン・シェイ/著 田村幸誠/訳
三省堂/発行 (2010.12出版)
◇ ◇ ◇
これは、最近よく聞いているPodcast(※1)で紹介されていて、読んだ本です。
すごく変な人が書いてますよ。面白かったです。お勧めされたものをお勧めするのは恐縮ですが、おもしろ本だったので、ぜひお勧めしたい。今回はこちらをご紹介します。
OEDとは『オックスフォード英語辞典』(The Oxford English Dictionary)の略語。この本は文字通り、その全二十巻に渡る英語辞典をすべて読んだアメリカ人の記録です。
……はい、もう意味わからないですね!
辞典を引く、のではなく、読む。……え、読むってどういうこと? と思った方も多いでしょう。そう、読むのです。頭から最後まで。必要な部分だけじゃなくて、全部。……おかしいでしょ。
辞書好き、というのは日本にももちろん一定数いるようです。『新解さんの謎』(※2)という本でたくさんの人が三省堂の『新明解国語辞典』(第四版)の面白さに目覚めたことでしょう。
近年では『舟を編む』(※3)というアニメ化、映画化もされた素晴らしい作品があるので、辞書に興味持たれた方も多いのでは。
小説家になろうは当然小説を書く方も多いので、それぞれに推し辞書があるかもしれません。ちなみに私はありがちですが、三省堂の『三省堂国語辞典』(第七版)を手元に置いています。新しい言葉も採択されていて便利。三省堂では『てにをは辞典』も割と好き。
私の子どもの頃を思い出してみますと、家で暇があると辞書を引いていました。といっても、広辞苑、とかのメジャーなものではなく、本当に小さなハンディタイプの辞書です。父が大学時代に辞書編纂のアルバイトをしたことがあるらしく、その編纂された辞書でした。記念に買ったのか、もらったのでしたか。メジャーなものではないので、タイトルは出しませんが、語釈がせいぜい一行、二行、さらにその語が何の英単語に当たるか、その英単語とカタカナ読みが併記されている、というようなコンパクトなものでした。
軽いので、ベッドに持ち込みやすく、寝っころがりながら、気になる言葉を引いたものです。中二病です。
今でも中身は読まないくせに、参考図書(※4)がたくさんあると安心する、というおかしな癖があります。なので、辞書・事典類に関しては親和性はあるつもりでした。
……でもね、さすがに全部は読まないよ!
小さなやつでもね、一冊全部は読まないよ!?
それを、全二十巻。……おかしいでしょ?(二回目)
著者のアモン・シェイさんはこれを一日八時間から十時間程度、土曜日以外は毎日頭から順番に読んで丸一年かけて読破されたそうです。……一年て、すごくないですか?
序文から引用しますと、
『(略)この膨大で手強い辞書を何ヶ月間にもわたって読み続けるとどんなことが起こるのか――苦痛、頭痛、やがては正気を失う――を示した報告書でもある。』
……怖いよ!
実際、読み続けると斜視気味の著者は激しい頭痛に襲われ、avengeの項目あたりを読んでいた時には、『突然、視界から色彩が消え、数時間もの間、目に見えるものが白黒になってしまったことが』あり、少しの物音にも敏感になって、おしゃべりをしている人には「静かにしてください!」と注意してしまう、という神経質な人になっていきます。
……読むのやめろよ!
I のあたりになると『なんだか、毎日アルファベットを食べている感じがする』とまで言い出す。……食べる、って何。『おいしいと感じる文字もあれば、そうでないものもある』だって。
……うん、理解不能です!
と、まあ、おかしな言動を繰り返す著者ですが、示唆的だなあ、と思ったのは、著者の学生時代の経験。英語の先生から『horde(大群)』の同音異義語を出せ、という問題にある語を出すが、道徳的によろしくない単語を答えたところ、「それは単語ではない!」と怒られてしまう。
辞書に載っていない単語、正しくないと感じる単語、が果たして「単語ではない」と言い切れるのか。辞書、といっても無数にあり、その無数にある辞書でさえ、すべての単語を網羅してはいない。また、自分が道徳的に許容できない単語だからといって「存在しない」と否定するのは、どうなのでしょう。
著者は、自分は使わないけれど、そういった単語に辞書で出会うと、『それらが、長い時間をかけてどのように使われてきたのか、どんな誤用から生じたのか、そういうようなことを一つ一つ見ていく作業は、最高に面白いのである』と感じてます。
これは、辞書編纂者の飯間浩明さんも似たようなことをおっしゃっていました。(※5)言葉に近い方ほど、このように言葉の柔軟性を認めているのは面白いことですね。
OEDは英語の辞典ですが、日本語の辞典で大型のものというと小学館の『日本国語大辞典』が有名です。第二版は十三巻と別巻合わせて全十四巻です。図書館に行くと引きたくなります。できれば自宅に欲しいけど、高いし置くとこないし!
先日、「この字なんて読むの?」と訊かれてわからなかった字がありました。
手書きのその字をパソコンのIMEパッドで調べたら読みが「チヌル」とあったので、『日本語国語大辞典』で引いたところ「血塗る」と漢字が当てられてて、ヒーッてなりました。「釁」って字で、隙間、って意味らしいんですが。すきま、と血塗れ、一緒? 初めて聞いたわ! とまだまだ知らない言葉いっぱいあるんだ、と思ったものです。
(ちなみに「釁」はスマホでも一発変換できました……)
『そして、僕はOEDを読んだ』を読んでいて、変わった単語がたくさん紹介されているのですが、日本語じゃあそんなになさそうだなあ、なんて思っていた自分が恥ずかしい。知らない言葉いっぱいあるよ! そりゃあ、そうだよ!
ところで、『日本国語大辞典』全十四巻、――これ、頭から全部読んだ人いるのかしら。
全部読んだことある方は、その体験談をぜひ本にして出してほしいです。誰か、やりませんか? もちろん、私はやりませんけど。
※1 『ゆる言語学ラジオ』さん。面白いです。
※2 『新解さんの謎』(文春文庫)
赤瀬川源平/著 文藝春秋/発行 (1999.4出版)
新明解国語辞典に魅せられた文藝春秋編集のSM嬢(鈴木マキコさん)に導かれて“文豪”赤瀬川源平氏が新明解国語辞典の魅力に嵌まっていくエッセイ。後半は紙にまつわるエッセイが収録されているけれど、まだパソコンさえあまり普及していない時代に書かれたもので、これはこれで時代を感じて味わい深いです。
ちなみにSM嬢は後に「夏石鈴子」というペンネームでデビューし、作家・エッセイストとして活躍されています。夏石さん名義の『新解さんの読み方』(角川文庫 2003.11)も出版されています。
※3 『舟を編む』(光文社文庫)
三浦しをん/著 光文社/発行 (2015.3出版)
※4 reference bookのこと。百科事典、辞書・事典類、便覧、年鑑など調べるためのツール。辞典とか図鑑とかあるだけでわくわくする。
※5 『小説の言葉尻をとらえてみた』(光文社新書)
飯間浩明/著 光文社/発行 (2017.10出版)
この本も面白いです。著者飯間さんが、物語の世界に入りこみ、変わった使われ方をしていることばを集めていく、つまり物語の世界で用例採集をする本、となっています。近年の作家さんを取り上げた、ちょっと変わった書評ものとも言えます。
飯間さんはおそらくいろいろな媒体で繰り返し書いていらっしゃると思うのですが、今回はここから引用。この本のプロローグに、
『自分になじみのない語や用法だからといって、「そんなのは誤用だ」と片づけるのは、一種の思考停止です。本書の読者には、むしろ、「どうしてこんなことばが生まれたのか」「作者はどうしてこのことばを使ったのか」と探求していく楽しみを味わってほしいと考えます。』(p12より)
と、ありました。似てますね。一見、誤用としてとらえられてしまう言葉も、ただ批判や否定をするのではなく、なぜそのような使われ方をするのか、を追求していく。言葉を扱う人や、言葉そのものにリスペクトを感じる姿勢です。